2015年1月29日木曜日

学級は期間限定の「家族」

学級担任は、喜怒哀楽の感情が揺れる機会が多い。
担任する子どもの変化に一喜一憂する日々が続く。

いいことばかりならいいが、そうはいかない。
子どもは、こちらの思うようには動いてくれないし成長してくれない。
我が子ですらままならないのだから、まして他人の子どもが思うようになる訳がない。

我が子の良くない行動は見過ごせない。
担任している子どもの良くない行動も見過ごせない。
担任している子ども以外でももちろん注意するが、気持ちの入り方がかなり異なる。

担任しているということは、その場にいる間のその子の責任者である。
全員の健やかな成長を願い、無視できない存在となり、どんな嫌なことがあっても見捨てられない。
(この点で、「不登校」という状態は、一番難しい。関われる時間が圧倒的に短くなる。)
子どもたちお互いも、偶然同じクラスになった仲間ではあるが、全員で一つの共同体である。
助け合わないとやっていけないし、誰かにいいことがあったら一緒に喜ぶし、互いのトラブルも起きる。

その点で、家族に近いものがある。
本物の家族との決定的な違いは、期間限定であること。
親は一生親だし、兄弟は一生兄弟だが、クラスは一年間で解散する。

限られた期間だからこそ、必死にやる。
一方で、本物の親のように、一生の責任を負うことはできない以上、関わり方にも限界がある。
一生の責任を負う覚悟の保護者の意向は、絶対に無視できない。

限られた時間の中ではあるが、子どもを預かれる有り難さ。
どんなことも、期間や枠があるからがんばれる。
短い時間の「家族との時間」だと思って、辛いことも楽しいことも感謝して過ごさせてもらいたい。

2015年1月27日火曜日

警察と教師 「規則を守らせる」の違い

前号の続き。
地域の安全・安心を守るヒーローの仕事ということで、警察を例に挙げた。
教室の安全・安心を守るという点で、教師の仕事と共通点がある。
しかし、この点においても、警察と教師は決定的に違う。

何かというと、仕事の目的である。
警察の取り締まりの仕事の目的は、治安維持による地域の正常化が第一。
教師の生徒指導の仕事の目的は、治安維持による学級の正常化に加えて、指導による子どもと集団の成長。
だから、それぞれの目的に合った手段をとる。

警察の仕事と違い、成長を目的とする教師の場合は「お目こぼし」がある。
(逆に、警察でそれは困る。)
また、規則を破ったといって、必ずしも罰則を科さないという点も違う。
どちらも、子どもの成長を第一に考えるためである。
だから、規則を破っても、寛大な措置をとることがあり得る。
また、「次は直そう」と励ますだけのこともあり得る。
一方、寛大に対応しない場合や、厳しく叱る場合もあり得る。
繰り返すが、子どもの成長を第一に考えるためである。

子どもは学級という集団に属しているため、集団としての成長も欠かせない。
「規則第一」では、子ども集団がいきいきと活動できない。
一方、「規則を破っても大丈夫」という空気が醸成されると、これも成長を阻害される。
悪いことも良いことも人間の成長段階の一行為として認められるけれども、最終的に良いことをしている人がいい思いをする。
そういう空気を作ることが、教室の安全・安心につながるのではないかと思う。
失敗が認められる空気というのも、安全・安心の教室の条件の一つである。

規則でがちがちの教室は、息苦しい。
けれど、規則が機能していない教室は、怖いし居るのが辛い。
規則を破ってしまう経験や、叱られる経験も、成長の一過程である。
規則を、あくまで子どもの幸せのために正常に機能させるのが、教師の責務であると思う。

2015年1月25日日曜日

優しさと強さ ~ヒーローの条件~

今回は思い切り「教育観」の話。

映画を観た。
『"優しさ"で世界を救えるか?』のキャッチフレーズのあれである。
とても楽しめた。
そして結論から言うと、『アンパンマン』同様、ヒーローには「優しさ+強さ」が必要である。

善人と悪人がいる訳ではなく、みんな良いことも悪いこともする。
悪いことをしている時に、自分で直せるなら苦労はない。
止めてくれるのがヒーローである。
困っている時、悪いことをされて苦しんでいる時に、自分で解決できるなら苦労はない。
助けてくれるのがヒーローである。

