2020年1月28日火曜日

自分のキャラクターを勝手に決めない

前号で「子どもの前の言葉遣いや恰好はできる限り丁寧に」ということを書いた。
なぜなら、教師の立場はどうしても、「標準値」が低くなりがちだからである。
社会においての立場の上の方(特に外部)を相手にする機会が少なすぎるためである。
(教師の世間知らずは何十年も前から揶揄されているところである。)

普段相手するのが、子どもだからである。
だからこそ、努めて丁寧にする必要がある。

ここで、
「教師は上の立場でなくてはならない」
「立派でなくてはならない」
そんな風に思ってそれをやろうとすると、色々とややこしいことになる。

逆である。
大して偉くもないのに、偉くなったような気がしてしまうからである。
1年目にしていきなり35人の人々の「リーダー」である。
いや、全校児童と考えると、700人のリーダーかもしれない。
おかしくなるのも当然である。
偉い人というより、エラいことになる。

だからこそ、外側から整えるのである。
せめてある程度きちんとした身なりと言葉遣いを心がける。
それだけで、「勘違い」を少しばかり防げる。

ちなみに、最初はかなり違和感がある。
大学生まで、かなり乱れた言葉を使っていたのである。
ファッションもやりたい放題だったのである。
今更人前で年下相手に「私は」などということも恥ずかしいぐらいである。
(ちなみに、「わたくし」という一人称を使うと、他の全ての言葉と動作がしなやかになるという。
これは、わかっていても、使うにはなかなかレベルが高くて難しい。)

しかし、その違和感をもっているのは、実は自分だけである。
子どもはそんなこと知る由もない。
自分が勝手に決めた「キャラクター」である。
逆に学生時代にどんなに優秀で通っていても、社会に出たら「単なる若造の一人」でしかない。

だから、努めて丁寧でいいのである。
やっている内に、板につく。
ふとした時に慣れ親しんだダメなキャラクターも覗くが、それも「ご愛嬌」である。

ちなみに、小学生辺りの子どもの「私ってこんな人」「これが好き」は、ほぼ親の「刷り込み」である。
本当の自分については、多分わかっていない。
(何なら刷り込みの少ない乳幼児期の方がわかっているかもしれない。)
どうせなら、大いなる勘違いをさせて前向きに努力させる方がよいかもしれない。
動いてさえいれば、やがて自分の本当の才能に目覚める。

話を戻す。
断じて言う。
基本、丁寧でよい。
私自身の過去を振り返ってみても、痛いミスの多くはこの丁寧さの欠如によるものである。

しかしながら、これも年齢による部分は大きい。
若いうちは、血気盛んである。
それは自然でいいので、「子どもの前では丁寧にしよう」と少し心がける。
それで、丁度バランスのいい状態になるのではないかと思う、老婆心である。

2020年1月26日日曜日

「明るさ」が「軽さ」に見えていないか

大学で、クレームにつながるような事例を扱い、その対応について話し合う場があった。
その中で、

「明るさ」が「軽さ」に見えてしまっているのではないか。

という発言が出た。
まだ社会での現場経験のない学生の発言である。

これは、非常に的を射た指摘である。
(実際に、今まで教えを受けた歴代の「先生」達に対し、そう見えていたのかもしれない。)
ここについて考える。

学校を含め、世間ではいわゆる「フランク」で良いという風潮が何となく感じられる。
カジュアル志向である。

ただ、これを真に受けて一概に取り入れるのは、間違いの元である。
特に、教師という仕事について言えば、尚更である。
現場教師には、フランクさ以上に、子どもへの丁寧な対応が求められる。
職場の若年化が進んで、保護者の方がずっと人生経験も何もかも上だから、一つ一つが「テキトー」だと、何かと不安なのである。

つまり、ただでさえ色々と至らないのだから、服装や言葉遣いぐらいは丁寧な方が、何かと都合がよい。
そうした上で初めて「授業が下手」なのも、まあ仕方ないと思ってもらえる。(可能性がある。)

だから実習生には
「きちんとしすぎ、丁寧すぎると思うぐらいで丁度いい。」
と教えている。

保護者の声が「クレーム」に発展してしまうのも、ここが無視できない。
保護者に対応する時の服装や言葉遣いを言っているのでない。
(ここもよろしくないことが多いかもしれないが。)
普段の、日常の振る舞いが保護者には全て伝わっている、ということである。

子どもに対する時も、多くの人は自分の中で「丁寧すぎる」「準備しすぎる」ぐらいで丁度いいのである。
(余程育ちが良くて教養の高い人なら別であるが。)
そこを意識してやっと、「教師の子どもに接する態度として許容できる」のぎりぎりラインである。

本人としては、くだけることで「明るくフランク」なイメージを与えて親しみやすさを出したいのかもしれない。
しかし、スタートライン自体が保護者から見て十分「下」すぎる。
単なる「横柄で無礼でテキトーな人物」に見えている可能性がある。
(「無礼講」で本当に上司に無礼をしてしまうような人である。)

