2019年7月31日水曜日

指定か自由か

突然だが、選択して欲しい。
指定と自由。
どちらが嬉しいか。

これは、自由と答える人が多いのではないだろうか。
イメージなので、何とも言えないが、自由の方が指定より束縛されていない感じがして、いいような気がしないでもない。
自由というのは、歴史の中でも獲得されるものであり、価値がある。

ところで、「スタジアム」や「ホール」の場合を考えてみる。
「指定席」と「自由席」。
どちらが嬉しいか。

これは、嬉しいかどうかは置いておいて、値段が高いのは「指定席」の方である。
値段に応じての場所の制限があるとはいえ、自分の席が確実に確保されている。
つまり、安心である。

「自由」というのは、一見いいようで、不便や不安も多い。
「選択の結果の責任を自分でもて」と言われているからである。
実は、何でも「指定」される方が楽である。

試しに、子どもに「席は完全に自由」と告げてみるとわかる。
なかなか選べない上に、トラブル発生必至である。
座席は、指定されるからこその安心というのがある。

だから今まで、自分の学級の座席決めは、「こちらで指定」か「くじ」がほとんどであった。
半分自由で半分くじという場合もあったが、完全に自由にするのは、なかなか難しい。

それも踏まえた上で、今年度は「自由席」を採用してみた。
自分で座る席を決めて、週1回で席を変えている。
「男女半々」だけが指定条件で、「なるべく違う人と組む」が努力義務である。

これを成立させるには、心身の「安全・安心」の確保が前提として必須である。
これがないと、まずうまくいかない。
子ども同士の侵害行為が予想される場合は、絶対に採用できない。
「どの組み合わせでもできる」という人間関係のベースが必須となる。
ある意味、学級の状態の試金石になる。

今、自分の学級は、教師の指導性を強く出す時期か、子どもの自由度を高める時期か。
この見極めこそが大切である。
どちらがいいという訳ではなく、状態を見極めて変えていく。
「自由度を高める」を志向していても、必要であれば指導性を強く出した方がいいこともある。

世の有名な実践家の追試をしてもうまくいかない、という場合は、この辺りの測定の誤りがある。
その実践家の学級の状態と、自分の学級の状態とが乖離しすぎているのである。
その状況に応じた良い手、というのがある。

逆に、指導性を強く出して「指定」を続けていれば、指導者から見て「安定」はする。
しかし、子どもの「動き」は生じない。
どこかで敢えてバランスを崩す必要が出る。

歩くという行為一つをとっても、安定から不安定へ崩すからこそできる。
赤ん坊や幼児を見れば一目瞭然である。
まず「立てる」という行為が安定するようになる。
その上で、次にその安定を崩して、「歩む」という行為に踏み出す。
「安定」から、危険を伴う「自由」に一歩を踏み出す訳である。

赤ん坊は、いつでも危険を顧みずに不安定への挑戦に踏み出す。
だからこそ親はハラハラするのだが、それが成長の契機でもある。
危険を全て取り除いて「完全に守られた安全・安心」の枠の中で育て続ければ、子どもの力は育たないということでもある。

まず、安定を目指す。
次に、別の場所へ動くために、安定を崩す。

この繰り返しこそが成長であり、「自由な学級」へのステップであると実感している今日この頃である。

2019年7月30日火曜日

危機管理と教育委員会訪問

大学の授業で、教育委員会の役割について学んだ。
その中の、教育委員会による学校訪問と危機管理の関連について。

最近連続して起きている物騒な事件のこともあり、危機管理への意識が高まっている。
ただ、これ自体は、常日頃から言われていることである。

学校の危機管理意識の点検、というと、日常の安全点検や避難訓練の他に、教育委員会の学校訪問が思い浮かぶ。
そして、教育委員会の訪問というのは、教員からすると、嫌がる人も結構多いかと思う。
(実際「教育委員会が訪問しに来てくれてわくわくする!」という話はあまり聞かない。)

なぜ嫌がるかというと、結構細かいことを指摘されるからである。
「普段内輪でなあなあにしていた痛いところを突かれる」という感じである。
不祥事もこれに当たる。
普段内輪がなあなあになっていると、ある日不意に起きる。
日常点検のラインが甘いのである。

しかし、これは親や教師が普段から、自分の子どもに言っていることと同じである。
要は、普段から口うるさいぐらいに言わないと、身に付かないからである。
「トイレに行ったら手を洗いなさい」ぐらいの当たり前のことでも、繰り返し声をかけないと、やらない。
自主的にやってくれるなら苦労はないが、当人はすぐに忘れるものである。
(ちなみに、高学年以降は確信犯である。)

危機意識の話に戻ると、例えば床のタイル一枚が剥がれてめくれ上がっているとする。
これを放置しているということは、子どもが躓くかもしれないということを見逃している、という判断になるという。
つまり、児童の安全を守る意識全般が低いことが想定される。

「そんなことぐらいで」と思ってはいけない。
結局、一回の訪問ではそういったことでしか判断できないし、そこにはある程度妥当性がある。
「訪問に来る」とわかっているのにまだ放置しているぐらいだから、普段から相当意識が低いと判断される。

家に客が来るとわかっているのに掃除をする気がしないでそのまま、というのと同じである。
普段から家の掃除をしていないから、客が来るという時に妙な気合いがいるのである。

つまり、本来細かいことを言いたいのではないということ。
そこから始めて、全体の安全意識を高めて、子どもを守りたいということである。
(警察が軽微な交通違反を取り締まるのと同じである。結局他の重大な違反も減る。)

教育委員会というのは、学校の親のような立場である。
直接に手出しはできないが、保護・監督する責任がある。
乱れているのに、放置はできない。

危機管理の話に戻ると、学校の不祥事は教育委員会の責任でもある。
教師と子どもの関係にたとえると、いじめなどの子どもの不適切な状態を教師が放置したとみなされる。
全力で事態を収拾するとともに、関係者に頭を下げることになる。
「子どものやったことで自分には関係ない」とは当然言えない。

「嫌われ役」「泥被り役」ともいえる。
いざとなったら、たとえ自分が全く悪くなくても頭を下げるということも辞さない。
それが、立場である。
上の立場にあるから偉いようで、なかなかに辛い立場のようである。

そう考えると、学校訪問というのは、ピンチをチャンスに変える契機である。
なあなあでない、フラットな目でチェックしてもらえる。
学校内が何か乱れている、という時の立て直しの機会にもなる。

