2018年1月31日水曜日

価値を言語化して伝える

赤坂真二先生によるクラス会議研究会での学び。

なぜ、クラス会議をやるのか。
冒頭で、そういう根本的な問いを投げかけられた。
グループで考えを出し合い、発表した。

クラス会議に限らず、何かしらの実践をする時には、必ず考えることである。

逆思考でいく。
それをやらないと、どうなるのか。
さらに、他のもので代用できるのではないか。

この二つの問いに答えられないと、「やらなくてよい」という結論になる。
価値を説明できないということになる。

例えば、ある商品を売りたいとする。
ものすごい「多機能」で「便利」なのだが、相手側が買うかどうかはそこではない。

それを買うと、生活がどう変わるか。
他の商品にはない独自の魅力は何か。
そこをお客さんの頭の中にわかりやすくストーリー化して想像させながら伝える必要がある。
商品に対する知識と自信がないと売れない所以である。

もし、自分で何かしら実践していることがあったら、問うてみる。
それをやらないとどうなるか。
他のもので代用できないか。

何のためにやっているかわからなくなった時にも、使える思考法であると思う。

2018年1月29日月曜日

納得感をもったルールのもたらす緊張感と安心感

ルールと自由についての考察。

あの大谷選手も実践している「原田メソッド」で有名な、原田隆史先生の言葉。
===============
仕事をする上での必要不可欠なルールから、
お互いが気分良く仕事に取り組めるような決まりごとまで、
組織に所属する人々が納得感を持って、自主的に、しかし意識的に取り組む約束事やルールは、職場に適度な緊張感と安心感を与えるのだ。
居心地の良さは、決まりごとが少なく、自由に過ごせるという環境から生まれるのではないのである。
================

心の底から、納得である。
特に最後の一文。
納得感をもてる約束事やルールがあるから、居心地が良い組織になるのである。
これまで何度も述べている通り、自由という言葉は、使い方を間違えると危ない。

例えば路上を通行するのも、きまりごとやマナーが数多くある。
歩道一つとっても、歩行者と自転車は分けられているし、様々な規制・規制がある。
交通ルールを破ったり路上で横暴をしたら、いつ警察に捕まるか分からない。
近くを通りかかった一般の人に注意されるかもしれない。
だからこそ、安全が担保されていて、安心して通行ができる。

交通ルールの存在には、納得感がある。
ここがないと、混乱して危険だらけになるのは目に見えているからである。
お互いに交通ルールを守れば、誰しもが快適に通行できるとわかっているからである。
警察の存在には、安心感がある。
いざとなったら悪をくじき、困っている人を助けてくれるからである。
逆にいえば、自分が法を侵すようなことをすれば、悪としてくじかれることも承知である。
適度な緊張感と安心感を与えてくれる。
また、狭い道で互いに譲り合うといったマナーも、安心感につながる。

教室にも、適度な緊張感と安心感が欲しい。
そのためには、子どもたちが納得感をもって、自主的に、意欲的に取り組む約束事やルール、共通理解されたマナーが必要である。
例えばクラス会議などは、それを実現する有効な手立てとなる。
一見厳しいようなルールでも、子どもたちが納得感をもっているものであれば、進んで従うものである。
クラス会議で子どもが作ったものには、過度に厳しいものが含まれることがある。
しかし、無理のあるものは、自然淘汰されるので、あまり心配せずとも大丈夫である。

そして、しっかりと見守る教師がいるからこそ、子どもに安心感が生まれているという事実から目を逸らさない。
自由な学級という耳に心地よいフレーズばかりにとらわれて、するべき指導を躊躇すれば、そこが小さな穴となる。
どんな立派な城も、最初の小さな穴から崩れる。
穴が空いても埋めようとすればいいのだが、放置しておけば穴はどんどん広がり、新しい穴もできる。
いくら子どもたちが納得して決めたルールだからといって、全員が必ず守るとは限らない。
「決めたルールは守る」ということを見守り、担保してくれる存在が必要である。

お金の場合を考えればわかる。
お金の貸し借りの場合、よほどの信頼関係がない限り、法とそれに基づく保証人が必要である。
ましてお互いがよく知らない他人同士であれば、情や口約束だけではとても成立しない。
裏切って逃げられても、信用した方がお金も心の面も大損するだけで、約束を破った者勝ちである。
そう考えると、特に学級づくりの初期段階では、子どもだけで自治するのはほとんどの場合、無理である。
ただいつまでも教師頼りでは困るので、最初は手も目もかけ、徐々に手放していくイメージである。

「最初は手をかけ目もかけルールを守らせていく」という点は、子育てと同じである。
子育てにおける難関は、あらゆるルールを身に付けさせるところである。
そこが愛情なのである。
最初は、排泄のルール。
トイレトレーニングは、苦労する子どもはかなり苦労する。(それが個性なのだから、違って当たり前である。)
厳しくいっても余計ダメ。
根気強く励まし、成功を褒めながら「排泄はトイレでする」ということを教えていくしかない。
愛情があるなら、できるようになるまで見守るし、「どこでしてもOK」とはならないのである。
他にも、眠る時間のルールや食事のルールなど、やるべきことは山積しており、親(特に母親)は休む暇がない。
これらを総じて「躾」という。
そこは、やり方は様々であれ、一つの訓練なのである。
母親が躾のすべてを担うのは厳しく、そこは父親なり他の人も見守り、必要なところは口を出していくのが望ましいバランスである。
母親が安心感を担保するとしたら、父親の役割は、適度な緊張感を与える存在となる。
そのバランスが、子どもにとって居心地のいい家庭となる。
特に思春期以降はこの役割分担が重要で、ここも徐々に手放していくというのが、大切なポイントである。

