2011年5月31日火曜日

指導したことに対して評価する

「先生方は、指導していないことを評価していないか」
私の勤務校の校長先生は、このことをよく強調して職員に話している。
次のような話をしていた。

学校では、子どもの活動に対して成績をつける。
評価や評定が必要になる。
しかし、果たして、評価を適切にしているのか。
イメージで評価していないか。
教えていないことを評価していないか。
評価は本来、指導したことに対して行われるものである。

実に、その通りだと思う。
以下、それを受けての私の考えた例を述べる。

そうは言っても実際は、印象評価になりがちである。
特に図工や体育等の技能教科はこの傾向がある。
まずは、図工の指導を例に。
水彩画で、下の方に街の風景を小さく描いて、空の色を塗るという活動をするとする。
この時、「建物を水平にかかない」「遠くの建物は色をうすくぬる」「空はごくうすく」と3点指導したとする。
その時、評価の対象は、この3点をきちんとできているかである。
「何となく絵がうまい」という感じの印象で評価してはならない。
「図工は芸術教科だから」という声もあるが、学校は指導の場である。
うまけりゃ何でもありを認めていては、指導にならない。
次に、体育の指導を例にすると、バスケやサッカーで「ゲームでよく点をとっていた」という印象だけでA評価だったりする。
実際は、パスの指導を中心にしているのに、ドリブルで一人で切り込んで得点しているという場合も多い。
一人で大活躍すればAというのは、この場合の指導に対する評価として適切とはいえない。
こういったおかしな評価にならないよう、何を指導して、どうなったらA評価なのか、きちんとおさえる必要がある。
常にこの時間は何を指導しているのか、明確に答えられるようにしたい。

2011年5月29日日曜日

クレームにどう対応するか

クレーム対応。
体育主任など責任のある分掌をやっていると、必ずやってくる。
例えば、運動会の実施。
雨が降りそうと延期するとクレーム。
何とかやれそうと強行するとクレーム。
まあ、どうやってもクレームである。
千人を越える人間全員が納得する方法を提示するのは、ほぼ不可能である。
クレームが来ても、きちんと説明できる体勢を作ることが大切である。
そして、クレームの内容が正当でこちらに非があれば、真摯に受け止め、謝罪すること。

何より大切なのは、芯を持つこと。
なぜそうしたのか、明確な判断基準があること。
芯がブレないことが、一番大切である。

2011年5月28日土曜日

提案文書作成の心得

今回は「20代教師」のための、超基本的な話を。
若くても、職員会議で提案するチャンスは来る。
初めての分掌の場合、昨年度のものを基本に作るのが普通だろう。
しかし、全く同じものを提案しては、担当になった甲斐がない。
引き継いだ昨年度の反省をもとに、少しだけ変更を加えてみる。
変更したものが、通らないこともあるが、それも勉強になる。
だから、「少しだけ自分色を加えて提案」が引き継ぎ初年度の基本である。

さて、少し加えただけなので、文書もほとんど昨年度と一緒になる。
どこを変えたのかわからない。
膨大な量の提案がある中、少しの変化は目立たせないと見落とされる。
だから、その部分だけ下線を加えたり太字にしたりして、「ここが変更点」と分かるように提案する。
提案の際、ねらい等の重要項目を除き、昨年度と全く同じ点は、省略する。
提案したいポイントに絞って協議してもらう。
そういう細かい配慮ができるのも、結構大切なことである。

2011年5月27日金曜日

体内時計をリセットする

疲れが目立つこの時期、私が子どもに話すのは、「体内時計」の話。
朝日を浴びた時間に体がリセットされるという、アレである。
長期休暇明けの際、体がだるくなるのは、リズムが崩れるから。
夜更かしと朝寝坊が主たる原因である。

しかし、一度築いたリズムはなかなか改善しにくい。
どうするか。
答えは、「意図的にリズムを崩す」。

ここで問題。
「早寝」と「早起き」はどっちが先か。
これは、「早起き」が先である。
早起きしているから、体内時計がリセットされて、自然に早寝になる。
早起きは最初の内は辛いが、不可能ではない。
一方、早寝は朝寝坊した人にとっては不可能である。
眠くならないのにベッドに入っても、眠れない。

寝不足で無理に早起きしたら余計眠くなると思うかもしれない。
だから少しでも多く寝とかなきゃと思って、朝寝坊になる。
「春眠暁を覚えず」ということになる。
どうするか。