もしこれから訪問がある、という場合、自分のこれまでの総点検のチャンスだと思って迎えられるといいかもしれない。

2019年7月29日月曜日

「難しい」には価値がある

色々な場で実践発表をしていると、必ず言われる台詞がある。
「それは、附属小学校だからできる」
「うちでは難しそう」

これは、半分事実を含む。
一方で、諦めないで欲しいという思いもある。

事実の部分。
それは、「文脈」によるということ。
あらゆる実践というのは、文脈の中で成立する。
やれない文脈というのは当然存在する。

例えば、地域の環境との文脈。
8の字跳びに取り組みにしても、大会がない学校とある学校では、取り組み方は全く異なる。
もっと極端な例で言えば、日常的にスキーを体育学習で取り組む素晴らしさがわかっていても、沖縄ではやれない。
タブレットを用いた学習の素晴らしさを学んでも、自校のICT環境が整っていないのでは、思うようにできない。
そういう環境的な要因は無視できない。

また、子どもと教師の関係性の文脈もある。
「あらゆる勝負に勝つ」という信念を持った教師と、「協力が大切」という信念を持った教師とでは、実践が違う。
「受験で合格したい」という願いをもつ子どもと、「友だちの輪に入りたい」という願いをもつ子どもでは、学級に求める文脈が異なる。

同じ実践を試しても、効果が全く異なる。
あらゆる実践は、自然な文脈の流れの中でないと、正しく成立しない。

ただ、「○○だからできる」というもの。
「○○」には個人名、学校名、学年等、様々な条件が入る。
これは、疑った方がよい。

できないという理由は、無限に挙げられる。
その方が苦しくない。
自己否定にならないし、思考が停止できるからである。
ただ、これが長じると「あの子は無理」「自分は悪くない」「考えるだけ無駄」という思考に発展する。

それでも、そういう否定的な思考がよぎってしまった時には、自分自身に次の質問をする。
「自分の尊敬するあの人が、自分の代わりに教えても無理か」
そう考えると、大抵答えは「NO」である。
結局、多くの場合の「無理」の真実は、実は自分の力量不足である。

ちなみに「附属小だから」と言われるような実践に、意味や存在意義はないのかというと、これは、大いにある。
一つのモデルを示すという意義である。

「簡単に追試可能」というのは、一つの価値である。
一方で「実現が困難と思われる状態を示す」というのも意味がある。
「場合によってはここまでやれる」という一つのモデルである。

ファッションショーの意義と同じである。
実際に着るのが難しいような先進的なファッションは、一つの提案である。
実際にその恰好を全員がして欲しいという訳ではない。
(代わりに、誰でも手軽に簡単にという広く実用的な部分は、ユニクロのようなファストファッションのブランドが担保する。)

つまり、手軽と困難は、両方とも必要な存在なのである。
パラリンピックなどもそうだが、困難なものを実現している姿というのは、見た人に勇気を与える。
ただし、多くの人が「できそう」と思うかどうかとは全く別である。

例えば永らく陸上の世界では、「100m走で人間が10秒台を切るのは科学的に考えて絶対に無理」と言われてきた。
ところがある大会で9秒台が一人出た矢先から、世界中でどんどん9秒台が出だした。
高いレベルを実現している者が一人でも出ると、「無理」のリミッターが外れて、他の人の「できる」につながる。

教師であれば、例えば体育で学級の誰か一人が難しい技をできるようになると、続々と「できた!」という子どもが出るという現象。
これを見た人は結構多いはずである。
実際、昨年度の一年生で一人「はやぶさ」ができ出したら、真似して続々とできる子どもが出現し、見せたこともない「後ろはやぶさ」などの技も出だした。

自分のやっている実践は、他の場でもできる程度のことだと思っている。
すごい、できないと思ってもらえるなら、それもそれで価値があることなのかもしれない。
逆に「案外やってることは普通」「自分にもやれそう」と思ってもらえたら、それはそれでいいことだと思う次第である。

2019年7月28日日曜日

感情労働者としての教師

大学の授業で「感情労働」ということについて学んだ。
そこからの気付きのシェア。

教師や保育者は感情労働者だという。

感情労働とは、社会学者A・R・ホックシールドによる言葉である。
 相手(=顧客)の精神を特別な状態に導くために、
自分の感情を誘発、または抑圧することを職務にする、
精神と感情の協調が必要な労働のことをいう。
(参考 「カオナビ 人事用語集」
https://www.kaonavi.jp/dictionary/emotional-labor/

要するに、自分の本当の感情を脇に置き、場に必要な感情を表現し演じることが強く望まれる労働である。
サービス業やセールスなどもこれに含まれる。
電話の苦情受付センターなどその最たるもので、顧客の感情に寄り添い、心から謝罪していることを表現することが望まれる。

実は苦情受付センターの人は何も悪いことをしていないのだが、心を擦り減らして謝罪し続ける。
あるいは、教育委員会等で苦情電話を取った方々も同じであるかもしれない。
顧客の感情を損なうと、ビジネス自体が成り立たない、あるいはこじれて余計に大変になるという類の労働である。

この感情労働には、規則がある。
表層演技として、自分の感情を隠して望ましい感情を演じること。
深層演技として、働き手が感情を制御・管理すること。

この表層と深層にギャップが生まれるほど、苦しみが深くなる。
例えば深層演技としてもし「お客様は神様です」を信じ込めていれば、クレーム対応としての表層演技にもそれほど苦はない。
しかし、逆に「何で私が」「悪いのはそっちでしょ」という思いが強いほど、表層演技が辛くなる。

苦情受付センターなどは、逆にビジネスと割り切って演じること自体を楽しまないとやっていけないのかもしれない。
なぜならその商品開発に携わっている訳でもなく、本来どう考えても自分には非がないからである。

一方、教師や保育者の場合、ここのダメージは回避できない。
その子どもの教育に携わっている以上、どう考えても自分にも多少の落ち度があるためである。
だからこそ、深層演技の方の自己教育で、どのような「観」を育てているかが重要になる。

教師は子ども(あるいは保護者)の前に立つ際、表層演技をし続けることが求められる。
プライベートで嫌なことがあろうが、それは子どもたちにとっては関係ない。
特に小さい子ども相手であるほど、笑顔が求められる。

辛い時に笑顔でい続けるのは、相当に辛い作業である。
しかも小学校の場合、常に子どもたちと一緒にいるので、それを数時間キープである。
(それでも、24時間べったりの、乳幼児期の子育て中の母親のストレスに比べたら、ましではある。)

表層演技の辛さを軽減するには、深層演技の方の自己教育である。
「この子はダメだ」と思っていると、真面目に対応するのが嫌になる。
一方で「この子は苦しんでいるだけだ」と思うと、対応する気持ちも優しくなれる。
どういう「観」を持っているかで、表層演技の方も変わってくる。