話がお金や子育てにまで広がってしまった。
納得感を持って意欲的に取り組むルールづくり。
適度な緊張感と安心感。
ルールを担保する教師の役割の重要性。
学級づくりにおいてのキーワードである。

2018年1月27日土曜日

8の字跳びの隠れたコツ 常にジョギングのススメ

最近すっかり書いてない、8の字跳びについて。
なぜ書いてないかというと、現任校でほとんど実践の機会がないからである。
(本校では校内大会は低学年のみである。)

以前、8の字跳びの10の基本技術という形でまとめた記事がある。
これが大分読まれているようで、かなり広まっている。

しかし、である。
実は、ちょっと、修正した方がいいと思う点が実はある。
列の詰め方のところである。

くっつくぐらい詰める、と書いたが、より良い方法がある。
「走りながら徐々に前に詰める」という方法である。
要は、止まらないで、助走をつけて縄に入るということである。
だから、跳ぶ5人前ぐらいから、常に軽く「走っている」状態となる。
前後が多少離れることになっても、この方が縄には入りやすい。
そうなると、前後は完全にくっついた状態ではなく、やや離れた状態になる。

なぜこの方が良いのか。
初速が違うからである。
歩いて詰めていくと、速度0から一気に加速しないといけなくなる。
一方、ジョギングに近いこの状態だと、すでにある程度の加速ができている。
そして、縄に入る瞬間はスムーズにダッシュできる。
全く縄に入るタイミングがとれないレベルでなければ、こちらの方が良い。
(というより、レベルが上がると自然にこの動きをするようになる。
軽く助走をしていないと縄の回転速度が速すぎて入るのに間に合わないからである。)

ここを理解していると、1度ひっかった直後はまたすぐひっかかるという法則の理由もよくわかる。
リズムが崩れるだけでなく、初速自体が遅くなる(初速0になる)ためである。
つまり、一人目だけでなく、二人目も三人目も「初速0」になっているためである。

要は、常に軽くジョギングさせればよいのである。
本当は5人前ぐらいで十分なのだが、低学年だと特によく忘れる。
私が2年生を指導した時は、常に足踏みジョギングで列を整えていくという約束にしていた。
(人数も多かった上に、それほど速い回転ではなかっため、それでバテることはなかった。)
初速を上げてリズムを作るための一工夫である。

2018年1月25日木曜日

目的と目標と手段の区別をする

学級経営のコツ。
目的と目標と手段の区別について。

このブログ上では再三書いていて人によっては耳にタコ、あるいは釈迦に説法かもしれない話の確認から。
目的と目標は違う。
目的はまさに目指すべきゴールである場所。
海賊にとっての宝島である。
一方の目標は、「標」が「木の立て札」の語源の通り、そのための道標となるもの。
海賊にとっては、宝島に辿り着くための途中地点や目印である。
大体あっちに向かうらしいということがわかるものが目標である。
当面の目標を実現するためにとるのが手段である。
最初の島に行くのにいきなり難破は困るから、まずは天候や方角を読める航海士を仲間に入れるとか、そういうことである。

校内の縄跳び大会を例にして考えてみる。
クラス全員の心技体を鍛えることが目的。
そのための目標が優勝。
目標達成の手段として、モチベーションを保つために8の字跳びの練習の成果を可視化するためのグラフを利用する。
そんなイメージである。

学級におけるすべての活動に、この意識をもつことである。
目的は「何のために」とも言い換えられる。
目標は「何を」にあたる。
手段は「どのように」である。
「何のために」「何を」「どのように」を選択する。

前々号で紹介した河邊氏の「鉛筆1本」の活動を考えてみる。
何のために=ありがとうがあふれるクラスづくりのために
何を=あらゆるもの・人を大切にすることを
手段=鉛筆1本だけを使うルールを用いていくことで実現する
という感じになる。(私の勝手な分析であり、ご本人がどう考えているかは知らない。)

どんな活動でも、これに当てはめて考えることができる。
逆にいうと、これが具体的に答えられない活動の場合、意味がない、あるいは害悪の出る可能性がある。
うまくいかない場合は、目的か目標か手段のどれかを間違えているのである。
その場合、この根本を変えないと、何度やってもうまくいかないという結果が天地自然の原理できちんと出る。

例えば、良い授業をしようとして楽しいネタを用意しているのに、子どもがのってこずに全然うまくいかないという悩みがあるとする。
目的=良い授業をする
目標=子どもがのってくること
手段=子どもが食いつきそうなネタを用意する
となっている。

一体、どこがまずいのか。
長くなったので、次号に続く。

2018年1月23日火曜日

学級経営のコツは、地味で地道。

前号の「鉛筆1本を大切にする」という話の続き。

学級担任に限らず、何の仕事でも、やるべきことは「無限」にある。
あれもこれもはできない。
だから「1点突破」は基本的な戦略である。

「そんなこと、どうでもよくない?」と言われそうなことを、徹底してやる。
河邊氏の本を推薦している鍵山秀三郎氏の言だが、これを
「凡事徹底」
という。

私は、とても徹底までは至らないが、教育の場面において譲らないところがいくつかある。
「別に、そんな細かいところ・・・」で終わらせない。
陰で口うるさいと言われようが、裏でぶつぶつ愚痴られようが、しつこくやるし、言う。

よく「学級経営のコツを教えてください」といった類のざっくりとした悩み相談を受けるが、実はこの辺りが答えになる。
一見どうでもよさそうな細かいところに、コツが眠っている。

例えば、掃除の時間。
子どもたちは「隅っこ」や「見えない所」が気になっているか。
ほこりがたまっている箇所を見つけられるか。
具体例を挙げると
・ゴミ箱や教師用机の下
・部屋の四隅
・カーテンレールや窓、出入り口の上の桟の部分
・掃除用具箱の中
・ゴミ箱やバケツの中
等々である。