「止めよう、助けよう」とする心は「優しさ」から来る。
自分だけが大切で相手のことをどうでもいいと思う人は、自己が傷つくことを恐れて他人を助けない。

「止める、助ける」ということの実行力は、「強さ」である。
この「強さ」には腕力だけでなく、折れない心の強さや、頭脳の明晰さなど様々ある。
ここがないと、止められないし、助けられない。

大きく日本の社会で考えると、法や制度がそれを支えている。
本来、国を良くしようという考えのもと、法は定められている。
犯罪を防ぐ、裁くのは国の法律に基づいた実行力の行使である。
身近なところでいうと「警察」で、これはかなり厳しい。
緩ければ、犯罪が蔓延する。
警察に「ちょっとだから見逃してもらえる」ということは、ほぼ無い。
ちょっとのスピード違反だろうが駐車禁止だろうが、10円のアメの万引きだろうが、ダメなものはダメ。
自分だけ特別扱いはしてもらえない。
他の人もそうだから、納得せざるを得ない。
結果、法治国家としての安全を保てる。
本来は、「安全・安心な社会を作ろう」というプラスの発想から来ているはずである。
「安全・安心」は、平和な集団社会においての必須項目である。(「戦争と貧困」がその対極に位置すると考える。)

学校や教室においては、教師が「ヒーロー」の役割を担う必要がある。
全員が清く、正しい行いをする集団ではないから、正しい方向に導く存在がいる。
もちろん教師自身、そこまでに立派な人間ではないかもしれない。
しかし少なくとも、その集団における唯一の大人なのだから、そこは重要な責務である。
優しさ+強さのマインドを常に持って、子どもとともに成長する。

そして優しさと強さを持って、「正しく」指導しても、子どもが素直に受け入れないことがある。
スピード違反の大人同様、悪いと分かっていても「何で自分だけ」という思いはよぎるのが人間である。
そこの気持ちは汲んであげたい。
その上での「でも、やっぱりそれはいけない行為」と諭してあげるのが教師の役割であり、優しさと強さであると考える。

ぐだぐだ長くなったが、要は集団を救うには優しさだけでも強さだけでもだめで、両方が必要ということ。
あのニューヒーロー同様、普段ふわふわしているようでも、本当のピンチの時には、頼られる存在でありたい。

2015年1月23日金曜日

自分で決断する

お正月は日常を離れて休むべきである。
そもそも、おせち料理も何も、人々がきちんと休めるようにという先人の知恵から来る風習である。
非日常が大切なのである。

いや、お正月も、普段通りの生活リズムで生きるべきだ。
そもそも、お正月とはのんびり遊ぶための時間ではない。
その時間に、良書を一冊でも読みなさいと、かの吉田松陰先生も言っている。
「一年の計は元旦にあり」。
日常のスタートとして捉えることが大切なのだ。
・・・・・・

どちらが正しいと言えるのか。
少し考えてみてから読み進めて欲しい。


実はこの二者択一が全てではないのだが、○×をつけること自体はできる。
自分がどちらかの立場に決めればいい。
決めて退路を断つ=「決断」である。
授業に参加させる時には、このスタンスが必要になることがある。
○か×かの話し合いから、△の意見を生み出す場合も、まずは立場を決めて考えさせる。
立場が決まれば、主体者意識を持って授業に参加できる。

○×をつけない考え方もある。
第3者的な立場で見て、これもいいよね、こっちもいいよね、という見方である。
主体性はないが、観客的に外から見る分にはこれでいい。
ただこの場合も、最後は、自分ならこうすると決めることになる。
決めないままあやふやにいくと、結局人の意見に振り回されることになる。

何が言いたいのかというと、自己決定への肯定である。
「これでいいの」と自分の選択をどこかで割り切る。
どうせ万人にとっての「これがベスト」はないのだから、決断する。
「少しも寒くないか」と問われたら、寒いのだが、そこは自分で決めた以上、やせ我慢でもがんばる。

