2019年10月16日水曜日

言葉遣いは、ゆるがせにしない

前号に続き、子どもへの礼儀指導について。

多様性への歓迎は重要である。
しかしそれは、礼儀の指導をしなくてよいということではない。

この二つは、相反する要素ではない。
どちらも、他者と協働して気持ちよく生きていくためのものである。

「自由」と「放縦」を勘違いしている場合がある。
大人にも子どもにもある。
特に、教える立場にある人がここを間違えていると、とんでもないことになる。

「礼儀指導」などというと、作法から始まり無数に考えてしまうが、要点を外さないことである。

根本・本質・原点で考える。

礼儀は何のためにあるか。

ずばり、相手を尊重する態度を示す、グッドコミュニケーションのためである。
そして、人を不快にしないためである。
それが、我が身を助ける結果となる。

親は、教師は、どこを確実に指導すべきか。

二十年に満たない教員経験による私見だが、肝は「言葉遣い」であると感じている。

どういうことか。

何をしてもらうにも「ありがとうございます」の一言が出る子どもがいたとする。
(「ありがざす」でも「あざーす」でもない。明瞭にである。)

この子どもに、プリントでも何でもいいからものを渡すと、何も言わない子どもよりも、両手で受け取る確率が高い。
「頂く時は両手で」という礼儀が同時に身についているのである。
家庭教育のせいなのかなぜかは知らないが、実態としてそうなのである。
当然、「どうぞ」と相手に渡す時も両手になる。

小学校高学年になっても、目上の相手に横柄な言葉遣いで話す子どももいる。
低学年であっても、丁寧な言葉遣いで話す子どももいる。
初対面であれば、それら子どもの印象は、それぞれ確実に決まる。
大人の側が、どちらを助けてあげたいと思うかである。

そしてどちらも、子どもの性質ではなく、大人がどう接してきたかで決まっている。
「不遜・不敬な子ども」を作るのは、間違いなく親と教師の両者である。

自閉症スペクトラムなどのコミュニケーション上の発達障害も考えられるので、言葉遣いだけで一概にはいえない。
ただ、基本的には、そう見られるというだけである。

礼儀指導は、無数にあって、全部教えるのは本当に大変である。
せめて言葉遣いだけは、「揺るがせにしない」教えるべき点として、身に付けさせてあげたい。

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