野口芳宏先生からの学びと気付き。
自分自身を磨くということについて。
夏休みの間、野口先生のご自宅には、遠方より様々な方が集まった。
関東から近畿はもちろん、四国の人も東北の人も沖縄の人もくる。
北海道の団体や九州の団体もある。
この会は、実践発表もするが、その後は流し素麺をし、俳句会をし、宴会をするというような、実に気楽な会である。
今年も数回行い、私は「木更津技法研」のメンバーとしてお手伝いをさせていただいた。
ところで、これだけの人がわざわざ飛行機から高速バスを乗り継いでまで、遠路はるばる集まる理由は何なのかを考えた。
これは一言、人徳に尽きる。
「授業名人」として知られる野口芳宏先生だが、単に授業が上手いという人なら他にもたくさんいる。
授業を研究している団体も民間、学校問わずたくさんある。
しかし、個人としてこれだけ慕われて、多くの人々が集まるという人物は、稀であると思う。
野口先生は「教育の究極は、感化・影響である。」という。
子どもにとっての感化者、影響者であることが望ましい。
その本質は、授業技量の巧拙の問題ではない。
授業を軽んじている訳では決してない。
授業の技量は、学校教育の感化者としての一要素として、大変重要である。
しかしながら、知識や技術があっても人徳が低くては、それは単に知識や技術の「伝達」にとどまる。
それでは一時的に人気が出ても、本当の意味で人は集まらない。
(ちなみに、あまりそういう人はいないとも言われる。
子どものために授業技量を高めようとする過程で、人格も磨かれるはずだからである。)
観を磨くにはどうすればいいのか。
そういう人たちに囲まれるというのが、一つの手である。
どういう人物を慕っているかで、その人が求めているものもわかる。
教育観を磨きたい人は、人徳のある人のところに集まる。
技を求める人は、技をもっている人のところに集まる。
授業のネタが欲しい人は、授業のネタをもっている人のところに集まる。
自分がどんな師を求め、どんな仲間を求めているかで、自分自身がわかるかもしれない。
自分の学びの方向はこれでいいのか。
そこに迷った時には、そこに集う人や中心人物に目を向けるのも一つの手である。
2019年10月11日金曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