2019年8月31日土曜日

自由とは枠のサイズのこと

自由についての主観。

自由というのは、枠のサイズのことであると考えている。
いつでも、枠がある中での自由である。
より自由になるとは、枠が広がることである。

これは「自分のやりたい放題」ということとは全く次元が違う。
それは自己中心性の次元の話である。
枠の話ではない。

だから、子どもを自由に育てると、わがまま放題になる、
という俗説があるが、それは前後の次元がずれた詭弁である。

実際は、大きめの自由の枠の中で育った子どもは、よく考えるようになる。
自由という枠組みは、決められた直線上を歩くのと違い、頭を使うからである。

例えば、夏休みは、自由の枠が大きめである。
何が自由か。

例えば、時間という枠である。
いつもの「毎朝8時までに登校、16時に下校」に比べると、かなり枠が大きくなる。
ただし「7月半ばから8月末まで」という枠である。

時間の使い方が自由というのは、頭を使う。
自分でタイムマネジメントしないといけないからである。

夏休みの宿題はどうか。
これも、どんな枠かどうかである。
「必ずやる」という類のものは、枠がないから、自由とはいえないかもしれない。
どちらかというと、線のイメージである。

「夏休みの友」を例にあげると、
「一問も解いてない」がスタートの点で、
「全部終えた」という点がゴールである。
この二点をつなぐイメージである。

しかし、これも考えようによっては、「自由」にできる。
「いつやるか」
「どれだけやるか」
「どの教科からやるか」
といったことが選べる。
そう考えると、地図の上に自分なりのルートを描くこともできる。
そこが自由という枠である。

つまり、全くの不自由も完全な自由も、両方存在し得ない。
どこをもって自由と感じ、不自由と感じるかである。
枠の大きさの話である。

自由の枠が大きいから、安心する、幸せ、という訳でもない。
トイレの個室と同じで、広いから落ち着くというものでもない。

ただ、自由でない方が安心、というのは、基本的に依存している状態である。
旅行プランを自分で立てるより、ツアーの方が楽、ということもある。
しかし本来は、自由に動ける方が、主体的だし頭も体も使う。
一方で、何の知識もない土地なら、現地の方に案内してもらえた方がよい結果になるかもしれない。

自由の枠の大きさと快適さは、主体のレベルに応じて変動するということである。

自由だからいい。
決められているから良くない。
どちらも、正確な表現とはいえない。

自分に任せられた枠を生かせる自分であるか。
そこに全てがかかっていると考える次第である。

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