私がいつも気になるのが、ほうきそのものについたほこりである。
毛櫛で取らずに、ぽんと掃除用具に入れていることがある。
(自分の学級でも未だにある。徹底ができていない。)
ほうきの役割は立ってやれる分、床拭きの子どもよりも姿勢が楽なのだから、最後に道具のほこりを取るぐらいはさせたい。

なぜここにこだわるかというと、次につながるからである。
要は、ほうきのほこりを取るという行為が、次の準備になる。
次に使う人への配慮にもなる。
道具の本来の力を発揮でき、作業能率も上がる。
使う前にきれいだったのだから、使った後もきれいにしようという気になる。
そして、こういった態度が、他のあらゆることに波及しだす。
次につながる好循環の始まりである。

逆をいえば、ほうきのほこりを取らないだけで、悪循環の始まりになり、波及する。
先に挙げた利点を逆さにして読むことになる。

たかがほうきのほこり取り一つでも、徹底するのは意外と難しい。
ただ、ここ1点を突破しただけで、他のかなりのことが違ってくる。
学級経営のコツとかいうと、一発逆転のすごいテクニックがあると思っている人もいるかもしれない。
実は、こういう地味なところを、放置せずに詰めていけるかどうかにある。
教育実習生などには、しつこく伝えているが、実際やってみないと実感はもてないだろうとは思っている。
服装や持ち物、言葉遣いといった細かいことを注意するのも、こういうことを考えた上である。

学級経営のコツは、地味で地道。
派手で劇的な方法を求めてしまうならば、ぜひ伝えておきたい事である。

2018年1月21日日曜日

鉛筆1本を大切にするクラスづくり

次の本を読んだ。
『「ありがとう!」があふれる幸せなクラスづくり大作戦』
河邊 昌之 著 明治図書
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-115815-6

友人の河邊氏の初の単著である。
「感謝」を柱とした学級経営の具体的なアイデアが提案されている。

この本の中に「鉛筆1本活動」という実践がある。
簡単に言うと、もってくる鉛筆を1本だけにするというもの。
落とし物No.1の鉛筆を「落とさないようにさせる」という方向の解決にもっていく。

「たかが鉛筆の落とし物ぐらい」と思うかもしれない。
しかし、鉛筆1本を大切にすることの波及効果はとてつもなく大きい。
実は河邊氏は、単に鉛筆の落とし物をなくそうとしているのではない。
ここから、「ありがとう!」があふれる幸せなクラスの柱を作るのである。

鉛筆が1本しかない。
当然、大切に使うようになる。
その1本がないと書けないので、落としたらすぐに気付く。
大切にすると、名前をつけたくなる。
名前をつけると、捨てたくなくなる。
捨てたくないので、限界まで使うようになる。
どうしても使えなくなっても、捨てずに「学習の足跡」のような形でとっておきたくなる。
(河邊学級では、掲示物として残されるようになる。)
仲間の鉛筆がどれかもわかるようになるので、万一落としても本人にすぐ届く。

さて、ここまでは鉛筆の話である。
鉛筆にとどまらない。
鉛筆を大切にすると、次々と他のものも大切にするようになる。
ものを大切にするようにすると、人も大切にするようになる。
頭と心も使うようになる。
結果、幸せなクラスづくりにつながっていく。

捨てない工夫をする。
それは、無暗に新しいものを使わないということにもつながる。
これは実は「捨てる」ということと同義である。
新しく余計なものを買うという選択肢を「捨てる」からである。

たかが鉛筆一つにこだわることで、クラスづくりになる。
ここがわかっていないと、些細だけど大切なことを落とし、クラスを荒らすことにもなる。

自分のクラスの何が悪いかわからない、という悩みを抱える方にも、おすすめの本である。

2018年1月19日金曜日

薬を飲む前に

ある日電車に乗ると、各社の胃薬の広告だらけであった。

「飲んでスッキリ!これで忘年会もOK!」
「胃痛がしたら、これ1本!」
といった広告が立ち並ぶ。

なるほど、胃薬に助けられている人が多いのだということがよくわかる。
広告を出すのは、売れるという算段があってこそ。
ただ、これではいけないと感じた。
薬を飲むという行為は、あくまで苦痛回避の緊急手段である。
「胃をおかしくする生活習慣」という根本の原因をどうにかしないといけない。

悩みを一発解決してくれるものを求めてしまうのは仕方がない。
薬のような劇的な効果である。
しかし、劇的な効果のあるものは、必ずといっていいほど副作用がある。
症状によっては薬は毒になる。
薬は本来病気を治すものではなく、耐え難い苦痛を一時的に和らげるものである。

健康に関する生活習慣の根本改善は、
食事、運動、睡眠である。
3つの内の1つではなく、3つともである。
どれかを欠いた方法は根本的解決にならない。
必要な栄養をとって、適度な運動をして、必要な量眠る。
当たり前のことを地道にやるのが、一番効果的である。

子どもたちは「○○ができるようになりたい」と願っている。
学校はそういう場なのだし、当然である。
ただ、勉強でも運動でも習い事でもそうなのだが、何か劇的にうまくいく方法があると思っていることが多い。
道具がどうだとか、教え方がどうだとか、周りの友達がどうだとか、色々に原因を求めている心がある。
要は、問題解決に薬を求めているのと同じである。
この心の状態だと、何をやってもうまくいかない。

自助努力が先にあってこそである。
うまい方法を教えてもらう前に、自分でやるべきことをやる。
向寒マラソンや縄跳びによる体力向上期間に、よく子どもにする例え話がある。
「速く走れるようになりたいなら、本人が走る以外ない」という話である。
親や先生や友達が、どんなにがんばって教えても、本人が走らないことにはどうしようもない。
努力もしないでうまくいく方法を教えてくれというのは、そういう状態を指す。