そして、どんなに演技をしても、子どもにはすぐ伝わる。
子どもは、赤ん坊の頃から、周囲の感情とリンクする能力をもつという。
つまり、表層演技をどんなにがんばっても、感情が伝わってしまうのである。
深層演技の自己教育の方が、決定的に重要である。

私のイメージでは、一日に使える感情は、一定量である。
職場で普通に過ごしているだけでも、じりじりと消費する。
すべて職場というのはプライベートの場と違い、表層演技が必要だからである。

ただ、楽しい気分で過ごしていれば、少しずつ回復する。
一方、嫌だと思いながら過ごしていれば、少しずつ消費する。

最も燃費の悪い行為は「怒る」であり、恐らく通常の百倍以上消費する。
三分間程度で丸一日分を使い切る可能性が出る。
そうなったら、残りの時間はガソリン切れとなり、苦の連続である。

感情労働者として心がけるのは、無駄な消費を控えること。
肝は、自分も他人も操作しようとしすぎない、心配しすぎないことである。

感情を一つの資源としてみると、無駄遣いを避けられるかもしれないと思った次第である。

2019年7月27日土曜日

「新しい」は何と読むのが「正しい」か

言い間違い。
読み間違い。
人間なら、当然ある。

当然あるのだが、これを影響力のある人がやると、それが「正しい」ことになる。

言語の世界は、これが顕著に出る。

「着替える」
何と読むか。
これは「きかえる」が本来の読み方としては正しい。
教養ある年配の方だと「きかえる」と言うことが多い。

しかし、「きがえる」と読む人の方が圧倒的に多い。
なぜなら名詞の「着替え」の場合は「きがえ」が正しいからである。
しかし「着替える」の場合の元々の読み方は「きかえる」である。

そして、今は「きがえる」の方が主流である。
だから「きかえましょう」と言うと違和感が出る。
だから、学校教育であっても「きがえる」がよいことになっている。
なぜかというと、それが「一般的」だから「正しい」ということである。
多数の人がそう使い続けてきたから、「数は力」なので「正しく」なったといえる。

「スマホ」
何の略か。
言わずもがな「スマートフォン」の略である。
しかし「スマフォ」とは言わない。
あくまで「スマホ」である。
元の言葉云々は脇に置いて「言いやすいから」である。

二年生の新出漢字に「新」がある。
訓読みに「新た」(あらた)や「新しい」(あたらしい)がある。
この二つの読み方は、これを初めて読む二年生にとって「違和感」である。
「新しい」は「新た」(あらた)からして、「あらたしい」ではないのか。
これも、誤用が転じて正しくなった言葉の一つだという。
「あらたしい」が本来の読み方らしい。
しかし当然、テストでそう書いたら、「×」である。
本来正しいけれど、「×」である。
(参考文献『違和感のすすめ』松尾貴史著 毎日新聞出版)

世の中は、こういう仕組みである。
その時代の多数の賛成を得たものは、とりあえず「正しい」ことになる。

好きか嫌いかは自分が決める。
良いか悪いかは時代が決める。
正しいか正しくないかは歴史が決める。
(師の野口芳宏先生から直接学んだ言葉である。
福岡のとある方の言葉らしい。次のH.P.にも書いてある。
http://www3.plala.or.jp/yokosan/nogutironbun-03-04.htm

「正しさ」というものも、危ういものである。
本当の「正しさ」なんて移ろうものである。
歴史の裁きを受ける中で変わるし、時の為政者によっても変わる。
ヒトラーの時代におけるドイツ国内の「正しさ」とは何だったのかと、考えるまでもなくわかる。

時代によっても変わる。
ある時代に正しかったものが、次の時代には正しくなくなることもある。
逆もある。
「天動説から地動説」も「アメリカ大陸発見」も全部そうである。
みんなが「馬鹿じゃないの」と言ってたことが、正しかったとわかると、急に掌を返すこともある。
やがて「そんなの常識」になる。

「正しさ」を考えすぎて執着(しゅうじゃく)すると、生きにくくなる。
周りと調和しなくなるからである。
しかしながら、「これは違うのではないか」と腹のどこかで違和感を持つことも、時には大切である。

偉いあの人の言っていることも、間違っているのではないか。
あるいは、自分の考えの方こそが間違っているのではないか。
そういう「批判的思考」(クリティカルシンキング)をもつことで、見えるものが変わる。

これからの時代を生きる子どもたちにも、何でも鵜のみにせずに、自分の頭でまず考える力を育てるようにしたい。

2019年7月26日金曜日

「早く起きなさい」を言わずに済むにはどうするか

早くしなさい。
起きなさい。
勉強しなさい。

何でもそうだが「〇〇しなさい」という命令と実行は、両者にとって大きなストレスである。
言うことをきかせたいのに相手がきかない苛立ち。
言われれば言われるほど「お前はダメな奴」と言われている気がして余計にききたくなくなる苛立ち。

自分の脳と体、あるいは人間と機械の関係なら、命令関係でいい。
入力と出力という関係だからである。

人間関係はそうはいかない。
命令と実行は主従関係である。
自主自立や自治とは真逆にある。

しかし、命令を出す側としては、願いや目的がある。
相手が実行してくれないと実現しない。

命令される側としては、意義はわかっている。
やらねばならないこともわかっている。
しかし、言われるとやる気を失うのは人間の本能である。
この辺りは、犬猫との大きな違いである。
(犬は、主人に従って褒められることが生きる喜びである。)

では、どうするか。

結論から言えば、自然にそう動くような「環境」を整えることである。
人間の都合が作り出した不自然ではなく、自然の摂理に従うことである。

一番分かりやすい例で朝に「起きなさい」と言われずにすっきりと起きられるようにしたい、という場合を考える。

まず、当たり前だが、早く寝ていないと、早く起きられない。
睡眠不足のままで起きるのは「不自然」である。
よって「早く寝られる」環境づくりをまず整える。

寝る前のスマホやゲームが悪影響なのは言うまでもない。
寝る前に興奮系はダメである。
入眠に最適な、ゆったりとした物語の絵本などを読み聞かせしたり、あるいは自分で読んだりできればベストである。
(つまり「怖い話」のようなホラー系は寝る前はいけない。興奮する。)

食べる時刻も大切である。
就寝の3時間前には食事を終えているのが望ましいというのが近年の研究の定説である。
朝、胃もたれしていたら当然起きにくい。

サーカディアンリズムに注目すると、覚醒の鍵は陽の光である。
身体は、朝陽に当たることで、睡眠と覚醒のリズムを作る。
シャッターや遮光カーテンで朝でも真っ暗、という完全に人工的な環境の部屋で寝ていたら、当然寝起きは悪くなる。
枕の向きを東に向けてカーテンの下に置くだけでも、日の出とともに目に朝の光が入り、覚醒はぐっと自然に、楽になる。
つまり「起きなさい!」の声をかける前に、カーテンと窓を開けて日差しと新しい空気が入るようにした方が、覚醒効果が高い。