だから、丁寧すぎるぐらいで丁度いいのである。
子どもへの接し方が、そのまま保護者への接し方なのである。

そのクレームは、その事件・問題そのものが根本的な原因か。
もしかしたら、もっと日常の根本に原因があるのかもしれない。

「明るさが軽さに見えていないか。」

現役の学生から全ての現場教師に向けた、なかなかに含蓄のある指摘である。

2020年1月24日金曜日

「謝る」はスタートに過ぎない

最近の気付き。

誤りに対して謝るということは必須である。
ここで「誤魔化す」ということをするからこじれる。
「誤りを魔と化す」からである。(もともとが当て字なので、私流の解釈。)
あるいは、「謝ったんだからもうOKでしょ」という態度がさらにこじれを生む。

ちなみに、謝ってはいけないという場面もある。
悪くもないのに「とにかく謝って収めよう」という場合である。
相手の怒りをしずめることだけを目的としている。
これは、一時的に回避できても、後々余計にこじれる。

人生の中で、こういったことを強要されて、断固拒否したことがある人もいるだろう。
悔し涙の中で謝ったり許した人もいるだろう。
「明らかに悪くないのに謝れるか」ということである。
体面や保身だけを求める人は、残念ながら世の中に結構存在する。

さて、そうはいっても、基本的に人間は間違える。
だから、そこに関しては謝るのが当然である。

問題は「謝ったんだからもう済んだ」という考え方である。
全く違う。

以下は、師の野口芳宏先生の教えをもとに、自分なりにアレンジしたものである。
(参考:教師の寺子屋「叱られる作法」)
http://hide-m-hyde.blogspot.com/2011/06/blog-post_21.html

謝罪というのは、あくまで「償い」という長い過程の「入口」なのである。
確かに自分に非があった。
そして相手に何かしらの損害を与えた。
だから、まずはその非を認め、相手に申し訳なかったと伝える最初の段階が「謝罪」である。

謝罪の後は、補償を行う。
損失を補うことである。
つまり、可能な限り、与えた損失を相手や社会に返す行為である。
(社会的には、ここを多くは「賠償金」という有形のものが担保する。)

さらに「改善」というステップが入る。
同じ過ちを繰り返さないための改善防止策をうつ。
謝った後の二回目の過ちは、一回目とは全くの別物で、「悪質」である。
だから、二度と起こさないよう努力をしている姿勢が問われる。

そうまでして自分の状況が改善されると、最後は「感謝」というステップにいく。
その過ちがあったから改善され、より良い自分になれたと心の底から感じる段階である。
これは、場合によっては相手に伝えずともよい。
感じることである。
同じ「謝」の文字であっても、「謝罪」が「感謝」になって初めて完結する。

子どもにも、こういうことは教える。
謝るのは第一段階。
大切なのは、それを繰り返さないことである。
そして過ちを起こしてしまった分を、少しでも返そうと努力することである。
そうすることで、間違いを成長に生かせるということが、実感できるようになる。

「謝ったんだから許すべき」というような甘い考えをもたせない。
(謝られた側は、気が収まるなら基本的にこれでよい。)
謝るのは、たくさんある中のステップ1に過ぎない。
まず知識として身に付け、実生活で実感として学ぶことで、本物になっていくのではないかと思っている。

2020年1月22日水曜日

知識があるから不思議は生まれる

研究授業での学び。

知的好奇心と知識について。

授業において「何で!?」「不思議!」と子どもが思う場面を作りたい。
こうなったら、もう勝手に子どもたちの探求活動が始まる。
放っておいてもどんどん動く。

だから、教師はこの姿を引き出そうとあれこれ模索する。
たくさんのものも用意する。
しかし、子どもの反応はイマイチ。

なぜなのか。

疑うべき原因の一つが、「知識不足」である。
知識がないと、疑問は生まれようがない。

極端な話、赤ん坊は疑問をもたない。
日本語で話しかけられようがサンスクリット語で話しかけられようが、オールオッケーである。
目の前でスプーン曲げを披露しても、特段不思議にも思わない。(と思う。)
「スプーンは固い金属製だから容易には曲がらない」という知識、前提がないためである。

せっかくのいいネタを用意しても、相手に知識がないと「猫に小判」となりかねない。
例えば料理をより美味しく楽しむためには、そのストーリーを知っていることが大切である。

知識がないまま授業をしても、子どもは不思議の発見も疑問も何も抱けない。
とっておきの面白い難問も単に「意味わからない」だけである。

知識をつける。
「学びに向かう人間性」を重視する時であっても、ないがしろにしてはいけない部分である。

2020年1月20日月曜日

教育の質向上には「予算」と「コア教員」が肝

前号の続き。
OECDの保育白書からの学び。
次のようなことがわかった。

1.教員の質向上を求める割に、政府は予算の配分を渋るという事態は各国共通
これは、次のような構造である。

 資格自体を向上しようとする
=予算の増大&給与の上昇
=サービスコストの増加
=政府は後ろ向き&やらない
その結果、
=教員の質が向上しない
=社会的地位の低下&賃金の低下&採用試験の倍率の低下 
=更なる質の低下