身近な人やら仲良しの人やら、上司やら偉い人やらが言ったとかどうこうではなく、自分で決める。
人の意見に耳を傾けつつ、最後は自分の頭と心で決断する。
例えば、以前紹介した未来予想図の学級通信の手法だって、やるかやらないかは完全に個人の好みである。

「好きか嫌いかは、自分が決める。
 良いか悪いかは、社会が決める。
 正しいか正しくないかは、歴史が決める。」
誰が言ったか、至極名言であると思う。
つまり、自分が決められる範囲は、やるかやらないかということの選択だけである。

教室にいる子どもたちも同様。
子どもだって、みんな一人の人間である。
それぞれ好き嫌いがある。
最後は自分で決断する人間に育って欲しいと思う。
目標一つとっても、自分で決めて、自分で実行する。
担任は、その手助けができればいいと思う。

2015年1月21日水曜日

大きく描いて、小さく動く~やなせたかしさんの言葉からの学び~

元旦の記事で、かなり大きなことを書いた。
「日本の教育」のように大きく論じると、具体性を欠く。
では、具体的にどんな大きなことをやればいいのか。

話は少し飛ぶが、次の本を購入した。
『何のために生まれてきたの? 希望のありか』やなせたかし著 PHP
http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-78300-0

30分もあれば読める、実に分かりやすい本である。
この本の中で、東日本大震災で『希望のハンカチ』という歌を作ったことについて、次のように書かれている。
=============
(引用開始)
歌だけで元気になるわけではないんだけれど、でも、僕のできる範囲のことでいえば、そういうことしかできないので。
僕は歌を作り、別の人はまた別のことをやって、いろんなことが重なっていけばいいと思う。
歌ひとつでみんなが元気になるなんて、そんなことはできません。
でも、少しはお役に立つかなあと思ってやっています。
(引用終了)
=============

つまり、大海の一滴かもしれないけれど、小さなこと、やれることをそれぞれがやる。
やなせさんの言葉を借りれば「自分の教室の授業だけで何とかなるわけではないんだけれど・・・」
となる。
一人ができることは小さい。
自分の力だけで「みんなのやる気スイッチオン!」なんて、そんなことはできっこない。
だが、あらゆる教室で、小さなそれが重なれば、とんでもなく大きなこともできる。
そういう構想もあって、今年は昨年以上に、校内だけでなく、全国の仲間とのつながりも大切にしていきたいと思っている。

小さな力の一つとして、自分の教室での実践も大切にする。
まずは今目の前にいる子どもたちに精一杯関わっていきたい。

2015年1月19日月曜日

次のために今までを振り返る

メルマガ上に年度末に書いた記事なので、やや時期がずれるが、ご容赦を。

日誌の大切さは何度も書いてきた。
原田隆史先生の「東京教師塾」では、日誌を重視しており、日誌を提出する課題も出る。
日誌は「原田メソッド」の中核をなす部分である。
日誌を毎日つけることで、出来事を自分の中に留める効果がある。
出来事を振り返り、よかったことや感謝したいことを確認して、自己肯定感を高める。
さらに「今日をもう一度やり直せるなら」という視点で、改善策を考え、より良い行動を選択できるようにする。
あくまで「日記」ではなく、「日誌」である。
「言」で「志」である。
記録ではなく、志すために行う。

これを毎日の終わりに行うのだが、月の終わり、年の終わりにも応用できる。
日誌が苦手な人でも「年誌」ならできるのではないかと思う。

一年を次の観点で振り返ってみる。(「原田式日誌」の各項目を一部修正して引用)
1 仕事効力感(よくできたこと・効果や成果・変化があったこと)
2 自尊感情(自信がついたこと 感謝したいこと 等々の肯定的感情)
3 今年をもう一度やり直せるなら(最高の一年間の想像)
4 目的・目標達成に向けてヒントになった言葉や出来事

一つずつでもいいから、挙げてみると、次の年への糧になる。
なお「職場」「家庭」「趣味」「交友関係」など、好きなジャンル毎に考えるとよい。
やってみると楽しいので、結構書ける。(あくまで楽しく行うこと。難しく考えすぎない。)
自分の場合を例に書いてもよいが、人のものを見ても仕方ないのでここには書かない。
大切なのは、誰かに見てもらうというより、内観することである。
だから、誰にも見せない前提で、素直に書くといい。
人に見せると自慢気になりそうなことほど、自尊感情は高まる。
(孫を撮影したビデオをお客様に見せるようなものである。気持ちはわかるが、自分で楽しむべし。)

