タイトルは、先日発刊された「授業づくりネットワーク」誌No.37の特集からとった。
参考:学事出版H.P.↓
http://www.gakuji.co.jp/book/978-4-7619-2612-0.html
私も「多様性を前提とした学級経営とクラス会議の実践」というテーマで書かせていただいたものである。
私の書いたものは、クラス会議で意識している多様性の尊重と、クラス会議以前の実践である。
もし手に取る機会があれば、私の記事もお読みいただきたい。
本題に戻る。
年末最後のメルマガで「ジェンダーフリー」について書いた。
最近、LGBTQや学習障害、マイノリティなど、教室の中の多様性についてのテーマにふれることが多い。
これは偶然でも何でもなく、世界の掲げる重要テーマの一つだから、多く目にするのである。
さてこれは何年も前の話なのだが、学級で「ゲイ」であることをカミングアウトしている方にお話を伺う機会があった。
高学年の子どもたちは、その授業を真剣に聞いていた。
もちろん、真剣に話している人を前に茶化す子どもなどいない。
そして、感想を書いた。
「そういう考え方を始めて知った」
「偏見をもたないようにしたい」
「もし自分の友達にそういうことがあっても、今まで通りの友達としてやっていきたい」
といったものが多く出た。
その中に「やはりどうしても受けいれられない」と正直に書いた子どもがいた。
これは、当然である。
授業とは、相手に気を遣う場ではない。
新しいことを学ぶ、学習の場である。
講師の方も重々承知しているし、予想通りでもある。
そしてこの意見については「それでいい」とのこと。
全員が全員、ある一つの考え方を受け入れなくてもいい。
そういう意見を受け入れることも、受け入れないことも、その人の権利だということである。
これは多様性を考える上で、深い。
「受け入れないという人の意見を認めるのも、多様性の尊重」ということである。
言われてみると、まさにその通りである。
学校というのは、ここが尊重されない場である。
「やらない」「嫌い」「参加したくない」「行きたくない」に対して、基本的に受容しない。
何とか「そう言わないで。ね?」とやる気を起こさせようという場である。
「学習指導要領に全員への最低限の内容の定着を求められる学校という機関と教師」
&
「憲法に子どもに教育を受けさせる義務を負う親」の両者の宿命ともいえる。
しかし本来、多様性を尊重するということは、この「拒絶」へさえも受容が必要となってくる。
どうしても認められないものは、他人をむやみに傷つける行為だけである。
それ以外は、多様性を受けとめる教室であるならば、基本的に本人の意思が尊重されるべきである。
ただ現状の学校であれば「やる、やらない問題」については、基本的にがんばってやらせようとする方向にならざるを得ない。
集団教育の場だからである。
特定の教科の時間だけ嫌いだから参加しないことを良しとするとか、全時間を体育や図工にするとかの対応はできない。
ここは仕方ないとして、見直すべきは考え方や価値観の尊重の方である。
特に個人の嗜好性については、統制不可能である。
ここは、多様性を認めるところである。
本来、髪を伸ばそうが短くしようが、結ぼうがボウズにしようが、個人の好みであり、そこは他人には決められない。
ましてその人の恋愛対象が男性か女性かはたまた両方かなど、到底他人が決められる訳がない。
また、恋愛対象の性について尊重されても、相手が女性だったら(あるいは男性だったら)誰でもいいという訳でもない。
相手が男性か女性かどうかだけではなく、細かな個人の好みが完全に尊重される世界である。
例えば勇気をもって告白した相手にも、歓迎して受け入れる権利とともに、「ごめんなさい」を言う権利もある。
(これを理解できないとストーカーになる。)
すべては、本人以外、誰にも決められない心のはたらきである。
つまりは、旧価値観では、不自然なことを自然と思い込んでいたといえる。
みんな違っていて、当然だったのである。
それを「揃える」の一点張りで、個人の価値観まで揃えようとしまっていた。
そして話が戻るが「新しいその価値観が絶対に嫌」という人の意見も尊重するしかない。
特に戦前生まれの高齢の方に「男性に生まれた人が女の人の恰好をしてもいい時代だ」などということが到底受け入れられないのは当然である。
「男子たるもの・・・」と信じて育てられてきたからである。
それを急に180度変えろという方が、逆に統制的である。
それは例えるなら、敗戦直後の教育のようなものである。
ただでさえ周りの大人が急に言うことを変えて掌を返し、大人不信になったり嫌な思いをさせられたりした経験のある世代である。
老後の穏やかに暮らしたい時に、また周囲に価値観を振り回されたら堪らないだろう。
話を世間一般から教室に戻す。
多様性を受けいれる教室とはどうあるべきか。
教える側が、あらゆる価値観に全対応する構えが必要になる。
中には、どうしても受け入れ難い価値観もあるはずである。
そういう時こそ、辛抱強く対話していくしかない。
対立からは、憎しみ以外生まれない。
究極は、どちらの持っているものも、それぞれに「正解」なのだと理解するのがゴールである。
新しい時代の教育には、「観」の転換が最も大切だと考え、書いた。
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