2021年10月30日土曜日

GIGAスクール構想以前 学校教育の本質的な問題を捉える

 学級づくり修養会「HOPE」での学び。


子どもの扱うタブレット端末の難しさについて話し合った。

するとメンバーの一人から、次のような意見が出た。


落語家である故・立川談志師匠の名言に

「酒が人をダメにするんじゃない。人間はもともとダメだということを教えてくれるもんだ」

がある。


つまりこの教えにならえば、タブレット端末が教育をダメにするのではない。

今の教育のダメな面、至らない点をタブレット端末が教えてくれているだけではないか。

そのように考えようというのである。


この意見にはメンバー一同「目から鱗が落ちる」という思いだった。

毎回終了後に「今日一番の学び」というのをそれぞれ投稿するのだが、この言葉が最も印象に残ったようである。


なるほど、そのように見ていけば、今起きている問題を単純にタブレット端末その他のせいにするのは間違っている。

教育現場の本質的な問題が浮き彫りになっていると考えればいい。

そう考えれば、問題がはっきり見えるということを逆手にとって、そこからアプローチすればいいとわかる。


例えばICTを用いたオンライン授業を行うと、普段の教室で起きるのと同じような問題が浮上してくる。

遠隔でオンライン授業をする際、子どもが家にいるとはいえ、あくまでも授業中である。

子どもの姿が端末画面に見えているのだが、しばらくすると明らかに姿勢が崩れていく子どもが出る。


この現象に対し

「教室だと指導できるのに」

「家だと気が抜けてリラックスしすぎる」

「パソコンを使うと姿勢が崩れる」

と嘆いても意味がない。


姿勢が崩れるという現象は、あくまでも目に見える現象である。

目に見えない部分、その本質は別にある。

普段から立腰に対する意味付けや指導ができておらず、子どもに適切な筋力を育てられていない証拠である。


もっと重いものだと、端末を用いたいじめ問題が起きた場合が考えられる。

端末を安易に悪用されない工夫は確実に必要である。

一方で、これは端末によって、潜っていた問題が表出化したともいえる。

端末どうこう以前の本質的な問題があったと考える方が妥当である。


いじめが既に見えていて解決していないのであれば、その状態で端末を自由に使えるように渡すのは愚行である。

いじめ問題の解決が優先事項であり、端末に対しては制御を大きくかけて厳しく管理する必要が出る。


問題の本質を外さない。

GIGAスクール構想自体の問題点が指摘されやすい。

しかし本質的には、そこではなく学校教育自体が大きな問題を抱えているという証拠である。

2021年10月28日木曜日

ICT端末の貸与は「危険使用」前提で考える

オンラインの 「学級づくり修養会HOPE」で

「GIGAスクール構想における子どもたちの安全をどう確保するか」

をテーマに話し合った。


学習用個人端末の扱い一つをとっても、自治体ごとに対応が全く違うため、様々な視点で意見が出された。

企業のICTスペシャリストの方も参加していたため、これまでの教育ソフトの変遷についても学べた。


会全体を通してのまとめとしての気付きは

「正しく使うはずという前提が危険」

である。


言うなれば、端末使用に対し善に基づく考え方で考えると危険である。

悪を前提にというと聞こえが悪いが、制度設計上、まずはそれが必要である。


「きっととんでもなく危ない使い方をするだろう」という前提でまず考える。

なぜならば、ほとんどの子どもたちは端末に対し、知識も技能も未熟な状態だからである。


幼児に刃物という例をよく出すが、それである。

その危険さを知らないのだから、必ず危険な使い方をするという大前提がないと、とんでもない大けがをしてしまう。

自由に上手に使えるようになるのは、十分にリテラシーが発達したずっと先の話である。


例えば、知識ゼロの赤ん坊が使うベビーグッズというのは、安全面に対し細心の注意が払われている。

細かくばらばらになるものだと飲み込むからそうならないようにするし、対象年齢も定める。

どんなに大きく口を開けても絶対に飲み込めない大きさが計算されている。

ひもの類も絶対に切れないような構造になっている。

最悪飲み込んでも大事に至らないよう穴が開いていたり、角がなかったりする。

指を挟んだり首がしまったりといったことも起き得ると想定して、そうならない作りにする。

とにかく危険な使用を大前提とした、超安全設計である。


この超安全設計の思想を見習って、子どもたちには端末を与えていく。

「危ない使い方するなよ」などと言うだけでは、単なる「フリ」にしかならない。

危ない使い方ができようもない形で与えていくところからスタートである。


インターネット上のあらゆるトラブルを想定しておく。


チャットによるいじめ。

「いいね!」に関わるトラブル。

アカウント乗っ取り。

危険なサイトの使用。

課金。

パスワード忘れ。


どれも十分に想定内である。

これを

「うちの子に限って・・・」

の楽観論でいくと、確実に誰かしらが大けがをする。


アカウントとパスワードの不備が問題になったが、ここの管理は最重要である。

子ども一人ずつに異なるアカウントを付与し、パスワードは他者に推測できないランダムなものにする。

あくまで端末もアカウントも学校のものであるため、パスワード変更等は行わない。

学校からはアカウントが常に閲覧可能な状態にしておき、保護者にも同様に端末及びアカウント監督の権限と義務を依頼する。


こういった基本的な対応を全くしていない自治体が至るところにあるという。

なぜかというと、各校にICT専門の人員が配置されていないからである。

ICT専門家にとっては、恐らくこんなことは常識であり、放置することはあり得ない。


一方で、ICT専門家でも何でもない多忙極まる教員にとっては、アカウントとパスの作成などは完全に未知の作業である。

つまりは、人材不足の引き起こす不幸と不備ともいえる。

(Wi-Fi環境不備の問題と根幹は同じである。要は予算の問題である。)


