次の対談ネット記事から。
「信頼」とは無条件のもの、「信じられない時にあえて信じる」のが信頼
──『嫌われる勇気』岸見一郎先生に聞く
https://cybozushiki.cybozu.co.jp/articles/m001281.html
とても面白いので読んでみて欲しい。
このタイトルの文からして、刺さった。
私も拙著の中で「信じてるよ」という切り返しを紹介している。
(『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』
https://www.amazon.co.jp/dp/4181907120)
何度言っても乱暴をやめない子どもへの切り返しである。
「100回裏切られるつもりで言う」とも書いた。
自分としては経験則で生み出した切り返しだと思っていた。
しかしもしかしたら、どこかでアドラー心理学の影響を受けていたのかもしれない。
それぐらい、言葉の根幹が同じである。
子どもへの信頼。
わずかでも可能性にかけるということ。
これができるかどうかで、明暗が分かれる。
いい意味で「あきらめる」のである。
何を。
「もう悪いことをしない」ということをである。
いい意味で「あきらめない」のである。
何を。
「少しずつよくなっている」ということをである。
多くの親は、わが子に対して、これをしている。
どんなに悪さをしていても、今がだめでも、きっとよくなると信じている。
どんなに裏切られても、生意気な口をきかれても、反抗期に理不尽な目にあっても、わが子の輝きを信じている。
無条件の信頼である。
この記事でも触れられているが、調子のいい時は、誰でも信用できる。
よくなることが予想しやすい。
一方で、低調だったり、失敗した直後の時は、よくなると思えないから、信用できない。
それが普通の関係である。
ビジネス、利得の関係である。
親子関係は、そうではない。
教師と子どもの関係も、そうではない。
利害、損得を越えた関係である。
最も喜びを感じるのは、子どもが成長し、変わった瞬間に立ち会えることである。
それを知っているから、何度裏切られても、何度でも信じることができる。
赤坂先生の教えでも書いたが、やはり信頼関係が全て。
信頼さえできれば、あとは「無敵」である。
いくつになっても、子どもを信じる心は失わないようにしたい。
2019年8月24日土曜日
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