一週間程前に、ルールの話を出した。
ルールは本来、生活を自由に快適にするためにある。
私はよくサッカーを例に話す。
「サッカーでラインがなかったら、ゲームにならないよね。
動ける範囲が決まっているからこそ、楽しい。
(これは、鬼ごっこをやる際にも言える。)
サッカーは手でボールを触れないから、サッカーになる。
一人だけ、僕は自由にやるって言って、ボール持って走られたら、もうサッカーじゃなくなっちゃう。
みんながつまらなくなっちゃうよね。
全員がルールを守る、これが、一緒に楽しくやるための絶対条件。」
ポイントは、ルールを決めたら「いつでも」「全員」に守らせること。
命に関わる緊急事態や、身体や心に何かしらの障害がある場合を除き、例外は認めない。
例外を一つ作ると、次々に「例外」ができ、やがてルールが荒廃していく。
そしてルールを守らせる前提として、ルールを教える側(学校なら教師、家なら親)自身も、100%遵守することである。
自分ができてないことを守らせることはできない。
(別の話だが、読書をしない人に限って、子どもが読書をしないことを嘆いているのが面白い。)
教師集団は一丸となって、子どもにルールを守らせる。
「廊下を走らない」というルールがあるなら、走っている子どもを絶対見逃さない。
できないのなら、ルール自体を見直すか撤廃すべきである。
最悪なのが「○○先生だけ厳しい」という状態。
ルールを守る理由が「○○先生に怒られるから」になる。
子どもの道徳価値の基準が、ここでブレる。
真面目にやっている○○先生は、正しいのに一番損をする。
ルールのがきちんと守られている状態は、本来息苦しい状態でなく、快適な状態である。
毅然とした態度で、子どもにルールを教えたい。
2011年5月8日日曜日
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