自由についての主観。
自由というのは、枠のサイズのことであると考えている。
いつでも、枠がある中での自由である。
より自由になるとは、枠が広がることである。
これは「自分のやりたい放題」ということとは全く次元が違う。
それは自己中心性の次元の話である。
枠の話ではない。
だから、子どもを自由に育てると、わがまま放題になる、
という俗説があるが、それは前後の次元がずれた詭弁である。
実際は、大きめの自由の枠の中で育った子どもは、よく考えるようになる。
自由という枠組みは、決められた直線上を歩くのと違い、頭を使うからである。
例えば、夏休みは、自由の枠が大きめである。
何が自由か。
例えば、時間という枠である。
いつもの「毎朝8時までに登校、16時に下校」に比べると、かなり枠が大きくなる。
ただし「7月半ばから8月末まで」という枠である。
時間の使い方が自由というのは、頭を使う。
自分でタイムマネジメントしないといけないからである。
夏休みの宿題はどうか。
これも、どんな枠かどうかである。
「必ずやる」という類のものは、枠がないから、自由とはいえないかもしれない。
どちらかというと、線のイメージである。
「夏休みの友」を例にあげると、
「一問も解いてない」がスタートの点で、
「全部終えた」という点がゴールである。
この二点をつなぐイメージである。
しかし、これも考えようによっては、「自由」にできる。
「いつやるか」
「どれだけやるか」
「どの教科からやるか」
といったことが選べる。
そう考えると、地図の上に自分なりのルートを描くこともできる。
そこが自由という枠である。
つまり、全くの不自由も完全な自由も、両方存在し得ない。
どこをもって自由と感じ、不自由と感じるかである。
枠の大きさの話である。
自由の枠が大きいから、安心する、幸せ、という訳でもない。
トイレの個室と同じで、広いから落ち着くというものでもない。
ただ、自由でない方が安心、というのは、基本的に依存している状態である。
旅行プランを自分で立てるより、ツアーの方が楽、ということもある。
しかし本来は、自由に動ける方が、主体的だし頭も体も使う。
一方で、何の知識もない土地なら、現地の方に案内してもらえた方がよい結果になるかもしれない。
自由の枠の大きさと快適さは、主体のレベルに応じて変動するということである。
自由だからいい。
決められているから良くない。
どちらも、正確な表現とはいえない。
自分に任せられた枠を生かせる自分であるか。
そこに全てがかかっていると考える次第である。
2019年8月31日土曜日
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