1と2を書くと、テンションが高まり、来年へのエネルギーになる。
周りへの感謝もエネルギーの一つである。

3は、特に大切である。
ここが来年の行動目標になる。
例えば3に「毎日運動をして理想の体型になっている」と入っている場合、2014年は毎日運動しなかった訳である。
だから、「毎日運動」が来年の行動目標に入る。
3を書くと、2015年の行動目標が自然と出てくる。

4は、本当は日々何かに記録しておくといい。
私は、いい言葉や気づいたことを、付箋に書いて手帳に貼っておく。
それを、専用のノートに移して貼ってまとめている。(付箋にする理由である。)
1年分たまると、かなりの量になる。
時々読み返すと、なるほど最近ここが抜けていたと思い出すことがある。
元気が出ない時や自信を失った時の助けにもなる。
この中の、特にこの1年「これだ!」という言葉や出来事を選ぶ。

感謝すべきことというのは、空気と同じで、意識しないと有り難みに気付きにくい。
だから、先の1~4を書いてみる。
そうすることで、感謝に気付き、次へのステップにつながっていくと思う。

2015年1月17日土曜日

常に試行

昨年の終わり、筑波大附属小学校の国語の研究会を参観してきた。

まず驚くのが、参観者の数。
年の暮れに、おそらく年休をとっての、何百人である。
座席をざっと数えた感じだと、500人以上はいたのではないかと思う。
これだけの人に見てもらえるのだから、実践が広まるのも納得である。
わざわざ「見に来てもらえる」ということは、それだけの価値・魅力を感じさせられるということ。
なぜ毎回こんなに多くの人が(自分も含めて)飽きもせずに参観しに来るのか、価値は何なのかを考えた。

会のまとめの中で、講師の先生の一人が
「我々の研究は、常に試行です。」というような話をされていた。
どのやり方にも完璧ということはなく、常にアップデートされていく、ということである。
新しい挑戦、提案があるから、見に来る価値が出る。
なるほどと納得した。

今回は『「読みの系統指導」で読む力を育てる』というテーマだった。
「読む力を育てる」がメインだが、当然複合して他の力も意識して育てていると感じた。
例えば、授業中子どもの発言を途中で遮って止めて、
「ハイ、○○さんは何て言いたい?」と投げかける場面が何度かあった。
友達の発言をきちんと聞いてないと、答えられない。
さらに、読んで理解できていないと予想できない。
「友達の話をよく聞きなさい」と直接的には指導していないが、「聞く」を意識した指導である。

また、詩の学習のまとめも「真似して自分で作ってみよう」という形だった。
これは「書く」の力である。
授業内容を見返してみると、音数や構造の読み取りを丁寧に行っていた。
最後の創作を意識した指導になっていた。
創作につなげる、というのは「生きた学力」を育てるために必須である。

様々なセミナーや研究会を見てきたが、同じ人でも毎回それぞれ新しい提案がある。
消化不良なので、まずは実践したい。

2015年1月15日木曜日

1月17日(土)授業道場野口塾IN木更津

授業道場野口塾IN木更津が開催されます。

今回も、楽しくたくさん学べる会になりそうです。

現場の授業 ここが気になる

卒業式の作法

「観」を磨く教師人生の楽しみ方

などなど、他の学習会では学べない内容が盛りだくさんです。

〆切間近です。
ぜひこの機会に木更津にお越しください。

2015年1月13日火曜日

学年に応じたルール指導

ルールについての考え方を一つ。

校内のルールの徹底は大切。
しかしそれに対しても、基本的な考え方がある。
それは「学校のルールが守られない」という現象を、学年差なしの一律で捉えないことである。

低学年は「そもそもルール自体を分かっていない」という状態が多い。
だから、きちんと教え諭すことが大切になる。

中学年は「ルールは分かっているが、気がつくと破っている」という状態。
だから、気付かせる指導、自制心を持たせる指導が大切になる。

高学年は「ルールはよくわかっているけど破る」という状態。
意図的であり、あえて破った理由や、変な話「ねらい」がある。
言い方は悪いが「確信犯」であることが多い。
ルールを守るべき直接的な理由は重々分かっているので、それ以外の多角的な視点での指導が大切になる。

