2022年10月30日日曜日

理想の学級は理想的と言えるか

 学級づくり修養会「HOPE」例会での気付き。


今回のテーマは「理想の学級は理想的と言えるか」であった。

根本を問う、哲学的なテーマである。


ここで参会者の中から出てきた言葉が

「寛容の不寛容」

である。

「許さないことを許さない」という矛盾である。


これは哲学者カール・ポパーが1945年に発表した「寛容のパラドックス」というものである。

(出典:Wikipedia)


つまり、理想の学級を実現することは、それ以外を否定するということになる。

学級担任の考える理想の学級を良いと思えない子どもも否定することになる。

ここにもはや矛盾が生じるという次第である。


例えば自分であれば「自治的学級」を理想としている。

しかしながら「自治以前」という集団の状態も当然存在する。

その学級集団を否定すること自体が誤りである。


集団の中には「みんなと一緒」に抵抗感をもつ子どもが少なからず存在する。

一方で「みんなと一緒」が最も居心地の良いという子どもも存在する。

これらを一緒くたに扱うことは、現実的に考えて不可能である。

もしそれが上手くいっているように見えるのであれば、そこを我慢している人がいるからである。


学校教育は、集団を一緒くたに扱うという前提のもとで制度設計がなされている。

学習指導要領が定められていることからもこれはわかる。

教室に35人が一緒にいることからも、生まれた年月で学年が年齢別に構成されていることからもわかる。

要するに、前提として理想の同質のものを作る制度設計である。


この制度に乗っている以上、ある程度の同質性は避けられない。

完全に個別最適な学びを求めるのであれば、年齢の区分けを取り払う他はない。

算数の授業で、内容が一瞬で理解できる子どもと、1時間やってもさっぱりわからない子どもが混在している現状である。


個別最適を求めるのであれば、小学生が中学校の数学をやっても何ら問題ないはずである。

また逆に、足し算や引き算すら覚束ないのに、そのはるか先の高度な計算に取り組めるはずがない。


要するに、自分の理想の前提を疑う必要がある。

それは実現において、現実的に無理がないか。

どこを見直すべきなのか。

求める集団の同質性から外れる子どもが大勢いて自然という前提が必要である。

それがわかっているのに申し訳ないが「枠」の中でやってもらおうというのが、現在の教育制度の現実である。


では、例えば「学級目標」は必要がないのか。

そんなことはなく、これは有効な手段である。

教育である以上、目指す方向性はある。

迷わないための指針があるというのは、集団が動くに当たり必要である。

(指針が適切なものであるのかは検討の余地がある。

船の目指す先が岩礁では沈没するだけである。)