立ち返って、仕事にも適用できる。
何か、そういう姿勢の自分がいないか。
もっと周りが〇〇だったら、うまい方法があるはずだ、と考えすぎていないか。
その前に、自分がやるべきことをやる。
当たり前のことをきちんとやる。
それができれば苦労ない、を苦労してやるのが、王道ではないか。
生活習慣を改善しようともせずに、劇的に効く胃薬を求め続けるような生き方は避けたい。

2018年1月17日水曜日

忘れ物問題には真正面でぶつからない

前号の続き。
忘れ物をどうやって減らすか。

身も蓋もない話をすると、担任が何を言おうが、忘れ物が減ることはない。
それは、生活習慣だからであり、個人の性格の問題も多分に含まれるからである。
そこを担うのは、家庭教育である。
家の中のモノや生活習慣が乱れていたら、当然忘れ物は増える。
担任は家庭訪問をする際に「この子どもは忘れ物をしやすい状態にある」ということも押さえる必要がある。
変えるとしたら親の方にアプローチする必要があるが、ただでさえ若手は親に腰が引けるのに、そんなことはとてもできない。
せいぜい「連絡帳に書かせてチェックし、毎日親にもチェックしてもらう」程度である。

さて、そこでもう一方のアプローチである「忘れても問題ない状態にする」を考える。
要は、他人ではなく、自分を変えるのである。
こちらの方が問題の解決方法として現実的だし、お互い精神的に負担が小さい。

忘れたら、すぐに貸し出せる体制を整える。
ありがち忘れ物上位の習字セットなどは、5セット位余分に用意しておく。
「○○を忘れたので、かしてください。」
「どうぞ」
これだけである。
(ただし、専科の先生の授業の場合、このルールを適用しない。
その先生のやり方があるので、そちらを尊重する。
私は学級担任よりも、授業者優先の考えである。)

貸し出す時は、色々言わない。
ぐちぐちネチネチ言われると、次に借りたくなくなる。
そうすると忘れたのに黙っていたり、勝手に友達のを借りたりするようになる。
折角の手段が無効化する。
よって、お互いに爽やかに行うのがコツである。

貸し出す時に、名簿にチェックぐらいはしてもよい。
図書の貸し出しと同じで、確実に返してもらうための手段である。
借りた側も多少恩義に感じ「次は気を付けようという」という意識化にもなる(かもしれない)。
「借りたものは必ず返す」という社会生活に必須の教育にもなる。
一石二鳥三鳥である。

要は、いかに軽やかにいなすか。
小さな悩みが脳の中で肥大化する。
真正面からぶつからず、違う方向から見るというのが、あらゆる悩みの解決の基本である。

2018年1月15日月曜日

Q&A「忘れ物がなくなりません。」

先週、他校の校内研修でお話をさせていただいた。
例のごとく、学級経営や仕事術についてである。
事前に校内研修担当の先生が、校内の先生方に、今の悩みや当日聞きたいことについてアンケートをとってくれた。
若手の先生が多いらしく、悩みも具体的である。

多くの方が書いていた悩みがある。
「忘れ物がなくならない」である。
「宿題忘れ」も多い。
これを、どうすればいいのかという悩みである。

「何だこんなこと」と思うかもしれないが、これがなかなか一筋縄ではいかない。
社会人に当てはめると、
「部下が提出物の〆切を守れない」
「やるべきことを先延ばしして、期限になってもできていない。仕事に差し支える。」
といったところである。
この部下の態度・行動をどうにかしようということである。
そう考えると、苦労が少し伝わるだろうか。

「忘れ物」に話を絞ると、解決の方向は大きく二つある。
一方は、忘れ物そのものをさせないようにする方向。
もう一方は、忘れても問題ない状態にする方向。

恐らく多くは、前者の方に力を入れる。
そこで、厳しくうるさく、何度も言う。何度でも言う。しつこく言う。
しかし、忘れる度に小言を言っても、まず変わらない。
「先生に何度も言われて忘れ物が減りました」という話をほとんど聞いたことがない。
あり得るとしたら、忘れたらとんでもなく恐ろしい目に遭うという状況だけである。
あとは、「忘れ物チェック表」による「全員もってくるまで○○」といったような集団の重圧がかかる場合である。
恐怖の回避手段として、忘れなくなるかもしれない。
ただし、その担任の間だけである。
それは、忘れ物をなくしてあげたい先生の本意ではあるまい。

多くの「忘れ物がなくならない」の悩みの本意は、善意から来ている。
「将来この子どもが困るから」という理由である。
だとしたら、恐怖の回避による短期的な解決ではなく、生活習慣の改善のような長期的な解決方法が望まれる。
(「そうではなくて、授業の進行上困る」という場合もある。
この場合、後述する「忘れても問題ない状態にする」手をとればよい。)

一般的に多い悩みであり、ここを考えていくことは有益である。
次号でも考えていく。


2018年1月13日土曜日

不足は幸福の母

人間というのは、苦労して得たものに価値を見出す。
渇望している時に得たものに感動するほどの喜びを覚える。
あるはずのものが不足し、それが手に入った時に、有難みに気付く。

つまりは、「不足が感動・感謝を生み、幸福につながる」と考えた次第である。
不足は幸福の母である。
逆にいえば、不足を感じずに充足された場合、価値も感動も感謝も生じない。
それは、まことに不幸なことである。

私の大好きな寓話に、「王様のご馳走」のお話がある。(子どもの頃きいた話で、出典がわからない。)
あらゆるものが何でも手に入り、世界中の料理を食べ尽くしたグルメの王様がいる。
国一番の料理人を呼びつけ、未だ食べたことのない最高に美味い料理を出せという。
料理人は承知し、ただ、その料理はお城の中では食べられないと伝える。