アカウントとパスが「ザル」な状態の自治体は「子どもはアカウントを乗っ取って遊ぶだろう」という前提がない。

「夜中に勝手に使ってひどいいじめをするだろう」という前提があれば、使用の管理をするはずである。

先日の事件を他山の石として、何とかして即刻正すべきである。


「子どもに対してそんなひどい見方を」などときれいごとを言わない。

世間の大人を見ればわかる。

なぜあれほど汚い記事やニュースが歓迎されるのか。

子どもは大人を見て育つのだし、いずれ大人になる存在である。

一定数そのような使い方をする子どもがいて当然とみなすのが、自然で合理的な考え方である。


道徳的なきれいごとで見てはいけない。

子どもだって悪いこともするし、とんでもないひどいことも言うのである。

端末使用に限った話ではなく、これまで何十年と学校で現実に起きてきたことである。


更に、物理的な面での過失による危険や故障を起こすことも制度設計に入れておく。


落下。

水没。

画面割れ。

タッチペン紛失。


1校の子ども何百人に端末を渡すなら、どれも十分にあり得ることであり、起きない方が不自然である。

「事故は起きない」という前提をもつこと自体、小学校の算数レベルでの誤った認識である。

(500人いる学校なら、発生率たった1%と見積もっても5人に起きる。)


自校の学校の端末使用について見直してみる。

教員なら勤務校、保護者なら子どもの端末である。

やはり安全面について管理が不適切だと思われるなら、早めに言うべきである。

事故が起きてからでは遅い。

もう、放っておけば危ないというのは、わかりきっていることなのである。


せっかくのこの流れを止めないためにも、安全面の保障については特に気を配っていきたい。

2021年10月26日火曜日

成長主義の教育方針

 次の本を読んだ。


『リーダーの仮面 「いちプレーヤー」から「マネジャー」に頭を切り替える思考法』

安藤広大 著 ダイヤモンド社

https://www.diamond.co.jp/book/9784478110515.html


組織マネジメントについての本である。

5つの各章でそれぞれの「思考法」について書かれている。

「ルール」「位置」「利益」「結果」「成長」の5つである。


この本の中で明言しているのが

・「褒めれば伸びる」は子育ての論理

・仕事は(学校の)勉強とは本質的に異なる

・小学生向けのマネジメント方法が、会社組織に当てはめられているのが問題

ということである。


特に「過程(プロセス)を褒める」について、明確に否定している。

これが社会人の「残業アピール」につながっているという。

確かにその通りである。

会社組織が社員に求めるのは、過程(がんばったこと)よりも利益であり結果であり成果である。


これは逆に言えば「会社組織向けのマネジメント方法が小学生に当てはまらないことがある」

ということでもある。


これは、結構大切な指摘である。

大人の社会で通じているものをそのまま小学校におろすと、失敗することがある。

「利益主義」「結果主義」をそのまま小学生に当てはめたら、大変なことになる。(もうなっている感が否めないが。)

また学習塾の講師評価のように「成果主義」を学校現場へもちこめば、教員間の連携が著しく阻害されるのも周知の通りである。


GIGAスクール構想においてもここは考えるべきところである。

社会がICTを活用しているからといって、大人と同じように使わせて良いかといえば、答えは「NO」である。

まして、小学生に与えるのであれば、前号まででも述べたが、かなり考えるべき点がある。


つまり組織マネジメントは、通り一辺倒ではうまくいかないということである。

特に学校は特殊な組織(教育と保育の両機能を併せ持つ機関)であるため、通常の会社とは異なるマネジメント方法が求められる。


そんな中でも、この本に強く共感した点があった。

「成長」を重視しているところである。


子どもたちは、学校に何のために来るのか。

私は

「良くなるためにくる」

と考えている。

つまりは、成長である。


朝来た時よりも、帰る時の方が良くなって、成長していることが大切である。

また成長のペースや方法は人それぞれであって、一律に求めることはできない。


卑近な例をあげれば、漢字の学習や計算ドリル。

「漢字ドリルの枠を埋める」ということなど、何の価値もない。

ノートに同じ字を何個も繰り返しびっしり書くこと自体にも、全く意味がない。


ただしこれは単に「繰り返しノートに書くことが無意味」といっているのとは違う。

まだ覚えてない字に対し、書くことで覚えることができる人は、繰り返し書けばいい。


一方で、既に覚えている字やすぐに覚えられた字を、それ以上繰り返し書く必要はない。

覚えて書けるなら、もう普通に日常的に使っていけばいいだけの話である。

つまり、ドリルやノートを埋めるということは単なる方法の一つであり、それ自体には意味も価値もないということである。


そしてそれぞれの学習の過程を経て、よく覚えた状態でテストをすれば、当然100点のはずである。

だから、100点自体も別に他者がほめるようなことではない。

本人が100点という結果がとれる状態になってテストを受けているなら、当たり前である。

もし100点でなかったのならば、自分に何が足りなかったのかを考えて、次に結果を出すための糧にすればいいだけの話である。


これは、大人が運転免許を取得する時のテストと同じである。

つまり、合格する前提で、それができると思われる状態になってから、テストを受ける。(失敗はもちろんあり得る。)

全てのワークテスト等にもいえることである。


それよりも大切なのは、「成長した」ということである。

その中に

「このようにしたら覚えられた」

「このようにやると上手くいかない」

という過程を学べたのなら、成長したということであり、その過程にも価値がある。

新たに覚えて知識を得たという結果も成長であり、価値がある。


最初から知っていた字を書いただけなら、それだけの話で、特に成長はないので、やった価値自体は特にない。

(わたしたちが「あいうえお」と書くだけのテストを受けて100点だったというのと同じである。)