指針とは、方向性に過ぎない。

全体でそっちの方へ、後は各々でというざっくりなものである。

一方で理想は、詳細まで決めていくと、それは「枠」になる。

「枠」からはみ出てはいけないとなると、無理が生じるという次第である。


全員を「枠」にはめようとする行為とは、保育園の「お散歩カート」に全員を乗せようとするようなものである。

「お散歩カート」は、まだ自分で歩けない、歩かせられない子どもなど、それを必要な子どもだけが乗るためのものである。

自分で安全に歩ける子どもまでカートに載せて面倒を見る必要はない。

それは親切すぎるお節介である。


教育が、親切すぎるのである。

今回、そこへの問題提起として、次の本を書いた。


『不親切教師のススメ』さくら社


教師が理想を追い求めすぎるので、過剰な親切になるのである。

本当の親切な教育とはどういうことかについて書いたものである。


理想の学級は理想的といえるか。

多分、その答えは常に「ノー」である。

2022年10月22日土曜日

やれないからこそ、やってみる

 特別活動関係の学習会に出ると、学級会をやっていない学級が多いという話になる。

特別活動を勉強しようという人でもやっていないことが結構ある。


理由は色々である。

「時間がない」

「やり方がわからない」

「自分の学級ではできそうにない」

等々。


「時間がない」という場合、実は「やりたくない」というのが隠れた本音である。

この場合もやはり「できそうにない」からである。


同様に「○年生だからできない」「難しい子がいるからできない」もよくある。

1年生にそんな難しいことは無理という話である。

あるいは、これこれこういう子どもがいるから無理という話である。


人は、深層心理の無意識下で、理由をこじつける。

時間がないというために、他のやるべきことを利用する。

実行できないというために、その理由を探す。

そこには一面の正当性があるため、自分自身で納得しやすい。


結論、どんなことでも、まずはやってみないとできるようにはならない。

さらに、初めての状態からしばらくは、上手くできるはずがない。

あらゆることにおける、前提条件である。


学級会のような話合いは、やらないとできるようにならない。

クラス会議をするなら、手法を学ぶ必要もある。

しかしどんなに学んでいようが、初期の頃に話合いが成立しないという点では、スタート位置は同じである。


クラス会議を初めてやるための、導入の活動もある。

過去に書いた、一年生の最初の導入のための活動を紹介した記事もある。

参考:みんなの教育技術 「一年生一学期のクラス会議初期指導のコツ」



一年生の最初でうまくいかない、できないのは誰しも「当たり前」だという。

だから「やらない」となるが、これが勿体ない。

やればできるようになる。


話合いをやってきていなければ、六年生でもできない。

先にも述べたように、学級会をやっていない学級がかなりある。

つまり、これまでほぼ全くやっていない状態で育っている可能性が高い。

だからこそ、今目の前にいる子どもたちから、始めるのである。


話合いが自分たちだけでできるようになるには、段階がある。


まずは、やり方を知る段階。

こちらが手取り足取りして、基本的なルールや流れを教える。

議題もゲーム的な「結論がどうでもいい」ものでスタートする。


次は、こちらが司会でいいので、やってみる段階。

発言の順番が回ってきても「パス」や無言が続く。

「パス」を含め、意見表明したこと自体を認めながら進めていく。

ここでは、ほとんど何も決まらないがよしとする。


次に、司会を任せ始める段階。

司会もドキドキなので、助けてあげながら進めていく。

発言は「同じです」がよくが出るようになるので、他の人と同じでも自分で言うよう促していく。

この辺りで、合意形成へもっていくための意見の収束の仕方を教える。

「単純な多数決は少数派の意見を切り捨ててしまう」という危険性も教えていく。


慣れてきて、司会も黒板の書記も任せていく段階。

ある程度まで自分たちで進行できる。

時々、ルール違反(他の人の発言中に口をはさむ、最初のアイデア出しの途中で発言を否定する)が出るので、ここは正す。

自分達で進行できたこと自体を認めていく。


いよいよ、自分達だけでほぼ運営できる段階。

話合いや決定が学校ルールやモラルから逸脱しない限り、基本的に黙って見守る。


この自分達だけの段階へ、低学年であれば秋の終わり、高学年であれば夏休みぐらいまでと目安を決めて進めていく。

