2012年7月30日月曜日

得意だと思い込ませる

各教科において、興味・関心が引き出せれば、授業は成功したも同然である。
興味・関心を持たせることが、子どもの将来をも左右することがある。

ある子どもは、自分で「算数が得意」と思っている。
この、「思っている」というのがポイントである。
例えば同じ能力の子どもであっても、転校することで得意・不得意の感じ方が変わる。
前の学校ではクラスで下の方だったのが、上の方になることもある。逆もある。

つまり、本当に「得意」かどうかは関係ないのである。
「得意」と思い込ませれば勝ちなのである。
その上で壁に当たれば、また努力すればよい。
得意分野で進んでいけば、必ずハイレベルの集団に入ることになる。
そうすると、自分もまだまだだと必ず気付く。

何はともあれ、得意だ、好きだ、楽しいと思い込ませること。
具体的にはどうしていくか、次号から各教科を通して考えていく。

2012年7月28日土曜日

モデルを示す

どの子どもも素晴らしい作品を作る、というような学級がある。
指導方法そのものもあるが、別の要素もある。

すなわち、その学級の子ども達の頭の中には、共通のモデルが存在する。
物事を成功させるためのイメージ化の大切さは、ビジネス書などでよく言われてることである。
完成図が頭で描ければ、半分成功したも同然、ということである。

私がお世話になっている先生の話である。
ある小学校の先生方は、夜を徹して運動会の色ごとのキャラクターづくりのようなものをする。
はっきり言って無駄のような気がするが、それが後で違うと分かったという。
良いモデル(教師の力作)を見て育った子ども達は、自分達で何か作る時にも、良い物を作る。
作品のレベルが上がるのである。

図工の先生は「自分で作ってから教えるのが最低限」だと言う。
それは指導法に気付くばかりでなく、教師の作品を見てイメージ化できるという効果もある。
(元々高い発想力レベルの子どもにとっては、イメージが固定化されてしまうという欠点もある。)

指導は「指し導く」ことである故、モデルを示すことは大切である。

2012年7月27日金曜日

段階を見極める

子どもの自主性を育てたい。
しかしながら、言うことをきかないのも困る。

段階としては、まず教師の指示をきき、忠実に実行できること。
(やるべきことを、言われてやる)

次に、やるべきことに自分で気付いて実行できること。
(やるべきことを、言われる前にやる)

最後が、自分でやることを作り、自主的に実行できること。
(自分でやることを作り、自主的にやる)

掃除を考えるとわかりやすい。
見ていればやる、見ていなくてもやる、自分で探してやる、という感じである。

子どもがどの段階なのか、見極めることが大切である。
教える段階か、支援の段階か、任せて見守る段階か。

ここの見極めを間違えると、教師にも子どもにもストレスになる。

2012年7月26日木曜日

道徳授業は教師の実感を

最近、「更新が不定期」とご不満をもたれている方がいるかもしれない。夏休みであるし、可能な限り日々更新を心がけるのでお許しいただきたい。


道徳の授業。
副読本を読んで終わり、ビデオやDVD映像を観て終わり、というパターン。
これでは実感も何もない。
(いや、やってるだけマシかもしれないが。)

それでは、と思い、様々な先人の優れた実践を探す。
しかしながら、他人の授業実践を見て、それを真似てみるだけでは、
やはり実感は伴わない。
授業としては成立し、子どももその場ではいいことを言ったり書いたりするのだが、
だから何が残る訳でもない。

道徳の指導案を作って模擬授業した際、野口氏に
「教師の実感が感じられない。
教師の願い、怒り、切実感、そういった感情が感じられない。
技術の底に何が流れているのか。
授業が、上の方をさらさらと流れている。」
とずばり指摘された。

全くその通りである。
今回は「規範意識」というテーマだけを与えられ、その指導案を作った。
テーマに気を取られすぎて、目の前の子どもに伝えたい内容になっていなかった。
(そう考えると、道徳で年間指導計画通り、というのは、なかなか難しい。
算数などと違い、その時々で伝えたいテーマが大きく変わってくる。)