例えば「廊下を走る」という現象に対し、それぞれの一般傾向は次のようであると感じる。
低学年(特に一年生)は「走りたいから走った」「走っちゃダメだったの?」→一度きちんと教える必要あり
二年生から中学年は「ふざけっこしていたらつい走っていた」→自制心を持つ訓練(繰り返し)が必要
高学年は「きっと誰にもぶつからないし、先生も見ていないから大丈夫だと思って走った」→内面が変わる指導が必要

あくまで全体傾向ではあるが、私見としては大体そういう感じである。

一律に「ルールは守りなさい」ではなく、学年や個人の理解度に合わせた指導が大切である。
また、大人が小さなルールを少しずつ破っている状態なら、特に高学年への指導は無駄だと思ってよい。
大人の前で表面的に良くなったように見えても、内面は変わっていない。
これは学校・家庭・地域社会のあらゆる大人に対して当てはまる。
子どもたちは年齢に関わらず、意外と小さなことまでよく見ている。
何も言わないが「大人だって」と思われている可能性が高い。

話が二つに割れた。
まとめとしては、ルールの指導は
「理解度に合わせた指導」と「率先垂範・鏡の法則」である。

2015年1月11日日曜日

自分に合う

心学者「円 純庵」という方の「心学」のフェイスブックの記事に、
前号までの「自分の文脈に落とし込む」に近い話があった。
ご本人の許可を得たので、以下引用する。
============================
自分に合う
自分にあった形や量でなければ役に立たない。
靴や洋服の色や形が綺麗で気に入っても、
自分のサイズに合わなければ履いたり着たりすることは出来ない。
小さい靴は履けない、大きい靴は歩き難い。
小さい服は着られない、大きい服は似合わない。
自分のその時々に合ったものが必要。
何事も自分に合った質量がある。
それを判断するのは自分自身の心。
希望や欲望は分かるが、自分自身それを使い熟すならば、
自分に合ったものを見つけなければならない。
============================
「自分のその時々に合ったものが必要。」という一文が、すとんと腑に落ちた。

色々なことを学ぶと、それを全て使いたくなる。
また、上手くいくと、次の年にも使いたくなる。

ただ、これは、気を付けないといけない。
誰かがうまくいったからといって、自分もうまくいくとは限らない。
また、以前うまくいったからといって、次もうまくいくとは限らない。
しつこいようだが、相手が違う。
そして、自分自身も変わっている。

これは、以前あっていたサイズの服が、小さくなってしまう例に当てはまる。
逆に、名人の授業をそのまま真似ても全然うまくいかないのは、サイズが大きすぎる場合の例である。

また、T.P.O.も大切である。
今の自分にぴったりの革靴でも、登山では全く使えない。
単学級の学校から、大規模校に異動すると、何かとうまくいかないのもこれである。
(逆もある。常識がまるで違う。)
時と場が変われば、常識が変わり、適切な方法も変わる。

「自分に合う」+「環境に合う」の両方への配慮が大切である。

2015年1月8日木曜日

1言って1伝わるか

指導の伝わり方について。

指導や説得は「受け手9割」のところがあり、相手との普段の関係にかなりの部分がかかっている。
これは、内容の良否に関わらない。
一般的な社会においての「上司のいうことを部下が聞くか」ということの問題と同じである。
「自分のためを思って言ってくれている」と、伝わるかどうかは、受け手との人間関係次第。
こちらがどんなに愛情を持っていようが、相手の「心のコップ」がひっくり返っていては、逆効果である。

この辺りの見極めが難しい。
関係には色々あって、
A 1言って1伝わる相手
B 1言って10伝わる相手
C 10言って1伝わる相手
がいる。
ABCの3種類ではなく、幅がある。
Aが「素直にそのまま受け止めてくれる」タイプ 
Bが「効き過ぎる」タイプ 
Cが「伝わりにくい」タイプ 
である。

