次の本を読んだ。
『教育と授業──宇佐美寛・野口芳宏往復討論』
宇佐美寛 (著), 野口芳宏 (著)さくら社
https://www.amazon.co.jp/dp/4908983313
帯に「授業名人×教育学界の最長老」とある。
「ゴジラ×モスラ」ぐらいの迫力である。
滅多にお目にかかれない、巨頭同士の紙上討論である。
討論のテーマは多岐に渡るが、いずれも国語教育における「読み・書き」の指導がその中心である。
以下、読後の気付きを書く。
読みの力をつけるための、問いを中心とした授業の是非について。
宇佐美氏は一貫して「文章を読む力は、文章を読むことにより育つ。」という主張である。
つまりは、予習を含めた自己教育の連続によって伸びる、と読み取れる。
内発的動機づけを大切にしているともいえる。
そして発問に対しては、一貫して否定的である。
発問・応答の授業による経験というのは、例えるならドローンをその土地に飛ばして情報を得る「メタ経験」だという。
その土地を自力で直接歩いて情報を得る「読む経験」とは異なる別種の経験であるという主張である。
宇佐美氏の論を読むと、誰しもが納得である。
しかし、野口氏はこれに反論する。
野口氏は一貫して「発問の生産性」という主張である。
「問われて気づく」「問われて初めて見えてくる」ということから、発問は有用、有益である。
これを支える事実として、「裸の王様」の授業やトルストイの「人間にはどれだけの土地が要るか」という寓話の授業を示している。
「裸の王様」という作品自体は児童文学であり、子どもが自力で読んで楽しめる、という構造をもつ。
しかしながら、自力で読んだだけでは、「王様は愚かだ」という浅い理解のままで終わってしまう。
「このお話の中で一番愚かなのは誰か」という問いで貫くことで、見える世界が変わってくる。
子どもの「不備・不足・不十分」を顕在化させるのが発問である。
(この発問の意義については、共著の『やる気スイッチ押してみよう!』でも「ごんぎつね」の授業を例に書いた。
参考:『やる気スイッチ押してみよう!』https://www.amazon.co.jp/dp/4181646149)
発問には「あれども見えず」を顕在化する、という点において価値があるという主張である。
そう考えると、この本自体が「発問」ともいえる。
両者の討論から、自分では見えない世界を見せてくれ、自力のみでは到底辿り着かない気付きを与えてくれる。
つまりは、この本が「発問の生産性」という主張を支持しているといえる。
しかしながら、この本を読んでいるのは自発的な読書活動であり、自己教育であるともいえる。
「文章を読む力は、文章を読むことにより育つ。」という宇佐美氏の主張の通りである。
では、両者どちらの主張が正しいのか。
これこそお叱りを受けそうだが、一読者としての私の結論は「どちらも正しい」である。
「文章を読む力は、文章を読むことにより育つ。」という主張は全くその通りである。
一方「発問の生産性」についても、全くその通りである。
これら二つは、表面的には逆の主張のようで、本質的に相反する主張ではない。
しかし、だからといってただ受け容れるのではなく、相手の主張の不備を突くことによって、さらに互いの主張が深まるという構造になっている。
実際には、「自力で読む」という経験と「問われて気付く」という経験を往還することで、読む力がつく。
浅い自力読みを何度繰り返しても、浅いままである。
一方、毎度他者から問われるのを待つような受け身の姿勢では、当然自力で読む力はつかない。
だからこそ、両者の往還が必要なのであり、この紙上討論自体、両巨頭がそれを具現化していると読み取れる。
東洋哲学者の安岡正篤氏の言葉に「良き師 良き友 良き書物」とある。
師の問いによる気付きも、書物による自己教育の学びも必要である。
この本の中でも述べられているが、相手を打ち負かすことが討論の目的ではない。
そこから新たな価値が生み出されること、真理を追究することが目的である。
両巨頭はこの紙上で互いを「良き師」とし、「良き友」とし、結果として互いにとっても万人にとっても「良き書物」を生み出していると読み取れる。
この「発問」のテーマ一つをとっても、これである。
他のテーマも同様に、大変高度なやりとりがなされている。
今年度一番ぐらいの、おすすめの本である。
「討論は苦手」「すぐに人に説得されてしまう」という人にも、是非一読をおすすめしたい。
2019年10月4日金曜日
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