そのためには、できない状態からでもまず始めることである。


授業中における話合い活動も大切である。

普段の授業で聞いてるだけなのに、会議の時だけ全体の場で意見を言えるようになるというのは現実的でない。

ペアトークや班でのグループトークなどを頻繁に取り入れ、小規模の話合い活動に慣れるようにする。


何事も、やってみることと、慣れである。

最初から上手くできることはない。

また、始めるのに最適なタイミングは、いつでも今である。


なぜこういうことを書いたかというと、これが教師の仕事がしんどいことと、無関係でないからである。

無関係でないどころか、根本的原因と言ってもいい。


学校は、子どもが自分で生きていくための力をつける場である。

子ども自身でやればできることは、子ども自身がやって力をつけるに限る。

それを教える立場の人間が代わりにやってしまっては、子どもの学ぶ機会、成長の機会を奪う。


しかも、やる方は大変である。

35人が一つずつやるのと、一人の人間が35人分の作業をやるのを比較すれば、明確である。

学校におけるあらゆる学習活動は、子ども自身がやることである。

教える立場の人間は、子ども自身ではできない、気付けない、知り得ないことを示すまでである。


だから、低学年から高学年にかけて、親や教師に「○○して欲しい」の需要がなくなっていくのが自然な姿である。

一方で「自分(たち)で○○したい」が増えていくのが望ましい成長の姿である。


やってあげるのではなく、まず、やってみること、挑戦を促す。

子どもたちの成長に必要なのは、手取り足取り寄り添うのではなく、一見不親切な教育である。

2022年10月15日土曜日

『教室マルトリートメント』を防ぐ

 次の本を紹介する。


『教室マルトリートメント』

川上 康則 著 東洋館出版社


「マルトリートメント」とは、直訳すると「悪い扱い」。

避けるべき子育て、不適切な養育などと訳される。

虐待とまではいかなくとも、それに類するものまでが包括された言葉である。


そこに「教室」という言葉がついており、これは著者の川上先生の造語である。

教室での「行き過ぎた指導」から、

「これまで当たり前にされてきたがあらためて考えると子どもの心を傷つける要素をもつ指導」

までを指す。


いわゆる「問題のある教師」向けの本ではない。

「自分はぼちぼち普通にやれている」という人から「自分は熱意がある方だ」と思う人まで、すべての教師向けの本である。

教室で当たり前にされてきた異常に気付くための本である。

読めば身につまされること必至である。


この本のオンラインイベントで赤坂真二先生との対談があり、そこで

「この本から逃れられる教師はいない」

というようなことを述べられていたが、その通りである。

無自覚に行っていたあらゆる不適切な行為に対し、向き合うべき課題と対策・方法が明確に示されている。


教師は「熱心な無理解者(児童精神科医の佐々木正美氏の造語)」にだけはなってはならないという。

何に熱心なのかというと、「直す・変える・正す」という行為である。

他人の不得意を「直す・変える・正す」など、その分野のプロ中のプロでも難しい。


教師が子どもの不得意分野においてここを熱心に目指せば、何が起きるか。

子どもの心理的な悪化が目に見えている。

場合によっては、身体的な虐待にもつながりうる。

「熱心」であればあるほど、その被害は果てしなく大きい。


以下は私見。

この本を読むと、教師という仕事がいかにストレスフルなのかが自覚できる。

あらゆる方向からのプレッシャーにさらされ続ける。

「きちんとやれ」「上手くやれ」「愛情をもて」「ミスはするな」

これらすべてを「きちんと」やっていたら、壊れる。


無理を求められていることに気付くのが先決である。

今の教育現場は、そもそもがいわゆる「無理ゲー」状態なのである。

ゲームから降りないとしたら、クリアを目的としない方向の選択をする必要がある。

我々の「熱心さ」は、死なないための必死さから来ているのかもしれないと気付く必要がある。


この本は、そんな教師への救いの書である。

この本を読むと、まず自分がダメな気がする。

しかしよくよく読み進めると。自分だけではなく、全員で間違えていることがわかる。

どんなことでも、間違えに気付くことは問題解決の大きな一歩である。


学校教育に携わるすべての人に本書を強くおすすめする。

2022年10月10日月曜日

背の順に並ぶ必然性を問う

 背の順の記事への関心が高い。