ちなみに私は、睡眠を邪魔されるのが最も嫌いである。
嫌いなものを無理矢理口に押し込まれるのと同じだと思っている。
選択や心身の自由を侵害されることが不愉快である。

だから、寝る時には携帯電話を近くに置かないし、目覚ましもかけない。
もし夜中にメールで起こされるなどしたら、多分その人を恨んでしまう。
だから、一切音も振動もしない設定で、しかも別の部屋に置いてある。
安心して眠れる訳である。
(ただしこれは、24時間体制で対応する重い責任の立場にある方だと、実行できない。)

親が「部屋のカーテンを開ける」という行為をする際には、「起きなさい」という声はいらない。
とりあえず開けるだけである。
そうしないと、子どもの中に例の不快感がこみあげ、なぜか親が恨まれる対象になる。
ただ、朝だから当然部屋のカーテンを開けただけ、という体をとることが肝要である。

後は、放っておいて、その内自分でのそのそ起きるのを待つ。
起きなかったら、遅刻して本人が気まずい思いをするだけである。
学校には「寝坊したので遅刻します」と電話だけ入れればよい。
痛い思いも大切な学習である。
ここが我慢比べの肝である。

ルーティンでリズムを決めてしまう。
勝手に覚醒する状態を習慣化できればいい。
「起きなさい」と言ってもらえないとわかることも大切である。

親が子どもにできることといったら、環境づくりだけである。
直接「起きなさい」と声をかけることは、最後の最後の下手の最終手段である。
(「布団を引き剥がす」は、実行力を行使しているという点でさらに酷い下手の手段である、と自覚し敗北を覚悟した上で、断固実行する。)

学校のあらゆる教育でもいえる。
ルーティン的に訪れることに対し「〇〇しなさい」の命令を直接与えないと動かないのでは、子どもは育たない。
「チャイム問題」もこれにあたる。
要は、パプロフの犬よろしく音に反応するのではなく、自分で時計を見て動けるようにしよう、ということである。
(チャイムや放送は「教室に戻りなさい」の外的サインであり、命令である。)

止むを得ず実行力を行使した時は、こちらの敗北宣言である。

それをしやすい環境を整える。
自主自立や、自治を考える上での基本中の基本である。

2019年7月25日木曜日

宿題にならない工夫をする

拙著『「捨てる」仕事術』に関連した話。
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5
「働き方改革」に対する誤解と、「残業しなければいい」というものではないということについて。

宿題を出さない。
それだけきくと単に教師も子どもも楽なように思えるが、それはとんでもない勘違いである。

宿題を出そうが出すまいが、学校教育の使命は決まっている。
子どもに、生きていく上で必要な学力をつけることである。

つまり、宿題を出さないということは、授業時間内に学力をつけるということでもある。
これは、現実的にはなかなか難しいことがお分かりいただけると思う。

ご存知の通り、学級には様々な特性の子どもがいる。
それぞれ、得意があれば、不得意がある。

例えば縄跳びが得意な子どもは、体育の授業時間だけであらゆる技をマスターするかもしれない。
一方で、一回旋一跳躍の前跳びの習得に大変な時間のかかる子どももいる。
この場合、休み時間や家で練習してくることもある。
習得のためには、絶対的な「量」が必要だからである。

これが算数の場合も起きる。
同じ10問の問題を解くのに、1分で完了する子どもと30分かかっても終わらない子どもが混在するのが学級である。
漢字の習得でも社会科の調べ学習でも図工の作品の完成でも何でも、同様のことが起きる。

これらの差を埋めるのは、「一人の時間」である。
自分だけで使える自由な時間の割り当てである。
つまり、通常終わると思われる設定時間内で終わらないのであれば、個人的な宿題になる。
遊びたいのを我慢して努力する時間にあてる。
これは必然である。
これが嫌だと思うからこそ、効率よくやる工夫が生まれるのである。

宿題と残業(あるいは持ち帰り仕事)というのは、この点で同じである。
宿題という名前ではなく「やり残し」という名前にした方がわかりやすいかもしれない。
規定時間内に終わらなければ、余計な時間を使って終わらせるしかない。
アフターファイブを楽しみたければ、時間内に終わらせる工夫をする。
できなければ、残業か持ち帰りの選択肢しかない。
あるいは、事前に時間を割いて、早めに終わらせておくべきことだったのである。

実際、個人的な能力不足や工夫不足の分は、時間で補填するしかない。
この原則は大人でも子どもでも同じである。
質と量の関係である。
(勘違いされているかもしれないが、私が終始一貫ずっと反対し続けているのは「一律の宿題」であり、宿題そのものではない。)

これを社会人に当てはめてみる。
「働き方改革」を盾に、やるべきこともやらずに帰るのは無責任である。
常識的に考えて、あまりに業務量が多いならわかる。
しかし、それを時間内に終わらせる人がいて、自分が終わらないとする。
それならば、自分の方は余計に時間を割いて、何とか終わらせるべきである。

これは、小学生から身に付けるべき態度である。

子どもなら、自分が授業中に終えられなかった分や、理解できなかった分をどうするか。
これはたとえ宿題には出ていなくとも、休み時間あるいは家でもやるべきことである。

それを促し、励まし、チェックしてあげるのは、教師の仕事である。

逆に言うと、教師はクラスの全員ができなかったような分量、あるいは理解困難な内容のものを、全員の宿題にするのは間違いである。
高校生や大学生相手ならまだしも、相手が小学生なら、それは授業中に確保すべき時間であり、指導すべきことである。

何を言いたいかというと、宿題一つ出すにも、計画的に、社会で生きる力をつけるべきということである。

自分のやるべきことは、責任を持ってやりきる。
時間内の処理能力の差は、自助努力で埋める。
言い訳しない、人のせいにしない。
わからないことや無茶に対しては、はっきりと要求を告げる。

こういったことは、小学校の内でも学べることである。
「塾に行かせておけば学力は安心」という安易な考えは、この辺りの能力を落とす。
何もかもお膳立てされた環境の中では、工夫して考える力はつかない。
ピンチや変化に応じて逞しく生き抜く力は身に付かない。
(危険を顧みないなら、自然の中に放り込む方が学べる。)

与えられた課題をこなすことや、宿題を当たり前だと思っていると、残業が「習慣」になってしまう。
やるべき課題を自分で見つける方や、宿題をやらなくて済む方にこそ、頭を使うべきである。