ずばり、「無理矢理起きる」これに尽きる。
そして、昼寝。朝寝はリズムが逆戻りするから駄目である。
昼まで頑張る。
実は昼寝の1時間は、夜の睡眠の2~3時間に匹敵する。
体が必要性を感じて眠るので、回復力が強い。
だから、「昼寝する」と心に決めて、起きる。
土曜か日曜にやると一番良い。
後は、起きてからの楽しみ(一杯のコーヒー等)があれば、それも動機になる。

早起きは三文の得。
リズムを戻すためにも、少しそういう話を子どもに話すのもいいと思う。

2011年5月26日木曜日

遠足の一場面 その2

歩き疲れた1年生をおんぶしてあげる6年生。
ほほえましい光景である。
と、肯定的にとらえるのが、教師以外の一般の方に多いのではないかと思う。(憶測)

この後、どうなったか。
一組このようにおんぶをするペアが出ると、次々に連鎖的に「おんぶして」コールが始まる。
自分もヘロヘロなくせに、無理におんぶしてふらつく6年生。
おんぶしてあげたくても元々その体力がない6年生は、わがままな文句を言われる。
隊列を組んで歩いているのに、止まったり遅くなったりして、列がバラバラになる。
結果、歩道を広がって歩き、列が間延びして横断に支障が出るといった、安全面でも問題な事態となった。

私は、簡単に次のように指導した。
(6年生に)「歩かせて。遠足は歩き抜く体力をつけることも目的だよ。」
(1年生に)「ケガをしてるの?違うよね?自分の足で歩けるなら、歩こう。」
疲れて歩けないとぐずぐず言っていた1年生は、前の自分の位置までかけ足で戻っていった。
余裕の体力である。
そもそも、多くの幼稚園の年長組は、もっと歩かされているのである。
他の子ども達も、ほどなく自分の足で歩きはじめた。

教室に帰ってからは、次のような話をした。
「1年生が言うこときかなかったりわがまま言ったり、ルール破りをして困った人?(多くが手を挙げる)
それを注意した人?(半分以下に減る)
どうして注意できなかったのだろう?
ペアに嫌われるとか思う人もいるかもしれない。
でも、悪いことを悪いときちんと教えてあげるのも、優しさだよ。
おんぶしてあげる優しさもあるけど、歩かせるのも、優しさだよ。」
6年生になれば、模範を示すことが一つの役割になる。
地位が上がれば責任が伴うのだから、言いにくいことも言わねばならない。
そういう体験を通す中で、教師の厳しい注意にも納得のいく心が育つのではないかと思う。

優しいことは大切である。
グラウンドで転んで泣いている1年生を、優しく保健室につれていってあげる上級生。
文句なしに誉めてやっていい。
その場合も優しく「大丈夫?」と抱き起こしいたわるのが母性の優しさ。
「大丈夫。立てるよ。」と声をかけ、励ますのが父性の優しさ。
どちらも、大切な要素だ。
優しさも、時と場合と相手に応じてケースバイケースである。

2011年5月25日水曜日

遠足の一場面

私の勤務校では、「ふれあい遠足」というものがあり、1年生と6年生が一緒に遠足に行く。
手をつないで目的地に到達。
弁当を食べ、大いに遊ぶ。
帰り道、目一杯遊んだせいで「疲れた」と1年生。
すると、さっとしゃがんでおんぶをしてあげる6年生の姿。

さて、あなたならこの1年生と6年生に、何と声かけをするか。
(次号に続く)

2011年5月23日月曜日

家庭環境の違いを認める

家庭訪問をすると、色々な家庭があることを実感する。
他県で教員をやっている友人の話を聞くと、とんでもなく裕福な家庭ばかりの地域もある。
全く異なる家庭環境の子どもを、同じ学級で教育するのだから、多少の無理が生じて当たり前である。
そこに均一の価値観を持ち込むと、色々と軋轢が生じる。

例えば、忘れ物について。
家の中がぐちゃぐちゃで、全く面倒を見てくれない親に育てられた子ども。
朝、親もまともに起きられず、食事もろくにとれない子ども。
当然、道具は揃わない。
宿題忘れも多くなる。
それを厳しく叱り続けていけば、自尊感情がますます低くなるばかりである。
認める訳にもいかないが、あまり詰めるのも考えものだ。
学校に来ただけで、良しとしてあげたい。

