2019年8月25日日曜日

成長を「見守る」とはどういうことか

現在「西千葉子ども起業塾」というものに参加している。
子どもが「起業家」として会社をつくり、本物の企業に企画を提案するというものである。
通常の学習と違うのは、企画・提案されたものが、本物の企業の製品として制作されるという点である。
本物の会社の取引なので、企画が通るまでも甘くない。
そこが面白いところである。

そこに私のような現場教員や、学生ボランティアが補助に入る。
サポート役である。

現場教員ならわかると思うが、なるべく手出し、口出ししないで見守るというのが、なかなか難しい。
かつ、必要な手助けの方はしないといけない。
完全に放っておくと、学べない。
臨機応変のこの匙加減が、経験の少ない学生にとっては大変難しいのである。
教員を十年以上やってても難しいようなことなので、当たり前である。

ちなみに、どちらに偏るか。
これは圧倒的に「手を出しすぎ」の方である。
愛情や情熱があるが故に、こうなりがちである。
(皮肉なことだが、あまり熱のこもってない人が適当に育てた方が、伸びる面もある。)

授業でも同様の傾向がみられる。
何もかもこっちがやってしまい、子どもの学ぶ機会を奪ってしまう。
あるいは、全部教えてしまい、空白がないので、考える余地がない。
あるいは、教える側が99%喋っていて、子どもの発言が一切ない。
子ども同士の話合い活動をしているのに、いつの間にか教師が主導権を握ってしまう。

理科などでよく見るのが「全て揃っている状態で、考える余地のない実験用具の準備」などである。
お膳立てが過ぎるのである。

子どもは、やってあげればあげるほど、依存的になり、他責的になる。
自己有用感や自尊感情がいつまでも満たされないのである。
(一方、やってあげる側は自己満足するので、一方的にここが高まる。)

やがて「できないのは、教える人のせい。準備が悪い。」という論理になるのである。
高じると最終的には、その恨みが世の中全般に向くことがある。
犯罪者の心理である。

逆に、信用して任せられるほどに成長する。
自己有用感や自尊感情が高まる。
「やり遂げて自信がついた。支えてくれた周りの人に感謝。」という論理になる。
最終的には、その感謝が世の中全般に向く。
オリンピック選手や経営者、働くことに喜びを見出す人々の心理である。

「基本的なやり方」だけを教えたら、あとは一歩退いて見守る。
困っていても、すぐには助けない。

なぜかというと、人間というのはぎりぎりの困った状態に陥った時、初めて底力が発揮されるからである。
にっちもさっちもいかない状態になった後、しばらく膠着状態になってしまったら、また「起爆剤」として少し助ける。
この繰り返しである。

すぐ助けてしまうと、全く力がつかない。
やる気もなくなる。
ジムで筋トレをしている相手に、「そんなやり方じゃダメ!」と言って、代わりに自分が腕立てをして満足している状態である。
ちょっと間違えただけですぐに飛んでくるようだと、行動がびくびくするようになる。
「顔色を伺う生徒」の出来上がりである。

自分ができるほどに、口出しをしたくなる。
不備が見えるからである。
多くの親や教師、指導者にとって難しいのは、教えることではなく、教えないことである。

成長を「見守る」というのは、文字通り「見る」ということができるかどうかにかかっている。
実は、教えているつもりの指導者の側こそが、自分の「我慢できる力」を試されているのかもしれない。

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