夏休み前に書いた記事。
個人面談を終えての感想も兼ねて、学校教育の「常識」への問題提起。
再三申し上げている、夏休みの宿題についてである。
夏休みとは、何のためにあるのか。
ずばり、回復のためである。
十分リフレッシュして、「また学校でがんばろう!」となるための時間である。
子ども時代、夏休みの宿題が嬉しかった人は?
子ども時代、「一行日記」はじめ、夏休みの宿題をきちんと真面目にやった人は?
子ども時代、「夏休みの友」によって、学力向上を成し遂げた人は?
恐らく、全部逆の答えの人が多いのではないかと思われる。
あくまで予想だが、きっとそうである。
ある特定の基礎学力が低い子どもに対し、「夏休みの友」の類で何とかなるか。
それをやれば、子どもに学習習慣が身に付くか。
恐らく、無理である。
この場合、本気で考えるなら、個別の課題を出した方がいい。
なぜ、効果がないとはっきりとわかっていることを、いつまでも続けているのか。
誰が作ったか、「夏休みの一行日記」を本気で書いている子どもがどれだけいて、それを本気で読んでいる教師はどれだけいるのか。
目の前に「無意味」という結果の屍の山が築かれている。
「慣例」による習慣というのは、本当に恐ろしい。
今、学校現場にあることは、本当に必要なのか。
元号も変わった今、本気で考え直す時期である。
2019年8月27日火曜日
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