例えば、生意気な態度や荒い言葉遣いについて。
厳しく正すべきだが、家庭環境に大きく左右されていることに目を向ける。
大抵、親が子どもを馬鹿にしていたり、すごい言葉遣いで話している。
生意気な子どもほど、愛情不足である。

色々あるが、環境の差は大きい。
自分と似た環境の子どもは理解しやすいが、そうでない子どもは理解しにくい面もある。
(次号に続く)

2011年5月22日日曜日

「普通」の家庭訪問もねらいを持って

家庭訪問。
みんな「普通」にやってると思う。
しかし、聞いてみると、やり方が人によって全く違う。

例えば、「家にあがるかどうか」という点。
学級通信等で予め知らせておく人も多い。
「必ず家に上げてもらう」という人。
生活環境から子どもの状況を分析するのが主目的である。
もっと突っ込むと「子ども部屋を必ず見る」という人。
学習環境が整っているかといったことを見るという。
逆に「家に上がらない」という人。
家の場所を知っておき、1対1で話すのが目的だという。
「お茶もお菓子も一切いただかない」または「全部きちんといただく」という人。
真逆のようで、本質は同じ。
どのご家庭にも平等に接するということを重視しているとのこと。

要は、家庭訪問で何をねらっているかである。
同僚に聞いてみるとよい。
みんな「私は普通にやってるよ?」と答えるが、全然やり方も聞いてる内容も違う。
特に、保護者から信頼されているベテラン教師の話は、必聴である。
自分の「普通」を見直すいい機会である。

2011年5月21日土曜日

今がチャンス

前回の「まだ○年生だから」の逆の話を。
「もういい歳だし」「もう○歳だから」
以前にも書いたと思うが、小学生から高齢者まで、幅広く用いる言葉である。
この言葉を使う時、本人には「年老いた」という意識がある。

作家の本田健の著作「20代にしておきたい17のこと」に次のような言葉があった。
「『今』は人生で一番若い時であり、人生で一番年老いたと思っている時」
まさにその通りである。
今やらない人は「まだ準備できてないし」と言い訳し、時がくれば「もう手遅れだから」になる。
チャンスの女神は前髪しかなく、かつサッカーのシュートのようにびゅんと通りすぎる。
チャンスが来てから準備してたのでは、間に合わない。
(これも、前掲著より)
何かを始める最高の時は、いつでも「今」である。

2011年5月20日金曜日

「○年生だからできない」は本当か

よく「まだ○年生なんだから仕方無い」という言葉をきく。
本当に仕方無いこともある。
例えば、小学校1年生が正しい敬語の使い方を分かってなくても、問題にならない。
しかし、中には、本当にできないのかと疑いたくなるものもある。
単に指導者が、指導を放棄しているだけではないかと思うことがある。
残念ながら、私は1年生を担任したことがないので、1年生のこの点に関しては全くコメントできない。
「1年生はそういうもの」と言われたら、ぐうの音も出ないのが正直なところである。
(でも、幼稚園の年長さんの時の方が色々しっかりできた、という話はよく聞く。
小学校の運動会の表現などは、体操関係に力を入れている幼稚園の先生が見ると、がっかりするらしい。)
そんな中で、1年生なのにがっちり鍛えられている学級があったりするのを見ると、爽快である。

逆に、高学年の子どもについては、言いやすい面もある。
子どもの実態にもよるのだが、基本的に「教える人が教えれば、何とかなる」と考えている。
中学校の部活動の指導者などはこの典型で、その指導者がいけば、同じ子どもでも急に強くなるということがよくある。

かけ算九九を20×20まで言えるなんて離れ業も、インドの小学生には当たり前であるらしい。
なぜできるのか。
やらせるからである。
やらせなければ、できない。
当たり前のことである。

勝手に制限をかけて、「できない」と決めつけていないか。
「なせば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」
米沢藩(山形県)藩主 上杉鷹山(ようざん)の名言である。
子ども自身の持つ力を、最大限に引き出してあげたい。

2011年5月19日木曜日

「自分ルール」を持つ

朝、5時に起きると決めるとする。
誰に言われた訳でもなく、自分で決めたルールである。
自分で決めたことにすら従えないなら、みんなの決めたルールも守れる訳がない。
そして、自分自身に負けたことにもなる。
人と競争して負けることは仕方無い面もあるが、自分に負けるのは避けたい。
だから、自分で決めたことは、きちんと守り、やりぬく。
学級経営同様、「小さな戦い」にしっかり勝利していくことが大切である。
そうしないと、負け癖がつく。ルール違反が常習になる。