このような悪循環が起きる。
これは、小学校教員の場合と酷似した現象である。
「お金をかけずに質を向上」というようには、なかなかいかないようである。
未来への投資と考えて欲しいが、予算は目の前のことに充てられるのが現実である。

2.コアとなる教員がいると全体のレベルが上がる
・研修を受けた教員
・高い資格をもった教員
・長期間在職している教員

これらの教員がいるチームでは、全体の教育実践の質が高くなる傾向があるとのこと。
つまり教員の若年化が進む日本では、より質の高い「研修」「資格」がカギになるといえる。

しかも、全員が高レベルな一般教養を身に付ける必要はなく、一部の者が他へ影響を与えることで、かなり補完できるという。
つまりは、コア教員の存在である。

幼稚園や保育園では、チーム保育が普通であるから、新人で未経験であっても仲間のサポートが入りやすい。
小学校でも、学級王国の状態から、学年団がチームとして教育に携わることの重要性がわかる。
(学級間における「勝ち」が褒め称えられる時代は、終わりである。)

他にもまだまだあるが、長くなるのでこの程度にする。
要は、保育の抱えている問題とその解決策は、小学校と共通点が多いということである。

幼児教育について学ぶことは、小学校の教員にとってかなり有益になるのではないかと思われる。

2020年1月18日土曜日

「三つ子の魂百まで」は本当

発達と感情コントロールについて。

『OECD 保育の質向上白書』という分厚い本がある。
タイトルの通り、OECDの出している白書である。

そこに次のグラフが示されている。
脳の敏感性と4つの項目(「言語」「数」「社会性」「感情」)が経年変化でどう変わるかを調べたグラフである。
https://image.slidesharecdn.com/w6engeldraft-150629143341-lva1-app6891/95/insights-from-the-oecds-work-on-early-childhood-education-and-care-5-638.jpg?cb=1436360487

このグラフは、衝撃である。
感情のコントロールと言語に対する脳の敏感性は、生まれた時から既にピークに近い状態である。
つまり、生まれた時から(あるいは胎動期から)感情を込めて話しかけ続けることには、大きな意味があると考えられる。

更に感情のみを見ると、1歳時でピークを迎え、2歳半ばにはピークの半分、3歳には底ちかくまで急落する。
つまりは、感情面の教育については、生まれてから遅くとも2歳半ばまでが大きな勝負どころである。
乳幼児期にたくさん笑顔で話しかけられ、赤ちゃんが笑ったり泣いたりしていることにいちいち反応してあげること。
面倒な「いやいや期」に親をはじめ周囲が感情を受け止めること。(これは難関。だからこそ価値が高い。)
これらが最も重要であると考えられる。

つまり幼児の「性格」と言われるものが、学校教育で本質的に変わるということは、ほとんどないといえる。
4歳までにはその基礎が固まるということである。
「三つ子の魂百まで」というが、あれは本当のようである。

しかし小学校であっても、子どもが「変わった」ように思える。
なぜかというと、グラフを見てもわかる通り、社会性(peer social skills)は伸び続ける。
仲間との関わりの能力が発達するため、そこが主に変わるのである。

例を挙げると、もともと「怒りっぽい」性格とする。
その場合、幼児期はこれがダイレクトに感情として外に出る。
しかし社会性の発達に従って、周りの目を意識して、我慢ができるようになる。

つまり、幼児期から小学校段階においては、仲間と交流するような学習が成長の肝である。
学級づくりの重要性がここでもわかる。

ここで忘れてはならないのは、社会性でその表出をコントロールしているだけで、必ずしも怒っていない訳ではないということ。
一方で同じ場面であっても、感情面での怒り自体がそもそも湧きにくいという子どももいる。
そこが性格の違いである。
「そもそもが穏やか」という子どもと「怒りを外に表出しない」という子どもは、見た目が同じでも内面で起きていることは別物である。

例えば列に並んでいたのに自分の前で終了してしまった時、どういう感情が湧くか。
「惜しい~。残念だったな~。」としか思わない人がいる。
一方で「自分は被害者」という怒りの感情がふつふつと湧く人とが存在する。
外から見たら、両方同じように黙っているのだが、その違いである。

さて、グラフの他の項目も見てみる。
言語や数に対する脳の敏感性も、緩やかに下り傾向とはいえ、高い水準を維持し続ける。
幼稚園段階で、言葉や数の概念を形成しておくことの意義は大きいといえる。
(だからといってごりごり勉強をさせるというのは違う。
あくまで自然にそういうものにふれる環境づくりをすることが大切である。)

脳の発達というのは、教育において抗い難いものがある。
例えば脳の一部に問題があるというのを無視して何かを教えようとしても、それは逆効果になり得る。
科学的データを無視せずに、教育の在り方を根本から考え直していく必要がありそうである。

