2019年10月2日水曜日

いちいち問う

常識とマニュアルは、便利である。
考えなくても自動化できる。
何もかもオートマチックという点で、今の時代の流れに合っているともいえる。
個々の性質によらずに、均質化も図れる。

一方で、常識とマニュアルに慣れると、「何のため」が抜け落ちる。
いきなりマニュアルを丸暗記から入ると、もはや思考の余地はない。
「今までがこうだったから」「例年通り」も同じである。

こういうことを若い人にいちいち言うと、うるさく思われるかもしれないという恐れもなくはない。
しかし、言うべきは言うというのが、大切である。
教育においては、相手にとってプラスになるか否かが価値であり、判断基準である。

そういう訳で、教育実習生にもいちいち問う。
「何で授業前に礼をするのか」「誰が誰にしているのか」
「挨拶は子どもからするべきか、教師の側からするべきか、あるいはどちらでもいいか」
「授業中に手いたずらをしている子どもがいても、注意しないことがあるのはなぜだと思うか」
・・・
きりがないほどある。

問う基本は「普通はこうでしょ」と思われることである。
その普通に、妥当性や意義があるのか、改めて問う。
そうすると、一つ一つの所作が変わってくる。
問う側にとっても、改めて考えたり、違う視点からの新たな発見をするきっかけになる。

本当に放っておけば育つなら、教育はいらない。
教育実習だっていらない。
「高校生は無理だけど、小学生に教えるぐらいならできる」という言葉をきくことがあるが、とんでもない誤解である。

特に小学生は「何で??」の塊である。
(ちなみに大人から小学生に対しても「何で??」な言動をたくさんする。)
幼児や小学生に対する大人は、このいちいちに「何でだと思う?」と切り返して、
「それはね・・・じゃないかな」と語れる力が必要なのである。

この「・・・じゃないかな」というのがポイントである。
子どもの大抵の問いに対しては、絶対解がない。
空が青い理由も、虹が七色である明確な理由も、子どもが本当に納得できるように説明するのは不可能である。
(「ふ~ん、そうなんだ~」と合わせてくれはする。)
というよりも、世の中の大抵の問には、絶対解がない。

「1+1=2」というのは、四則計算の演算上は絶対のことだが、現実には普遍的な絶対解ではない。
現実に、ある二人が一緒に仕事をした時の仕事量は、1+1が3になる場合や、1+1が-1になることもある。
だから、本当に頭のいい子どもにとっては逆に「何で?」ということになる。
よく考えているからである。

全ては「この場合はこう」とか「こういう考えもある」という程度である。
その解を、視点を、複数もっていることが大切である。

結局、教育実習ではハウツーやマニュアル、常識も教えるが、「観」の育成が何よりも大切である。
子ども観、教育観、人間観の育成の場である。

そう考えた時に、自分がどうであるかということの影響力は大きい。
教え方の研究どうこう以前に、自己修養が大切と考える次第である。

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