「本音、実感、我がハート」
これがなければ、道徳の授業は上滑りしてしまうことがよくわかった。
本気で実践あるのみ、である。

2012年7月25日水曜日

怒られない不幸な子ども

先日の勉強会で学んだことの続きを。

こんな話もあった。
超ベテランの、授業のプロの先生の話である。
「一年生の教室に代わりに入った。
教室は騒乱状態。
どうやっても、話をきくどころではない。
どうしたか。
思いっきり怒った。
一人ずつ、目の前に言って、一人ずつ怒った。
これは最善とは思えない。
しかし、その後はしっかりと集中して授業できた。
授業後、子ども達が、今日はすごくがんばれたとニコニコしながら言いに来た。」

この先生は、「子ども達が不幸だ」とおっしゃっていた。
めちゃめちゃ暴れても、注意されてこなかったのである。
悪いことをしても、怒られなかったのである。
良い悪いが、判別できないのである。

教諭なのだから、「教え諭す」方がいいにきまっている。
しかし、諭すどころではないという状態も、実際にはある。
教育では、怒らない方がいい。
一面にこれは正しい。
しかし、怒らないではいられない場面も、時にある。

最善を尽くしたいが、無理なら次善をとる。
この場合の最悪は、「一年生だし、しょうがないなぁ」と許してしまうことだろう。
今自分がよくても、次の人が困る。
そして、最終的には子どもが困る。
必要な場面で怒られないで育った子どもは、不幸である。

2012年7月21日土曜日

次善の手をとる

またまた人様のネタで申し訳ないが、紹介したい。

「ほとんどの人は、最善を考えるが、次善を考えない」
というような話をきいた。

なるほど、である。
例えば、授業が全て「支援」だけで進む授業を「最善」とする。
子どもが主体的に動き、教師はそれをそっとサポートするだけ。
子どもは自主的にいきいきと活動している。

理想的である。
しかし、現実はそうはいかない。

ならば、次善の策は「きちんと指導」である。
教師が考え方を教える。
正しい、正しくないをはっきりさせる。
間違っていたら正す。
引っ張っていく。

最悪は「放任」である。
子どもは好き勝手活動している。
授業における向上はない。
いわゆる「活動あって学びなし」の状態である。

最善を求めるのはいいが、最悪になっていないか。
ならば、次善の策をとった方がはるかに良いのではないか。

基準を下げる、というのとは少し違う。
基準を目的に合わせる、という感じである。
実態を見て、どこまで求めるか見極めたい。

2012年7月19日木曜日

責任もチームでとる

例えば、学年で何かしらの問題が起きたとする。
その問題の所在自体は、自分の学級ではないとする。
この時、問題を共有化できるかどうかが大切である。
つまり、自分を全体の一部と考えることである。
全部に首をつっこむ必要はないが、責任を一緒に負うということである。

一番いけないのは、責任のなすりつけあいである。
その担任が悪い、前の学年の担任が悪い、私はやってない。
チームの一員になった時点で、自分にも責任がある。
チームの問題に対して、何かしら働きかけるチャンスがあったはずだ。

健全なチームであれば、全員で責任を負って対処する。
外部に対しては、「うちのチームが問題を起こして」という対応である。
特定の誰かではない。
チーム内のメンバーを突き出すようではいけない。
(特に、本人が気にしている場合は尚更である。)
それがもっとも情けない対応となる。

そう考えると、最高のリーダーは、責任をとってくれる人物である。
最低なのは、責任をとらず、下になすりつける人。
そういう校長のもとでは、学校は間違いなく荒れるだろう。
リーダーの立場にある人間は、メンバーの責任を前面に負う。
これは、教室のリーダーである教師全員にも言えることである。

2012年7月17日火曜日

チームで一貫した指導をする

生徒指導がうまくいっている学校はどんな学校か。

「怖い教師がいる」「厳しい教師がいる」では、×である。
この場合、その教師の前でだけは、ルールを守るようになる。
理由も「叱られるから」。
これでは、生徒指導の意味がない。

やはり、うまくいくのは、全ての教師が一貫した指導をする学校だと思う。
チーム力の高い学校といってもいい。
どの教師であっても、ダメなことはダメと言われる。
A先生なら叱られるが、B先生なら優しく許してくれる、というようなのは最悪である。
子どもの判断基準が「正しいかどうか」ではなく、「誰に見られているか」になる。
全ての教師が同じようにダメなことはダメと言えば、それはダメなんだなと子どもも分かる。