なぜこの苦しみに気づけないのか…「背の順の整列は差別」に猛反論する人が完全に見落としている事実


とにかく「いつでも子どもを並ばせる」が前提になっていないか。

学校で、規則的に並ばないといけない場面とは、実際にいつなのか。


これは、二つしかない。


一つは、身体計測等の保健関係調査の時である。

記録をその場で入力する関係上、名簿順でないと非効率で不都合である。


もう一つは、名簿順に呼名や人員確認をする場面である。

呼名は入学式と卒業式、あとは緊急避難訓練時である。


原則、これら二つ以外の場面では、規則的な整列は必要ない。

他に並ぶ場面があったとしても、ホームで電車を待つ時と同じで、来た人から順に並べば問題ない。

「前が見えない」論に執着している意見もあるが、それは提起した問題の本質から完全に外れている。


「序列と差別」という本質的問題から「整列の仕方」に論点がずれている傾向が見受けられるので、付け加えておく。

2022年10月8日土曜日

工夫してのんびりしよう

今号は「のんびり」がテーマ。

のんびり、長文である。

思い出話から。


私の初任校は、千葉県の丸山町立丸小学校というところであった。

この学校は数年前、学校の統廃合により廃校になった。


山の中にある、実に牧歌的でのどかな学校だった。

私の赴任した当時、全校児童数は98名。

私はその内の11名、5年生を担任した。

田舎らしく、自由でやんちゃで元気いっぱい、明るい子が多かった。

休み時間は、全学年の児童が男女問わず一緒にサッカーや鬼ごっこをやることもあるという、オープンな関係だった。


学校の裏側は山で、そこに「石堂寺」という由緒正しいお寺がある。

お寺の敷地内には、野鳥観察ができる小屋も設置されている。

辺りは田園地帯で、近くには川も流れていた。


学校と地域との関係も良好で、夏祭りなどの様々なイベントがあった。

近くの高齢者施設の祭りに駆り出され、そこで焼きそばを作ったこともあった。

当時「勤務時間」どうこうなどという杓子定規なことは全く考えなかった。

(そもそも、毎日授業準備のために一人で夜遅くまで残っていた。

若く、時間とエネルギーが溢れるほどあったのである。)


幼稚園も併設されていて、プールは幼稚園の敷地内にあった。

空き時間に幼稚園へ行くこともあった。

時々行くと、園児たちが身体をよじ登ってきた。


幼稚園のクリスマス会には、園長兼校長が、サンタ役で行くこともあった。

バリバリ東北弁のサンタさんだった。

園児からの

「サンタさんはどこからきたの?」

の問いかけにリアルに答えようとしたため、幼稚園の先生たちに

「はーい、サンタさんはこれから次のご用事があるので帰りまーす!」

と強制退出させられていた。

実直で明るくオープン、とても人柄のよい校長先生だった。

(サンタさんは、同じく寒いフィンランド地方から来るのである。惜しい。)


保護者との関係も、とても近かった。

保護者との飲み会は町に数件ある飲み屋で開催され、それも親切なご家庭による自宅への送迎付きである。

家庭訪問をすれば家に上がらせていただき、お土産をもたされることもしばしばである。


ある日、生きた鮑(あわび)を土産にもらった先生がいて、それを「持っていきな」と私にくれた。

車のダッシュボードの上でうにょうにょと動くので、どうしようかと思った。

(これは友人宅へ持っていって酒の肴にした。)


こう書くと全てが楽しかったように思うが、今と違い、実は毎朝仕事に行くのがかなり辛かった。

その理由は、授業が下手すぎたからである。

もう、自分でもダメだとわかりきっている授業を、我慢している子どもたちに日々受けさせるのは、本当にしんどかった。

私が教育技術の獲得にのめり込んだ一番の理由である。

だからこそ、夜中の10時まで学校にいるような日があったのである。


さて、こんな思い出話を書いた理由だが、今、どこも学校現場が、やたらと忙しすぎるからである。

昔から、先生たちは結構忙しかったのである。

教材研究にも熱心で、家庭や地域との繋がりによる活動も多かったし、土日の活動も正直多かった。


しかし、今のように「やらねばならないこと」「やってはいけないこと」が大量にあった訳ではない。

あらゆるルールも緩く、裁量権が与えられていた。


今は、見ての通りで「生き馬の目を抜く」というような怒涛のサバイバル状態である。

管理社会という呼び名が相応しい状態である。


大人も子どもも、やるべきことが多すぎるのである。

そして、正直、本質的には要らないことだらけである。(チェック系、管理系の仕事が特に増えた。)