料理人は王様を連れて山を越え谷を越え、歩き続ける。
馬車の入れない山道なので、王様も一緒に歩くしかない。
「まだ着かないのか」「もう少しでございます」
「何か食べるものはないのか」「世界最高の料理を召し上がっていただくので、ご辛抱ください。」

王様は空腹が限界に達する。
「お腹がペコペコで、もう歩けない!」
(そもそも、ぐうたら暮らしていたせいで、体力も根性もないので、音を上げるのも早い。)

そこで料理人は「世界最高の料理」を出す。
何と、具も何もないただの「塩むすび」である。
王様は、貪るようにそのおにぎりにかぶりつく。
「こんなに美味いおにぎりは、生まれて初めてだ」
と感動する。

そんなお話である。
私はおにぎりと聞いたが、外国の話だから、もともとの話では一切れのパンなのかもしれない。
おにぎりだろうがパンだろうが、どこにでもある普通の食べ物である。
それを「世界最高」と感動させた隠し味は、空腹感、つまり、不足である。

不足による必要感こそが、ものの真の価値を照らし出す。
万事に通用する真理である。
崇高なものに対してから卑近なことまで、あらゆることに適用できる。

私の好きな、パナソニック創業者の松下幸之助氏も、同じようなことを述べている。
空気は、ないと数分ののちに生命がなくなるほどの重要なものであるのに、無限に近いほど、ふんだんにある。
空気と同様のものが、水である。
松下氏は、ある時労働者が水道の水を出しっぱなしにしながら、がぶがぶうまそうに飲むのを見た。
これこそが自分のやりたいことだと気付いたという。
電気がまだ出始めの頃、あらゆる人にこの電気を水のごとく自由に使えるようにしたら、さぞ人々の幸せにつながると考えたのである。

果たせるかな、今、世界は電化製品だけでなく、あらゆるモノが溢れ返り、すべてが極めて便利になっている。
しかし、それで人類が幸福になっているかというと、話は別である。
便利さが、逆に不満を生み出している。
「有り難い」はずのものが「あって当然」「ないと不満」という傲慢さや矛盾を生むことにつながっている。
モノだけではなく、非物質的なものや、人間関係にまで広がっている。

きれいな水が水道から出ることは、本来当然ではない。
平和はタダじゃないし、選挙権は自然に発生しない。

学校を例に出すと、誰しもが勉強できることは当然ではない。
また、学び方も重要である。
その問題は、どうやって解けるようになったのか。
試行錯誤したのちの正解にたどり着く感動があったのか、解き方を教えてもらって公式を覚えて解いたのか。
そうなると、テストで同じ100点を取るのでも、価値は違う。

どうやって手に入ったものなのか。
子どもがお小遣いを貯めてプレゼントしてくれたものの価値と同じ。
サンタクロースのプレゼントをもらえるのと、クリスマスだから何か買ってもらえるという子どもとの感覚の違い。

人生全般も同じ。
仕事が頂けることに有難みを感じ、喜びの中働くのか、単なる労役なのか。
通勤するのだって、無数の様々な人の支えがあってこそである。
同じ一秒でも、生き方で価値が変わる。

話が大きくなったが、要は適切な不足感や不便さは、必要だという考えである。
教育においては、何でも保護して与えてあげることによる不幸は計り知れない。
生きる力をつけたいなら、考えるべきは不足感。
今後の大きなテーマとして考えていきたい。

2018年1月11日木曜日

仕事を「道楽」に

去年の勤労感謝の日のメルマガから。
この日は働くことを尊び、生産を祝い、国民が互いに感謝をする日である。

この互いへの感謝というのは、大切であるといつも感じている。
満員電車は誰でも嫌だが、実は電車を満員にしているこの人々のお陰で、自分も快適に生きられているのである。
それを思い出さないと、周りの「赤の他人」が皆邪魔者であるが如く、不遜な態度になりがちである。

「職業に貴賎なし」の言葉は、解釈を間違えなければ、正しい。
仕事は社会における役割分担であり、どの職業も欠くべからず、必要である。
(ただし、この場合の「職業」というのは、社会に役立つものを指す。
窃盗団や詐欺集団の如きものは、この場合の「職業」とはいえない。
社会の多くの人々への幸せに貢献しないからである。)

働くことは、尊い。
歴史に名を残す大富豪は、どんなに富を築こうとも、働くことをやめない。
労働が喜びだからである。

明治から昭和にかけて大活躍した、本多静六という偉人をご存知だろうか。
日比谷公園の設計や明治神宮の造林等、数えきれないほどの功績と共に莫大な富を築いた人物である。

本多氏の次の本に、かの渋沢栄一氏の言が紹介されている。
『私の財産告白』本多静六 著 実業の日本社文庫
http://www.j-n.co.jp/books/?goods_code=978-4-408-55122-7

渋沢氏曰く、本多氏がすすめているのは「職業道楽」なのだという。
そして、金は「道楽の粕」であり、ついでに、また盛んにその粕を溜めることが肝要である。
順番として、道楽、即ち生きる楽しみとしての職業があり、それに付随してお金がついてくるという考え方である。

教師の職業を「道楽」と言うと、お叱りを受けるかもしれない。
「道楽」の指すところの意味が、「本業」ではないからである。
しかしもし仮に、教師の仕事を「本業」であると同時に「道楽」であるとして考えてみる。

学級を組織する、学力をつける、子どもを守るといった諸々は、間違いなく「本業」である。
好むと好まざるとに関わらず必須事項であり、それこそが仕事の中心である。
しかし、わくわくしながら教材の準備をしたり、わざわざ書かせた日記を読んでコメントするのは、「道楽」であるともいえる。
やりたくてやっているからである。
いや、それも本業だ、と言われればそれまでだが、やらなくてもよいのである。
好きでやっているのだから、やはり道楽であるともいえないだろうか。
ちなみにその視点でいくと、私にとってのセミナーや執筆活動は、間違いなく「道楽」である。
人々の役に立てたり、喜んでもらえることは嬉しい。
100%自分がやりたくてやっている活動である。(しかも、やめても誰にも迷惑をかけない。)