要は、たくさん書いてノートを埋めたという過程が大切なわけでも、100点という結果が大切なわけでもない。

「過程主義」でも「結果主義」でもない。

子どもの成長が大切なのである。

言うなれば指導の基本スタンスは「成長主義」である。


挑戦して、うまくできなくてもいい。

挑戦したということ自体が一つの成長である。

しかし、うまくいかないままで、もうどうでもいいというのは違う。

過程を工夫し挑戦し続けて結果を出すのも、成長の一つである。


だから、テストの点や成績といった結果に対しても「どうでもいい」とはいわない。

一方で、どんなやり方だろうが結果が出ればいいという、機械的な丸暗記のような方法も、成長という観点から見ればマイナス面が無視できない。

過程にも結果にもそれ自体に価値は感じていないが、過程を工夫し結果を出すという成長に対しては重い価値を置く。


つまりは「それをやる意味があるか」「その方法が最適か」ということを自ら考え、選択し、工夫できる力こそが大切である。

それは成長につながることなのか、これを常に考え、自分でも考えられる子どもを育てたい。

2021年10月24日日曜日

子どもを「スマホ脳」にしない

GIGAスクール構想の推進について。


今回は次の本から。


『スマホ脳』アンデシュ・ハンセン/著  久山葉子/訳 新潮新書

https://www.shinchosha.co.jp/book/610882/


最新の研究を数多く集めて分析し、スマホが我々に与える影響についてわかりやすく解説してくれている。

PTA講演会でこれと関連した脳の話を聞いたが、やはり同じことを述べている。


結論から言えば、この本の主張するところは

「スクリーンタイムが長いほど脳の働きが悪くなる」

ということである。

もっと平たく言うと

「スマホをもつと頭が悪くなる」

ということである。


「スクリーンタイム」とはその名の通りスクリーンを見ている時間である。

テレビ、ゲーム、ネット動画、スマホ、タブレット、PC、その他全てがそれに当てはまる。


スマホのすごいところは、それが置いてあるだけで集中力も成績も落ちるという点であるという。

自分のではないものが「置いてあるだけ」でもである。

これは、スマホのもつ「通知」機能が関係しているようであるが、詳細は割愛する。


では、GIGAスクール構想はこれによって真っ向から否定されるものになるか。


無条件に子どもに与えれば、そうなる。

リアルに登校した時まで授業も全てタブレットを使うような世界になれば、悪影響は免れない。

全てがスクリーン上で行われる世界を想定すれば、脳がハッキングされるのもある意味当然である。

現に、我々の生活は既にスマホに十分にハッキングされている。


道具は、使い方次第である。

車だって非常に便利な道具だが、全てそれで移動となれば、害悪が数多生じる。

だからといって自転車が万能な訳でも一番速いジェット機が全て解決する訳でもない。

どれもあくまで使い方次第である。


今の時代、スマホほど便利なものはない。

だからこそ、意識しなければ、確実に使いすぎになる。


GIGAスクール構想のタブレット端末も同じである。

子どもに「魅力的なおもちゃ」と認識されれば、虜になって出てこられないこと必至である。


何の目的で渡すかである。

目的は子どもにも共通理解されるから意味がある。

目的を伝えずにあんな便利なものを渡せば、それがやがて害悪を垂れ流すことは目に見えている。


与え方である。

目的の理解や機能制限等も含め、どうやって子どもがそれに出会うのか。

どうやって使うものと認識するのか。


さらに、使い方。

スクリーンタイムを意識せずに画面を長時間凝視し続けるような使い方をするのか。

別に教科書や筆記用具がある状態で、あくまで補助的に見たり質問したりするような使い方をするのか。


端末や環境整備の不備ばかりが話題になるが、その先にも大きな問題が控えている。

GIGAスクール構想の推進を止めないためにも、その使い方については十分に議論が必要である。

2021年10月22日金曜日

自ら伸びる存在として見る

子どもと接する仕事でも、なるべく大人に接する時と同様にするというのを基本に考える。

子どもを相手にする時、基本的にあまり「子ども扱い」しすぎないということである。

どちらかというと、人間同士として見る、というのを基本にする。


例えば、しっかりとした店だと、子どもが相手でも大人に対するように丁寧な言葉できちんと対応してくれる。

それも、あくまで相手にわかる言葉で、である。


逆に、敢えて普段から丁寧な対応をしないという人もいる。

職人タイプというか、大人相手でも基本ぶっきらぼうで、子どもでも変わらない。

そういう店や人もあるが、これもこれでいいと思う。


要は、相手によって無用な差をつけないということである。

人としてフラットというか、相手へのサービスがフラットなのである。

(礼儀があるないという話とは全く別である。)


だから、子どもを相手にする時も「できない」前提で見ない。

やったことがないからできないだけ、という見方である。

代わりに「知らない」前提で見る。


知らないことで必要なことなら、教える。

そして「知らない」が「知った」になったら、そこから先は本人次第である。

それを使うか使わないか、やってみるかやってみないか。

全て本人が主体的に行うことである。


例えばパソコン端末の扱いについては、正直こちらも完全にはわからない。

だから、最低限のところだけ教えるし、安全面として制限をかける部分もある。

あとは、本人が使いながら覚えるしかない。


小学校の教員をしていると、この辺りについてお節介が過ぎてしまうことが多い。

ついつい、あれこれ手出し口出しをして、指示や無用な制限をしてしまう。


その方がなまじ上手くいくものだから、子どももそれを学ぶ。

そして、スピードや効率化を学ぶ。

やがて指示されるのを待つ、許可されないと自分から動かないという状態が起きる。

自分でやると失敗も多く、効率が悪く大人に歓迎されないということを学ぶ。


結局、相手を子ども扱いをすると、この悪循環にはまりやすい。

大人相手に子ども扱いをしても同様である。

新人だろうが異動者だろうが初心者だろうが、そういう扱いをしていると、主体的に動けなくなる。


大切なのは、教えたら、後は任せて見守る姿勢である。

失敗もするけど、その時は一緒に後処理を手伝うつもりで、任せて見守る。

一つできたら、一つ一緒に喜ぶ。

子どものトイレトレーニングの時の心構えと同じである。


この相手を子ども扱いする、お節介が過ぎる、というのが学校の抱えている病理の根本原因のように思われる。

何なら、場合によっては保護者に対しても子ども扱いかもしれない。

そこまでやらないといけない相手と決めつけて、勝手に過剰サービスしている可能性もある。


過剰サービスは、自分で考える力を失わせる。

成人して一人立ちして暮らした後でも、実家に帰るとつい親に家事を甘えてしまうという心理。

時に甘えることは大切だが、成長の機会を害するまでやり続けると、それは「甘やかし」になる。


学校の場合で考えれば、子どもの成長や保護につながるならば、それは誰相手だろうが、やってあげればいい。

逆に、子どもの成長を阻害するのであれば、それはやってあげない方がいい。


子ども扱いしない。

相手は、今は単に「未知」なだけであり、これから伸びる存在と考える。

自分でできることは、すぐにはうまくできないことでも、自分でやるようにしていく。


よく出す譬えだが、植物の成長と同じである。

伸びろと言って引っ張っても伸びないし、成長促進剤を注入するようなことをしても、健康には育たない。

自ら伸びる存在なのだから、しっかりと土の手入れや適切な環境を整えたら、後は成長を見守るだけである。

ただし人間と植物との決定的な違いは、成長したら自ら環境を選び、作り出せる点である。


命に関わる大きな危険にはさらさないようにした上で、小さな冒険に対してはチャレンジさせてみる。

子どもを子ども扱いしすぎることが、子どもの成長を阻害していると感じる次第である。

2021年10月19日火曜日

タブレット端末使用には大人が監督責任をもつ

 学校から貸与のタブレット端末におけるいじめ問題。

端末の持ち帰り率が高まってきた昨今の重要問題と認識し、改めて取り上げていく。


前々号の記事で、ちょうど次のように書いた。

やや長いが引用する。


==================

(引用開始)

