2021年2月21日日曜日

学校の正解主義とクイズ

学級で作るイベントや学級活動を大切にしたい。

クラス会議をして話し合い、子どもたち発案で、色々とやる。

自治的活動の一環である。


誕生日会、実習生の歓送迎会、クリスマスパーティーと、色々である。

その会の中で、催し物がいくつかあり、必ず入る定番が、レクと「クイズ・なぞなぞ」である。

現在は、朝の会でも行っている。


初期の会では、マニアックな知識を問う問題が結構あった。

知らないと全く答えられない類のものである。


大人向けの問題にして例えると

「良いことをしたら少しぐらい悪いことをしてもいいと思ってしまう心理を、心理学で何というでしょうか」

答えは「モラル・ライセンシング」。

こういうタイプのものである。


ただ単純に、知っていれば正解するし、知らないと全く答えようがないというものである。

「知識マウンティング」になりがちな行為でもあり、場合によっては嫌味にとられかねない。


さて、こういう種の問題がいくつか続いた後に、複数の子どもから

「それはなぞなぞじゃなくて、クイズだ」という意見が出た。

言われた子どもたちは、違いがよくわからない。

言っている方も、うまくは説明できないが、肌感覚で何となくわかっている様子。


子ども同士で説明している内に、何となくだが理解が浸透してきた。

やがて、単純な知識を問う「クイズ」は減ってきて、「なぞなぞ」系のものが増えてきた。


要するに、ストレートに知識を問うのが、クイズ。

一方で、少しひねってあり、考えればわかるようなものが、なぞなぞ。

その解釈が一般的に正しいかどうかは別として、そういう理解になっていった。


子どもたちが考えたものだが、これは授業者においてもかなり大切な視点である。

授業でしているのは、ここでいう「クイズ」中心ではないだろうか。

つまり、知識を問う当てっこである。


テストなどでは、ごく一部の記述問題を除き、ほとんどがこれになる。

知識の有無を問うて測定するのがテストだから、ある意味当然である。


しかし授業がこの「クイズ」中心では、面白いはずがない。

知っている子にはつまらないし、知らない子にはわからない。

知ればいいだけのことなら、さっさとストレートに教えればいい話になる。


ここでいう「なぞなぞ」のごとく、考える授業にしたい。

知識を直接問うよりも、「なぜそう言えるのか」「本当にそう言えるのか」を問う授業が求められる。

授業では「そんなの当たり前だ」を打破する必要がある。


一番「クイズ」にしないよう注意すべきが、道徳の授業である。

話題の中心、柱となる価値があってもよいが、それへの解釈、価値観はそれぞれである。

「こう答えるのが正解」とあっては、もはや道徳の授業とはいえないだろう。

この点は、学級会(あるいはクラス会議)も同じである。


算数は「クイズ」になりがちである。

やり方さえ事前に知っていれば、ストレートに解が出る。

ただ考え方、道筋はそれぞれのはずなので、そこで「クイズ」を脱せる。

(どれくらい試行錯誤の自由をとるべきかは、悩ましい問題である。)


人々に多様性を求めるこれからの時代、社会のあらゆる問題での「正解」は一つに定まらないはずである。

クイズ的正解中心の教育。

ここを脱したいところである。


しかし自分たちの意思だけでは、正解主義の道を脱せない。

受験の在り方が大きく関わってくる。

受験で選択肢による正解主義が求められる以上、「クイズ」を重視さざるを得ないのが現状である。


教育内容で重視されることの全てが、大学受験から下へ下へと降りてくる。

入試がこれからも正解主義を求め続ける限り、この流れは変えられない。

(本来なら、入試での「考えを述べる」への採点が難しい以上、全国一斉というテスト形式自体を考え直す必要がある。)


現状では、「クイズ」にはきちんと答えられるようにしつつ、自分の頭で考える力も同時に育成することが求められる。

ものを考えるための材料である知識が豊富にあるからこそ、そこについて考えられるという側面もある。

「教え方」も「学び方」も大切だというのは、そのためである。


子どもたちの言動から学べることはとても多い。

一方的に教える授業ばかりでは、子どもたちからの言動は見えてこない。

子どもの自由度を高めることで、教える側に気付きを与えてくれる余地ができる。


自分の授業は正解主義の「クイズ」ばかりになっていないか。

自問自答しながら授業に臨む姿勢が求められる。

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