他にも、この本には
「人生即努力・努力即幸福」
「二杯の天丼はうまく食えぬ」
など、名言揃いである。
慶応年生まれの人物の言葉だが、平成の時代を生きる私たちにも大いに役立つ。
「働く」ということを考える上でも、おすすめの本である。

生きているうち働けるうち日の暮れぬうち(相田みつを)
今日は日々働けることに感謝し、周りにも感謝したい。

2018年1月9日火曜日

2020年大学入試改革に向けて

今週末はセンター試験である。
そこに関連する話。

2020年大学入試改革が目前に迫っている。
この大学入試の在り方というのは、高校以下すべての学校の在り方そのものを左右する。
センター試験で広汎な知識を問うマークシートのテストがあるから、それに合わせた勉強が必要になる。
一方、これから導入されていく予定の記述式は、採点が難しい分、思考力や表現力を問うことができる。
単純に考えて、小学校段階から知識・理解よりも、思考力・表現力重視になっていくことが予想される。

現在のセンター試験の科目は、最も多い7科目型で
「外国語」「国語」「数学」「公民」「地理歴史」「理科」の7つである。
これを小学校におろすと、外国語、国語、算数、社会、理科、の5つである。
特に外国語200点は、3科目選択の場合でも避けて通れない。
こうなると、小学校段階から外国語が重視されるのは、試験の面からも当然ということになる。
この流れ自体は、2020年でも変わらず、むしろこれ以降もその重要性は高まる一方である。

外国語について話す・聞く・読む・書くという経験を、どれだけ実践的にやれるかがカギである。
小学校段階においては、現在話す・聞くという活動がメインだが、これからは読み・書きの活動も入ってくるだろう。
具体的には、教師以外の外国人講師を交えてのコミュニケーションをとる活動はこれからも更に活発化する。
加えて、英語による手紙のやりとりといった子ども同士の交流も入ってくることが予想される。

大学入試の改革は小学校段階は大きな影響がないように思われるかもしれないが、とんでもない。
大学入試で問われる内容とは、そのまま社会で役立つ力そのものである。
小学校でも「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニングの視点からの授業改善)」が広く言われている。
つまり、その時代の社会で即戦力になる能力を備えた人物像を想定した育成が求められる。

これからの時代に必要な人材とは、知識・理解をベースとして、自らの頭で思考・判断し、それを表現していける人物である。
それも、他と協力しながら、よりよい社会を創造していこうという姿勢を兼ね備える必要がある。
これらは、すべて子ども時代から身に付けていける素地である。

知識・理解のないところに、深い思考と判断はなく、表現もできない。
よって、知識がベースとして必要になることはこれからも変わらない。
小学校レベルの例でいうと、台形の面積を公式を使って求められるだけの力なら必要ない。
三角形の面積の求め方を応用して、台形の公式を作り出せる、あるいは、何通りもの方法を考え出せる力が必要となる。
さらにそれを、言葉や図や式を使ってわかりやすく伝える(表現する)力である。
発展して、様々な図形の場合においても試行錯誤して求め、その過程を説明できるようになる力である。

ごく単純に言えば、頭でっかちで答えがわからないと動けない人間は必要とされない。
知識がある上で、答えが見えない場合でも根気強く考えて解決しようとする人間が求められる。

こういった人間は、学校の中だけでは育たない。
本当に未解決の問題は、学校の外にあるからである。

例えば、3.11からの復興問題。
超高齢社会の問題、
こうした未解決の大問題に向き合い、その解決の糸口を見つけるには、まず現場に出向くことである。
よって、大学入試においても、ボランティア活動の経験は必須になっていくだろう。
社会のために貢献することが真に自分のためにつながる、という実感は、体験を通してしか得られないからである。

広く日本の社会に貢献し、世界に貢献しようという、志のある人物の育成。
これこそが、現在の教育の目指す方向ではないかと考えている。

2018年1月7日日曜日

いつでも壁がある

昨年11月、第4回やる気スイッチセミナーがあった。
満員御礼の会場の中、熱の込められた発表が続いた。

私を含め、講師を務めた全員に共通していることがあった。
うまくいっているようで、誰しもそれぞれの壁に当たっているということである。
周りからすればうまくいっているように見える実践でも、必ずしも満足いっていない。
本人の中では課題だらけである。
むしろ課題が見つからず、「どうすればより良くなるのか」がわからないというのが、最も悩む。

30代あたりで、多くの人が当たると思われる壁がある。
学級経営において「自分の思う通りになる」ということへの恐怖感である。
統制がとれすぎることへの疑問である。
もっといきいきと自由に学ぶ学級を求めて、長い長い試行錯誤が始まる。
私も未だに壁にぶつかりっぱなしである。

自由な学級といえば、有名なところで、岩瀬直樹先生の実践がある。
(参考 『クラスづくりの極意―ぼくら、先生なしでも大丈夫だよ』 
岩瀬直樹著 農山漁村文化協会
https://www.amazon.co.jp/dp/4540102516
「信頼ベースのクラスづくり」を掲げ、ファシリテーターとしての教師像の具体を示している。
多くの人にとっての憧れの形であり、理想形である。
しかし、単純にそのまま真似しても、なかなかうまくいかないのも事実。
そのレベルの実践には、一足飛びにいけるものではないのである。
ご本人が様々な形の実践を重ねた上での、集大成である。