働き方改革は、日常から。
残業体質の基本姿勢は、子ども時代から始まっていると考える次第である。

2019年7月24日水曜日

多数決のダークサイド

前号の「変さ値」の話と関連して、多数決の危うさ、ダークサイドについて。

結論から言うと、多数決は危険である。
(感情的に言うと、嫌いである。)

しかしながら、多数決にはものすごい力がある。
数が多いというのは、力である。
しかも、数が多いほど責任分散ができるので、多数派に乗るのは、個人的に見ると無責任でかつ最も安全な選択である。

世の中の多くのことは、多数決で決まる。
特に大事なことの多くが、多数決で決まる。
先の参院選があったように、選挙はその最も顕著な例である。
国会も裁判所も同じである。
「数は正義」である。
多数に賛成してもらえるような説得材料を揃られるかが勝負になる。

人気がある、というのも、多数決と同様のことである。
今流行りの人気の〇〇、というのは、多数の支持を得て需要のあるものである。
これだけでも価値がある。
いや、価値を値段、価格で計るならば、相当な高い価値がある。

ただ、高い価値があるが、それが「本質的に良い」とは限らない。

人気の有名人の不正な行為。
あるいは、ネット上で出回る残忍な動画。
いたずらや社会的に悪い行為を撮影し、ネット上に公開した動画。
ものすごいレビューとコメントがつくらしい。
そうらしいが、それが本当に良いもの、見るべきものかというと、明らかに「ノー」である。

なぜそういうことが起きるかというと、「多数派」のものに対しては、自分の頭をきちんと使わなくなるからである。
「何か面白そう」「周りがいい(面白い)と言っている」辺りの適当な判断基準になりがちである。
先に述べたように、責任分散の心理的効果がそれを後押しする。

しかしながら繰り返すように、それでも多数決は、決定の大きな力である。
つまりは一方で「正しいかもしれない少数」を確実に葬り去る最強の手段でもある。

「普通」から外れているものは、少数派、いわゆるマイノリティである。
マイノリティにとっては、多数決ほど恐ろしいことはない。
正当性とか真実・真理とか一切関係なく、太刀打ち自体ができない。
数という名の正義の暴力の前にひれ伏すだけである。
その暴力の前に、力(数)なき弱い者(=少数派)は淘汰される。

これは、世の中とか大きな規模だけでなく、学級の授業という小さな単位でも起こる。
よくあるのが、学級会の提案の決定。
多数決で決めることが多いかもしれない。
しかしそれは、少数派の子どもの意見を却下している可能性、あるいはそもそも出せなくしている可能性がある。
仕方のない時もあるかもしれないが、多数決は「どうしてもやむを得ない場合の最低の下手の手段」として自覚する必要がある。

多数決自体は、決して民主主義ではないし、上等な決め方でもない。
民主主義の本質とは、多数を優先することではなく、少数を捨て置かないことだからである。

無責任な単なる多数決は、真実・真理を求める方向とは真逆である。
こういった考え方を、学級の子どもとも共有しておく必要がある。
(私は、よく天動説と地動説の話を例に、これを教える。一年生相手でもする。
特に真理を扱う学問に、多数決は馴染まない。)

授業、あるいは学級会をやるとよくわかるが、子どもの本当の「価値ある良い意見」というのは、大抵大反対されたり、黙殺されたりする。
なぜならば大多数の「常識」から外れた「変」な意見であり、ほとんどの子どもが発言の真の価値に気付けないからである。

これは、ガリレオ・ガリレイが投獄されたのと同じである。
地球が回っているかどうかという真実と、大衆の多数決は一切関係がない。

大衆的特徴としては、自分の頭を使わずに「正義」を信じることが挙げられる。
キリストの言う通り「正義の石ころ」をみんなで投げつけようとするのが大衆である。

自分だけは、傷付きたくないのである。
不条理にいじめられている人がいるとわかっても、自分がいじめられるのは怖いから言い出せない、あるいは一緒に石を投げてしまう。

だから、「多数決を取ります」といって適当にきけば、必ず起こる残念な現象がある。
周りを見てからばらばらと手を挙げる「勇気なき残念な輩」が「多数」生まれてしまうのである。
責任をとりたくないし、少数派になりたくないのである。

それを防ぐには
「0.2秒以内に手を挙げる。それ以外は無効。」
というようなある程度厳しいルールの設定や
「一人でも手を挙げられる人は勇気がある」
というような少数であることへの価値づけを普段からしておく必要がある。
(しかしながら、ルールの設定自体は、本質ではない。)

道徳科の場合が特にわかりやすい。
模範解答的な意見には、誰しも反対しにくい。
一方で、「変」な意見には反対しやすい。
しかしなぜそんな考えをしたのか、深堀りすれば「なるほど」と唸る可能性もある。

しかし「大衆化」した頭では、それが想像できない。
周りに便乗して、ギャーギャー騒いで言いたい放題言う。
(そもそも、「大勢で騒ぐ」という集団行為自体が大衆的である。)

指導している教師が「大衆化」していれば、尚更である。
「お上の言葉」を天の声であるかのように忠実に従い続ける。
「例年通り」を無思考で踏襲する。
そうすれば、誰からも批判されず、無責任で安全である。
すると、自分の頭で考える力や想像力が鈍ってきて、感性が閉じ、やがて何も感じなくなる。

批判的思考とは、他人の意見にひねくれてみることではない。
自分の考えと照らし合わせ、自身の行為の是非を問い続ける思考法である。
つまり、「偉い人」や「みんな」が言ったからといって、鵜吞みにせずに、きちんと自分でよく噛んで味わうことである。

何事にせよ、言動の裏、真理をよくよく考える必要がある。
(拙著『切り返しの技術』https://www.amazon.co.jp/dp/4181907120
や『とっさのうまい対応』https://www.amazon.co.jp/dp/4181406237
にも繰り返し書いた通りである。)

多数決のダークサイド、危うさを自覚する。
当面、危険とわかっている内は、とりあえず安全である。

2019年7月23日火曜日

偏差値より「変さ値」を

今年度も実施された、全国学力・学習状況調査について。

今年度もいずれ結果が集計されて、やがてランキングされる。
実施した側は比較をしないといっても、ネット上ではご丁寧にされる。
ただし、公立校のみの結果である。
都道府県別のデータは公立小中学校の結果しか公表されていないためである。

以前にも述べたと思うが、再確認。
県別ランキングは、ほぼ全くあてにならない。
国立大の附属校と私立校の結果が一切入らないためである。
(参考文献:「学力」の経済学 中室牧子著 ディスカバー21
https://www.amazon.co.jp/dp/4799316850

