「こうすればこうなる」というのが「ハウツー」である。
ハウツーは、技術の伝達手段として、あるいは適正な作業手順としてとても大切なことである。
ところで、ハウツーは、子どもへの教育に適用できるのか。
これは「時々、まれに、当てはまることがなくもない」という程度である。
「似たタイプ」であれば、多少当てはまることもある。
タイプとは、類型化である。
例えば血液型性格診断は、4分類の類型化である。
大まかなので、当てはまるかもということも結構ある。
しかし、A型だから必ずこう、ということはないというのは、これが好きな人にも自明のことである。
教育書や育児本などの教育ハウツー系は、その程度の確率で考えた方がよい。
似た傾向があっても、目の前の子どもが他と全く一緒ということはない。
違う人間なのだから当然である。
兄弟は違う性格に育つ。
同じ親が育てているのにも関わらずである。
「学校教育の影響だ」という外的要因だけではない。
よく泣くとか、ほとんど泣かないとか、0歳の時点で全く違う。
つまり、例え兄弟であっても、生まれてもってくる「種」が違うと考える。
当たり前だが、ランと松の木では育て方が全く違う。
胡蝶蘭は高く売れていい、マスクメロンの果実ができたらいいと思うのが、成果主義、経済中心の考え方である。
実際の社会において、花や果物が胡蝶蘭とマスクメロンばかりでは困る。
(というより、その状況では市場原理により、価格は急落する。)
多種多様、色々な子どもがいるからいいのである。
均質ほどつまらないことはない。
ハウツーで何でもうまくいけるほど、つまらないことはない。
競争社会で勝つ人間を育てたいのかもしれない。
しかし少なくとも、公教育で目指すのはそこではない。
公教育で育てるのが社会に健全に生きる人間である以上、競争ではなく、協奏、協働できる人間のはずである。
協奏、協働とは、個性をおさえて周りに合わせることではない。
独自の個性を発揮して、他と調和することである。
ハウツーで均質に一つの価値観に沿った人間を育てようとするのは、もはや無理がある。
(戦争における「駒」としての兵には、これが最も必要かもしれない。
「上の命令に従う」という価値観への均質が求められる。)
多種多様な個性の育成。
これからのダイバーシティの社会において求められる教育は、従来のそれとは真逆なのかもしれない。
2019年9月28日土曜日
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