2020年1月16日木曜日

リーダーシップと自己認識

リーダーシップについて。
最近読んだ以下の本からの学びと気付き。

『insight(インサイト)
いまの自分を正しく知り、仕事と人生を劇的に変える自己認識の力』
ターシャ・ユーリック 著 中竹竜二 監訳   樋口武志 訳 英治出版
http://www.eijipress.co.jp/book/book.php?epcode=2270

自己認識について書かれた本である。
大雑把に言うと、自己認識には二つの側面があり、両輪である。

1つ目が、自分自身を自分が正しく把握するという、内的な自己認識。
2つ目が、自分自身がどう見られているか正しく把握するという、外的な自己認識。

2つ目が特に欠けやすい。
厄介なことに、自信があるほどに、ここに問題が生じるという。

要は、自信のあるリーダーに対しては、周りはものが言えないのである。
ぐいぐい引っ張るタイプのリーダーシップは、短期的には結果を出しやすい。
しかし長期的に見ると、リーダーにものを言わない(言えない)組織に育ってきて、個が没落していく。
(学校でいうと「お利巧なクラス」がその典型である。)

部下がものをいえるリーダーとはどういう人か。
それは、開いているリーダーである。
部下に誤りを指摘されたら認め、感謝して正していけるリーダーである。

これは、言うほどに簡単なことではない。
自信をもって一生懸命にやっていることに対し、的確に誤りを指摘されるほど、恥ずかしさや怒りが湧いてくる。
ここを乗り越えられるかが瀬戸際だという。

一方で、自信がないタイプのリーダーやゆるいタイプのリーダーには、違う問題が起きる。
進むべき方向や、手本を示せない。
部下はこれによる不安が生じ、あちらこちらへ個々が勝手に動き、混乱状態になる。

要は、明確な方針を示しながらも周りの声に耳を傾け、自ら改善していく姿勢がリーダーには求められる。
学校では、学級担任や学年主任等の小規模な集団のリーダーにも、これは当てはまる。

例えば「学級崩壊」にもタイプがある。
子どもが騒いで言うことをきかないというのは、あからさまに反乱を起こしているという点で失敗である。
一方で、全員がロボットのように従順に言うことだけをきいている状態も、教育としては機能不全を起こしている。
どちらも子どもの適切な成長を妨げている。

なぜこうなるかというと、先のリーダーシップの問題である。

どっちに行っていいかわからないから、やりたい放題に暴れる状態になる。
暴力や大きな声が支配する集団である。

何も言えないから、ロボット状態になる。
ロボットである以上、不規則な動きや、はみ出ることは許されない。
上からの懲罰と無言の圧力が全てを支配する集団である。

学級担任が進むべき方向を示し、適切にすべての子どもの声に耳を傾けるようにする。
理想的には、そうして子どもが安心すれば、後は自律して動き始めるはずである。
自律して動き始めると、失敗もたくさんするが、集団が安心な状態ならば、何度でも立ち直れる。
この自律行動及び失敗からのレジリエンス能力は、ロボットと人間との決定的な違いである。

では、学級が崩れたら担任が全て悪いのかというと、そうではない。
その学年を支えるチームリーダーの問題でもある。
つまりは、学年主任、あるいは管理職の問題でもある。
(「も」がポイントである。学級担任にも無論大いに責任があるし、子ども自身にも要因はある。)

人には強みと弱みがあるのだから、そこをなるべく補完的に用いるのがリーダーの仕事である。
凸凹を上手に組み合わせる。
凹と凹に見えても、それは平面的に見ているだけで、違く角度から立体的に見たら、違う形が見える可能性がある。

それが見えるようにするには、やはりオープンにすることである。
誰から。
リーダーの立場からである。
そうでないと、下の立場は危なくて本心を見せられない。

自分の率いる集団を振り返ってみる。
チームが方針に向かって進んでいるか。
逆に、チームが盲目的に従っていないか。
個々の個性が生きているか。
自分自身は、オープンになっているか。

リーダー自身は、必ずしもスタープレイヤーであったり、スーパーマンであったりする必要はないという。
自信をもっている姿と、弱みを見せられる姿の両面が必要である。

2020年1月14日火曜日

成人式と学級経営

昨日は、成人の日だった。

毎年書いているが、「荒れた新成人」は、メディアによる虚像である。
正確には、レアケースを騒ぎ立てることで、被害を広げたマスメディアの生んだ罪悪である。
参考記事:まぐまぐニュース『99%の新成人が大迷惑。「荒れる成人式」を作り出したいのは誰か』
https://www.mag2.com/p/news/233908

改めて書くが、この社会構造は、学級崩壊を起こす教師の思考構造と全く同じなのである。

それは「不適切な行動への過度な着目」である。
それは、不適切な行動への報酬である。
周りの「適切な行動」をとっていた子どもたちも、それを見て学ぶ。
「なるほど。不真面目にしていた方が、先生は相手してくれるんだ。」

この後、どうなるか。
言わずもがなである。

昨今は、わざわざ動画つきで解説しているようである。
みんな、混沌(カオス)が大好きなのである。
「荒れ」を後押ししているといえる。

普段の報道を見てもそれは同様である。
陰惨で残忍な事件やスキャンダルは大々的に「ひどいですね」「とんでもないですね」と正義の剣を振り上げながら報道される。
しかしどこか、嬉しそうでもある。
事件を起こした当人と同様かそれ以上に、醜悪である。

人々と良い関係を築きながら実直に生きている人々の平和な暮らしは、報道されない。
大衆(マス)は、派手で悲惨な事件が心の底で大好きなのである。
スキャンダル中心の週刊誌が長年廃刊されずに存続している事実が象徴する通りである。
お金を払ってまで見たいのである。

一方、大学生を見ていて思うが、本当に真面目な人が多い。
文化が変わったせいでもあると思うが、飲酒で失敗する人も、上の世代に比べて圧倒的に少ないようである。
多分、バブル期やその周辺世代に比べて、かなり慎まやかで謙虚な人が多い印象である。

それに大昔から「荒れ」ている成人は少数ながらいたのである。
織田信長に限らず「大うつけ」はどの時代にも必ずいる。
信長は天下統一したほどの人だから語り継がれているだけで、「どうにもならない大うつけ」の方がはるかにいたはずである。

何が言いたいかというと、今回は学級経営の話なのである。
「不適切に着目しない」
「真面目な人に損をさせない」
この大原則を守ることが、一番成功しやすい鉄板の学級経営方針である。

成人の日は、未来を担う素晴らしい新成人たちに、エールを送る日にしたい。

2020年1月12日日曜日

保身から献身へ

最近思っていること。

教育だけでなく、社会全体の問題の根本。
それは、「保身」である。

以前にも書いた「loveさえなければpeace」も同じ原理である。
https://www.mag2.com/p/news/260236

要は、我が身がかわいいゆえに、全ての間違いは起きる。

自分の学級さえよければいいから、隣の学級の崩壊が起きる。
保護者のクレームが怖いから、子どものためを思った毅然とした指導や保護者への要望ができない。(そして子どもが悪くなる。)
社会に叩かれるのが怖いから、学校が隠蔽する。
学校の責任にしたくないから、学校外の責任にする。

自分が責任を取りたくないから、実行した部下のせいにする。
自分が至らないからと認めたくないから、他人のせいにする。
自分の「失敗」を認められないから、他人のせいにする。
(実際は、挑戦した場合の「失敗」と言われるものと、保身による失敗は、名称が同じの全く別物。)

どれもこれも「保身」が原因である。
保身は、諸悪の根源である。

保身の対極にある姿勢が、献身である。
あるいは、責任をとる姿勢である。

自己の負担があっても、本当に相手のためを思うから、進んで行う。
本当に世の中のため、人のためを思っているなら、言うべきことを言う。

悪い時は、謝るしかない。
一方で、悪くないのに謝るのはよくない。
それこそが「丸く収めよう」という保身である。

献身の姿勢でいくと、実は誰よりも自分が楽になる。
卑近な例でいうと、席に座るよりも、必要な人に譲る方が、心も体も楽になる。
もっと大事な場面でもいえる。
前にも書いたが、被災地のような困難な状況であっても元気な人は、人を助けようと世話をしている人である。

ここで注意点は、献身をしても、犠牲にならないこと。
「犠牲」と感じるようにやると、結局辛くなる。
「犠牲」と感じてしまった時点で、保身に走っている。
(我が身がかわいいから、犠牲という言葉が出る。)

全てを譲る必要はない。
自分よりもそれが必要な人には、譲るという程度でよい。
目の間に杖をついたお年寄りがいたら、自然に席を譲れる精神になるはずである。
この当たり前の行為の対象を、少し広げていく程度でよい。
そうやっていると、勝手にもっとよいものが手に入ってしまうというのが真理である。

「自分が」の保身の人が集まると、全てが争奪戦で何もかも足りなくなり、自分も不幸になる。
「お先にどうぞ」の献身の精神の人が集まると、全ての人に行き渡り、自分も幸福になる。

何より、保身は、みっともなくて格好が悪い。
献身は、見た目も中身も格好いい。
「自分はそんなキャラじゃない」とか言って自分を決めつけず、格好つけてみるのも大切である。

保身から献身へ。
自分を身を献上して生かすことが、結果的に真の意味で身を保つことにつながると考える次第である。

2020年1月10日金曜日

多忙か多忙感か

働き方改革について。

「時短」という言葉がある。
無駄な時間をなくすのが目的である。

しかしながら、無駄な時間とは何か。
例えば、仕事の質を上げるために、あれこれ工夫して精を出す時間は無駄か。
教師でいえば、授業の準備をすれば、子どもと向き合う時間の質が高まる。

