2017年3月30日木曜日

教育現場の脱・ガラパゴス化

前回に関連いて、教員の働き方について。

年中無休で学校に通い、毎日夜遅くまで残業が当然という人もいる。
こういう人は異常にたくさん、難しい仕事をふっても文句を言わずがっちりこなしてくれるため、重宝されている場合が多い。
それで、定刻退勤する人を単純に労働時間で評価し、「やる気がない」と見なす現場も存在する。

子育て中の母親教員などは、まだ理解されやすい。(それでも、うるさい輩はいる。)
たとえ新規採用の若い人にだって、その人なりの事情があると思う。
何がその人のプライベートにあるのかなんて、全くわからない。
「若い内は残業してがんばるのが当然」という昭和な論理を平成の若者に当てはめてもだめである。
プライベートの世話をできない以上、時間外に何をするのかに口出しするのはマナー違反というより契約違反である。

そもそもその仕事量自体が多すぎないかという視点も必要である。
株式会社「ワークライフバランス」代表取締役社長の小室淑恵さんは、昨年3月の時点で
「3年で長時間労働をやめなければ日本は破綻する」
と提言している。

日本はバブル期の「人口ボーナス期」から、真逆の「人口オーナス期」に入っているということである。
男性が死ぬほど残業していれば企業の売り上げがぐんぐん伸びた時代は、はるか昔に終わった。
(「24時間戦えますか♪」は、あの時代を象徴する秀逸なキャッチフレーズである。)
「人口オーナス期」においては、介護等も絡み、短時間労働が主になる。
企業がこれから先、生き残るには、業務量自体を減らす以外ないということである。

ここに気付かないと、学校はかつてのケータイではないが「ガラパゴス化」の一途を辿ることになる。
一般企業と全く違う形態でこの先やっていけるはずがない。
ただでさえ学校の常識は非常識とか、遅れているとか言われているのに、これ以上時代に取り残される訳にはいかない。

日本の教員の働き方の常識は、世界の非常識であり、社会の非常識である。
まずこの認識に立つことが大前提。
何でも努力と根性で解決してしまう教員は、その論理を、きっと子供に対しても適用する。
「ガラパゴス教師」に教わる子供は、不幸である。

努力と根性は、いざという時の切り札として必要である。
言うなれば「ターボ」であり「必殺技」である。
しかし普段から切り札を出しっぱなしでは、やがて負けは必至。

まずこの認識に立ち、自分のできることを始めることが大切と思う次第である。

2017年3月28日火曜日

「土日の部活は常識」?

土日の部活動と教員の働き方の常識について。

プレジデントオンラインで次の記事がアップされた。
「土日の部活は常識」陰の推進者はあの人
http://president.jp/articles/-/21376

例の如く興味を引くために、やや刺激的なタイトルになっているのはご容赦いただきたい。
オンライン記事にとって、キャッチーなタイトルは命なのである。

「親技のカガク」という親対象の連載のため、保護者に部活動顧問への理解を求める内容になっている。
しかし土日部活動の是非を問うことの複雑さは、各顧問及び学校間の温度差が大きいことが強く関係している。
年中無休でも構わないぐらい情熱を注げる人もいる。
それはそれでいい。
むしろ、地域や学校によっては求められるところでもある。
ただ、そこをスタンダードにされると厳しいという本音をもつ人が結構な割合でいる、ということである。

この原理は、部活の顧問だけでなく、学級担任にもいえる。
次回はここに関連して、学級担任の働き方について考えていく。

2017年3月26日日曜日

なるほど力

金大竜先生からの学び。

ごんぎつねの模擬授業があった。
こんな授業はどうかという提案である。

懇親会の席で、この話になった。
「どうだった?」と聞かれたので、私見を伝えた。

なるほど、そうかー。
勉強不足やなぁー。

そんな反応である。

本人曰く、「勉強不足」なのだという。
どんなに勉強している人でも、勉強不足。
多分、一つ一つに理由をつけて、反論はできたはずである。

指摘に、反論しない。
受け止める力がある。
(なるほどと言うだけで流す人もいるかもしれない。)
一旦受容するというは大切な力である。

このメルマガで、野口芳宏先生のごんぎつねの授業の話を以前書いたことがある。
野口先生は子どもの解釈に「なるほど」と参った訳である。
それを向山洋一氏が見て、声をかけられ、野口先生は様々な場へ出ることになったというのである。