まず子どもの手に委ねてみる。

ただし、自由は常に責任とセットであり、無条件で得られるものではない。


ICT機器を委ねる際、インターネットやSNSのような機能や個人情報関係が、恐らく大きな心配のもとである。

だとしたら、端末に教職員や保護者がいつでもログインできるようにしておけばいい。

例えばマイクロソフトの「Teams」であれば、子どもの端末以外に何台でも同じアカウントに同時ログインができる。

(保護者のスマホに入れておけば子どもの各アクションへの通知設定もできるし、いつでも見られる。)


それを共通理解した上で使用を自由にする。

使用の自由に対する責任が大きすぎるため、教職員や保護者が一部を担う必要がある。


ちなみに、ここでプライバシーは最優先されない。

最優先事項は、子どもの安全である。(当たり前すぎてわざわざ書くのも申し訳ない。)

GIGAスクール構想の個人用端末はあくまで学校の貸与する学習用具の一つであり、個人スマホと同義ではない。

友達との秘密のおしゃべりや連絡、あるいはゲーム機として使うためではないということ。

ここを子どもたちと「先に」共通理解することである。

(完全に渡した後では遅い。約束事や契約事は、いつでも先出し、先手必勝である。)


まとめると、必要なのは、自由にするための責任をもつ覚悟と、仕組みづくりである。

自由にした相手は、必ずどこかで失敗をやらかすのだから、それを予測して対処しておく。

その手間と責任を嫌がっていては始められない。

(引用終了)