自分に打ち克つことを「克己(こっき)」という。
子どもに努力を求める前に、教師自身が行動を自律できるようにしたい。

2011年5月18日水曜日

実るほど 頭を垂れる 稲穂かな

本当に偉い人は、腰が低い。
「実るほど 頭(こうべ)を垂れる 稲穂かな」とは、言い得て妙である。

偉ぶってる人ほど、横柄で傲慢である。
パナソニック創業者である松下幸之助氏は、日常生活の中でも、大変腰が低かったという。
大会社の社長でありながら、ささいなことにもお礼をきちんと言う。
「自分は学がないから、周りが助けてくれる」と、周囲に常に話していたというエピソードもある。
こういう人格の高い人物に、人は感化されていく。

教師という職は、子どもを相手にする。
ともすると、横柄になりがちである。
子どもの人格を認め、一人の人間として接していくことが大切である。
(人格を認めることと、相手に迎合することとは、根本が違う。)
職場の同僚や、様々にお世話になる用務員さんや事務さん、業者の方々などにも、きちんとした態度で接したい。

2011年5月17日火曜日

時間は伸縮する

時間は、絶対量が決まっている。
1日は24時間、世界中の誰にでも平等に与えられている。
しかし、アインシュタインの提唱した相対性理論によると、時間は伸び縮みする。
この理論は難しすぎてよくわからないが、要は時間すらも絶対的ではなく、相対的なものだということらしい。

これは、仕事をする時にも当てはまる。
放課後から退勤時刻にあたる4時から5時は、1時間ある。
同じ1時間でも、圧縮すれば、何倍もの濃さにできる。
どうやるか。
簡単である。

それは、後ろに予定を入れること。

楽しい予定なら、なおさらいい。
「5時半から飲み会」で5時に退勤必須となれば、4時からフル稼働するはずである。
いや、もっと前から、残業しないための手立てをあれこれうつはずである。
「今日はもう帰っても何も予定がない」という状態が、一番ダラダラ残業につながる。
「忙しい時こそ、飲みに行け」とは、私の尊敬する先輩の言である。
けだし、名言だと思う。(無茶苦茶だという意見もある。その気持ちも、分かる。)

予定を入れて、時間の濃度を高めよう。

2011年5月16日月曜日

伝わる話し方

一生懸命話しているのに、伝わらないと感じる時がある。
話を伝える時に一番大切なことは何か。
いい話を用意することだと思うかもしれないが、違う。
実は、内容よりも、声のトーンが一番大切である。
内容はイマイチでも、トーンが明るく落ち着いていると、聴いてて心地よい。
低くゆっくりしたトーンで話すと、重要なことだと耳を傾けたくなる。
逆に、慌てて言い放つような感じだと、耳を通り抜ける。
(何かと連絡の多い教室内では、これになりがちである。)
ダラダラしたトーンだと、気が抜けてくる。
(特に、体育の体操時でだらけたトーンはいけない。体が逆になまる。)

自己紹介をする時、低いトーンでしゃべる人が結構いるが、あれは第一印象としてマイナスである。
つとめて、明るいトーンを選ぶ方がよい。
それだけで、どんな仕事ぶりの人か、大体分かる。

トーンに気をつけて、話をしよう。

2011年5月15日日曜日

頭が悪い訳がない

「私は頭が悪いから・・・」
そういう言葉が、子どもの口から出ることがある。
こういう時は、完全に否定する。
頭が悪い訳がない。
特別な事情がない限り、ただ、そこに好き嫌いがあるだけである。
嫌いだから、努力できないのである。

特に、「漢字が苦手」という子どもは、90%以上が「努力不足」である。
自称「漢字が苦手」な子どもには、次のようにたずねる。
「100点とるつもりで努力した?」
「あなたの言う『頭がいい』人より、努力した?」
まあ、努力できないでこうなっているのだから、あまり詰めすぎない。
しかし、きちんと「頭が悪い」訳じゃないと、否定する。
最後は「○○さんなら、絶対できるようになる!」で、締める。
そして、少しの向上を大げさなぐらい誉める。
この繰り返しである。