つまり、大きくなる人は、なるほど力。
自分が考え抜いて全力を尽くしたものを脇に置いても、なるほどという。
この力の有無が、明暗を分けると気付いた次第である。

2017年3月24日金曜日

「今日の学び」でメタ認知

2月に千葉で行ったサークルセミナーの講師、金大竜先生からの学び。

私は、毎日子どもに日記を書かせる。
初任の頃から十数年、形を変え続けてやっている実践である。
帰りの会前の3分間を使うことが多い。

テーマは大抵「今日の学び」である。
特に、気付きを書くことを求める。
気付きとは、習った内容ではなく、そこからの発見である。
学んだ内容を、客観的に見つめ直し、自分の中に落とし込む作業である。
メタ認知能力を磨くことをねらう。
「サッカーでシュートを決めて楽しかった」ではなく、「自分がシュートを決められたのは、〇〇さんのお陰」に気付くことである。
「自分が空きスペースに動くということは、仲間の空きスペースを作ることにもなる」ということに気付くことである。

これを、自分自身にも課す。
今日の気付きを、ノートに書く。
子どもへの気付き、自分の指導を、毎日ふり返る。
金先生は、これを続けているという。
私もやっていたのだが、最近は抜けていて、反省してやり直す決意をした次第である。

メタ認知能力を磨く。
そのためには、書く。
書いて書いて書きまくる。
子どもにも教師にも大切なことである。

2017年3月22日水曜日

知らないのは教える側の責任

教育者モラロジーと木更津野口塾での学び。

今年の建国記念の日は土曜日だった。
土曜祝日は、意識されにくいので流されがちである。

皇紀は西暦より660年長いので2677年。
建国2677年ということになる。
在位中は今上天皇という呼び方をして、現在は125代目。
在位中は平成天皇という呼び方はしない。

こういったことを私が知ったのは、教えてもらったからである。
大多数が知っている「常識」的知識ではない。
教えてもらわなければ、知りようがない。

しかし、日本国憲法公布や施行の日は、はっきり言える人が多い。

なぜか。
教えられたし、社会科のテストにも出るからである。
そういうものである。

知識に地位はない。
流行りのお笑いも世界情勢への知識も、知ってるか知らないかである。
直接何かで使う知識、利得のある知識は、周知される。
そうでない知識は、放置される。

要は、大切だけど直接使わないような知識は、教えてもらう他はない。
知らないことは罪ではない。
教えてないことに問題がある。

これからの学校教育では、家庭教育では、社会では、何を教えるのか。
ただ流れるままにしていては問題があると思った次第である。

2017年3月20日月曜日

ルールは5W1Hで考える

メルマガの方は1200号である。
思えば、よく続いている。
続いてる理由の一つが、前号でも話題にした「ルール」である。

私の師の野口芳宏先生の言葉の一つに「他律的自律」がある。
つまり、「2日に1回発行します」と宣言することで、自分に制限を課している。
相当にきつい時もあるが、設定したルールだからやらざるを得ない。

もしここに時間的ルールがなくて「自由」といわれたら、かなりランダム発行になる。
1日に3号出す日もあれば、1ヶ月出さない時もあるかもしれない。
不安定である。

時間の秩序が、安全をもたらす。
時間は、宇宙の法則に規定される。
1日24時間で地球が回ってくれるから、地球は等しく太陽の恩恵を受けることができる。
1年365日で太陽の周りを回ってくれるから、四季の恩恵を受けることができる。
これが不安定に回るようなら、あらゆることが立ち行かなくなる。
朝起きたら夜だったり、ずっと昼、ずっと夜。ずっと夏。ずっと冬。
生活が成り立たず、めちゃくちゃである。