職員室から教室へ移動する時は、全校児童への教育のチャンスである。
ただし、先にチームでの共通理解が得られていることが前提である。

2012年7月15日日曜日

勝ちにいかねば価値がない

運動会や陸上など、学校行事には勝負事が多い。

勝つことにこだわりすぎて、過剰な指導になることは大きな問題である。
しかしながら、最初から「勝てなくてもいい」という考え方には疑問もある。
勝ちにいくからこそ、頑張る気持ちも育つ。
勝ちにいくからこそ、工夫も努力もする。
勝ちにいくからこそ、勝った時の嬉しさも負けた時の悔しさもある。

最初から負けるつもりでは、何事も工夫が生まれない。
理由をつけて諦めていては、改善・工夫ができない。
学校での指導全般に言えることである。

「勝ちにいかねば価値がない」とは、勝負事に関する自分の信念である。
勝ちにいくからこそ、負けても勝ち(価値)となると思う。

2012年7月12日木曜日

素直にきく

素直な人は伸びる。
私の尊敬する先生は、毎年子どもに「素直さが何より一番大切」と教えていた。
私もそう教えている。

ところで、素直とはどういうことか。
明鏡国語事典には「性格や態度にひねくれたところがなく、
人の言動などを逆らわないで受け入れるさま」
「くせがなくて、のびのびとしているさま。」とある。

つまり教えや忠告を、まずは受け入れ実行していく態度である。
いちいち逆らわないということである。
それが正しいかどうかの判断は必要だが、まずは飲み込む。
その上でやってみて、良いか悪いか判断する。

大人であれば、目上の人や上司、先輩の忠告をきいて実行するということである。
子どもであれば、親や教師の教え、地域の方の忠告を守るということである。

子どもが言うことをきかない。
指導が通らない。

そうであるならば、教師である自分自身を疑ってみる。
自分は言うことをきいているか。
アドバイスを実行しているか。
そうしたこともせずに、子どもに言うことをきかせるのは不可能である。
自分も廊下を走りながら走っている子どもを注意しているのと同じである。

人の教えは、きくものである。
教師の教えは、きく。
きくかきかないかの選択肢はない。
それぐらい、自信を持って、教える側も話をきかせたい。
「聞く」だけでなく、心をいれて「聴く」ようにさせる。

これもまた、道徳である。

2012年7月10日火曜日

全ての教育は道徳

先日、勉強会で、ある先生の国語の模擬授業に参加した。
その際、「道徳の授業っぽい」と私が意見した。
それに対し、野口氏は「結果的に、道徳的になるのは良い」とコメントした。
さらに「全ての授業は、道徳的要素が含まれるべき。」といようなことも言われた。
(正確には、多少言い回しが違ったかもしれない。)

これは、非常に勉強になる言葉であった。

およそ道徳的でない教育というのものは、存在しない。
算数の授業ですら、道徳であると。
算数が分かることで、道徳性を高める。
学ぶことは努力する気持ちかもしれないし、人に教える喜びかもしれない。
算数ができたことで、できない人を馬鹿にするようであれば、教育的には失敗である。
例えば勝利至上主義などは、道徳の視点からすると、やはり違うといえる。

学習指導要領にも「道徳教育は、学校の教育活動全体を通じて行うこと」とある。
「この授業を通して、どんな道徳的価値があるのか」といつも考えてみたい。

2012年7月8日日曜日

職員同士のあいさつを重視する

あいさつ運動、どの学校でもやるのではないかと思う。
しかし、なかなかできるようにならないのが実情である。
街中、都会になるほどしなくなる。
人が多すぎる為かもしれない。
それでも、学校はあいさつ指導の核になる場である。
(全ての教育の核は、学校である。地域の大人も学校の産物である。)

ところで、職員同士のあいさつはどうだろうか。
先日、ある研修会で、経験年数が増えるほど、あいさつしなくなる人が増えるという話があった。
子どもに対してもそうだが、大人同士はどうかということである。
結構、できないのではないかと思う。

