前号の続き。
次がもっと重要で「使わせてみること」である。
子どもに使わせてみれば、やがて使いこなすようになるに決まっている。
新しいものに対しての順応性は、大人よりも子どもの方が圧倒的に強い。
これは古今東西を問わない普遍的な真理である。
しかし、ここで躊躇しがちである。
なぜか。
大人の側から見て、失敗が不安だからである。
責任が取れない(と思う)からである。
この姿勢は、自分が普段、仕事上でどう扱われているかがそのまま出る。
つまり、普段から自分が「危ないからだめ」「勝手なことをするな」「周りと歩調を合わせて」
などとばかり言われている場合、子どもにもそういう指導姿勢が基本になる。
なぜならば、次のようになるからである。
子どもに自由にやらせる
↓
失敗、危ないこと、勝手な行動、周りと違う状態になる
↓
上や周囲に注意や批判を受ける
↓
禁止する
↓
子どもや保護者からの不信感が募る
これが目に見えているからである。
当然、やらせられない。
逆に、上から
「まずは自由にやってみて欲しい」
「挑戦してみて欲しい」
と言われている場合や周囲にその空気がある場合、次のようになる。
子どもに自由にやらせる
↓
失敗、危ないこと、勝手な行動、周りと違う状態になる
↓
上や周りと共通理解&相談をして対策を練る
↓
対処する
↓
子どもがそれを念頭においてまた自由にやってみる
要するに、前提が違うだけで、悪循環が好循環になる。
途中で無闇な批判やストップが入らないことが予想されるので、安心して挑戦させられる。
(ただし、予想できる大きな危険に対しての十分な対策をとっておくことは必要である。)
要するに、自分たちが普段どれだけ「任せて」もらえているかにかかっている。
各々に裁量権が与えられない限り、人は生き生きと働くことはない。
「危ないことするなよ」「絶対ミスするなよ」「言われた通りやっていればいいんだ」
と言われてのびのび働けるわけがない。
これがそのまま子ども相手に適用される。
子どもたちに対し、どれだけ信頼して任せていけるか。
ここに全てがかかっている。
ここまで十分「やらかしてきた」ことを見てきた子どもたち相手だと「信用」はできないかもしれない。
しかし、信頼はできるはずである。
信じることは、ごく主体的な行為である。
むしろ「何かやらかすはず」「ミスがある」ということが制度設計に含まれている必要がある。
ミスさせないことや最初から上手くいくことを制度設計に入れていれば、いつになっても始められない。
今は「アップデート」の時代なのだから、β版であっても、まずリリース(=手放す)をすることである。
まず子どもの手に委ねてみる。
ただし、自由は常に責任とセットであり、無条件で得られるものではない。
ICT機器を委ねる際、インターネットやSNSのような機能や個人情報関係が、恐らく大きな心配のもとである。
だとしたら、端末に教職員や保護者がいつでもログインできるようにしておけばいい。
例えばマイクロソフトの「Teams」であれば、子どもの端末以外に何台でも同じアカウントに同時ログインができる。
(保護者のスマホに入れておけば子どもの各アクションへの通知設定もできるし、いつでも見られる。)
それを共通理解した上で使用を自由にする。
使用の自由に対する責任が大きすぎるため、教職員や保護者が一部を担う必要がある。
ちなみに、ここでプライバシーは最優先されない。
最優先事項は、子どもの安全である。(当たり前すぎてわざわざ書くのも申し訳ない。)
GIGAスクール構想の個人用端末はあくまで学校の貸与する学習用具の一つであり、個人スマホと同義ではない。
友達との秘密のおしゃべりや連絡、あるいはゲーム機として使うためではないということ。
ここを子どもたちと「先に」共通理解することである。
(完全に渡した後では遅い。約束事や契約事は、いつでも先出し、先手必勝である。)
まとめると、必要なのは、自由にするための責任をもつ覚悟と、仕組みづくりである。
自由にした相手は、必ずどこかで失敗をやらかすのだから、それを予測して対処しておく。
その手間と責任を嫌がっていては始められない。
その後は、子ども自身が使ってみる機会を多くもつことである。
やっていれば必ず見えるものがある。
子どもの方が、こちらの知らない意外な機能や活用方法を発見する。
そこから、教職員も教えてもらえる。
相手の方が順応性がはるかに上だという前提を忘れないことである。
(大人が亀のような速度で学んで自信をもって教えられるようになるのを、自ら学べる子どもたちに待たせる理由はない。)
今回は、学校のICT活用について、実際に使ってみての見解を述べた。
しかしながらこれは、あらゆる「変革」や「挑戦」に関する考察と同義である。
やってみなければ始まらない。
責任を取る覚悟がなければ始まらない。
ただし、危険を察知する知識や先見性がなければ、危なくて始められない。
万全の準備をした上で、不安を抱えたまま進んでみる。
わくわくすることは、必ず未知の不安がセットである。
今後も学校にできることの可能性を探求していきたい。
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