時間のルールというのは、有効で意義のある制限の最たるものである。
話し合いを「〇分まで」と決めることで、話し合いの内容が変わる。
1分か3分かの違いは、たかだか2分だが、かなり大きい。

ルールを考える時の5大要素を考える。
1 時間
2 場
3 人
4 物
5 行動

要は「いつ・どこで・誰が・何を・どのようにどうする」である。
5W1Hである。
特に時間は、すべての人に分け与えられた平等なものであり、ルールの上でも尊重するようにしたい。

2017年3月18日土曜日

話し合いの自由と制限

前号の続き。
話し合いにおける危険とは何か。
それは「批判されること」である。
中には剛胆な人もいて、批判大好きという人もいるが、相当レアである。
普通の人、特に子供は、自分の意見を批難・批判されることは好まないことが多数である。
手を挙げて間違えたらどうしようというのも同じ理由である。
間違えると何か言われる風土がある=危険=不用意に発言しない という流れである。

では、自由な話し合いに安全を確保するにはどうするか。

まず、「制限があるからこその自由」という前提を考える。
一定の枠組みの中で、選択の自由が与えられている場合である。
スポーツ全般などはこれに属する。
サッカーで、どこにパスを出すかは自由だが、それはコート内であることや、手を使わないことなどの制限がある。
そして、殴ったり蹴ったりしてはいけないという安全面の制限がある。
制限があるからこそ、選択肢ができ、創造性を発揮できるという面がある。

そこで話し合いの自由と安全について考えた場合も、一定のルールが必要である。
様々な研修会に参加したり、実際に自分で授業をしたりすると、ルールの大切さがわかる。
ただ「話し合って」よりも、一定のルールがある方が話しやすいし、話が盛り上がる。

例えば、私が毎年受ける赤坂真二先生の講座では、
「〇〇について詳しいとお聞きしましたが」と前ふりをしてから、隣の人と話すように言われることが結構ある。
これは、半分冗談なのだが、そう言われると話さざるを得なくなる感じになり、話の促進に一定の効果がある。

他のルールもある。
「隣の人と」「後ろの人と」「男女で」「初めて会う人と」など、話す相手の指定。
「2人で」「3人組で」などと、人数の指定。
「最近感動したこと」「最近最も関心のある教育問題について」など、テーマの指定。

話し合い自体のルールも大切である。
例えば「相づちをうちながら」というのは、一般的なコミュニケーションスキルであり、肯定的スキルである。
しかし、この行為には、裏の面もある。
反応するということは、評価にもつながる。
すると、人によっては、話しにくいのである。

この真逆をいって「反応しない」「一切口をはさまない」「ひたすら聞く」というルールを設け、輪番で話す方法もある。
「制限時間1人1分」というように枠も決めておく。時間内は、その1人のみしか話す権利がない。
意外なことに、これは結構話しやすい。
途中で口を挟まれないので、話したいことをしっかり話せる。
どう感じようが評価による反応はないので、とりあえず話したいことを話せる。
時間も全員にきっかり与えられているので、不平等感がない。
「時間が余っても、何でもいいからしゃべる」ということで、とにかく時間を使い切らせる。
全員が終わった後でフリートークを入れれば、もっと話したい人がそこで話せる。
結果、全員が話して全員の意見を聞き、満足する訳である。

手法は様々であるが、特に初期の段階はいくつかの話し合いルールがあった方がうまくいく。
慣れてきて使いこなせるようになったら、枠を外していくという感じである。

今後、教育で「自由」を志向するからこそ、ルールにはよくよく気を配りたい。

2017年3月16日木曜日

自由と安全

自由な話し合い。
自由な活動。

聞こえはいい。
しかし、実際にやってみたら、ぐちゃぐちゃになったという経験のある人が多いであろう。

「自由にさせる」というのは、かなり気合いがいる。
乳幼児が集まって遊んでいる「自由」と同じ状態になる。
ルールや方向性がないため、どうなるかさっぱり分からない。
こちらから見れば用途が明らかに決まっているものでも、全く違う遊び方をする。
ある意味「アート」である。
それが「遊び」の創造性であり良さでもあるのだが、当然危険なこともする。