特に私立校が多い都心部等の地域では、そこを入れると結果が大幅に変わるという。
この無駄なランキングは、変な競争意識とダメな優越感&劣等感、危機感を煽るだけである。
(比較しない、あなたはオンリーワンだと子どもに口で言いながら、その実「平均」と比較が大好きである。)

偏差値とは、平均値を中心(50)とし、平均を重んじる思想の表れである。
(ちなみに私は大馬鹿なので、教師の職についてしばらく経ってから各学校に「偏差値」があることを知った。
数学で多少やっていたはずなのだが、必要性がなかったため、記憶から消えていたのかもしれない。
自分の学校選びに偏差値を全く見てこなかった証拠である。
大学選びの際も「小学校教師を目指すのに東大にまで行く必要はなさそう」ぐらいの感覚だった。)

「偏差値」より、私は「変さ値」(松尾造語)の方が大切ではないかと考えている。
特徴的に、他とは違うことである。

一般的に「変」と言われるのは、褒め言葉ではない。
しかしながら「君は普通だね」「どこにでもいるタイプだね」と言われても嬉しくないのではないか。

実際、学校教育では「変さ値」を求めない。
なぜならば、学校教育は、到達すべき学習内容の程度が定まっており、そこを基準とするからである。
つまり各学校、学級で「平均」の値を上げることが求められる。

テストでは独創的であることよりも、学習内容を忠実に再現する力が求められる。
学校生活においても、協調性が何よりも大切である。
「みんな揃って」が習い性になっており、大好きなのである。

あらゆることにおいて、あまり「普通」から外れていないことが大切である。
だから、学力状況調査でも、平均点を必ず出す。
「普通」への到達度を知らせるためである。

また、「普通」から外れた「変なやつ」は、いじめの対象でもある。
理由は「普通じゃない、変だから。」である。(ちなみに、能力的に上に突出していてもいじめられる。)

これは、よろしくない。
よろしくないが、現状仕方ないことである。
先に述べたように、大人も子どもも平均から見た比較、ランキングが大好きなのだから仕方ない。

そして都道府県間の学力を比べたところで、所詮「どんぐりの背比べ」である。
こんなことに世間が一喜一憂、反応するから、教育委員会の方も指導せざるを得ない状況になって、学校現場も困るのではないかと思われる。
自分たちで互いに首を絞め合って、苦しみあえぐ。
どうしようもない「ドS&ドM」な生き物である。
(ちなみに、これは文科省が本来求めているところではない。
世間が勝手にランキングをつけて騒いでいるのである。)

ところで、平均、普通、均質、手順に沿った再現性、こういったことに特化して強いものがある。
そう、コンピューターである。
ロボットの大得意分野である。
計算速度が最もわかりやすいが、人間の処理速度の比ではない。
こういう答えのある作業系能力が必要な職業は、すべてロボットが代替するようになる。

そう考えるとやはり、ここで学校が子どもに育てるべきは「変さ値」の尊重である。
どんなに「普通」に近づいても、ロボット以下ということになる。
ロボットの作業効率は、人間とは桁違いである。
ロボットにはない人間としての特徴、能力が求められる
「変」はマイナスにも捉えられるが、唯一無二の最強の武器にもなり得る。

例えばわかりやすい例として、声。
「声が変」という理由でいじめられた、という経験のある人は結構いる。
一方で、その経験を乗り越え、その天から与えられた声を最強の武器にして、世に大きく出た人たちは多い。
例えば、元ドラえもんの声優の大山のぶ代。
例えば、歌手の大塚愛。

よくよく考えれば、声優や歌手が「普通」の声では、需要がない。
「変」=平均とはかけ離れているからこそ、唯一無二になる。

そして自分の「変さ値」を認めてもらうには、仲間の「変さ値」も認めないといけない。
「変」が、排除の対象にならない。
むしろ、個性として歓迎される集団を育てるような教育が大切である。

学力状況調査の勝手なランキング。
無意味な平均、普通との比較。
わかるのだが、いい加減に下らないことは止めないか、と言いたい昨今である。

2019年7月22日月曜日

自治的学級づくりと信頼関係

前号の話になるが、自治的学級づくりを考える上において、次の本を紹介した。

『ぼくたちに翼があったころ コルチャック先生と107人の子どもたち』
タミ・シェム=トヴ 作 / 樋口 範子 訳 / 岡本 よしろう 画 福音館書店
https://www.fukuinkan.co.jp/book/?id=1644

なぜあの話の流れでこの本をおすすめしたのか、やや説明不足だったので、書く。

この本は、まさに子どもの権利を守った、戦時下ポーランドの「家」の物語である。
この孤児院は「家」と呼ばれていた。
「家」の創設者は、ユダヤ人の医師である「ドクトル」ことコルチャック先生。
ポーランド、ユダヤ人、戦争中、ときけば、ヒトラーのホロコーストが連想されるだろう。
そんな時代の話である。

この「家」では、2歳の幼児から15歳の少年少女107人が共同生活を送っている。
主に上級生が選挙で各部署のリーダーとなり、「家」の様々な役割を取り仕切る。
そのすべてが子どもの自治により運営される。
(「ハリーポッター」の魔法学校のイメージである。)

「家」では十分な食料と衣類品が支給され、ふかふかのベッドで眠れる。
これだけでも、どん底の貧困の中で暮らしていた子どもたちにとって、文字通り天国のような場所である。
「安全・安心」が保障されている。

何と、「家」の中での裁判もある。
「〇〇さんにとても腹が立つので殴ってやりたい」という申し出もできる。
「先生のあの行為、言動に不服だ」ということで申し出ることもできる。
陪審員は完全なくじによる5名の選出。
「ルール」が子どもたちの手によって保障されている。
(ちなみに、裁判は大抵が事前の話合いで取り下げか、「落ち度のある側に今後の注意を促す」ということで決着する。)

さらにこの「家」では1か月を別荘の大自然の中で過ごすサマーキャンプもある。
運動会もあるし新聞の発行もあるし、様々な文化的活動がある。
「楽しさ」も子どもたちが生み出している。

つまり、80年以上前に、戦時下で最悪の状況の国で、理想的な自治的集団が存在していたということである。
即ち、今の我々にできないはずがない。
環境も何もかも、この状況より各段に揃っているのである。

しかし、なかなか実現しない。
なぜなのか。

やはりこれは、大人の「観」や「信念」によるもの、としか結論づけられない。
子どもを、その権利を、どう見ているかという問題である。

子どもへの「愛情」というものをどう捉えるか。
子どもには、豊かに健やかに、幸せに育って欲しいと願う。

しかし、やたら与えればいいというものでもない。
やたら守ればいいというものでもない。
子どもには、伸びる力がある。
踏まれても潰れても立ち上がる生命力もある。
どこまで守って、どこから挑戦させるか、ということである。