例えば向山洋一氏は、法則化運動、TOSSという大きな動きを作った。
向山学級の数々の実践に憧れて、多くの教師が参加している。
向山実践の追試によって、救われた人は数知れない。
しかし、それで向山氏と同じ方法をとり続けようとしても、必ずどこかで壁にぶつかる。
こればかりは、実践して失敗しながら経験を積むしかないのである。
転ばないで自転車に乗れるようになることなできない。
法則化された方法といえども、この法則に例外はない。
(ただし、誰がやってもある一定の効果が出る指導方法自体は存在する。)

ただ、様々な手法を知っていると、目的と相手に応じた選択ができるようになるのは事実である。
選択が多いというのは、より「自由」ということである。
本を読んだりセミナーに参加したりというのは、自分の中の選択肢が増えるという点において、大変有益である。

私は仕事術に関しての話だったが、選択肢が増えた人も結構いたのではないかと思われる。
「ノー残業デー」の設定を当たり前と考えていた人、定刻退勤は無理と考えていた人に、一筋の光を示せたのではないかと思う。
ただし、必ずしも私の提案した方法を採用しなくともよい。
ただ単に、選択肢が増えただけである。

今回のセミナーでは、私自身のやる気スイッチが入った。
セミナーに関わった全ての方々に感謝申し上げたい。

今回のセミナーの後で、次の会が決まった。
次は逆に私たちが仙台に赴く。

第40回縁太会『教えます!「やる気スイッチ」ON!学級開き』
講師:飯村友和×松尾英明×縁太会
月日:3月31日(土)
時間:10:00~17:00
場所:戦災復興記念館4階第1会議室
↓申し込み
https://ssl.kokucheese.com/event/entry/502449/

この会でも、自分の中の新たな「壁」にぶつかるだろうと予測している。
ご縁のある方との次の出会いを楽しみにしている。

2018年1月5日金曜日

余裕は、作るもの

「余裕」という言葉がある。

「裕」の意味をGoogleさんに入れて検索すると
1.物が十分あってゆとりがある。ゆたか。 「裕福・富裕・余裕」
2.心がひろい。せせこましくない。 「寛裕」
とある。

これが余っているのが、余裕。
素晴らしい状態である。
「裕」の字が広く人名に好まれて使われているのも頷ける。

拙著『「あれもこれもできない!」から…「捨てる」仕事術』
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5
の中に、この「余裕の大切さ」について書いた項目がある。
心理学の「空間補完効果」を例に、余裕を作る大切さを挙げている。
要は、無理矢理にでも余裕を作ると、それを埋めたくなる心理が働く。

これと併せて、パーキンソンの法則も取り上げたい。
この第1法則は
「仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」
である。
つまり、余裕を作ろうと最初から設定して仕事をしない限り、一生余裕はできないのである。
時間制限を自分で設けない限り、仕事が早く終わることは、まずない。

逆にいえば、予定を先に入れてしまえば、必ずそこまでに仕事は終わる。
土日に遠方での結婚式が入っていれば、確実に金曜日までにすべての仕事を終わらせるはずである。
金曜日の夜に大切な用事が入っていれば、確実に定時に終わらせるはずである。
もっといえば、その日我が子が突然高熱を出したということになれば、誰かに託して無理矢理にでも終わらせるはずである。

つまり、仕事は本気の時間設定さえすれば、そこで終わる。
覚悟、決意の問題がかなり大きい。
これは、決してただの精神論ではない。
「そんなこと言っても無理」といっている間は、無理である。

爆発事故から帰還を果たしたアポロ13号の乗組員は、「無理」と言わなかった。
明らかに無理な状況に「無理」という代わりに、「どうすれば」ということに頭を捻った。
無理と諦めてしまえば、死ぬ状況である。
だから、「必死に」なってやれることをやった。

そこまで必死にならなくてもいい。
ただ、一定の時間内に仕事を終えることは、工夫すればできるはずである。
失敗しても命の危機に陥る訳じゃないので、ストップウォッチをもって挑戦してみればいい。

余裕は、作るもの。
作れば、埋めたくなって、何かが変わる。
仕事をする上で、一つ大切な考え方であると思う。

2018年1月3日水曜日

子どもに良い思い込みをさせる

新年は、色々な人に会う機会が増える。
親戚や知人の子どもに会って、お年玉をあげたり、一緒に話したりする機会もあるだろう。
そんな時に注意したいことがある。

何かというと、子どもは、お年玉も冗談も額面通り受けとるということである。

どういうことか。

お年玉は、渡した金額の通り受け取るのが普通である。
1000円渡しておいて、本当は5000円渡したいのだけど、ということが通用しないことは誰でもわかる。
普通に考えて、1000円より5000円の方が嬉しいだろう。

冗談もこれと同じで、言った言葉の通り受け取る。
冗談の裏の伝えたいことより、そのまま額面通り受け取るということである。
愛情を込めた冗談のつもりで言ったのに、本当に悪口として受け取るということである。
普通に考えて、馬鹿にされるより褒められる方が嬉しいだろう。

子どもには、大人に通じる冗談が通じないという前提をもつことである。
(本当は、大人もきちんと褒めてもらう方が嬉しい。
 親戚の前で「うちのは何やってもダメで」なんて言われて、妻(夫)が嬉しいはずがない。)

親戚の集まりというと、それぞれの近況の話になることがある。
受験生がいるなら逆に気を遣って話題にならないかもしれないが、時に学校の成績の話になったりもする。
親としては自慢するのも気が引けるので、「私に似て出来が悪くて」などといった謙遜をするかもしれない。

ここである。
親が「私の出来が悪い」のは構わないが、子どもを巻き込んではいけない。
子どもは、そういう冗談からも「自分は出来が悪い」と捉える。
他人が同意しようものなら、その疑いは確信に変わる。

昔はよく幼子に対し「お前は橋の下で拾われた」などという冗談を言ったという。
これは、よくない。
私の母も、幼い時分に親戚の誰だかに突然言われたことがあるそうで、ひどく動揺して泣いたと言っていた。
冗談でも、実は深い心の傷になっている。
(何をねらった冗談なのか、未だに不明である。)

