2019年9月17日火曜日

「ルールに反していなければいい」は主体性の真逆

前号に続き、「金髪に染めてはいけない」問題についての考察。

「ルールに反していないから、いいのだ」という考えは、主体的な生き方の真逆である。
それはつまり、何を判断するにも「ルールだから」ということである。
無条件にルールに従うことが、最も頭を使わない。

大抵の公立小学校には、明確な校則はない。
あるのは、注意事項や慣例、マナーだけである。
(一部、校則やルールブックがある小学校も存在する。)

「ルールだからそうする」というのは、「ルールに反してないことならしていい」となる。
しかし、ルールと付き合っていく態度として、これは間違っている。

本来、ルールというのは、それを設定しないと不自由や不都合、生きづらさが出るために作られている。
人々が主体的に気持ちよく動けるために存在するものである。

ちなみに、ゲームというのはルールが必須要素である。
ルールのないゲームは、ゲーム足り得ない。

サッカーを例に考えてみる。

「キーパー以外手を使わない」というのは、ゲームの面白さを保証するための基本ルールである。
手で運んだら、違うスポーツになってしまう。

「相手をつかんで引っ張ってはいけない」というのも当然のルールである。
球技で相手を直接つかんで押さえていいのは、ラグビーやアメフトぐらいである。
しかし、それを裏でやっている選手もいる。
ボールから離れたところ、審判の見えないところでやるので、ファウルを取られないのである。
(ひどい人だと、肘で腹や胸を殴打してくる。そういったプレーを公然と指導する監督もいる。)

これをどう考えるか。

「審判に見られていないからファウルではない。正当だ。」と考えるか。
「スポーツマンシップに反する。不当だ。」と考えるか。

オリンピックのような国際試合の場合、単なるスポーツというより、国益に関わることもある。
必死になって、そういうプレーをする選手もいるのかもしれない。指示されるのかもしれない。
ここでは、学校教育の場で考える。

「ルール違反でもファウルを取られないからいい」というのは、そもそもルールから外れている。
これは、明らかに不正である。
学校教育として考えた場合、議論の余地はなく、否定すべきものである。

では、次のような場合を考える。

サッカーにおいて、わざと一度外にボールを出して、相手チームがボールを返すことがある。
どういう場合かというと、ファウルは取られなかったが、誰か選手がケガをして倒れているので試合を一時止めるべき、という時である。

ケガをしている人が心配なので、ボールを出した。
ボールを出されたチームの側は、「ありがとう」という気持ちでボールをスローインで投げ返す。
会場からは拍手が起こる。

当たり前だが、こういう「ルール」はない。
ルールはないが、これがスポーツマンシップに則ったマナーによる行動であり、常識である。
(常識とは本来、その集団内においてそもそも説明しないでもなぜそうするのかわかる、自明のことである。)
先の「見えない場所で引っ張る」の真逆である。

学校教育で育てたいのは、どちらの人間か。
ルールに反してなければ、罰せられなければ何をしてもいいと考える人間か。
人々が気持ちよく生きるために、どうすべきか自ら考え、選択し行動する人間か。

答えは明白である。

つまりは、「ルールに反してなければいい」は、主体性の真逆である。

次号も、「金髪問題」について考える。

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