担任なのに子どもと遊ぶ時間すら確保できないとなれば、異常事態である。

他にも授業のための教材研究や、地域社会や家庭とのつながりなど、もっと価値のあることがたくさんある。


一つのことに、腰を据えてじっくり取り組む。

こういう時間が、どんどん減ってきているのではないかと感じる。

時間的余裕がない。

それは、単純に量的にやるべきことが多すぎるからである。

物事に常に追われている状況である。


そんな中のある年、休み時間に、低学年の子どもたちに誘われてテラスに出た。

テラスに出て何をするのかと思ったら、日陰に座らされ、ただぼーっとしていた。

ぼーっとグラウンドを眺めていると、風が感じられ、心地よかった。

その子も、グラウンドを眺めながら、私にぽつりと言った。

「先生も、ぼーっとした方がいいよ。」


当時、日々「どうすればもっと良くなるか、効率よくできるか」と考え、文字通り「奮闘」していた時だった。

ああ、最近、ぼーっとしている時間、とれてなかったなぁと、しみじみ感じた出来事だった。

それ以来、できるだけ時々ぼーっとする時間をとるようにした。


子どもたちも、忙しいと気持ちがぎすぎすしてくる。

やらねば落ちこぼれると、必死になる。

どんどん、競争意識が強くなる。

「ぼーっとする」の、真逆の方向である。


大切なことに力を注ぐ。

後は、工夫してのんびりする。

(注:工夫してがんばる、ではない。)


教員志望の数を増やしたいからこそ、我々が生き生きと楽しく働く姿を目指していきたい。

2022年10月2日日曜日

先回りは問題を拵える

トラブルを予防することは必要である。

ある程度は予防しないと、発生数が多すぎるからである。

逆に、安定している状態の時は、敢えて予防しないという選択肢をとることもある。


予防はいいのだが、先回りはいけない。


何が違うのかというと、予防は、明らかに起きることに対し、事前に手立てを打っておくことを指す。

彫刻刀を例にすると、「左手は絶対に刃物より後ろ」という大原則の指導をせずに使わせれば、大怪我につながる可能性が高い。

これは予防しておくべきことである。


一方で先回りとは、勝手な想像(妄想)をして、それを問題に拵えてしまうことである。

人間関係でよくありがちなので例を出す。

「あの人は私を嫌っている」と勝手に捉えて、その人に近づかない、冷たい態度をとるといったことである。

学校の例だと「このままだと非行に走る」と考えて、あらゆる細かいことを規制するといったことである。


予防は、愛情ベースである。

相手の幸せを思い、行う。

風邪をひかないように、お腹を暖かくして寝なさいといったことである。

先の彫刻刀の例も、楽しく創作活動を続けられることを願ってのことである。


先回りは、恐怖ベースである。

恐怖による悪い想像を回避するために行う。

(あり得ないほど最悪の事態を想定するのは、生存本能の得意分野である。)

一見、相手の幸せを願っているように思うが、個人的に勝手な想像をしているところが全く違う。


教育においては、先回りをしないことである。

子どもの将来の夢を聞いて「そんなことは現実的でない」「社会で通用しない」とアドバイスすることなどは、この代表格である。

頭の中で「就職できない」→「生活できない」→「生活破綻者」という妄想が暴走している状態である。

起きるかどうか全くわからないような問題を、勝手に拵えているのである。


ただし、何でも楽観的に捉えて信じればいいという単純なものではない。

ことICTについては、予防が必要である。

なぜなら、事実としてSNSやインターネットを介しての青少年トラブルが多発しているからである。

(教育委員会への子どもの相談の最も多いものがLINE等を介したSNSトラブルだそうである。)


明かに危険と分かり切っていることに事前の手を打たないのは、子どもの自由の名を借りた怠惰・放任である。

それは例えるなら、知識も装備もなく、初の山登りをさせるようなものである。

刃物やICT、あるいは車の運転のように、便利で強力なものほど、同時に危険度も高いのである。


予防をする。

先回りはしない。

自治的な学級経営を目指す上においての、基本的な心構えの一つである。

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