そこでどうするかというと、「安全第一」で危険物を取り除くことになる。
ビー玉などの飲み込みそうなおもちゃは与えない。
はさみなどの刃物や、鋭利な角のあるものなど、ケガをしそうなものは与えない。
投げたら壊れてケガをしそうなものは与えない。

ルールがない分、予め危険要素を排除するという配慮が必要になる。
何が危険要素かは、その知的発達の度合いによる。
はさみを与えるタイミングは、「切れてケガをすることがある」と判断できるかどうかである。
(2歳未満の子供に「危ないでしょ!」と怒鳴って叱っても、安全の判断ができないのだから無理である。
 訳もわからず恐怖感でやらなくなるかもしれないが。)

話し合いを「自由」に近づけたいという場合、ここの配慮が必要である。
自由な話し合いも、安全のベースがあってこそである。
では、話し合いにおける「危険」とは何か。

長くなったので、また次号。

2017年3月14日火曜日

「〇〇なら知ってる」の勘違い

休日で緩い話。

ずっと以前、「パンケーキ」なるものを食べてみるという、どうでもいいことを編集後記に書いたことがある。
実際食べてみて、なるほど、普通のホットケーキよりかなり分厚いくて色々のっているのね、という印象だった。
1回食べたことにより、「パンケーキ?食べたことあるよ。」的な態度である。

しかし、である。
先日、別の店で久々にこれを食べることにした。
出てきたものは、全くの別物である。
ものすごいふわふわ感。
ホットケーキの分厚いやつではなく、全く別の類の食べ物。
とんでもない量のクリーム。
うまし。
(そして、食後かなりの胃もたれ感。)

「パンケーキは知っている」といっても、別次元のパンケーキが存在した。
衝撃である。
これは、あと10回ぐらい別の店で食べないと「多少なりともパンケーキを知っている」と言えないのではないかと煩悶した訳である。

で、教育メルマガ的に何が言いたいのかというと「〇〇を知っている」という時、かなり気を付けないといけないということである。
例えば教育の分野でいうと「野口流〇〇」「向山型〇〇」「原田メソッド」「陰山メソッド」「ほめ言葉のシャワー」など、様々な教育の論や手法がある。
これらを「知っている」人も多いだろう。
実際やってみたという人もかなりいることと思う。

しかし、である。
「知っている」とは、どの程度を指すか、相当に曖昧である。
何十年もそれをやり続けている人も、ちょっとかじった人も「知っている」という言葉に包含される。
例えば私は「野口先生の国語ならよく知っているでしょう」と言われることがあるが、とんでもない話である。
野口芳宏先生の国語実践は、とんでもない量があり、その全体の1%すら知らない。
全国に「野口塾」があり、著作もそれ以外の出版物も山ほど出回っているから「知っている」人も多いだろう。
野口実践だけでなく、その人生までも研究して本にする方もいるぐらいだが、そういう人ほど「よく知っている」とは言わない。

幼児や小学校低学年を考えるとわかる。
子供たちは何か提示するたびに「それ、知っている!」と大騒ぎする。
「知っている」レベルが浅いほど、「知っている」と堂々と言えるのである。
私の「パンケーキ知っている」がその好例である。

次期学習指導要領においては「深い学び」が必須条件である。
「深い学び」とは、「知っている」が増えるほど新たな疑問が生じて「知らない」が増えるという、一見矛盾した現象が起き続ける学びである。
ソクラテスの「無知の知」である。

今後「〇〇のこと知っている?」と聞かれたら、ちょっと立ち止まって答えるようにしたい。

2017年3月12日日曜日

お腹がいっぱいでも夕飯の献立を考える

外食して、ランチをお腹いっぱい食べる。
その後は帰って昼寝、といきたいところだが、台所を守っている者は違う。
お腹いっぱいの状態で、家族の夕飯の献立を考えて、買い物に行くのである。
その際に聞かれる
「今日の夕飯何がいい?」
という母親(または妻)の質問に辟易した世界中の子どもや旦那の数は、はかり知れない。

