先月、苺狩りに出かけた。
今、千葉県の南房総では、苺狩りがシーズンである。
苺狩りというのは、結構値が張る。
苺というのは可食部の90%が水分であり、そんなに多量に食べられるものではない。
(そして、どんなにお腹いっぱい食べても、別に食事はしたくなる。要は、ほぼ水なのである。)
単純に値段に対し食べられる量としては、割がいいとはいえない。
それでも多くの人で賑わうのは、それが「レジャー」としての価値が高いからである。
苺のハウスに入っておいしそうなものを選びながら、その場でもいで食べるのが、無条件に楽しいのである。
ある子連れのご家庭が一緒のハウスにいた。
苺狩りでテンションが上がり、当然はしゃぐ子どもたち。
その行動の逐一に母親が怒っている。
機嫌が悪いとしか思えない怒り方である。
苺狩りで子どもが喜んでいなかったら、その方が残念だと思うが、そこは怒ると気付かない。
苺狩りで、怒っているのである。
気持ちはわかるのだが、これは、目的からすると、かなり逸脱している。
お土産用の苺を買って帰った方が費用対効果がよい。
しかし、世の中そんなに論理的にはいかないので、とにかく怒って苺狩り。
それでも子どもは楽しそうだったので、レジャーに連れ出した父親としてはOKだったようである。
(そもそも、その母親が怒っていたのは父親のせいではないかとか色々邪推できるが、ここでは不明。)
苺狩りに限らず、どこに行くにも「何のために」を考えることは大切である。
こういうことを考えるのが「観」の発揮どころである。
教師は、学校に「何のため」に行くのか。
学校は、言わずもがな子どものための機関である。
そこに行く大人たちは、子どものために何かをしにいく。
何かを為して、成さねば行く意味がないのである。
少なくとも、疲れにいったり怒りにいくのではあるまい。
学校は、子どもと共に喜ぶ場でありたい。
今日は何に一緒に喜べるか、想像してみるのもいいかもしれない。
2016年4月21日木曜日
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