学級づくりにおいても、このあたりの匙加減が肝である。
支援として、それぞれに必要な環境は与える。
一方で、失敗しながらでも自ら獲得が期待できる部分は与えない。
指導はしても、手は出さない。
そこが、信頼関係の問題である。

自治的学級づくりを考える上で参考になるので、紹介してみた。

2019年7月21日日曜日

自治的学級づくりをどう実現するか

学級づくりを考える時には「先生自身が最も影響力のある教室環境である」という点をまずおさえる。
どんなにやり方を考えて工夫しても、担任自身が変わらないと、根本的には何も変わらない。
子どもが育つことと同じで、あくまで内側からの変化であり、外付けできないのである。

今の時代、いわゆる有名講師のセミナーが、全国のどこでも受けられる。
資料や書籍もネットで簡単に手に入る。
だから、あらゆる実践が、自分の教室ですぐに真似できる。

これ自体はいいことなのだが、問題がある。
実践が「パッチワーク」的になるのである。
(この表現は赤坂真二先生のセミナーで聞いたものである。)

異なる「観」に裏付けられた実践をつなぎ合わせることになる。
ごく極端に言うと、管理を目的とした手法と、主体性の育成を目的とした手法を同時に行う事態が起きる。

何が起きるか。
内部での混乱である。
特に素直な子どもたちは、担任に調子を合わせてくれる。

機械のように部品が合わないと全く動かないものと違い、人間には柔軟性がある。
自然界にない人工的な食材や栄養素でも、体に入ってきた以上無理矢理に消化しようとする。
それと似ていて、子どもに柔軟性があるが故に、教師自身の間違いに気付きにくいのである。

断言するが、どんなに優れた手法を使っても、根本的な学級づくりの変革にはつながらない。
表面的には変わるが、内面、内実は何も変わらない。
それは、上手な化粧のようなものである。
化粧で外見がどんなに美しくなっても、肌が美しくなった訳でも、人間的に素晴らしく変身した訳でもない。
(ただし、周囲の評価が上がるし、本人の自信になるという点で意味がある。ただし、表面的な評価と自信である。)

手法自体を変えても、本質は変わらない。
根本的には、担任の「観」に沿った学級づくりがなされる。
いわゆる「ヒドゥンカリキュラム」もその一つの現れである。
(例:「努力が大切」と口で言っておきながら、実際には結果ばかりを褒め称えれば、努力より結果が大切というメッセージになる。)

だから、学級づくりにおいては、観を磨き、本人が実行することが何よりも大切である。
学校の「研修」における「研究」の方ではなく、「修養」の方である。

表面的ににこにこしてもダメ。
表面的に褒めてもダメ
いい話をしてもダメ。
そんなテクニカルなことは子どもにも簡単に見抜かれる。
子どもは、教師の人間性を見ている。
(本当に騙してしまっていたら、それこそが大きな罪である。)

教師は、子どものために存在する。
子どもに存在価値のすべてを規定されている。
親が親たるゆえんは、子どもの存在があってこそ、ということと同じである。

だから、自治的な学級づくりや主体性のある子どもを育てたいと願うなら、担任からである。
担任自身が自治的であり、主体性があることが前提条件である。

自身が自治的とは、自分のすべきことを自分でする、ということである。
現状に甘んじることなく自ら問いをもち、新たな解決の手立てを考え実行する、ということである。
自分の行動による結果のすべてに責任がもてるということである。
子どもに主体性を求めるなら、自分が主体性をもって変わることである。

そして、自治的学級づくりにおいては、子どもへのリスペクトは絶対条件である。
学級の子どもは一緒に学級をつくる同志であり、それぞれがそれぞれの主役であり、仲間である。
目の前の子どもは今より必ず良くなると、心の底から信じ込めることである。
本当に悪い子ども、だめな子どもなんて存在しないという観をもつことである。

果たして、この点において、どの程度信じられているか。
多分、これは担任として充実した人生を送れるかの決定的な点である。
だめな子なんて、いる訳がない。
必ず良くなるから、教育に存在価値があるのである。

もしここの教育観について揺れや疑いがあるなら、次の本をおすすめする。

『ぼくたちに翼があったころ コルチャック先生と107人の子どもたち』
タミ・シェム=トヴ 作 / 樋口 範子 訳 / 岡本 よしろう 画 福音館書店
https://www.fukuinkan.co.jp/book/?id=1644

孤児院の子どもたちと相対する真の教育者の姿を通して、感ずるものがあるはずである。

自治的学級づくりは、自分づくりから、ということで話を締めくくる。

2019年7月20日土曜日

子どもの「好き」や「楽しい」の言葉を見つめ直す

ブログの更新をすっかり忘れていた。
再開し、夏休み中は毎日更新していくことにする。


「楽しい?」ときくと、ある子どもは必ず「楽しい」と答える。
「〇〇でいい?」ときくと「これが好き」と答える。

教師や親からすれば、とっても聞き分けがよい、「いい子」である。
特徴として、真面目だし素直だし努力家である。

問題は、こういった子どもはこれが本心なようで、本心でないことがある、という点である。

どういうことか。

子どもにも「忖度」の心はある。
いや、むしろ、子どもの方が強いと言ってもいい。
誰に対してというと、もちろん親に対してである。

子どもは、親に対して気を遣っていることが結構ある。
いつも一緒の母親に対しては「愛されたい」「嫌われたくない」という思い。
たまに一緒の父親に対しては畏敬の念を抱きながらも「ちょっと遠い存在、他人」という思い。

これが悪いという訳ではない。
人間なら、当然抱く感情だし、考え方である。
例えば大人同士でも誰かに料理をご馳走になって口に合わない時「まずい」と伝える方が社会的に相当まずい。
そういうことを前提にもっておくということである。

子どもは「自分の親はこう答えると喜ぶ」ということを知っている。
だからつい無意識に、親の喜ぶ答えを読んで口にしてしまう。
(高学年になると、発達の早い子どもにとっては予定調和の授業がつまらなくなるというのもここに関連する。
また、反抗期には敢えて逆の答えでくることもある。)

これを、本人も気付かずに無意識に行っていることがある。
だから「うちの子は〇〇が好きで」という親の言葉も、話半分できく必要がある。
親が望むように、子どもは行動するからである。
価値基準や行動規範の原型が、親だからである。

「親が喜ぶ」ということをモチベーションに勉強する子どもがいる。
それはそれでいいのかもしれないが、度が過ぎるのはまずい。
それでは大人になってからも、誰の人生を生きているのかわからなくなる。