何が違うかというと、責任感である。
台所を守る者は、単に食べたら終わりの「消費者」と違い、「生産者」としての責任と見通しがある。
面倒でもここでやっとかないと、後々困ると知っている。
頭が下がる思いだが、当の「消費者」本人たちはお腹いっぱいなので、正直「今は面倒」としか思えないのが本音である。
「消費者」にとって、自分事になっているのは、「お腹が空いた時」だけなのである。

この心理の原理、復興支援に対しても似た部分がある。
震災当時、多くの人が関心をもった。
特に6年前、東北や関東近辺の人間にとって、震災は「明日は我が身」の緊急事態の自分事であった。
だから、復興支援にも協力したし、自分の身の回りを次なる震災に備えて整えたりもした。
九州は遠いから安全と思っていた矢先に、今度は熊本だった。
我々は、日本に住んでいる以上、常に同じ問題を共有し続けているといえる。
過ぎ去っても、いつかまた必ずどこかにやって来る。
歴史がそれを証明している。

しかし、喉元すぎれば何とやらで、マスコミやメディアも、時が経つと大きくは取り上げなくなる。
そうすると自然、「復興が進んだ」「もう大丈夫」と錯覚する。
支援が減る。
事実、震災へのボランティアの人数も支援金額も、年々下がってきている。
震災への自身の備えも甘くなる。
要は、お腹が満たされているから、先々必ず起こるであろう問題のことを考えなくなる。

福島原発をはじめとする震災の問題が数多く残っている以上、東京オリンピックだって安泰とはいえない。
世界に誇る日本にしていくためには、ここを無視できない。

私が大好きな、東北出身の児童文学作家、宮沢賢治の言葉。

「世界全体が幸福にならないうちは 個人の幸福はあり得ない」

私は、この言葉の「世界」とは自分の知覚(近く)の世界を指すと解釈している。
つまり、家族や学級のような小・中集団から、地域、日本、世界という大きな単位まで、知ることのできる社会的な集団すべてを指す。
少なくとも、目の前の人と言い争っている内は、世界中の戦争もなくならないし、平和も幸せもないと思っている。
被災地は、自分の属す日本という国の一部である。
体のどこか一部がひどく痛むのだから、そこを無視しては本当に健康とはいえない。

一人の人間にできることはごく限られている。
そのごく限られたことをそれぞれが果たしていくことしかできないが、それが集まることでとてつもなく大きな力になる。
長期的な視点をもって、今必要な行動をしていきたい。

被災地に寄せる思いが共有できたら幸いである。
3月26日(日)の「被災地に学ぶ会」
ご興味のある方は、本ブログへのコメント欄への書き込みか、メルマガ上の私のメールアドレスまで。
(今回に限り、コメント欄は、私が確認して返信後に削除いたします。)

2017年3月11日土曜日

被災地の復興は終わらない

東日本大震災から6年が経った。
復興が進んでいるようで、被災地の中には「手つかず」の状態で放置されている地域もたくさんある。
先日紹介した女川中学校の生徒の書いた作文を読めば一目瞭然だが、心のケア等含め、復興はまだまだというところである。

さて、私の尊敬する先生が主催している次の会がある。

 第27回被災地に学ぶ会in南相馬
 3月26日(日) 4:00集合 20:00終了
 集合・解散は草加市社会福祉協議会駐車場
 参加費5000円(学生は無料)

会の名称に注目していただきたい。
「被災地に学ぶ会」
である。
被災地に行けば、学ぶことは数知れない。
「助けに行く」というより「助けさせてもらう」という方がより正確である。

被災地に行くと、他人事が、自分事に近付く。
同じ日本人としての意識もはたらく。
日本の問題を、自分事として捉える機会にもなる。

そしてボランティア活動の理念は
「できる人が、できる時に、できることをする。」である。
今回、たまたまだが、前日に小学館での発表がある。
神保町と草加駅が割と近い。
チャンスである。
私はそのまま宿泊して参加させていただく予定である。

