絵本について。
教育に絵本は有効である。
しかしながら、その使い方に誤りがあるように思えることがある。
結論から言うと、絵本は純粋に楽しいから読む。
それ以外にない。
親や教師の恣意的に用いることには反対である。
読み聞かせは、結果的に子どもの教育に「なってしまう」だけである。
自分がその絵本が心底好きで、読みたくて読んでるだけなのに、子どもがそれを好きになってしまう。
それだけの話である。
つまりは、親子や教師と子ども間の、コミュニケーションの媒体である。
だから、読んでる間に子どもとは目を合わせるし、話をすることもある。
それこそが、読み聞かせの本分である。
読みたくないのに、やっつけで読んでも意味がない。
以前紹介したおおたとしまささんの本にも書いてあったが、
「うちの子は年間で600冊読んでます」
と得々と語る事態は、異常である。
私の学級では、読み聞かせを毎日する。
それは、私が好きだから読むのである。
「その本は教育的かどうか」とか、知らない。
すべて、私の好みである。
(そして、今では子ども自身が読むので、私の趣味は一切無視で、完全に子どもの趣味である。)
これは、我が子に対しても、そうである。
絵本はいい。
絵本には、芸術作品としての意味もある。
これは、他のあらゆることにもいえる。
例えば自然体験がいいのは、自然体験がいいからである。
教育効果がうんたらかんたらは、実はどうでもいいのである。
自然体験は、純粋に気持ちいいのである。
教育では、不自然なことをしない。
それは、教育とは自然のままにしておかない、という話とは別である。
不自然な教育は、「こうすればこうなる」的な「ロボット教育」である。
それは、プログラミングを学ぶ意義とは違う。
プログラミング教育が有効なのは、それが機械相手だからである。
論理の学習だからである。
これからの時代、機械を使いこなす技能が必須であり、ロジカルシンキングを進めるその教育には意味がある。
ただし、人間相手にプログラミングをする訳ではない。
機械には、芸術を理解することはできない。
(芸術作品を一定パターンで理解するようなプログラムを人間が組み込むことはできるのかもしれない。)
すぐれた絵本は、芸術作品である。
それを忘れないで読む。
絵本が教育として有効であるということと、絵本をそのように恣意的に用いるということの弊害は、考えるべきことである。
2019年10月27日日曜日
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