逆に考えると、子どもは褒められた通りに受け取るのだから、褒めた方が良い。
「あなたはお母さん似ね」と言われれば、否定したい気持ちをもちつつも、そうなのかなと思う。
そこに「優しいところもお母さんそっくり」と言われたら、悪い気もしない。
一人ならともかく、複数にそう言われたら、確信に変わる。
優しいという自己イメージをもった子は、人付き合いに対し前向きな姿勢をもつようになる。

子どもに対しては、人前でその子の良い点以外は言わない。
また、親の謙遜にも同意しないことである。
子どもは、冗談をそのまま受け取り、褒めたことも、素直に受け取る。
どうせなら、良い思い込みをさせることである。
学校でもそのまま適用できる、使い方要注意の教育の原則の一つである。

2018年1月1日月曜日

新年の目標の作り方と達成のコツ

2018年初投稿は、新年の目標について。
新年の目標がうまく立てられないという人は多い。
今日は教育の観点から、少し長いが、そこのコツのお話。

目標設定については、様々な書籍があり、手法がある。
様々学ぶ中で、現在の私がアレンジして採用している方法を紹介する。

前提として、「人生の目標」と「直近の目標」は分けて考える。

人生の目標とは、いわゆる大目標である。
年ごとに変わるものというより、人生全般の目標である。
とてつもなく大きくてもいい。
どうやって達成するかもわからなくてもいい。
「夢」に近いものである。
規模も個人レベルのものから国家、人類レベルのものまで様々である。
とにかく大きさや手段を度外視していい。

ちなみにこの人生の目標は、なければなくてもいい。
「あるとそっちに行きやすい」ぐらいのものである。
いわゆる成功者の中にも、ここを設定しないという人もいる。
「目標があると燃える」というタイプと「目の前のことに集中した方が燃える」というタイプの違いである。
ポジティブとネガティブのようなもので、どちらが良いというものでもない。
自分に合う方を選べばよい。

次に、直近の目標というのは、いわゆる小目標である。
「今年の目標を立てる」という場合は、こちらに当たる。
仕事や趣味、人間関係など、様々な分野で設定する。
直近の目標設定のコツは、「ストレッチ」である。
つまり、多少の無理が必要なレベルで、痛すぎない程度のもの。

「教育観と仕事術」押しのメルマガだけに、仕事の退勤時刻を目標の例に挙げる。

例えば、昨年に毎日8時まで残業している日々があったとする。
ここへのストレッチ目標を立てる。
実態にもよるが、多少「無理」を通す必要がある。
「毎日7時半退勤」では、ストレッチが利いていない。
簡単すぎて気が緩み、楽しみもメリットも味わえない。
「毎日6時半」ぐらいは攻めたい。
これなら失敗しても、7時には帰れる。
最初から7時半設定では、失敗した場合、元の木阿弥である。

逆に、いきなり「毎日5時退勤」もいただけない。
最初から無理しすぎである。
やりながら、全くうまくいかないので続かず、これもすぐに元の木阿弥。
身体が超カタいのに「いきなりベタっと開脚」を目指すみたいなものである。
やる前は3億円宝くじを買う時ぐらい高いテンションで希望に満ちているのに、やるとゴールが全く見えず、続かない。
ストレッチを利かせて、だんだん柔らかくしていく必要がある。

目標設定では、その先に「ワクワク」する目的をもつことが必要である。
この例で言うなら、空いた時間で、具体的に何をしたいかである。
せっかく早く帰ってもすることがないなら、すぐに元に戻ってしまう。
つまり、目標の先の目的があるかどうかである。
「毎日早く帰って〇〇をする!」という目的があれば、毎日6時半退勤も可能である。
目標は、強い目的意識さえあれば、かなりの確率で達成できる。(逆もまた然りである。)

例えば、単発でその日に大切な人との約束があったとすれば、確実に早く帰る工夫をし、多くは成功するはずである。
もっというなら、それがわかっているから、早い段階で事前に入念な準備をするだろう。
前日までに必要な作業を全て計画的に終了させようとするはずである。
(だから、事前にわかりきっているような仕事を退勤時刻直前に思いつきで「今から」と突然言う人は犯罪的ですらあると考える。)

退勤時刻の目標設定の意義とは、これを1年間に応用できることである。
つまり、無意識に流れてしまう時間を、意識でコントロールすることができる。
何もしなければ、確実にまた毎日8時退勤の日々が待っている。
しかし、目的をもって目標に向けた行動を計画しておけば、現実に変化を起こせる。
人生を変えられる。
それが結局、大きく見れば人生の目標に近づくことにもつながる。

成功のコツは、目標達成への具体的な行動対策を複数立てることである。
例えば「体重を減らしたい」なら、運動と食事と睡眠の3方向からアプローチする。
1つはダメである。
3つやっていれば、1つサボって失敗した時があっても、残り2つで継続し、立て直せる。

先の退勤時刻の例で考える。どれも、10個程度の対策案を立て、最低3つは実行する。
・残業デーをつくる
・会議は必ず勤務時間内に設定する
・実はやらなくても済む仕事を整理する
・休日出勤を禁止し、平日にすべて計画する
・週末に仕事が残っている場合、終わらせるまで飲みに行かない
・土日も早起きする
・朝6時出勤する
・スケジュールの公開をする
・仕事術系の本を毎日読む
・残業デーをつくる
・・・

まだまだ考えられるが、全て一気にはできない。
自分に実行できそうなものを選べばよい。

新年の目標を立てる意義。
それは、自分が本当に何をしたいか、自分と話す時間をもてることである。

2018年がさらに素晴らしい年になることを願う。
  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング