次の本からの学び。
『一人ひとりを見つめる子ども研究法の開発』
福山憲市 著 明治図書(1997)
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-245416-2
大分古い本であるが、「名著復刻」シリーズに出ているだけあり、今なお輝く名著である。
タイトルに「一人ひとりを見つめる」とある。
一人ひとりを見つめられているか。
これが今号の問いかけである。
私は教育実習生の頃、実習記録簿に
「クラスの一人ひとりを見るのが難しい」
と書いたら、実習担当の先生が、この難しさや深さについて丁寧に返事をしてくれた。
一人ひとりを見るというのは、概念的にとらえているものと具体では、レベルが全く違う。
この本では現TOSS代表の向山洋一氏のかつて著書の中にある、
『授業中の「子どものかすかな指の動き」を捉えられる目に驚嘆した』という事実からスタートしている。
また、体育館で100人以上いる中の子どもの中に、少し深く息を吸った一人の違和感を捉えるという事実を示している。
文字通り、本当に、一人ひとりを見ているのである。
そのための修行の過程が書かれている。
毎日、放課後の教室を眺め、一人ひとりの机を順番に見て、何があったか頭の中で再起する。
これを1日も欠かさず続けるという修行である。
うまくいかないから、録音して再生するとかメモして再生するとか試行錯誤するのだが、まさに「修行」である。
本当に、ざっくりとしか見えていない。
普通に過ごしていると、これを自覚できない。
子どものかすかな変化を見えなくするのが「出来て当たり前」発想だという。
これが、保育園の先生との差で書かれている。
「おしっこ」を自分で言えたというような、ごくささいな感動を毎日書面で伝えてくれる保育園の先生。
ここに、小学校に勤めている自分との圧倒的な差を感じたという。
「出来て当たり前」の目だと、これが見えない。
子どもの、感動的な「ささいな成長」を見逃すのである。
何より、自分自身に「出来て当たり前」と勘違いしていることこそが、出来ていないことかもしれない。
今(私も含め)世に「こうすればうまくいく」という類の教育書が溢れているが、この本で紹介されている実践は「格」が全く違う。
実践としてやっている本気度と努力のレベルが違う。
他人の実践の単なる真似ではなく、「一人ひとりを見つめる」ための本気の真似、追求である。
どちらかというと、今余裕がない人ではなく、少しばかり自分ができるような気がしてきたというある程度の経験を積んできた人に、刺激的なおすすめの一冊である。
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