その目的が変わると、無駄になるかのもしれない。
授業の準備をして、楽しい授業をして子どもの幸せに貢献したいという欲求が、自分が良く見られたいという欲求に変化する。
そうすると、それが初めて「無駄な時間」になる。
研究授業などで陥りがちな罠である。

時短の目的は、無駄をなくすことによる多忙解消のはずである。
しかしながら、問題の本質は、多忙そのものというより、多忙感が問題なのである。
勤務時間そのものより、勤務時間内にしている内容への意欲の低さ(無駄感)が問題なのである。

ここに、乖離が生じる。
部下の時間管理を任されているリーダーは、「とにかく定時に退勤させること」を命じられる。
それ以外に。「上」に示す指標がないからである。
部下がどんなに意欲をもって「もっとやらせてください!」と目を輝かせてやっていても、残業は「失敗」である。
「上」から見て働き方改革が成功したか否かの指標は、部下の時間外の勤務時間が減ることだけである。

働いている側からすれば、意欲をもってやれている時間には、どんなに多忙であっても多忙感はない。
一方、心の中で「無意味」と思っている作業をやるのは、例え5分であっても苦痛なのが人間である。

好きなことであれば、何時間でも没頭できる。
今の時代、仕事が趣味というと一般的に悪い響きがあるが、趣味のように心から仕事に没頭できたら、疲れ知らずで無敵である。

教師である自分自身の場合を振り返って考える。
疲れる時はどういう時か。
自分なら、「成績処理」の期間。
放課後の時間を確保するべく、特別日課で休み時間等がカットされてどんどん進む。
そうすると、当然子どもが早く帰るので、成績をつけるための作業時間は増える。

一方、子どもたちと向き合う時間は大幅に減る。
とにかくゆとりがないので、バタバタと日々が過ぎる。

ここで立ち止まって考える。
教師になってやりたいことは何か。
これが「私は成績をつけるために教師になりました!」というのであれば、この場合幸せである。

そんな訳ない。

教師になった人の多くは「子どもと共に〇〇」ということを願ってなっているはずである。
子どもと向き合う時間を削っていったら、本末転倒である。
(しかしながら、通知表作成の業務がある以上、この期間があること自体は有難い。)

単に多忙なのか、多忙感をもって働いているのか。
勤務時間の多寡ではわからない世界である。

働き方改革で何がしたいのか、真剣に向き合ってみたい。

2020年1月8日水曜日

道徳の授業は事実から

道徳の教科書教材にある
「いやな気もちかもしれないよ」
というテーマで、話合いの授業をした。

運動で、失敗した人を笑う。
「好きな人」とだけ遊ぶ。(この言い方自体が嫌である。)

そういう状況について、考えを伝え合う授業である。

当然
「失敗を笑わない」
「誰とでも仲良くする」
といったお決まり&ありきたりの答えでお茶を濁すようなことはしない。

「ちなみに、できていないよね?やっちゃってるよね?」
を自分自身に突き付けて考えるというのが、基本スタイルである。

この時には
「差別だ」「誰とでも協力しないといけない」
という意見が出た。
そこで「では、このテーマについて、自由に立ち歩いて話してください。」
という指示を出した。

どうなるか。

あちらこちらで話合いが始まるが、よく見れば
「いつもの友達」だったり「男子のみ」「女子のみ」で話し合ったりしてるところが大半である。

この事実を突きつけるところが肝である。
立派なことを言うけど、道徳とは正反対の行動で、全くできていない。
大人も子どもも関係なく、全く一緒である。
教えている側も、大抵は全くできていないのが現実である。

ここで考えるべきは
「失敗を笑わない」「誰とでも協力すべきだ」という表面的なお題目ではない。
「なぜ、私たちは、だめとわかっている方の行動をとってしまうのか」
ということを、自分の「事実」をもとに話し合う必要がある。

非論理的な行動に走ってしまうのが人間である。
生来が不道徳だから、道徳を教える必要性が出てきたのである。
「自分勝手」が基本なのである。
原始的に常時「競争」の本能が働いているため、理性をフル稼働しないと「謙譲」の精神は出てこないのである。

だから、いつも道徳的であるというのは、原理的にかなり無理がある。
これは「子どもだから」という訳ではない。
子どもでも立派な精神をもっている人はいる。
大人なら、誰しも立派な精神をもって道徳的に日々を生きている・・・・・・とは、言わずもがなである。

子どもは、大人の社会を見て生きている。
大人がどんな社会を見せているかは、重要である。
学校では、どういった価値観が共有されているかも重要である。

道徳では、よりよい生き方を求める。
ただ、1年生の子どもだって、あるいは幼稚園児だって、何がいいかぐらいはわかっている。
「いじめや差別はダメですよ」なんてことは、身をもってよく知っている。
そこをそのまま教えても意味がない。
そのためには、わかっているのにあまりよろしくない生き方をしてしまう自分を見つめるところからである。
(それには、実はそれを教える大人からである。)