=====================


再度確認するが、インターネットに接続できる端末というのは、かなり強力であると同時に、危険である。

貸与する側に、厳重な管理責任が必要になる。


例えるならば、家庭科室にある包丁である。

料理に使えば命を育む道具になる一方で、使い方を間違えれば命を奪う凶器である。

だから、慣れない子どもたちに対しては使用についての指導が必要である。

危険なものについては、使用中の監視が必要である。


学校においての最優先事項は常に「子どもの安全」である。

実際、学校の内外には監視カメラがいたるところに設置されているが、全て安全を最優先しているためである。

ここに反論は出ないはずである。


そして「安全」というのは、ただ大人が保護して守っていればいいという類の簡単なものではない。

子どもが自らの身を守れるような力をつけることが、本質的な安全教育である。


何でもそうだが、安全に上手にできるようになるためには、挑戦が必要であり、小さな失敗やケガもつきものである。

そこを恐れてやらせないでいれば、ずっと一人でできるようにならないか、ある時大けがをすることになる。

この「小さな危険を克服させないまま、いきなり大きな危険にさらさない」というのが安全教育の大原則である。


初めての自転車の練習に、いきなり車の多い通りを走らせる親はいない。

転んでも大けがをしない装備や準備をさせて、安全な場所で練習の様子を見守るはずである。

最初の頃は、乗ってみせたり、教えたり補助をしたりと、あれこれ手出しするかもしれない。

それらが完璧にできるようになって、道にも慣れて、やがて初めて大通りにも出られるようになる。


そして、しっかり乗れるようになったからといって、安全管理はずっと怠らない。

車体のブレーキ等の点検も必要だし、ヘルメットは必ず被らせる。

出かけるに際しても、どこまで行っていいとか、遠出する時は報告させるなど、必要な監督をするはずである。

「どこに行っても私の勝手」と子どもは言いたいかもしれないが、そこの個人の自由よりも安全が最優先だからである。


ICT機器を渡す時にも、その責任と監督義務が生じる。

貸与する学校の側も、当然様々な手をうつ責任がある。

そして、こと家庭に持ち込む段階になれば、家庭にも監督を依頼し、責任を一緒に負ってもらわねばならない。


そのための一つの例が「アカウントとパスワードの共有」である。

子どものプライバシーは、安全をさしおいてまで優先されない。

学校や親がいつでも見られるという状態を約束しておく。

学習用具であり、子どもの秘密の道具やおもちゃとして貸し出してはいないということを、再三確認しておく。


事前の発見さえできれば、大きな被害を未然に防げる可能性が高まる。

大人の目の届かない場で、子どもの勝手気ままに使わせてしまえば、今後も同様の事故が起き続ける可能性が高い。


インターネット端末の強力さを、学校、子ども、保護者の全員が重々に自覚する。

そして「安全第一」をモットーに、大人の側が監督責任をもつようにする。

大人が使うような手放しの「自由」の状態は、子どもが自分自身で全ての責任を取れるまで成長してからで十分である。

2021年10月17日日曜日

不備・不足から当たり前の感謝に気付く

 多くの場で緊急事態宣言が延長され、解除されたものの、引き続き警戒状態が続く。

禁止事項が多くなれば、世の中に閉塞感が出るのは止むを得ないことである。


こういう時こそ、楽しいことを考えるのが大切である。

単に楽観的になろうということではなく、何か今できることを探るということである。


例えば、学級で感染症対策をしながらでもできるレクはないか。

個々に端末があるからこそできることはないか。

そういった楽しいこと探しもある。


また一方で、当たり前のことへの発見がある。

制限がかかったからこそ、一つずつの当たり前だったことに価値を見出せることがある。

食糧不足の状況下でお腹が空いた時に、初めて食べられる有難さが感じられるようなことである。


いつもに比べて、明らかに不利で不便な状況である。

やれることが限られる。

だからこそ、やれることの価値が高まるという面もある。

何でも自由に手に入る時のものと、そうでない時の同じものは、価値が全く違う。


例えば、登校。

登校できることに感謝するとか価値を見出す機会というのは、なかなかない。


例えば、顔を合わせられて、話せること。

これも人が集まれるからこそである。

また登校しないでも顔を合わせられるなどは、オンライン環境が整っているからこそできることである。


子どもを前にして授業ができること。

こんな当たり前すぎることができるのも、子どもが登校してくれているからこそである。

また実際に登校できなくても、オンラインでも授業ができる環境があれば、それだけでも有難い恩恵である。


何も無理に特別なことをしなくてもいい。

不足や不便は、今までの当たり前を振り返り感謝する機会である。


今の状況は今しかないのだから、今できることを楽しみ、感謝して生きるようにしたい。

2021年10月15日金曜日

ICT活用指導力向上のために2 子どもに使わせてみる

前号の続き。

次がもっと重要で「使わせてみること」である。


子どもに使わせてみれば、やがて使いこなすようになるに決まっている。

新しいものに対しての順応性は、大人よりも子どもの方が圧倒的に強い。

これは古今東西を問わない普遍的な真理である。


しかし、ここで躊躇しがちである。

なぜか。

大人の側から見て、失敗が不安だからである。

責任が取れない(と思う)からである。


この姿勢は、自分が普段、仕事上でどう扱われているかがそのまま出る。

つまり、普段から自分が「危ないからだめ」「勝手なことをするな」「周りと歩調を合わせて」

などとばかり言われている場合、子どもにもそういう指導姿勢が基本になる。


なぜならば、次のようになるからである。


子どもに自由にやらせる

失敗、危ないこと、勝手な行動、周りと違う状態になる

上や周囲に注意や批判を受ける

禁止する

子どもや保護者からの不信感が募る


これが目に見えているからである。

当然、やらせられない。


逆に、上から

「まずは自由にやってみて欲しい」

「挑戦してみて欲しい」

と言われている場合や周囲にその空気がある場合、次のようになる。


子どもに自由にやらせる

失敗、危ないこと、勝手な行動、周りと違う状態になる

上や周りと共通理解&相談をして対策を練る

対処する

子どもがそれを念頭においてまた自由にやってみる


要するに、前提が違うだけで、悪循環が好循環になる。

途中で無闇な批判やストップが入らないことが予想されるので、安心して挑戦させられる。

(ただし、予想できる大きな危険に対しての十分な対策をとっておくことは必要である。)


要するに、自分たちが普段どれだけ「任せて」もらえているかにかかっている。

各々に裁量権が与えられない限り、人は生き生きと働くことはない。

「危ないことするなよ」「絶対ミスするなよ」「言われた通りやっていればいいんだ」

と言われてのびのび働けるわけがない。


これがそのまま子ども相手に適用される。

子どもたちに対し、どれだけ信頼して任せていけるか。

ここに全てがかかっている。


ここまで十分「やらかしてきた」ことを見てきた子どもたち相手だと「信用」はできないかもしれない。

しかし、信頼はできるはずである。

信じることは、ごく主体的な行為である。


むしろ「何かやらかすはず」「ミスがある」ということが制度設計に含まれている必要がある。

ミスさせないことや最初から上手くいくことを制度設計に入れていれば、いつになっても始められない。

今は「アップデート」の時代なのだから、β版であっても、まずリリース(=手放す)をすることである。


まず子どもの手に委ねてみる。

ただし、自由は常に責任とセットであり、無条件で得られるものではない。


ICT機器を委ねる際、インターネットやSNSのような機能や個人情報関係が、恐らく大きな心配のもとである。

だとしたら、端末に教職員や保護者がいつでもログインできるようにしておけばいい。

例えばマイクロソフトの「Teams」であれば、子どもの端末以外に何台でも同じアカウントに同時ログインができる。

(保護者のスマホに入れておけば子どもの各アクションへの通知設定もできるし、いつでも見られる。)


それを共通理解した上で使用を自由にする。

使用の自由に対する責任が大きすぎるため、教職員や保護者が一部を担う必要がある。


ちなみに、ここでプライバシーは最優先されない。

最優先事項は、子どもの安全である。(当たり前すぎてわざわざ書くのも申し訳ない。)

GIGAスクール構想の個人用端末はあくまで学校の貸与する学習用具の一つであり、個人スマホと同義ではない。

友達との秘密のおしゃべりや連絡、あるいはゲーム機として使うためではないということ。

ここを子どもたちと「先に」共通理解することである。

(完全に渡した後では遅い。約束事や契約事は、いつでも先出し、先手必勝である。)


まとめると、必要なのは、自由にするための責任をもつ覚悟と、仕組みづくりである。

自由にした相手は、必ずどこかで失敗をやらかすのだから、それを予測して対処しておく。

その手間と責任を嫌がっていては始められない。


その後は、子ども自身が使ってみる機会を多くもつことである。

やっていれば必ず見えるものがある。

子どもの方が、こちらの知らない意外な機能や活用方法を発見する。

そこから、教職員も教えてもらえる。

相手の方が順応性がはるかに上だという前提を忘れないことである。

(大人が亀のような速度で学んで自信をもって教えられるようになるのを、自ら学べる子どもたちに待たせる理由はない。)


