何でもそうだが、人を作為的に操るというのは卑しい。
心理学を学ぶのは、人を操るためではなく、自分が操られないためである。
力で支配しようとする人などは、心理学で分析するとよくわかる。
力とは、物理的なものと心理的なものが合わさってできている。
DVなどは、物理的な攻撃に加え、心理的にも罪悪感を植え付ける行為である。
暴力を振るわれる側にも落ち度がある、暴力を振るわせているあなたが悪いという、無茶苦茶な論理を通す。
「そうかも」と思わせて支配するのが上手いのである。
マイナスの力による支配というのもある。
涙や落ち込んだ態度で、相手に罪悪感を植え付ける方法である。
「かわいそう」「これを助けないあなたは人でなし」というような心理にさせるのが上手い。
いわゆる「泣き落とし」である。
これもよろしくない。
勝手に「善行」「サービス」を施して、見返りを要求する手法もある。
(身近なところだと、試食や無料サンプルである。)
サービスを受けると、返さないとまずいという返報の法則が働く。
徒然と羅列したが、こういうのはたくさんある。
他人には使わないが、使われて操作されないように心がけてはいる。
これをいつも教育に当てはめて考えている。
教育は、心理学でいう「価値づけ」行為の連続なのである。
例えば以前「100点を褒めない」ということを書いた。
(プレジデントオンライン記事 「100点答案」を褒めると勉強嫌いになる)
https://president.jp/articles/-/22234
100点というのは、自分の力がついた結果なのである。
「それはよかったね」という感じである。
それ以上でもそれ以下でもない。
なぜか。
まだ個人の力で終わっているからである。
それは、何ら他に貢献していないからである。
100点がとれなくても、勉強ができなくて困っている仲間を助けている子どもがいる。
これは「君はすごい人だ」といってやっていい。
助けてもらっている方も立派である。
力があるから、気持ちよく与えられる。
足りない部分を、与えてもらえる。
互恵の関係である。
これが、価値づけである。
学級教育において、価値のあることは「社会に出てはたらく力」である。
筆頭は、協働。
これは必須の力である。
個人の能力は、もちろん高い方がいい。
しかしながら、高い能力をもちながら、それを自慢して分け与えないようでは、組織にとって邪魔者である。
価値がないというより、害悪ですらある。
だから、100点を自慢したり自分の成績・成果に得々としていることは、集団にとって無価値どころか害悪であると考える。
もっているものや経験を自慢するのも鬱陶しい行為である。
能ある鷹は爪を隠す、というのは、ずっと引っ込み思案なのではなく、いざ必要な時に爪を出せるということである。
その行為を褒めるとどうなるのか。
繰り返すが、教育は、価値づけの連続である。
2019年8月9日金曜日
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