学級づくり修養会「HOPE」例会での気付き。
今回のテーマは「理想の学級は理想的と言えるか」であった。
根本を問う、哲学的なテーマである。
ここで参会者の中から出てきた言葉が
「寛容の不寛容」
である。
「許さないことを許さない」という矛盾である。
これは哲学者カール・ポパーが1945年に発表した「寛容のパラドックス」というものである。
(出典:Wikipedia)
つまり、理想の学級を実現することは、それ以外を否定するということになる。
学級担任の考える理想の学級を良いと思えない子どもも否定することになる。
ここにもはや矛盾が生じるという次第である。
例えば自分であれば「自治的学級」を理想としている。
しかしながら「自治以前」という集団の状態も当然存在する。
その学級集団を否定すること自体が誤りである。
集団の中には「みんなと一緒」に抵抗感をもつ子どもが少なからず存在する。
一方で「みんなと一緒」が最も居心地の良いという子どもも存在する。
これらを一緒くたに扱うことは、現実的に考えて不可能である。
もしそれが上手くいっているように見えるのであれば、そこを我慢している人がいるからである。
学校教育は、集団を一緒くたに扱うという前提のもとで制度設計がなされている。
学習指導要領が定められていることからもこれはわかる。
教室に35人が一緒にいることからも、生まれた年月で学年が年齢別に構成されていることからもわかる。
要するに、前提として理想の同質のものを作る制度設計である。
この制度に乗っている以上、ある程度の同質性は避けられない。
完全に個別最適な学びを求めるのであれば、年齢の区分けを取り払う他はない。
算数の授業で、内容が一瞬で理解できる子どもと、1時間やってもさっぱりわからない子どもが混在している現状である。
個別最適を求めるのであれば、小学生が中学校の数学をやっても何ら問題ないはずである。
また逆に、足し算や引き算すら覚束ないのに、そのはるか先の高度な計算に取り組めるはずがない。
要するに、自分の理想の前提を疑う必要がある。
それは実現において、現実的に無理がないか。
どこを見直すべきなのか。
求める集団の同質性から外れる子どもが大勢いて自然という前提が必要である。
それがわかっているのに申し訳ないが「枠」の中でやってもらおうというのが、現在の教育制度の現実である。
では、例えば「学級目標」は必要がないのか。
そんなことはなく、これは有効な手段である。
教育である以上、目指す方向性はある。
迷わないための指針があるというのは、集団が動くに当たり必要である。
(指針が適切なものであるのかは検討の余地がある。
船の目指す先が岩礁では沈没するだけである。)
指針とは、方向性に過ぎない。
全体でそっちの方へ、後は各々でというざっくりなものである。
一方で理想は、詳細まで決めていくと、それは「枠」になる。
「枠」からはみ出てはいけないとなると、無理が生じるという次第である。
全員を「枠」にはめようとする行為とは、保育園の「お散歩カート」に全員を乗せようとするようなものである。
「お散歩カート」は、まだ自分で歩けない、歩かせられない子どもなど、それを必要な子どもだけが乗るためのものである。
自分で安全に歩ける子どもまでカートに載せて面倒を見る必要はない。
それは親切すぎるお節介である。
教育が、親切すぎるのである。
今回、そこへの問題提起として、次の本を書いた。
教師が理想を追い求めすぎるので、過剰な親切になるのである。
本当の親切な教育とはどういうことかについて書いたものである。
理想の学級は理想的といえるか。
多分、その答えは常に「ノー」である。
0 件のコメント:
コメントを投稿