しかも厄介なことに、相手との関係によっては、このパターンをマイナスにして受ける人もいる。
つまりAの逆で「1言ってマイナス1伝わる相手」もいる。
言えば言うほど、マイナス。

万が一この関係になっている可能性がありそうな子どもに対する時は、怒るアプローチは、厳禁である。
やればやるほど、ものすごいマイナスを被る。
「心のコップを上向きにする」という作業に、普段から余念なく地道に取り組むしかない。
(だから「学級崩壊」の状態で担任に生徒指導を頑張らせるのは、かなり酷なことである。
生徒指導担当や教務など、なるべく関係性の深い他の人間が代わりに入って行う必要がある。)

つまり、指導は相手との関係性に全てかかっているということである。
だからこそ「学級経営、これで絶対うまくいく!」という必勝法は、無いと断言できる。
できることは「様々な見方、考え方、手法を知り、人間性を広げ、選択肢を増やす」ということだけである。
だから教える立場にある人間は、常に自省しながら学び続け自己変革をし続ける必要があり、そこには一生終わりがない。
「もうこれで大丈夫」と思った時が、一番危険な状態である。

私も、人間関係で失敗している時がある。
後で振り返って、申し訳なかったと後悔することもたくさんある。
だからこそ、謙虚さを忘れずに、自省して学び続けたい。
自信が過ぎて驕った時は、転落の予兆である。

2015年1月5日月曜日

自分の特性を生かす

前号の続き。
自分の文脈に落とし込むことに関連して。

「どんなに叱っても全然言うことをきいてくれない」ということで悩む人がいる。
「びしっとさせたいから、一生懸命やっているのに」とご本人。

この手の悩みを抱える方に相談された時は、
「ニコニコして、困ったふりをしてお願いするとかどうですか?」
と答えるようにしている。

なぜかというと、大抵この手の相談をされる先生は、どう見ても、迫力がないというタイプが多い。
代わりに、すごく温かい雰囲気を持っていたりする。
子どもがべったり寄ってきて、くっついていく感じである。

逆に考えるとわかる。

元々がカチッとした雰囲気の人や、迫力がある人がいる。
この人は、割とびしっとさせるのは得意である。
この人に、「もっと子どもが近づきやすい雰囲気になりたい」
と相談されたらどうアドバイスをしてあげるか。
多分周りの人は「いや、別にそのままでいいのでは?」と返すと思う。
願望そのものに無理を感じるし、この特性にも需要がある。
そんなことより、せっかくの特性を生かし、いざという時に学校や学年全体に大切なルールを指導する役割を担ってもらいたい。

冒頭にあるような先生の相談は、これに近い。
びしっとさせたいというアプローチそのものが、根本的に向いてないかもしれない。
代わりに、子どもから相談を受けたりするのは大得意だったりする。
そもそもの持っている特性が、近づきやすい雰囲気なのである。
学級経営や子育てにおいて、必ずしもびしっとさせる必要はない。
それに、一見ふわふわしているようで、内実はよくまとまった学級というのもたくさんある。

叱り方や褒め方についてのマニュアルが世にあふれている。
これにしても、あくまで「基本形」であって、自分の文脈に落とし込まないと使えない。
指導者側の持つ特性と相手の特性によって、「効果抜群」のアプローチが異なる。
だから同学年を組むならば、色々なタイプの人がいる方が有利である。

自分の特性を生かし、無理な方法を選択しない。
道は常に一つではないというように考えると、自然体になれる人がいるかもしれない。

2015年1月3日土曜日

マニュアルを自分の文脈に落とし込む

タイトルは、上越教育大学の赤坂真二先生の言葉。
赤坂先生は著書に「クラス会議」のマニュアル本がある。
http://www.amazon.co.jp/dp/493887492X
しかし、マニュアル通りにやっても、それだけではうまくいかない。
それは、教える側も教わる側も全く違う人間であり、環境も違うからである。

マニュアルはたたき台であり、基本である。
たとえばサッカーなら、シュートの際の基本型がある。
同じ場所にボールを転がして、走り込んで蹴り込む。
立ち足の位置、蹴り足の部位まで大体決まっている。
ただ、これにしても、蹴りやすい体勢には個人差がかなりある。

