髪染め問題に関連して、ファッションの読み解き方や対応について。
持論だが、ファッションは、記号である。
つまり、「自分はこういう人間だ」「こう扱かって欲しい、見て欲しい」という外的アピールである。
「ファッションに無頓着」というのも一つのファッションである。
つまり「外見に判断を左右されない人間だ」というアピールになる。
スーツや制服も記号である。
「社会的安定」を表す。
スーツや制服を着崩すというのは、社会的安定へのアンチというメッセージになる。
(単に着方やマナーを知らないというのは別問題である。)
染めた金髪も記号である。
周りがそうでないからこそ、反社会的メッセージになる。
「周りの普通とは違う」というアピールになる。
みんな金髪が普通の文化の中では、そのアピールができない。
また、マンガやドラマのキャラクターやアイドルに憧れて染めたい、そういう髪型にしたいということもある。
いずれの場合にせよ、発したいメッセージと、受け取る側のメッセージに齟齬が生まれる可能性がある。
例を挙げる。
「木更津」というとどういうイメージがあるだろうか。(全く知らない人もいるかもしれない。)
元々は、「証城寺の狸」のイメージであり、現に木更津市内にあるマンホールの蓋はどれも証城寺の狸と歌詞の絵柄である。
しかし某映画で有名になったお蔭で、それよりも「ヤンキー」のイメージが強くなったように思う。
だから、木更津では、アイドルも含め、チラシやポスターでも割とヤンキーファッションが多い。
昭和の暴走族の「夜露死苦」なイメージである。
しかし、外国人の考える日本人のちょんまげ問題と同じで、木更津の一般人には、そんな恰好をした人はもちろんいない。
これは一つの「木更津的」という記号であり、文化である。
木更津の一般人的には完全に誤解なのだが、「ヤンキー」は木更津(あるいは横浜)を示す記号である。
(お陰で、一部の人々の中で「木更津は家庭が荒れてるらしい」という誤解があることが判明。もはや完全にネタである。)
だから、ヤンキーファッションをすれば、それだけで「木更津っぽい!」ということをアピールできる。
(木更津の狸のご当地キャラを一度リーゼントにさせたいと思っている木更津市民は、私だけではないはずである。)
つまり木更津市内で荒れてる風を目指してヤンキーっぽい感じにすると、ネタっぽくなってしまい、本当に荒れてるアピールはしにくい。
何が言いたいかというと、教師は子どものファッションを「記号として受け止める」という姿勢で読み解く必要がある、ということである。
例えば高学年女子相手であれば、その奇抜さは「おしゃれに見せたい」のか、「荒れてる」アピールなのか。
読み解き方で、対応が変わる。
割とよくあるのが、夏でも長袖や厚着、フードを被る、マスクを取れないといったパターン。
内に籠っている。(日光に当たってはいけないという理由等のこともあり、その場合は別。)
外と関わりたくない、あるいは身体を見せたくないという思いがあり、そのアピールである。
無理に外させると、心理的に不安定になる。
理解して見守る姿勢が必要かもしれない。
余談だが、海外では外でマスクをしていると、怪しい人と警戒されるそうである。
マスク常用は、旅館の浴衣で出歩くのと同様、日本国内でのみ通用する「常識」である。
閑話休題。
つまりは、ファッションという記号から、感じるままではなく、正しく相手の思いを読み解くということである。
特に低学年であれば、親の思いや方針も読み取れる。
いわゆるきちんとした恰好をさせているようなら、そういう風に育って欲しい、見て欲しいという願いになる。
何日も同じ服を着ている場合はどうか。
この場合の読み解きには、全く異なるパターンがある。
一つは、こだわり傾向の可能性。
自閉症スペクトラムの特徴の一つで、子どもが他の服を嫌がってそれしか着ないのである。
(あるいは単に幼児性がまだ強く、こだわっていることもある。)
親は苦労して毎日洗濯&乾燥をしている、あるいは2着以上同じものを用意している。
学校生活でも、そういう傾向がある可能性を考えて接する必要がある。
もう一つは、ネグレクトの可能性。
着るものをまともに与えられていない。
この場合、大抵は洗濯していないので、臭いが判断基準の一つとなる。
虐待の可能性を含めた丁寧な対応が必要である。
ちなみにここと関連して、公立小学校でも制服という場合があるが、これはいじめから守るための手段ということもある。
制服であれば、家庭の経済格差が表に出ない。
お坊ちゃん、お嬢様風にするためではなく、「配慮の制服」である。
制服というもののもつ、一つのプラス効果である。
ファッションは記号。
これは当然、教師の側にも当てはまる。
自分がどんな風に見られたいと思っているのか、あるいはどんな風に見られているか。
改めて観察してみると、新たな発見があるかもしれない。
2019年9月25日水曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