「頭が悪い」も「頭がいい」「絶対できる!」も、ただの暗示。
ならば、良い暗示をかけてあげたい。

2011年5月14日土曜日

朝の健康観察

朝、健康観察をする。
毎朝のことであるし、何となくやっている人も多いのではないだろうか。
しかしここには、一日の始まりとしての大きな意義があると私は考えている。
今日初めての、担任対教師の、一対一の貴重な交流の時間と捉えている。
だから、気合いを入れてやる。

私の場合は、まず教師対全員でじゃんけん。
曜日によって勝った人、負けた人、あいこの人(この場合は今日先生と相性いい人、と呼ぶ)で、最後まで残った人から呼ぶ。
必ず一人ずつフルネームで名前を呼ぶ。
呼ばれた子どもは手を真っ直ぐにあげ、元気だったら「ハイ、元気です!」と返事。
これだけである。普通である。
しかし、惰性ではやらない。
じゃんけんから気合いを入れてやる。
「ジャンケンポン!」の発声から、全員で「元気」を分け合う。
名前も、卒業式の呼名の練習のつもりで、はっきり呼ぶ。
目を必ず合わせる。
返事に応じて
「いい声だね!」
「今日もいい笑顔!」
「手が真っ直ぐ挙がっていいね!」
「背筋が伸びててすばらしい!」
「爽やかな返事だね!」
などと、0秒で感じたことを即答していく。

そして時々、朝の健康観察の意義も話す。
返事の練習だよということ。
先生も気持ちを込めて名前を呼ぶから、はっきりと反応して欲しいということ。
きちんとつながりたいから、目を合わせようということ。
きりりとした返事が、自分も周りも、先生も元気にするということ。
返事は、相手を大切に思う行為だということ。
手を真っ直ぐ挙げると、気持ちも真っ直ぐになるということ。
・・・
たかだか朝の返事一つで、指導できることは無数にある。

子どもは教師の姿の鏡として映る。
元気の良いクラスを目指すなら、朝の健康観察から、気合いを入れていこう。

2011年5月13日金曜日

「何のために勉強するんですか?」

教師なら、子どもから必ずこのタイトルのような質問を受ける。
色々答え方はある。
その中の答え方を三つばかり紹介する。

一つは、「大切な存在になる」ということ。
歴史の授業で「米作りの始まり」を教える。
米が作れるということは、猟生活からの脱却であり、食糧の安定につながる。
その時、必要とされるのは「米作りを知っている人間」である。
知識や技術があり、人々を導くことができる人間である。
(ちなみに、これらの人物が最終的にリーダーになり、豪族になっていく。)
人々を救えるリーダーには、知識や技術といった力、加えて人徳が必要である。
社会に出て人々に多く貢献したいならば、そういったことをたくさん勉強する必要がある。
まあ、こういう風に教えるのが一つ。
(間違っても「勝ち組になれ」といった方向に持っていかないこと。
他人のもとで働くことを否定しているのではない。)

もう一つは、「選択肢を増やす」ということ。
将来、なりたい夢があるとする。
この場合、勉強する方向性もはっきりしており、勉強する動機付けも十分である。
「夢に向かって努力せよ」で済む。
逆に、将来何になりたいか分からない場合がある。
それでも、自分が満足できる人生を歩みたいと思うことは、誰でも共通である。
だから、将来どんなことをやりたいと思っても対応できるように、一通りの勉強をしておく。
それが、後で選択肢を増やすことにつながる。

そして何よりも教えたいのは「勉強は楽しいからやる」ということ。
世界中の子どもの「願い」の第1位は、「学校に行って勉強すること」である。
日本の子どもは裕福だから、「新しいゲームが欲しい」といったことが第1位にあがる。
日本では、学校に行って勉強できる幸せは、健康であることのように当たり前すぎて、気付けない。
勉強できることは、幸せなのである。
人間には生来「知識欲」というものがあり、これが満たされると幸せを感じる。
毎日、たくさんのことを知ることができる学校の勉強は、幸せなことのはずである。
だから、勉強できる幸せを存分に味わおう。
そんな風に持って行く。