また、実際の試合は、そんなきれいな形では蹴れない。
相手の邪魔(ディフェンス)が入る。
倒れながら蹴ることだってある。
だから、実際は、基本型から大きく外れた形でシュートすることになる。
ただ、基本の型でのシュートができないで、倒れながらのシュートはできない。

クラス会議等、様々ある手法も同様で、基本型、理想型を知る必要はある。
しかしながら、それを崩して使う幅がないと、必ずといっていいほど失敗する。
「豆腐のような柔らかさ」のような、堅さ(原実践への忠実さ)に加えた柔軟性、可塑性が必要である。

例えば、クラス会議の手法では、最初に仲間同士で感謝や褒め言葉などを伝え合う。
しかし、学級の実態によっては、ここに時間がかかり過ぎる場合もある。
また、それすら必要のないほど、最初から仲間同士の関係が温まっている学級もある。
そういう場合に、この活動をいれるかどうかは、教える側の判断に委ねられる。
つまり、自分の文脈に落とし込んで使う。

追試実践においては、必ず「自分の文脈に落とし込む」。
ただし、原実践で「なぜそうするのか」を知った上で行うことが大切であるように思う。

2015年1月1日木曜日

維新

2015年。
今年も社会にとって、教育にとって、大きな変化が来る。
日本のグローバル化と高齢化は加速し続ける。
経済問題も絡む(というよりも中心にある)以上、避けようがない。

さて、新年早々真面目な話題で申し訳ないが、次の記事がある。
『「グローバル化時代」の日本の教育』
https://edupedia.jp/special/teidan2014
「陰山英男×小林りん×直山木綿子」という、豪華鼎談(ていだん)である。

詳しい内容が気になる方はページの方を見てもらうとして、この中で
・英語は「通じるか、通じないか」でしかない
・(教育のグローバル化は)流行ではなく、一種の地殻変動
といったことが論じられている。

この中で述べられていることに、概ね賛成である。
単に「小学校で英語をやればいい」というものではなく、通じる英語を身に付けさせる。
また、グローバル化は流行ではなく、好むと好まざるとに関わらず、避けようのない事態であると思う。

完全に個人的見解だが、私はずっとこの「グローバル化」の流れが、歴史の繰り返しであると感じてきていた。
古くは弥生時代に大陸から米作りが「輸入」された頃から始まる。
その中でも最も今に近い状態が「鎖国」からの「明治維新」の時期であると思っている。

江戸時代、日本は鎖国の状態で国内の平和を維持してきた。
しかし黒船来航により、諸外国との力の差を見せつけられ、開国せざるを得ない状況になった。
放っておけば外国に侵略されることを恐れた藩士は、それぞれ手を打った。
日本という国を守るため、諸外国から学び、諸外国に対抗できる力をつけることを選んだ。
黒船に単身乗り込んだ吉田松陰など、その最たる姿であると思う。
亡国を憂うからこそ、諸外国に積極的に学び、日本を復興させる明治維新の志士達を育てた。

大げさに聞こえるかもしれないが、教師という立場は、「志士」を育てる仕事でもあると思う。
「松下村塾」が日本全国あちこちにあればいい。
私たちの教える子どもたちが、これからの日本を決めていく。
だから、教師の仕事は「志事」であると思っている。
単に授業をして生活指導をすればいいというものではない。
どういう技能を身に付けさせ、どんな観を育てるか。
私たちが育ってきた環境とは全く違う世界が、子どもたちの未来に広がっている。
その中でのグローバル化教育の必要は、どうしても出る。

繰り返しになるが、外国語は通じることが大切であり、コミュニケーションの「手段」である。
諸外国を尊重するということは、同時に日本という国に誇りを持つことが必須である。
「隣の芝生が青く見える」というようでは、本末転倒である。
これからのグローバル教育の動向を、自分の目でしっかりと見つめていきたい。

維新とは、広辞苑によると「物事が改まって新しくなること」。
そう考えると、毎日毎時が維新である。
元旦の今日、志を新たにし、2015年を出発したい。
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