いくつか前に「次号に続く」といっておきながら続いていなかった。
書くといった責任をもって、その話の続き。
切り返しの技術は、「観」による。
これは、ハウツーではない。
子どもをどう見ているか、教育をどう考えているかである。
例えば3章に、授業中「教師が答えられない質問をしてきたとき」の切り返しがある。
このメルマガを読み続けてきた人なら、私がどう切り返すか知っていると思う。
さて、自分なら、どう切り返すだろうか。
勿論、その時の状況や子どもにもよるのだが、基本の返し方を持っている方がよい。
基本があってこその応用である。
この基本が、観によって決まる。
つまり、「子どもの質問に答える」ということの、根本・本質を考えることになる。
そもそも、なぜ教師が子どもの質問に答えねばならないのか。
さらに言うと、「質問」というのは、答えを知らない者が知っている者に対して行う。
そう考えると、何でもかんでもやたらに質問をしてくるというのは
「教師は何でも知っている」「教師は答える義務がある」という考えが前提にあると導き出される。
この前提が真がどうかをまず疑う。
普通に考えて、これは真ではない。(何でも知っている訳がない。)
では、どこから間違っているのか。
質問をする子どもは、教室に何をしに来ているのか。
「学習」である。
平たく言うと、賢くなりに来ているのである。
つまり、教師は授業を通して、子どもを賢くする必要がある。
そこで、どういう子どもが賢いといえるのか考える。
単に知識が豊富な子どもは賢いといえるのか。
否。
頭でっかちで動かない人間は賢いとはいえない。
知識を活用していく力を持つ子どもこそ、「アクティブ・ラーニング」の姿である。
「わからない」→「人にきく」のサイクルだけを「学習」と捉えていては、自ら学ぶ力があるとはいえない。
そういう考えを持つと、質問への切り返し方が決まる。
そもそも、教師が答えられないほど難しい質問を考えられること自体がすごい。
「天才的」である。
そこを生かさない手はない。
今回の本にある「切り返しワード」は、一つ一つに、そのような根拠がある。
「切り返しワード」以上に、その根拠の「観」をこそ伝えたい。
一つ一つの切り返しは「正解」ではないかもしれない。
それでも、私なりの「観」を通した根拠がある。
本書を通して、よりよい自分だけの切り返しを考えていただければ、何より嬉しいことである。
2016年4月13日水曜日
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