まだまだ勉強する理由は無数にある。
教師の側が、自信を持って「勉強しよう」と言えるよう、たくさん答えを用意しておきたい。

2011年5月11日水曜日

やれなかったとやらなかった

「やれなかった やらなかった どっちかな」
相田みつをの詩の中で、なまけものの私が特に好きな詩である。
自分は「やらない」ことが多いなぁと、身につまされる。

「れ」と「ら」のたった一文字の違いなのに、天と地の差がある。
やれなかった・・・自分の意思とは別の部分で、行動することが不可能であった(責任は外にある)
やらなかった・・・やれたのに、自分の意思で行わなかった(責任は自分にある)
「先生、宿題をやれませんでした」
「プリントがなくなりました」
子どもがこう言ったら、私は必ず詰める。
「つまり、自分の責任じゃないってことですね?」
そして、言い直しをさせる。
(稀に親が病気で看病していた等の「やれない」こともあるので注意。)
「宿題をやらないで、遊んでいました。」
「プリントを僕の不注意でなくしました。」
きちんと言えたら、正直に言えたことを誉める。
「全ては私の責任です」という態度を一貫させる。
一つ一つの言葉に、責任と重みを持たせたい。

2011年5月10日火曜日

子どもとの信頼関係

「信・敬・慕」の話を、以前紹介した。
信頼され、尊敬され、かつ慕われるようになるまでの道のりは険しい。
力のつく授業、筋の通った学級経営は、必須である。
それにプラスして、子どもとの関係を築く方法があると望ましい。
(1月に書いた内容と多少重複する。)

例えば私の場合、学生時代からやっていたのでサッカーが得意である。
昼休みに子どもと外でサッカーをやる。
これだけでも、多くの男の子との関係を強めることができる。
多少きつく叱っても、サッカーを一緒にやる時には、互いに笑顔である。
特に、やんちゃな子どもはサッカー好きなことが多く、重宝する。
こういうツールをいくつ持っているかは大切である。

あらゆる手段がある。
ピアノが弾ける、絵が得意、歌がうまい、読書好き、スポーツ観戦が趣味、詩や俳句を書く、書が得意、将棋が得意、けん玉ができる、・・・。
挙げればキリがないが、どんなささいな特技や趣味であっても、関係作りに活用できる。
一見仕事に関係なさそうな特技や趣味も、上手に仕事に生かしたい。

2011年5月9日月曜日

どこまでが「自力解決」か

自力解決とは何か。
読んで字の如く、「自分の力」で「解決」することである。
では、「自分の力」とは、どこからどこの範囲を指すのか。

例えば、授業中に「隣の人に答えをきく」「ドリルの答えを見て写す」「黒板の答えをそのまま写す」ということをする。
これらの行為が、自力解決としてOKな学級とNGな学級がある。
「自力解決」を、自らの内からわき出てくるアイデアで解決することだとみなす場合、NGだろう。
「自力解決」を、人にたずねることを含め、あらゆる手段を使って解決するとみなす場合、OKになる。
私は後者で、無から有は生まれないという立場である。
人に質問したり、見させてもらったりするのは、コミュニケーション能力の一つで、生きる力の一つである。
答えを見て解法を学ぶのは、中学以降では基本の勉強方法である。
それができるのも「自分の力」だと考えている。
だから、大いに人にきいたり答えを見たりして結構だと思う。
(テストの際は、教師側の都合からすると到達度をみたいので、見られると困るが。)

多分、正反対の考え方の人もいると思う。(というより、多数派かもしれない。)
いずれにせよ、子どもにきちんと力がついているかどうか、これだけが価値基準である。
それさえできていれば、方法は何でもよい。
ただ、「答えを見ないで考えなさい」という方法が自力解決だと思っている人には、反対の立場である。
それができる相手ならば、もはや授業をする意味もない。

自分なりの信念を持って指導に当たるのが大切である。

2011年5月8日日曜日

ルールは絶対遵守か見直しの二者択一

一週間程前に、ルールの話を出した。
ルールは本来、生活を自由に快適にするためにある。
私はよくサッカーを例に話す。
「サッカーでラインがなかったら、ゲームにならないよね。
動ける範囲が決まっているからこそ、楽しい。
(これは、鬼ごっこをやる際にも言える。)
サッカーは手でボールを触れないから、サッカーになる。
一人だけ、僕は自由にやるって言って、ボール持って走られたら、もうサッカーじゃなくなっちゃう。
みんながつまらなくなっちゃうよね。
全員がルールを守る、これが、一緒に楽しくやるための絶対条件。」

ポイントは、ルールを決めたら「いつでも」「全員」に守らせること。
命に関わる緊急事態や、身体や心に何かしらの障害がある場合を除き、例外は認めない。
例外を一つ作ると、次々に「例外」ができ、やがてルールが荒廃していく。