今回は、学校のICT活用について、実際に使ってみての見解を述べた。

しかしながらこれは、あらゆる「変革」や「挑戦」に関する考察と同義である。


やってみなければ始まらない。

責任を取る覚悟がなければ始まらない。

ただし、危険を察知する知識や先見性がなければ、危なくて始められない。


万全の準備をした上で、不安を抱えたまま進んでみる。

わくわくすることは、必ず未知の不安がセットである。


今後も学校にできることの可能性を探求していきたい。

2021年10月13日水曜日

ICT活用指導力の向上のために1 まず教師が使う

ICTを活用できる教員の育成が全国で急務の課題となっている。

文科省も「ICT活用指導力等の向上」として求めている。


使えるプラットフォームが一つではなく、ソフトも日々どんどん新しいものが開発されている。

ただでさえ「遅い」と言われる学校現場において、このスピード感に追いつくにはどうすればいいのか。


試行錯誤している中で一つ見えたことがある。

ごく単純で「使ってみること」と「使わせてみること」である。

これに尽きる。


「使ってみること」については、子どもに使う前に大人同士で使ってみる方がいい。

職員会議や校内研修をそのプラットフォームを使ってオンラインでやってみたり、自主研修で使ってみたりする。

地区によっては、各校の代表が集まる「○○主任会議」のようなものをオンラインでやっているところもあるという。


ちなみにこれは学習会の仲間から教えてもらった。

感染症対策にはもちろん、会場への移動時間も0な上に、普通に集まって話し合う場合の半分以下の時間で終わるという。

多くの人に健康と時間的利益をもたらし、さらに交通費と人件費という税金の無駄遣いも防げる、素晴らしい取り組みだと思う。


まず先に大人の社会でこのICT活用を普通にしていくことが先行である。

操作に自信がつくし、とっさの時の対応力が変わる。

(そして、今まで当たり前に存在していたあらゆる無駄に気付ける。)


子どもに提供していく予定のソフトについても、当たり前だがまず自分たちが体験してみることである。

どういう力がつきそうか、あるいはどこで躓きそうかがわかる。

やっていく中で、プラス面だけでなくマイナス面も含め、たくさんの発見がある。

2021年10月10日日曜日

オンライン授業を進めての雑感

感染症対策として、8月末から1か月間、完全オンラインのみで進めていった。

全国には、ほぼ全くオンラインでやったことのない学校(またはやれない学校)もあるときく。

そこで、せっかく先行実践としてやらせてもらっている中でわかってきたことを、メモもかねてシェアしてみる。

ちなみに基本は「同期型(ライブ双方向型)」の授業である。


1 「聞く」について

実際の教室だと「話を聞く」ということの大切さをまず指導する。

必要なことを伝達できないからである。

話を聞きたいと思っている子どもが聞けないからである。


オンライン上では、この指導が基本的に必要とされない。

スイッチ一つで音声のオンオフができてしまうからである。

教える側による一括操作もできる。

誰か一人が喋っている間、基本的に他の音は入らない。

本質的ではないが、いわゆる騒乱状態というのは起きないと思われる。


これは一方で、かなり個人裁量に任されるということでもある。

仮に本人が「聞いていない」という状態でも放置になる。

何をしていても周囲に迷惑をかけていないので、問題にならないという面もある。


総じて「一方的に喋って進める」という一斉講義型指導に関してはやりやすい形になる。

だからこそ、一方的にならないような配慮が通常以上に必要とされる。


2 「話す」について

35人のような多人数の場合、マイクを常時オンにしておくとお、誰かしらの生活音を拾ってしまう。

そこでマイクのオンとオフという操作が基本的に必要になる。

よって実際に教室にいる場合と、会話のテンポは全く変わる。

「冗談を言って反応を見る」というような通常ではありふれたことが結構難しい。


いっぺんに複数が喋るということがない(できない)ので、「挙手機能」が役立つ。


これは逆に言うと、実際の教室と同じで、挙手→指名制のみに陥りやすい。

こちら側が意図的に指名していかないと、一部の子どもの発言のみで進んでしまいがちになる。


一斉に話せない分、チャット機能は有用である。

個々の意見を全員に一斉共有できる。

ここをどう使うかが結構大切であると感じる。


3 交流について

隣の人と気軽にちょっとおしゃべりや相談、というのにひと手間かかる。

一つしゃべると全員に丸聞こえになるためである。


「ブレイクアウトルーム」のように各部屋を割り振って、その中に移動してから各々が話すという形になる。


一度各部屋に入ったら、今度は全員を呼び戻す必要が出る。

発問1つ、あるいは1テーマを与えたら、しばらく時間をとる必要が出る。


また、各部屋の中の様子がわからないため、一つずつ回ることになる。

班を回る感覚に似てはいるが、移動の時間がやたらかかるのと「見に来てます的存在感」の大きさが違う。


「密室」に近くなり、何があるのか把握しづらい。

逆に言えば、外からの目を気にせずにお互いが話しやすいとも言える。


これもやはり、使い方次第である。


4 画面と視力について

オンライン授業は、とにかく目が疲れるというのがネックである。

子どもの視力低下をはじめ画面の見すぎによる弊害が問題に上げられており、対策が必要である。

なるべく画面から目を離す機会を多く設ける必要が出る。


完全デジタル教科書になると、ここが一つ心配のポイントになる。

紙の教科書やテキストが別に手元にあるなら、画面から目を離してそちらを見て作業することができる。

デジタル教科書で更にそこに書きこむ形だと、画面を見続けることになる。

紙の教科書に軍配があがるとしたら、この点である。


また教科書が映っている端末と授業で繋がっている端末が一緒だと、画面の切り替え等で不都合が起きそうである。

ただし、このデジタル教科書については実際やっていないので、調べればよい解決方法がありそうである。


総じて、画面操作も含めて教える側の主導権が強くなりがちである。

特にスライドを使って進める場合は、意識しないと伝達型の講義になりやすい。

いかに学び手自身の作業に返せるかというのが、画面から目を離すためのポイントになりそうである。


5 同期型とオンデマンド型について

両者にメリットとデメリットがある。


同期型の良さの一つは、確実にその時その場でやれることである。

開始時刻も時間も決まっているので、そこで学ばざるを得なくなる。

「他律的自律」である。

登校しないで済むところを除けば、通常の学校と同じである。


一方でオンデマンド型や課題は、自分でやる時刻、取り組む時間を決められる。

求められるのは、自律の力である。

毎月送られてくる通信教材をきちんと計画的に進められる子どもには、この形でも割と問題ない。

しかし、それが難しいという子どもの場合、日毎に課題が積み重なるという地獄が待っている。

(自分の夏休みの宿題への取り組み方がどうだったか、通信教材をできる人かどうかを考えれば、大体わかる。)


両方に、メリットとデメリットがあり、バランスが大切である。

オンラインのみであれば、やはり同期型が多くないと小学生にはきついと感じる。

昨年度の春、休校中に全国で出された大量のプリント学習が批判された。

オンデマンド型や課題中心だと、あれと同じことが起きることは必至である。


やってみての実感だが、「ハイブリッド型」といわれるものが一番難しい。

(目の前に子どもがいて授業をしつつ、画面の奥にも子どもたちがいる状態。)

