2019年8月2日金曜日

いつ主体的・対話的で深い学びをやるか

主体的・対話的で深い学びについて。
文科省の示す方向性自体は、ほぼ完全に浸透した。
それがわかっているのに実現しないのはなぜなのか考える。

問題は、これを、いつ、どうやるかである。

答えは、子どもが学校に来ている間、常に、ずっとやるのである。
朝から放課後、それ以降まで、すべてで行う。

例えば授業研の時だけがんばってもダメである。
何かいい手をうったから、突然主体的な学びを始めるというのは有り得ない。
普段からつまらない授業をしているのだから、急に気合いを入れてもやっぱりつまらないのである。

いつも指導者の方を向いて話を聞くということが染み込んでいる子どもたちに、突然「さあ話合いましょう」といっても無理である。
そんなご都合主義は通らない。
(子どもは気を遣って形だけ整えてくれるかもしれないが。)
いつでもどこでも対話をしている状態でないと、対話的な学びにはならない。

急に深い学びに至ることもない。
普段の学びからして浅いから、突然深くしたくても、浅いままなのである。
いつでも些細な一つのことを深く掘り下げて考える習慣が身に付かないと、深い学びにはなり得ない。
あいさつ一つ、礼の仕方一つをとっても「なぜ」「なんのために」を常に問うことである。

それは、教師自身の一挙一動をとってもである。
例えば今回の夏休みの宿題は何のために出したのかを、教師の側が本当に深く真剣に考えていないのならば、子どもが深い学びをする訳はない。

そもそも主体的に学んでいるなら、宿題はいらないはずである。
主体の反対は客体。
指示されて動くのが常では到底身に付かない。
授業中ずっと黙って椅子に座って、出された課題に黙って従っているだけなのに「主体的」というのは考えにくい。
(それを進んでやろうと「自主的」にはなるかもしれない。
自主的な姿は、主体的な姿とは全く違う。)

対話的に学んでいるなら、必ず学習中に仲間と意見交換したり、話したりしているはずである。
それも、自然にやっているはずである。
けんかして相手をやりこめるのではなく、異なる意見から新たな解決方法を自分たちで見出しているはずである。
黙ってひたすら教師の話を聞き続けているということはない。

深く学んでいるなら、気付きがあるはずである。
問題を教わった手順通り解いて答えが出ればいいという浅いレベルにとどまらない。
その答えが本当に正しいのか、他のもっといい解や、考え方はないのか、考えるはずである。

また、なぜそれを学ぶのか、それがどう役立てていくのかも考えているはずである。
与えられた課題を終えて〇をつけてもらって、同級生より先だ上だ100点だと満足しているのは、極めて浅い証拠である。
(塾の点数によるクラス分けや習い事のレギュラー等の他者評価で、クラスメイトをランク付けして差別するなど最低最悪の姿である。)

主体的・対話的で深い学びを、日常に、当たり前の「普通」にすること。

朝のあいさつだろうが歌だろうが給食だろうが掃除だろうが、休み時間だろうが登下校中だろうが、常にである。
例えば掃除一つでも「もっときれいにするには」「みんなが快適になるには」「より短時間で終わらるには」と工夫し続ける。
あるいは、集中し、没頭している。

理想論と言われるかもしれないが、そこを目指さないのなら、実現はない。
何かこっちの求める時だけ、都合のいい姿に子どもがなるなんてことはない。
普段から行儀がよくない子どもであれば、大切ないざという時でも当然行儀が悪いというのと同じ理屈である。

「本番」だけ本気を出そうとしても、無駄である。
付け焼刃と厚化粧と一夜漬けと愛想笑いは同類で、どれも醜い偽物である。

これは、自戒を込めての言葉である。
初任者の頃の授業研で、やんちゃ坊主が全く興味をもたずに、強く叱ったことをよく思い出す。
エゴと見栄にまみれた、その醜い自分の姿を思い出すたびにぞっとし、嫌悪感で身震いする。
「やんちゃ坊主」たちは忖度しない分、その反応は正直で妥当性がある。
教師という立場は、自分が完全に間違っていても通るのが恐ろしいところである。

結局、主体的・対話的で深い学びも、日常が全て。
いつでもどこでも、自らがまずその姿を求め続ける姿勢をもちたい。

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