そしてルールを守らせる前提として、ルールを教える側(学校なら教師、家なら親)自身も、100%遵守することである。
自分ができてないことを守らせることはできない。
(別の話だが、読書をしない人に限って、子どもが読書をしないことを嘆いているのが面白い。)
教師集団は一丸となって、子どもにルールを守らせる。
「廊下を走らない」というルールがあるなら、走っている子どもを絶対見逃さない。
できないのなら、ルール自体を見直すか撤廃すべきである。

最悪なのが「○○先生だけ厳しい」という状態。
ルールを守る理由が「○○先生に怒られるから」になる。
子どもの道徳価値の基準が、ここでブレる。
真面目にやっている○○先生は、正しいのに一番損をする。

ルールのがきちんと守られている状態は、本来息苦しい状態でなく、快適な状態である。
毅然とした態度で、子どもにルールを教えたい。

2011年5月7日土曜日

思いやりのある話し方、聴き方

声が小さい子どもがいる。
発言しているのだが、何を言っているのか聞こえない。
朝のスピーチでも、語尾が不明瞭で聞き取れない。
大抵、気の弱い、内向的なタイプの子ども達である。
(そしてこのタイプほど、家では王様であることが多い。)
こういう時、どういう指導をするか。
がんばったのだからよしとする、それもある。
しかし、私は必ず言い直させる。
次のように指導する。

「みんな、聞こえた?
(子ども達は、首を振るか、聞こえませんでしたと答える。)
みなさん、○○さんの話、聞きたいよね?
先生も、聞きたい。
一生懸命聞いているんだけど、聞こえませんでした。
もう一度言ってくださいというのは、相手を大切にしている言葉です。
あなたの声を聞きたいということです。
聴くという字には、耳だけでなく、心も相手に向けるという意味がある。
だから、話す人は、心を傾けてくれている相手に聞こえるように話さないといけない。
それが、相手への思いやりです。
もう一度言って下さい。」

聞こえない話し方というのは、自分勝手な話し方である。
相手を大切にしていない。
どんなに声の小さい子どもでも、本人が真剣に話して、周りも聞こうとしていれば、聞こえるものである。
子どもの言葉を大切にするとは、そういうことではないかと思う。

2011年5月6日金曜日

話の聴かせ方

話し手が懸命に話していても、聞き手がいい加減では伝わらない。
読者の中に経験の浅い先生もいると思うので、今日は超基本的な話の聴かせ方について。

基本中の基本は、手に何も持たせないことである。
(勿論、メモをとりながら聞かせる場合は除く。)
手に何か持っていると、手遊びをしたり、そちらに気が向く。
人間の本能である。
鉛筆などを机の上に置かせてから、話をする。

次は、へそを話し手に向けさせることである。
顔ではなく、へそ。
へそが向いていれば、体全体が話を聞く方向に向く。

レベルを上げるなら、反応しながら聞かせる。
具体的には、あいづちをうちながら聞かせる。
こうすると「聴く」のレベルになると思う。

体育など戸外の時は、さらに別の配慮が必要になる。
例えば、話し手は太陽を背にしないなどは、実習中や初任の頃によく注意されることである。
体育座りも、きちんとやらせることによって、手遊び防止&へそを向けることにつながる。
また、話し手の後方に活動している人がいると、そちらに注意が向くので、それも配慮したい。
(後ろの遠くの方で誰かがサッカーをやっていれば、そちらを見てしまうに決まっている。)

聴く技術、聴かせる技術も色々あるので、ちょっとした研究が必要である。
ベストセラーであるD.カーネギーの「話し方入門」(創元社)などは、参考になると思う。
話し方の中に、聴き方のコツもある。
興味ある方は、一読をおすすめしたい。

2011年5月4日水曜日

トイレ掃除は心掃除

掃除は、汚い所ほどやる意味がある。
トイレ掃除は、その最たる部分である。
そういう話を、1学期の最初の方にする。

教師の側でも、便器を拭いた雑巾は汚くて触りたくないという人が多くいる。
ビニール手袋をして、掃除する人も多い。
日本人は潔癖症だから、それもわかる。
しかし、便器のような汚いものを、素手で掃除すると、自分の中で何かが変わる。
何というか、壁が崩れるのである。
かっこよくいうと、ブレイクスルーである。