この会では、当たり前だが教育のハウツーは手に入らない。
しかし、参加すれば確実に得るものがある。

興味のある方は、ご連絡いただきたい。

復興したと思うのは、都心部や遠く離れた場所にいるからである。
被災地の復興は終わらない。
同志の参加をお待ち申し上げる。

2017年3月9日木曜日

鬼を救う寺

今回も節分の話。

奈良県のあるお寺では、「福は内、鬼は内」と唱えるという。
全国で追い払われた鬼たちを仏門に帰依(神仏を信仰させること)させるためだという。

なるほど、追い払われた鬼にも行き場が必要である。
全国の「鬼」に、救いの手をさしのべる。
苦しんでいるものほど、救いの手が必要である。

そう考えると、子どもの中の「鬼」にこそ、救いが必要である。
学校は、「鬼」を追い払う場ではなく、救う場である。
怠け心も卑しい心も何もないのならば、救う必要はなく、来る必要もない。
そういう「鬼」が心の中にあるからこそ、学校は集まって学ぶ意義がある。
学校に来る子どもがみんな勤勉で誠実で完璧な善人ならば、教師に教えられることは一つもない。

むしろ逆で、人間の中には「鬼」がいることを認める。
教えている教師の方にもいることを認めて、伝える。
「私はいつも真面目で道徳的で、完璧な生活をしています。」という人がいたら、気持ち悪い。
親だって教師だって、そんな立派な人間な訳がない。
煩悩だらけである。
そういう人間が集まって、多少なりとも良くなっていこうという場なのである。

だから、悪いことがあってもいい。
良くなろうとすること自体が大切である。
「鬼」は大人になっても一生ついて回るものだから、一生勉強である。
「鬼」に支配されてはいけない。
付き合い方が大切である。
子どもに教えるとともに、自分自身の「鬼」との付き合い方を考えたい。

2017年3月7日火曜日

鬼と悪と正義

節分の時の記事。

節分は、今では、春分を指すようになってきたが、本来は年に4回ある。
立春、立夏、立秋、立冬の前日はすべて節分である。

蘊蓄はこれぐらいにして、節分といえば豆まき。
豆まきといえば鬼。
学級では、鬼の出てくる話や絵本を読むのが通例である。

鬼の話。
みなさんは、何が好きだろうか。

私は『おにたのぼうし』が一押しで大好きである。
あまんきみこさんの文体と、いわさきちひろさんの挿絵の絶妙な取り合わせ。
「おにだって、いろいろあるのに。おにだって……」の名言。
おにたの姿に、ぐっとくる。
素晴らしい作品であるからこそ、国語の教科書にも広く採用されている。
しかし、教科書に載ると、かなしいかな、「教材」として見られてしまい、子どもの「好きなお話」ではなくなってしまうことが往々してある。
ぜひ、ああいう作品は「いじりすぎ」ないで授業をしていただきたい。
私は常々「いい素材はそのまま食べる」ことを推奨している。
(大トロは、刺身が一番。炙るまで。煮たりこねたりしたら、台無しである。)

こういう例外的なお話以外、「鬼」というのは、原則「悪役」である。
そこに光を当てた作品が個人的には好きである。
「桃太郎」のように、勧善懲悪の構図はわかりやすい。
わかりやすいものは、大衆の心を掴む。

ただ、世の中は実はそんなに単純ではなく、善か悪かは、実際は時の為政者が決めることである。
やられた鬼の側は、悪者にされたら黙っているしかない。
歴史は、正義は、時の権力者が決める。
悪にも悪の側なりの、正義があるのだが、歴史に抹殺される。
勝った方が正義という論理でいくと、最後は戦争である。

鬼から話が逸れた。
節分は、正義や悪とは何かを考えるのにもいい機会である。

2017年3月5日日曜日

「シャイ」に逃げない

前号「24時間道徳」で、まぐまぐニュースで取り上げられた記事について書いた。
他の方の書いたもので、なるほどと思ったものがあったのでシェアする。

『「優しさは世界一」の日本人が、電車で老人たちに席を譲らない理由』高橋克明
http://www.mag2.com/p/news/134840

この記事を読むと「日本人はシャイ」とある。
そう。
シャイ。
ちょっと好意的なニュアンスを含む言葉である。
辞書を引いてみる。

『広辞苑』によると
「内気。はにかみ屋。」
『明鏡国語辞典』によると
「内気なさま。恥ずかしがりであるさま。」

例えばきちんと返事ができないあの子も「シャイ」なのである。
「ありがとう」が言えないあの子も「シャイ」なだけである。
素直に謝れないあの子も「シャイ」なだけである。
そしてそれができない時がある私も「シャイ」なだけである。