リアルと画面、どちらに焦点を合わせるかで、全く授業が異なるためである。


現実的なのは、リアルに焦点を合わせて授業をし、カメラの側には基本「視聴」してもらう形である。

勤務校では、感染症対策で登校を控えた子どもがこれで授業に参加したり、保護者会をこれでやったりしたこともある。


まだまだ試行錯誤だが、オンラインは個々の交流には便利な面がかなり多い。

今後、感染症対策とは全く別に、通常時に使うにあたっても色々な可能性がありそうである。

まずは今、やれることをやっていきたい。

2021年10月8日金曜日

礼儀の本質は「人の心をあったかくする」

前々号で紹介した本からの言葉。再掲する。


『一人ひとりを見つめる子ども研究法の開発』

福山憲市 著  明治図書(1997)

https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-245416-2


この本の144ページに、次の言葉がある。


「礼儀って、人の心をあったかくするね」


保護者が「悪がき三人組と思っていたけど、見方をかえなくっちゃ。」

と「共育カード」というお便りに書いてきたものを受けてからの、福山先生の言葉である。


自分の子どもの仲良しのお友達が家に遊びに来て、(意外にも)礼儀正しく帰っていった。

そこに保護者は感動したのである。


よく

「社会に出たら、礼儀がないと通用しない」

と言って教えることがあるのではないかと思う。

あいさつについても、そう教えるかもしれない。


しかし、本質は違うのではないか。


人の心をあったかくする。

それが礼儀。


この方がずっと素敵である。


あいさつ一つだって、

「やらないといけない」

と思ってするのと

「人の心があったかくなる」

と思ってするのでは全然違う。


福山先生の師である有田和正先生の実践に、プリントを渡す際に

「どうぞ」「ありがとう」

と互いに一言声をかけようというものがある。

(私も毎年必ず実践させてもらっている。)


これも、本質は

「心があったかくなる」

である。


礼儀は大切である。

学級運営が安定している教室の共通点として、礼儀の指導に力を入れていることが多いと聞いたことがある。

「~しなさい」よりも「~するといいよ」と生活を通して自然に教えてあげられたら、なおいい。


礼儀は、人の心をあったかくする。


「何のために」という目的によって、同じ内容を教えるにしても、全く意味も効果も異なってくる。

名人教師の指導の本質、そして人としての在り方をこの一文に見た思いである。

2021年10月6日水曜日

学校のオンラインでの学びをどう進めるか

学校のオンライン化からの気付き。


全国各地で、感染症対策としてICTをフル活用している学校が出てきた。

時代の情勢に止む無く後押しされる形ではあるが、これ自体は再三望まれてきたことである。


この時代の影響で、日本の学校でもついに子ども一人一台PCが実現し、同時に様々なICT機器やソフトが導入されている。

とにかく時代遅れと言われてきた日本の学校にとって、望ましい前進である。


しかしながら現実は、教える側がそれらを使いこなす自信がないというのが、正直なところではないだろうか。


ある意味これは、当たり前である。

これまで、実際に使っていないからである。

普段使っているスマホ内のアプリですら、全て使いこなせる人はいない。

全く使ったことがないけれど、使っている内に、使えるようになるというのが普通である。


新しいことやコンピューター関係。

大人と子ども、順応が早く使いこなすようになるのは、どちらか。

言わずもがな、子どもの方である。


教員側は、とにかくできる範囲でやること。

そして子どもには必要な程度の制限はしつつ、まずは与えてやらせてみることである。

これ以外に両者の習得方法はない。

子どもが完璧なブラインドタッチを覚えてから初めて文章を打つのでは遅すぎる。

アルファベットが多少あいまいでも、やりながら使って覚えるのである。

これは教員の側にも言えて、完璧に使いこなせるのを待っていては一生使えないままである。


ICTの活用やオンライン授業などにもこれはいえる。

ICTマニアのような人たちがやるようなソフトを、全ての教員が使いこなせるようになるのを待つ必要はない。

そんなことを待っていたら、そのソフト自体が時代遅れの陳腐化してしまう。


それよりも、まず使うことである。

やれる範囲でやってみて、間違えながらもやってみて覚えることである。

あるいは、色々試してみて使いやすい方法を模索することである。


元々が説明してきかせる、わからせるという想定の人なら、予めスライドをたくさん用意する授業がやりやすい。

これはセミナー型の授業になる。

知識の伝達には効果的である。


一方で、カメラの前でパフォーマンスが得意な人なら、難しいソフトを使うよりも動画を撮って動いた方が伝わる。

ユーチューバー型である。

動画に慣れている今の世代にはわかりやすい反面、やはり一方通行感は否めない。


その場で子どもとやりとりをするのを望むならば、事前に撮影するよりもライブ型の方がそれを実現できる。

その場でのリアルな対応は苦手でも、ICTに堪能なら様々なソフトを使った方がパフォーマンスとしても見せることができる。


つまり、ねらいにそって得意な手法を生かせるICT機器を活用していけばいい。

普段の授業と同じことであるが、むしろオンラインの方が選択肢の幅は広がる。

ICT大得意、という人の方が圧倒的に少ないのだから、大多数はとりあえず使えるもので勝負するのが妥当である。


一方で、子どもにはどんどん色々と使わせてみる。

明らかに大きなトラブルが起きそうなところだけは確実に制限をかけておく。

(チャット機能制限やフィルタリングなどはこれにあたる。)