道徳の授業は、難しいといわれる。
それは、教える側が、自分もできていないことを知っているのに、目を背けて教えようとしているからかもしれない。

2020年1月6日月曜日

不登校と過労死

不登校と過労死の関連について。

以前から何度も書いているが、不登校は、確実に「問題」である。
誰にとって。
「学校」という存在にとってである。
あるいは、そこを「問題」と思う教師や親という立場の人々にとってである。
本人にとって問題かどうかは、本人次第というところである。

学校という存在が絶対的な善である、と言い切れるか。
各子どもに完全なオーダーメイドができる仕組みがあるなら別だが、現状それは無理である。
つまり、これは言い切れない。

子どもが朝、「吐き気」「頭痛」「腹痛」を訴える。
学校を休むことにして、連絡した。
すると、ぴたりと止まった。
これは子どもの「気のせい」ではないし、親を騙そうと演技した訳でもない。
行かなくてもいいから、危機を脱したということで、身体が苦痛反応を止めたのである。
生来備わている身体メッセージの機能が正常に働いている証拠である。

子どもは素直だから、生物としての直感的な反応がダイレクトに身体症状として出る。
大人はこれを理性で抑え込んで無視し続けるため、再起不能に近くなるまで無理をする。
過労死は、理性で身体のメッセージを無視し続けるからこそ起きる現象である。

子どもが「学校に行きたくない」と言ったり身体反応が出たら、理由が必ずある。
「何となく」にも、探っていけば理由がある。

学校でいじめなどの心配事があるのかもしれないし、友人関係で悩んでいるのかもしれない。
勉強がさっぱりわからないのかもしれない。
学校のカリキュラム自体が本人に合っていないのかもしれない。
(勉強嫌いや競争嫌いなのに、バリバリの進学校に行くのは最も悲惨である。)

あるいは、母親ともっと一緒に過ごしたいのかもしれない。
根源である愛情エネルギーが不足していれば、外の活動どころではない。

最も多いのが、単に「疲れてしまったからちょっと休みたいだけ」かもしれない。
大人と同じである。

とにかく、何らかの原因があるはずである。
単にちょっと疲れただけなら、一日二日休む内に、もう大丈夫と言い出すかもしれない。
心配しすぎたり、行かないといけないと追い込みすぎたりすると、裏目に出て、逆の行動に出ることもある。
(「押すなよ、押すなよ」の原理である。ダメと言われるほどそちらに行く。)

要は、根本的な解決対策を取らないで無理をさせれば、より悪い結果を招く可能性が高い。
だから、親は子どもがそういうことを言っても何とか登校した場合、学校に一報を入れた方がよい。
教師の側も「何も問題ない」と思って見るのと、「何かあるらしい」と思って見るのでは、見えるものが違う。

これは一般社会でも同じである。

新卒が3年以内に辞めてしまうということが問題になるが、ここで会社の側が問題になることはない。
会社の側が社会から問題として吊し上げられるのは、社員が過労死した場合である。
「身体メッセージを無視してでも頑張ることが大切」という誤学習を繰り返した結果が、この過労死である。
本来は死ぬより前に、「これはダメだ」と気付いて休むか辞めるかするはずである。
「辞める」が「過労死」よりも遥かに健全なのは、明白である。

元気ややる気がないなら、何かあると考えるのが正常である。
そして、この手の問題は、忙しさそのもの以上に、やり甲斐の問題であることも多い。
本人が「自分は役に立てている、成長している」と感じられていれば、多少失敗して叱られていようが何だろうが、続けられる可能性が高い。
部活動に打ち込んでいる学生時代と同じである。

やっていることが「無意味」「自分に合っていない」と感じてしまうと、急激に辛くなる。
だから、リーダーは、やっていることへの意味付けや、励まし、ケアが大切になる。
大きな方針、目標を示すことが大切になる。
自分たちのやっていることが、人々の幸せに貢献しているとわかることが大切である。

よくレンガ職人の仕事で例えらえるが
「ただレンガを積んでいるだけ」と考えているか
「人々を救う大聖堂を造っている」と考えているかで、仕事の意味は180度変わる。

学校に、意味を見出せない子どもたち。
学校は、これに正対しているといえるか。
「勉強ならeラーニングで十分」「塾の方が点数を取るにはいい」という考え(あるいは事実)に、どう答えるか。
教師には、子どもが学校に来る意味を、きちんとわかりやすく伝える責務がある。

「いじめられる」「無視される」とわかっている子どもに、「それでも学校に来なさい」と言えるか。
その原因への対策を打たずに、とにかく来させることは、身体メッセージの無視と全く同じであり、横暴である。

「不登校は悪」みたいに単純に扱われると、辛い思いをする人が増えるだけである。
もしかしたら、子どもが正しい選択をしているのかもしれない。

だからといって、不登校による本人への社会的デメリットは、無視できない大きさがある。
だから周囲はそれを無条件に受け入れるのではなく、その理由を探り、本人にとって本当によい対策をうつ必要がある。