どうすればいいのか。
一つは、一人ずつに声をかけること。
何となく全体に「おはよーございまーす」と一発やって、終わりにしがちである。
その際に、相手の顔を見て行うこと。
相手の顔が上がってなくてもいい。
(仕事の準備をしていて、顔が上がらないのが普通である。)
無視されてもいい。
とにかく、自分はきちんとやる。
そうしていると、見てくれている人はいるもので、「あいさつがいいね」と言ってもらえる。
一人増えると、また増える。
その内、だんだん良くなると思う。

これも「言うは易く行うは難し」だが、心がけが大切であると思う。
職員同士のあいさつが増えると、子どものあいさつも増えると思うが、いかがだろうか。

2012年7月6日金曜日

校外学習でのあいさつ指導

前号の続き

特に取り上げて、「あいさつ」を指導する。
「観光地ではどんなあいさつが良いのか。」
普段とは、違う。
ある程度の面識のある、近所の人とのあいさつは、元気な方がよい。
先生方や友達となら、元気いっぱい大きな声でよい。
しかし、観光地で、小学生みんながそんなあいさつをしまくってきたら、実際ちょっと迷惑である。
「さわやかに」をキーワードとして教える。
「会釈」「笑顔」がコツである。
相手がどんな人かも見て、やり方を考える。
ニコニコしてこちらを見ている人なら、笑顔いっぱい大きな声でもいいだろう。
どんなあいさつをされたら気持ちいいか、時と場と相手に応じたあいさつを考えるいい機会である。

「すごくいいあいさつをしてくれた。○○小という学校の子どもらしい。」という話が出たら、最高である。
逆も、あり得る。
校外に出る時は、学校の看板を背負って歩いていることを、片時も忘れてはいけない。

2012年7月4日水曜日

校外学習のマナー指導

校外学習の事前指導をすると、注意が多くなりがちである。
「○○してはいけない」の列挙になる。
マナーを重視するほど、仕方無いことである。
これを、どう伝えると良いか考えて、次のように授業してみた。

「あなたは一般の観光客(大人)です。
観光地には毎日のようにたくさんの子どもがいます。
どんな子どもがいたら嫌ですか。」
班でフリートークのように話し合わせ、班ごとに発表した。
次のような結果になった。
・大声で騒いでいる
・あいさつがふざけている
・走り回っている
・道を広がって歩いている
・観光地のものを馬鹿にするような発言
・汚い言葉づかい

大体、指導したいものが全て出た。
では、自分達はどうすればよいのか問う。
「逆の行動をとればいい。」となる。
「言うは易く行うは難し」であることは百も承知だが、そこに落とし込む。
(道徳を学ぶことと行動が道徳的であることは必ずしも一致しないのが残念である。)

(長くなったので次号に続く)

2012年7月2日月曜日

文学作品でも呼称に着目

先日、筑波大付属小学校の公開研究会を参観してきた。
国語を長年研究している講師の先生が、呼称についての話をしていた。

(最近、こういうことが多い。
メルマガのネタで書いたことや友人と話したことが、別の場でぽんと出てくる。
シンクロニシティというらしい。
要するに、気にかけているから意識のフィルタにひっかかるということである。)

どんなことかというと、文学作品の中で、どんな呼称を使っているかで心情が読めるということである。
例えば、一人称。
「ぼく」か「おれ」か。
「やい、とかげ」では「ぼく」、「ごんぎつね」では「おれ」である。
「川とノリオ」にいたっては、ノリオの一人称は出てこない。
ここからも、主人公の性格の位置付けなどがわかる。

相手をどう呼んでいるか。
「大造じいさんとがん」では「たかが鳥」と扱っていたのが「残雪」「残雪め」「がんの英雄」「えらぶつ」と変化していく。
大造じいさんの残雪への心情の変化が分かる。

こういう視点も面白いと思った。
文学作品を読む一つの道具として使えるのではないかと思い、紹介してみた。

歴史の鉄則 便利と義務

最近読んだ本からの気付き。 次の本から、一文を引用する。 『サピエンス全史 上 文明の構造と人類の幸福』 ユヴァル・ノア・ハラリ 著 柴田 裕之 訳 河出書房新社 http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309226712/ ======...

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