環境さえ整えば、あとは勝手に進む。

個別最適化は、ICTの最も得意分野である。


できるかできないか。

上手くいくかいかないか。

余計なことを考える暇があったらやってみる。


ICT活用が進まないとしたら、何よりも教員の側が積極的に使おうとしていないことが原因かもしれない。

2021年10月4日月曜日

一人ひとりを見つめることができるか

 次の本からの学び。


『一人ひとりを見つめる子ども研究法の開発』

福山憲市 著  明治図書(1997)

https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-245416-2


大分古い本であるが、「名著復刻」シリーズに出ているだけあり、今なお輝く名著である。


タイトルに「一人ひとりを見つめる」とある。

一人ひとりを見つめられているか。

これが今号の問いかけである。


私は教育実習生の頃、実習記録簿に

「クラスの一人ひとりを見るのが難しい」

と書いたら、実習担当の先生が、この難しさや深さについて丁寧に返事をしてくれた。


一人ひとりを見るというのは、概念的にとらえているものと具体では、レベルが全く違う。

この本では現TOSS代表の向山洋一氏のかつて著書の中にある、

『授業中の「子どものかすかな指の動き」を捉えられる目に驚嘆した』という事実からスタートしている。

また、体育館で100人以上いる中の子どもの中に、少し深く息を吸った一人の違和感を捉えるという事実を示している。


文字通り、本当に、一人ひとりを見ているのである。

そのための修行の過程が書かれている。

毎日、放課後の教室を眺め、一人ひとりの机を順番に見て、何があったか頭の中で再起する。

これを1日も欠かさず続けるという修行である。

うまくいかないから、録音して再生するとかメモして再生するとか試行錯誤するのだが、まさに「修行」である。


本当に、ざっくりとしか見えていない。

普通に過ごしていると、これを自覚できない。


子どものかすかな変化を見えなくするのが「出来て当たり前」発想だという。


これが、保育園の先生との差で書かれている。

「おしっこ」を自分で言えたというような、ごくささいな感動を毎日書面で伝えてくれる保育園の先生。

ここに、小学校に勤めている自分との圧倒的な差を感じたという。

「出来て当たり前」の目だと、これが見えない。

子どもの、感動的な「ささいな成長」を見逃すのである。


何より、自分自身に「出来て当たり前」と勘違いしていることこそが、出来ていないことかもしれない。


今(私も含め)世に「こうすればうまくいく」という類の教育書が溢れているが、この本で紹介されている実践は「格」が全く違う。

実践としてやっている本気度と努力のレベルが違う。

他人の実践の単なる真似ではなく、「一人ひとりを見つめる」ための本気の真似、追求である。


どちらかというと、今余裕がない人ではなく、少しばかり自分ができるような気がしてきたというある程度の経験を積んできた人に、刺激的なおすすめの一冊である。

2021年10月2日土曜日

「誰誰が悪い」は思考停止スイッチ

ここでは結構些細なこと、どうでもいいようなことを真剣に取り上げてきている。


例えば前回取り上げた、昭和から変わらない宿題のことなど、本当に小さなことである。

小さなことだから、まあ仕方ないと思って、みんな我慢してやる。

わざわざ目くじら立てるほどのことではないからである。


こういうことが学校の日常に溢れている。

子どももそうだが、大人もそうである。


選択肢と意思決定の場面がないのである。

色々なことが「やる」「そういうもの」と決まっている。

そこで、「変えたい」「違う選択をしたい」と申し出るとする。


「今年は決まってるから無理」

「周りもそうしてるから無理」

「上の許可がないから無理」

「前例がないから無理」


これが毎年続く。

自分には選択する力も権利もないと、長く勤めるほど、骨の髄まで思い知らされていく。


これを日常的に繰り返しているとどうなるか。

くだらなくないようなこと、重要なことでも、言われるがままに従うようになってしまう。

変えられることでも、変えようとしなくなってしまう。

理不尽な要求も黙ってのむようになる。

使う側にとって最も都合のいい労働者の出来上がりである。


イエスセット話法という心理学ベースのセールス手法がある。


簡単に「イエス」と答えられるような質問を先に何度も繰り返す。

すると重要な決定、本題であるセールスにもイエスと答えやすくなるというものである。

超単純化するとそういう手法である。

これが、意外にも効果てきめんなのである。


「一貫性の原理」という心理法則も働く。

それまでイエスを繰り返してきたことに対しては、イエスと言わざるを得なくなるというものである。

「動物が好き」という返答を繰り返した後だと「動物愛護の募金」でお金を出す確率が跳ね上がるというものである。


つまり、日常的にごく小さな「たたかい」に連敗していると、負け癖がつく。

言いなりになりやすくなり、逆らえなくなる。

もっと言うと、言いなりになっていることにすら気付かなくなる。

そして言いなりなのだから、何か悪いことがあれば、自分ではない上の人の責任である。


これが、教育において起き続ける。

そしてその教育を受けた子どもたちが今の大人になっている。


カエルがぬるま湯に入っている。

下で火を焚いて、だんだんと温度を上げ、いつの間にか熱湯にしていく。

最初から熱ければすぐに出て逃げるのに、この場合だと熱いと気付く前に茹で上がって死んでしまうというあれである。

感性と感覚が慣れて鈍ることの恐ろしさである。


普段から自分を小さな理不尽に従わせていると、子どももそうなる。


「もっと自分から動いて」

「どうして意見を言わないの」

「黙ってないで何か言いましょう」

「言いたいことを言っていいんだよ」

「自分たちで考えて決めて実行してみよう」


この言葉を見て、誰向けの言葉と感じるか。

全ては、大人に向けてである。

学校でも社会でも政治についてでも何でもいい。

これらは、全て大人社会の問題である。


子どもに向けてこれを言うとしたら、先に自分たちがそういう生き方をしている必要がある。

これらは、日常の全てで行うことであり、特定の何かの時にだけそれを求めても無理である。


普段から、小さな選択を繰り返し経験することである。

「自分で変えられる」

「自分で決められる」

そして「自分で責任をとる」

という経験をいかに私たちが積めるかである。


自分が今、理不尽だと思って従っていることはないか。

例えば今は感染症対策やGIGAスクール構想などで、教育現場は大混乱中である。


そういう中で

「仕方ない」

と呟いていないか。

「○○ができないのは上や自治体がそうしないから」

と言っているとしたら、先の状態に飼いならされている。

「○○大臣が悪い」とさえ言えば、全ての問題が自分の手を離れる。

他人のせいにするのは、思考停止スイッチである。


よく考え直すと、自分にできることがあるはずである。

自分の立場でしかわからないこともあるはずである。

みんなが不満に思っていることなら、声を集めれば変わることがある。

それこそが民主主義の本質である。


混乱の中にこそ、変革のチャンスはある。

今の「せざるを得ない」状況をチャンスに変えていきたい。

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