学校の問題は、どれも社会の縮図である。
社会は、現時点で大きく変わっている。
個人の能力や適性に合った働き方が認められてきている。
在宅勤務も全く珍しいことではない今、学校の在り方も多様化してくることは間違いない。

仕事の在り方が変わってくるように、学校の在り方自体も、変革が必要である。
学校は、何のために行くのか。
学校教育に完全適応することにデメリットも、考えるべきところがある。
現状で自分にできることはやるが、制度自体の変革も起き得ると考える昨今である。

2020年1月4日土曜日

道徳の授業は事実から

道徳の教科書教材の
「いやな気もちかもしれないよ」
というテーマで、話合いの授業をした。

運動で、失敗した人を笑う。
「好きな人」とだけ遊ぶ。

そういう状況について、考えを伝え合う授業である。

当然
「失敗を笑わない」
「誰とでも仲良くする」
といったお決まり&ありきたりの答えでお茶を濁すようなことはしない。

「ちなみに、できてないよね?やっちゃってるよね?」
を自分自身に突き付けて考えるというのが、基本スタイルである。

この時には
「差別だ」「誰とでも協力しないといけない」
という意見が出た。
そこで「では、このテーマについて、自由に立ち歩いて話してください」
という指示を出した。

どうなるか。

あちらこちらで話合いが始まるが、よく見れば
「いつもの友達」だったり「男子のみ」「女子のみ」で話し合ったりしてるところが大半である。

この事実を突きつけるところが肝である。
立派なことを言うけど、道徳とは正反対の行動で、全くできていない。
大人も子どもも関係なく、全く一緒である。
教えている側も、大抵は全くできていないのが現実である。

ここで考えるべきは
「失敗を笑わない」「誰とでも協力すべきだ」という表面的なお題目ではない。
「なぜ、私たちは、だめな行動をとってしまうのか」
ということを、自分の「事実」をもとに話し合う必要がある。

非論理的な行動に走ってしまうのが人間である。
生来が不道徳だから、道徳を教える必要性が出てきたのである。
「自分勝手」が基本なのである。
原始的に常時「競争」の本能が働いているため、理性をフル稼働しないと「謙譲」の精神は出てこないのである。

だから、いつも道徳的であるというのは、原理的にかなり無理がある。
これは「子どもだから」という訳ではない。
子どもでも立派な精神をもっている人はいる。
大人なら、誰しも立派な精神をもって道徳的に日々を生きている・・・・・・とは、言わずもがなである。

子どもは、大人の社会を見て生きている。
大人がどんな社会を見せているかは、重要である。
学校では、どういった価値観が共有されているかも重要である。

道徳では、よりよい生き方を求める。
ただ、1年生の子どもだってあるいは幼稚園児だって、何がいいかぐらいはわかっている。
「いじめや差別はダメですよ」なんてことは、身をもってよく知っている。
そこをそのまま教えても意味がない。
そのためには、わかっているのにあまりよろしくない生き方をしてしまう自分を見つめることろからである。
(それには、実はそれを教える大人からである。)

道徳の授業は、難しいといわれる。
それは、教える側が、自分もできていないことを知っているのに、目を背けて教えようとしているからかもしれない。

2020年1月1日水曜日

正月明け いつから動き始めるか

年の瀬から、大掃除をして、障子を張り替えて、年賀状を書いて・・・と大忙しだったかもしれない。

さて、そうして今お正月を迎えると、一休みである。
お正月になると、家族で集まってこたつでお正月番組を観ながら団らん・・・
これが続く。

これで、すごく元気になる人はいい。
だらだらして、ぼーっと過ごすのもいい。

ただ、これに「罪悪感」がつくと、よろしくない。
ぼーっとするのも人生という大きな仕事の大切な一部である。

さて、実際は、あまりだらだらしていても休まらないし落ち着かないという人は結構いる。
常に動いている方が落ち着くという人である。
農耕民族と狩猟民族の違いである。

正月明けは、いつから動き始めるのかである。
これは、自分で決めておく。

仕事始めぎりぎりまで休むのは、おすすめしない。
休んだ分だけ、エンジンが温まるのに時間がかかるからである。
余裕でアイドリングする日を設ける方が楽である。

私などは、学校の研究関係やら課題やらセミナーやらがあるので、いつものリズムがあまり崩れない。
正月らしくないといえば正月らしくないのだが、自分らしいといえば自分らしいともいえる。

いつから仕事を始めるか。
「来年の事を言えば鬼が笑う」とも言うが、これも真理を表した言葉ではなく、この感覚も人それぞれである。

お正月は、食事の時間も寝起きの時間も何もかも曖昧になりがちである。
自分で決めて動く。
「和して同ぜず」の言葉の通り、流れに乗りつつも、自分の行動は自分の意志で決定したい。
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