誰だって、汚い便器は掃除したくない。
しかし、誰もやりたがらないところを、あえてやる。
そういうところに、自尊心とか公徳心とかが芽生えるのだと思う。
以前紹介したイエローハットの鍵山氏までいかずとも、見習う程度はしたい。

一見、トイレを掃除しているようで、心を掃除している。
そういう風に、前向きに掃除に取り組ませたい。

2011年5月3日火曜日

風評被害と情報

最近、風評被害という言葉をよく聞く。
デマゴーグが語源の「デマ」、つまり煽動的な嘘による被害である。
震災直後は、あらゆる風評が出た。
例えば、火災のあった千葉県付近では、毒性の雨が降るという風評が出回った。
例えば、被災地付近の県の野菜の安全性が疑問視され、売れなくなるという話も聞いた。
知事自ら出向いて安全性をアピールしている場面も見た。
農家の人を思うと、胸が痛む話である。

一昔前は、原爆病もエイズも近づくだけで伝染するという風評が出回ったらしい。
おかげで、いわれなきひどい差別を受けた人も多くいたようだ。
歴史を教える際には、小学生相手であっても、こういうことをきちんと教えたい。

ところで、風評とは何だろうか。
手元の「岩波国語辞典」には、「世間の評判・とりざた」とある。
つまり、風評被害とは、世間の評判による被害である。
それが真実かどうかは、問題ではない。ただの評判である。
そして風評被害とは、一見善意を装っているのが特徴である。

毎度他人の言葉で申し訳ないが、次の言葉も野口氏から学んだことである。
「情報」の「報」は報せ、「情」は、感情である。
つまり、情報とは、感情でコントロールされた報せである。
人から人へと伝わるにつれて、どんどん感情的な情報に変化する。
だから、情報の正誤判断は、自分自身に委ねられている。
全ての情報が正しいとは限らない。
そういうことを、子どもに教えるのも、大切なことだと思う。

2011年5月2日月曜日

言い訳は嘘より悪い

黄金の3日間はもとより、最初ほど教えがよく通る。
私は、嘘をつくこと自体が悪いと思っていない。
例えば、一生懸命作ってくれた料理が口に合わない時、「まずい」と正直に伝えることがいいとは思えない。
そこは、嘘でも「おいしい」と言ってあげたい。(続くようなら、伝えた方がよい。)
人を幸せにする嘘もある。
「知らぬが仏」という諺もある。
嘘をつくことが悪いのではなく、人に迷惑をかけたり傷つける嘘が悪いと考えている。

さて、嘘は内容次第だが、言い訳はいけない。
言い訳は「全ては私の責任です」という言葉の真逆である。
言い訳をしている限り、成長できないと私は考えている。
だから、そういうことをきちんと伝える。

言い訳しない子どもにするコツがあるのか。
一つ挙げるとしたら、
「正直に言って良かったと思わせる」ことである。
正直に言って、損したら、次はうまく隠そうとする。
それは知恵である。
だから、失敗を隠さず、正直に話した時の指導は、大切である。
ずばりと叱り、「次は期待している」と伝えたい。

「言い訳は嘘より悪い」
最初の内に、子どもに伝えておきたい言葉である。

2011年5月1日日曜日

ルールの根本を見直す

何事に関しても、「根本・本質・原点」は何かを考えることが大切である。
(これも、野口氏が度々口にする言葉である。)
学級開きをしてから、実に様々なルールが作られる。
学習規律に関することから給食のおかわりに関するルールまで、細部まで多岐にわたる。
ルールがないのも不自由だが、多すぎると、ルールに縛られて動けなくなる。
大切なのは、なぜそのルールがあるのか、その根本・本質・原点を全員が理解しているかである。

教師の側がそこを押さえているのが、大前提である。
「先生、どうしてこうしないといけないのですか」と問われ、「前からそうだし、ルールだから」では情けない。
例えば、なぜ授業の前に礼をするのか。なぜその言葉なのか。
授業中に立ち歩いていけないのはなぜか。
隣の人の答えを見てはいけないのはなぜか。
答えを写すだけではいけないのはなぜか。
給食を残してはいけないのはなぜか。
勉強をしなくてはいけないのはなぜか。

挙げればキリがない。
しかし、その都度きちんと説明できないようなことは、やっても無駄なことである。
教師が意味を理解せずやらせていると、意味を理解しないでやる子どもが育つ。

根本・本質・原点は何か、ルール作りの際は、ここを見直して設定したい。
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