ただ、しかし。
「シャイ」な人が自分自身を理解をしてもらうのは、時間がかかる。
そして、「シャイ」な人はすぐに行動に移さないため、必要な時に必要な行動をとれない。
そして、必要な時は「瞬間」にやってくる。
たまたま出会った初対面の人にはその「1回きり」で、相手の評価がくだる。
1回しかチャンスがなければ、その時の評価は「シャイ」では済まない。
ビジネス関係なら、二度と会ってもらえない。
1回の評価で「さようなら。」である。

「シャイ」という言葉に逃げない。
自分自身ができるようになってから、初めて子どもにも教えられることである。

2017年3月3日金曜日

24時間道徳

「まぐまぐニュース」に掲載された次の記事から。
『目の前の急病人を助けない大人が、子供に道徳を教えられるのか』
http://www.mag2.com/p/news/232955

元々はタイトルにあるような立派なことを言おうとした訳ではない。
(ちなみに、メルマガでの原題は「ホームで人が倒れていたら」である。)
どちらかというと、人助けできると、自尊感情が高まるということが言いたかったのである。
人助けは「させてもらう」ことだということが主張だったのだが、書いている内に道徳の話になってしまっていた、というのが真実である。
(そして、ネット上に出回ると、色々な人の意見が入って、記事が一人歩きしはじめる。さよなら、私の記事。)

道徳の実行力。
それには、「基礎体力」が必要である。
普段から良いと思うこと、簡単なことをさっとできることである。
大きいことをするのではなく、本当に小さいことである。

教室や廊下にごみが落ちていたら拾って捨てること。
物が乱れていたら整えること。
一人ぼっちのクラスの仲間に声をかけること。
どれも、教室でつけられる力である。

道徳の授業は大切。
一つのテーマについて真剣に考えていくことは価値がある。
しかし、実際は「24時間道徳」である。

24時間道徳的な人間でいろという訳ではない。
そんなことは不可能である。
そうではなく、1日24時間が道徳学習の機会という意味である。

道徳は、生き方そのものである。
教科化が注目されるが、もっと根本の生活の方にこそ着目する必要がある。

2017年3月1日水曜日

当たり前に気付く

最近、富士山がきれいによく見える。(ちなみに、1月発行の記事である。)
空気が乾燥していて、雲が少ないためである。
朝焼けもきれいである。

よく、「自然の美しさに気付くのが大切」と言われる。
朝焼けだったり夕焼けだったり空だったり月だったり、そういうものである。
関東の子供だと雪が降るだけで大喜びするが、東北や北海道の子供には日常風景だろうと思う。
(それでも喜ぶのか、雪かきが面倒だと思うかは、わからない。)
当たり前になると感動しにくくなる。
要は、自然への感動の話も、身の回りにある当たり前の良さに気付くのが大切ということと解釈した。

今はインフルエンザが流行り始めているので、健康であることの有り難さを見直せる。
高熱が出る度に思い出すのだが、感謝も感動も先取りした方がよい。
子供が普通に登校してくるのにも感謝できる。

先日は、市内の球技大会の会場校として運営に携わったが、職員が当たり前のようにサポートしてくれていた。
役割を振れてない以上、私がやらねばならないのだが、いっぱいいっぱいである。
役割でない人が陰でやってくれる。

自分の置かれている環境の当たり前に、改めて感謝したい。

スペースを埋めない

7月29日、高校サッカーインターハイが開催される。 私も高校時代、燃えていたので、どこか出るのかとかは気になる。 さて、サッカーでは、ポジショニングが大切である。 それぞれの選手がその瞬間にどこにいるか、ということが次のプレーを左右する。 ポジショニングの上で大切なこ...

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