ワガママすぎるのも困るが、自分を他人や社会の犠牲にしすぎるのも困る。
何事もバランスである。

自分の心を、自分自身が意外とわかっていないのである。
長じると、自分の好き嫌いすらよくわからなくなる。
他人の選択があたかも自分の選択であるかのようになっていく。

どんなに忙しくても「まだ大丈夫」といって倒れてしまう人がいるのもこのせいである。
「がんばれない人はダメな自分、愛されない自分」と長年にわたって潜在意識に刷り込んでいる。
心と体が悲鳴を上げているのに、自分にきちんと向き合ってあげていない。

子どもにも起きる現象で、何かを成功して成し遂げた後「これでやっとやらなくて済む」と安堵する。
周りの期待から「好きでやっている」と自分に暗示をかけているだけで、本人は早く辞めたいのである。

子どもが自分を出せるようにする。
そのためには、心と体の解放である。
そういった感情は、完成された出来合いのものの中ではなく、自然の中でこそ育つ。

自然の中のものは、自然そのものである。
自然はただそこに自然として存在する。
生物はただ生きているし、そこに存在価値の優劣はない。
「自分は何もしないでも、存在そのものが愛される」という自然の状態である。
子どもはもちろん、大人にこそ必要である。

夏休み中は、大人も子どもも、本当にリラックスして、各自が自分の好きなことをして過ごすようにしたい。

2019年7月3日水曜日

通知表の今昔

通知表の話の続き。

昨年度、「昭和館」という資料館の実物資料で、戦時中の小学一年生の通知表を見た。
80年ほど前の通知表である、

「今と何が同じで、何が違っていると考えられるか。
歴史的な背景も考慮して考えを述べなさい」
などという入試問題にも使えそうである。

ちょっと予想してから読み進めてもらいたい。
単にその方が、読んでて楽しいと思われるからである。

ただし、この通知表はほんの一例であり、全てがこの形式だった訳ではない。
それもわかった上で、気付いたことを羅列してみる。

1 教科と評定について
全教科の評定が甲乙丙の三段階でつけてある。

教科の記載の筆頭は「修身」、つまり今でいう道徳科である。
こちらもしっかりと評定されている。

国語の評定の記載は、その次である。
国語に関してのみ「読」「綴」「書」の三つの観点別評価である。
読むこと、作文、書の三つである。
「話す・聞く」は、ない。

そして理科や社会は一年生ではやらないので、斜線で消してある。
ここも同じである。

あとは算数や図工、音楽、体育などと続く。
(順番は忘れた。)

2 所見について
所見欄等、記述は一切ない。
当時の一学級あたりの子どもの数を考えると、納得である。

今は高学年だと
総合所見
特別活動の記録
総合的な学習の時間
外国語
道徳
の記述欄がある。

これを考えると、現在の通知表作成が負担にならない訳がない。
この記述を多くの保護者が「歓迎」「感動」してくれているのならば、労力も報われるが。
本当に「労多くして功少なし」な作業である。

3 出席日数等について
現在の通知表では、「出席」「欠席」「出席停止」がまとめて記載してあるのが通常と思われる。

当時は、教師の通知表と同じで、これの月毎の記載があった。
そして欄は
「出席」「病欠」「事故欠」「出席停止」である。

ここですごく引っかかった。
「事故欠」の記載。
80年前から、今も同じ表記である。

事故欠とは、交通事故等の欠席を指す訳ではない。
病気と通院以外の理由の、全ての「欠席」である。
(何を病気とみなすか、という判断の問題も含まれる。)

これは完全に予想だが、この当時は本当の「事故による欠席」が多かったと考えられる。
なんと言っても、戦時中である。
戦争中の非常事態に、事故はつきものである。

今は、どうか。
現代の事故欠の内訳は、ほぼ「家庭の都合」である。
つまり、自己の都合による欠席である。

この「事故欠」表記が現代において適切かというと、正直かなり紛らわしい。
「自己欠」の方が適切ではないかと思ってしまうぐらいである。
しかし、何十年もそのまま使われているのが現状である。

不易と流行というが、価値があるから不易なのである。
何となくとか当たり前とか慣例とかは、不易とは違う。

前例を踏襲しているだけ、付け加えているだけ、といった、変わるべきものは、まだまだありそうである。

2019年7月1日月曜日

通知表って何なんだ

今の時期、数日間「短縮日課」になっている学校も多いと思われる。
通知表の成績をつけるためである。
子どもにとっては早く下校できるから、たくさん遊べるいい機会である。

ところで、通知表とは、法的にどのような位置づけのものなのか。
メルマガの方のタイトルに「二十代」を冠していることもあり、老婆心ながら記す。
以下、文科省のH.P.より引用である。
(元々が表になっているので、表記の都合上、一部改変して記す。)

==============
通知表(通信簿)
【法的な性格と内容】
・保護者に対して子どもの学習指導の状況を連絡し、家庭の理解や協力を求める目的で作成。
法的な根拠はなし。

【作成主体】 
・作成、様式、内容等はすべて校長の裁量。
・自治体によっては校長会等で様式の参考例を作成している場合も。

【文部科学省の関与】
・なし。
================

文部科学省のH.P.に記されていながら、「関与なし」なのである。
つまり、法的には、なくても問題ない。
「慣例」である。
(ただし、指導要録は教育委員会の定めた様式で作成する必要がある。)

要は、法的根拠がないとはいえ、家庭の理解や協力を求めるのが存在理由である。
「子どもを励ます」というのは、正当な気がするので誰も反論しないだけで、実は時代の流れにおける後付けの理由である。
あくまで、保護者向けである。

個人的には、もう、これは、なくてもいい気がする。
子どもも保護者も、評価されるのが、本当に嬉しいのだろうか。
(道徳の記述評価が嬉しいのか、役に立つのかは、さらに疑問である。)
「知りたい」というのはわからないでもないが、実際、保護者が知ってどうこうできるものでもない。
現場での実感である。

「正しい評価」の弊害の面も考える必要がある。
例えば私は、当時相対評価だから仕方ないが「C」をくらった教科がいくつかある。
一生懸命やっての「C」である。
もちろん、嫌いになったし、今でもそれらの教科は不得意だと思い込んでいる面がある。

一方で、以前紹介したが、5段階で「音楽1」を付けられた子どもが、世界的な音楽家になることもある。
別に1だから発奮した訳ではなく、評価した側のミスである。
評価者の「見る目」の問題である。

通知表は、何のためにあるのか。
学校の「当たり前」を見直すべきものの一つである。
  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング