自由。
この言葉ぐらい、解釈次第で毒にも薬にもなる言葉も珍しい。
(対抗馬は「愛」ぐらいかもしれない。)
最近、自由な学級とはどうあるべきか、ということがずっと関心事である。
これは、どちらの視点かで、変わってくる。
担任視点でいうと、自由度とは「懐の深さ」である。
子ども視点でいうと、自由度とは「裁量権の広さ」である。
担任からすると、どこまで許容できそうか、ということが自由度である。
放っておいても整列して教室移動ができそうか。
席替えを自由にしてもうまくいきそうか。
必要な秩序は保ちつつ、どこまで任せられるか、という塩梅である。
子どもからすると、逆にどこまで自分たちに任せらるかである。
やることが完全に決まっているなら、自由度は低い。
例えば校外学習。
列に並んで一つずつの場所を見学するのか。
決められた範囲を自分たちの計画で動けるのか。
自由度は全く違う。
どうすれば自由度を高められるのか。
自分で責任をとれるほど、自由度が高まる。
相手からの信用が高まるほど、自由度が高まる。
(銀行の融資と同じである。)
逆説的だが、きまりを当たり前に守れる集団ほど、自由になれる。
自由を履き違えて他人に迷惑をかけるほど、制限が増え、不自由になる。
(一般社会と同じである。)
自治的学級とは、「自治」の文字通り、自らが治める学級である。
守るべききまりというのも、ルールというよりほぼマナーに近い。
互いを不快にするような行動をとる場合、自治よりもトップダウンの統制の方がよい。
徐々に自由度を高める方向を目指す。
そうなると、まずは、指導力。
自由を目指すにしても、一斉に指導してまとめる力がないと、やはりきつい。
なぜなら、多くの場合、最初から任せられるような、互恵の関係性がうまくつくれないからである。
子ども同士をつなぐ指導力が必要である。
そして学校自体に空間的、時間的制約がある以上、完全な自由はない。
学校という枠の中の自由である。
その中でも、やれることはたくさんある。
今、目の前の子どもたちを自由にすべきか、統制すべきか。
何でも自由がいい訳でも、いつまでも統制していていい訳でもではない。
学級担任には、その辺りの判断が大切である。
2019年8月11日日曜日
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