2019年9月27日金曜日

学校の常識を見直す

学校の常識への疑いについて。

諸外国の学校では、道徳の授業がない。
宗教があるので、そこが担保しているといえる。
日本の学校でも、ミッション系の学校などでは、神様について学ぶ時間があるという。

常識というのは、宗教が担保する部分が大きい。
各宗教の中で、例えば「愛」「隣人に優しくすること」「生かされていることへの感謝」「労働への感謝」などが教えられる。
道徳の内容はほぼ全て網羅される。(しかし、全ての国でその道徳的な行為をする国民が育っているかは別問題である。)

一方で宗教というのは、為政者にとって都合のいいように捻じ曲げられて利用されている部分もある。
「その地位に生まれたら、そこに感謝して労働をして生きるのが正しい」
「貧しくてもいい」という信念は、為政者にとって大変都合がいい。
反乱を防げるからである。
一部の権力者が利益を貪ることにもつながる。

これらの考えを踏まえて、学校の常識に戻る。

学校の常識を規定しているのは何か。
例えば中学や高校の校則などは、誰かにとって都合がいいようにできている。
校則のない小学校でも「常識」「当たり前」「いつもそう」が、誰かにとって都合のいいようにできている。

誰にとってなのか。
学校の存在価値は、子どもにある。
つまりは、児童・生徒にとって都合がいいようにできているはずである。

・・・そうかな?という疑問の声が子どもたちから当然上がる。

子どもにとって都合のいい常識、というのもない訳ではない。
「全ての教育活動において、子どもの安全に配慮するべき」というのは、望ましい常識である。
一昔前は、ここがないがしろにされていた感も否めない。
部活動においても、死ぬほどきつい訓練が「常識的」に行われていた時代もあったし、体罰が当然という時代もあった。

これらの常識は、時代の流れに沿って、望ましい形で変わっていったものといえる。
つまり「常識は変化する」ということが常識にとっての一つの命題である。

一方で、変化していない常識もある。
学校には、この方が多い。

昭和(あるいは明治・大正)の頃から未だに変わらない、という類のものは、全てこの「変化していない常識」である。
常識というのは、誰かしらに都合がいいから定着した訳である。
あるいは、不易のものとして本当に価値があるから定着していることもある。

一体、その常識やルールは、誰にとって都合がいいのか。
子どもにとってのものであれば、それは問題ない。
しかしもしそれが、大人にとっての都合、大人にとっての安心感のためであれば、それは見直すべき常識やルールである。

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