前々号に続き、オリパラの各種炎上対策について、学校教育のできることを考える。
大分前にも書いたが、教室でも悪口をわざわざ広める行為が見られることがある。
これを「悪口の郵便屋さん」と教える。
(参考:ブログ教師の寺子屋 2019.10.10 「告げ口」と「相談」の違いとは)
https://hide-m-hyde.blogspot.com/2019/12/blog-post_10.html
「あの人がこんな悪口言ってたよ」といちいち本人に教えに行く子どもがいる。
もちろん、単に意地悪で行っていることもあるが、実は親切心からということもある。
これは大抵、言われた本人から相談が来て、その後個人的に指導して対策がとれるからまだいい。
教室のみんなの目の前で大声で
「○○さんがこんな悪いことしてましたー!」
と叫ぶ場合がある。
これがいけない。
(身体的なことや恥ずかしいこと、プライバシーに関わること等だと大変である。)
何より、叫んだ本人がこれが「いけないことだと思っていない」という場合が一番の問題である。
つまり「正しい」ことだと本気で思っている場合である。
そうでなければ、先生に対してみんなにも聞こえるように大声で叫ばないのである。
本人的には、正しいことをして認められたい、褒められたいのである。
問題の本質は「正しいこと」への扱いである。
「正しいことなら相手を攻撃してもよいか」
ということである。
社会的に見た場合の究極は死刑の是非、公開処刑の是非、そして戦争の是非である。
まず、正しいことは絶対に正しいという認識の誤りが不幸を生む。
すべての正しさとはあくまで自分の思い込み(信念)に過ぎないということ。
これを教える。
これも何度も書いているが、正しさとはその場、その状況において180度変化する。
玄関で靴を脱ぐというのは、あくまでも日本における正しさである。
服装や言葉遣いはTPOで正しさが全く変わる。
例えば「給食は残さず全部食べるべき」なども学校神話として語り継がれてきた正義の一つである。
戦後間もない頃には、そもそもこの議論さえない。(食糧自体に困窮しているので残さない。)
状況にもよるが、飽食の上、宗教含め多様な子どもが在籍する今の時代にはそぐわない正義である。
宗教が違えば、当然正しさは変わる。
宗教戦争に終わりがないのは、正しさと平和の認識の違いからである。
正義のヒーローは、やっつけられる「悪の組織」の側の家族からすれば、確実に悪である。
次に、それを直接裁いたり罰したりしてはいけないということ。
ここも教える。
(いわゆる私刑、リンチであるが、言葉としては教えない。)
社会で言うと、スピード違反や路上駐車違反を罰することができるのは、警察だけの権限である。
一般人には、それを捕まえてどうこうはできない。
せいぜい、それで直接困らされている住人が助けを求めて警察に通報するところまでである。
基本的に、ルール違反はルールを定めた立場の人間に権限があり、対処する義務がある。
道路交通法であれば警察に権限があるし、学校のルールであれば、教師である。
(逆に言えば、子どもたちが自治的に決めたルールなのであれば、そこに教師が直接対処するのは誤りである。)
だから、ルール違反だと思う人を見つけても、それをみんなに知らせたりやっつけたりしてはいけない。
まして、正しいからと私的に裁いて罰することは、それ自体が違法行為である。
オリンピックやパラリンピックのようなスポーツの場合、審判がいる。
不当なジャッジだと思ったら本来抗議するのは本人たちであって、周りではない。
普段は愛国心と聞くだけで毛嫌いする人でも、オリパラやワールドカップ等の国際大会だと急にナショナリズムが働く。
赤の他人の問題に首を突っ込もうとしてしまう。
そこに「正しさ」があっても、ジャッジも結果も他人のことであり、本来自分とは無関係なはずである。
(今まで、その選手のために自分が一体何をしてきたのかである。)
SNS上の炎上騒ぎは、この
「○○さんがこんな悪いことしてましたー!」
と同じ行為である。
相手がスポーツ選手でも芸能人でも同じである。
国際大会系は先のナショナリズムが働くらしく、普段大人しい人も暴れ出しやすいようである。
(何度も言うが、自分がどこの国の人間だろうが、どの選手とも無関係である。)
子どもに教えるべきは、正しさとはあくまで一面的であるということ。
個人的に悪いと判断し思ってもいいのだが、勝手に広めて騒がないことである。
これからの学校のICT教育が担うべき部分の一つがここにある。
道徳教育の混迷もここにある。
多様性を認めると、正しさの軸がぶれる。
正しさの軸を決めると、多様性に対応できなくなる。
結果的に、ブレまくりの揺れまくりである。
つまりは海上を進む船のごとく、揺れながらバランスをとるというのが現実的である。
個人的には、自国を含め、どの国がメダルを何個とったかには昔からあまり関心がない。
全ての国の選手が気持ちよく競技をして欲しいというだけである。
グローバルスタンダードというからには、自国びいきで競技を楽しむことはあっても、どの国も大切にする姿勢が欲しい。
やられたらやり返すの競争の行きつく先は、終わりなき戦争の発想である。
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