虐待は、閉鎖的な空間で起きるということを書いた。
逆に言えば、閉鎖をやめて開放すれば、虐待は起きにくくなる。
今、子育てがどんどん閉鎖的になっている。
三世代が同居していた時代に比べて、一人の子どもを見る人数が圧倒的に少ない。
もっと前の、地域全体で子どもを見ていた時代に比べれば、尚更である。
一昔前は、たくさんの人で子どもを育てていたといえる。
母親自身、どうすればいいのか学ぶ機会も多かったはずである。
子どもをある程度放っておいても、色んな人に接する機会があったというのは大きい。
子育ては一人でするものではない、というのは今更言うほどのことでもない当たり前のことである。
しかしながら、実際は一人でやらされているという実態もあるのではないか。
特に母親が一人で責任をもってがんばっているパターンが多そうである。
また、自分自身に子どもはいないけれど、子どもに人一倍愛情を注いでできるという人だっている。
だとしたら、その人が関わった方がよりよく育つ可能性がある。
例えば、里親制度というものもある。
私の住む千葉県ではそれを「菜の花家族」という。
参考:里親制度(千葉県H.P.)
https://www.pref.chiba.lg.jp/jika/jidou/satooya/index.html
児童相談所で保護された子どもを養子縁組として育てる仕組みである。
里親として認定されるまでの壁が相当に高いが、それだけ信頼をおける家庭だという裏付けでもある。
15歳未満の場合は親権者の承諾が必要になるが、15歳以上になると、本人が決められる。
「実の親が育てないのは無責任だ」という意見もあるかもしれない。
しかし、親の責任追及どうこうよりも、その子どもが健やかに育つ権利の方がずっと大切である。
是非を問うとしたら、子ども自身がそれを望むかどうかだけである。
要するに、教育のあらゆる場面において、なるべく子どもを抱え込まずに、みんなで育てる仕組みがあればいい。
幼児期から色んな人が一緒に養育に関わるコミュニティがあればいい。
日本の現行の制度では難しいのかもしれないが、なるべく「我が子」として抱え込まないで済む仕組みである。
「我が子」という言葉自体も、所有している意識がないか十分に注意する必要がある。
ある人が「愚息」という言葉が嫌いだと書いていた。
全くの同感である。
所有している感が強いだけでなく、それを貶めた表現である。
子どもからすれば、はた迷惑な話である。
(類似表現に「愚女・愚妻・豚児」がある。
いずれも所有意識の強いエゴが感じられる、字面からして醜い表現である。)
親などという立場は、子どもがいるから自動的にそうならせてもらっただけのことである。
教師も同じである。
子どもがいなければ、教師も何もあったものではない。
だから、我がもの顔という意識を手放して、みんなで教育すればいい。
本来ならば、学級担任制度もやめた方がいいと考えている。
もっとオープンにみんなで見れば、競争意識も学級崩壊もなくなる可能性がある。
(さらに言うと、機械的に決められる学年というボーダー自体も本来はいらない。)
小学校でも低学年から教科担任制度及び学年担任制度が進めば、今ある苦労はなくなるかもしれない。
所有しないこと。
オープンにシェアすること。
これからの時代の教育はそちらにシフトしていくべきではないかと考える次第である。
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