2017年11月23日木曜日

歴史の鉄則 便利と義務

最近読んだ本からの気付き。
次の本から、一文を引用する。
『サピエンス全史 上 文明の構造と人類の幸福』
ユヴァル・ノア・ハラリ 著 柴田 裕之 訳 河出書房新社
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309226712/
===============
(引用開始)
歴史の数少ない鉄則の一つに、贅沢品は必需品となり、新たな義務を生じさせる、というものがある。
(引用終了)
==============-

これは「歴史の鉄則」であるという。
つまり、これから起きることにも当てはまる。

本の中では農耕の導入から現代のコンピューターに至るまで、様々な具体例を挙げている。
「贅沢」「より楽な暮らし」による生じる義務や苦しみである。
郊外の豪華な家と車、良いワインと国外での高価なバカンス、それがないと人生ではないという強迫観念。
洗濯機、掃除機、食洗機、スマホで時短は加速し、余裕ができるどころか、短い時間でより多くをこなす義務を生じさせる。

「お手紙」なら届くのを何日もわくわくしながら待てるところも、「即レス」を求められる時代である。
そこに手紙のもつ独特の心の安らぎはなく、代わりに台頭するのは「ねば」「べき」の義務感である。
「既読」なのに即レスしないのは相手を無視しているのと同様の失礼な行為とみなされる。
実際、そこまで考える人ばかりではないのだが、勝手に頭の中で想像をふくらまし、苦しむ。

これからの時代、コンピューターは隆盛し続け、ますます「便利」で「贅沢」な暮らしが待っている。
国内外の行き来もどんどん壁が低くなり、国際化が進む。
この必要に伴い「英語」「プログラミング教育」も導入・強化されていく。
「便利」になるから、「当然」やることが増える訳である。
「歴史の鉄則」である。

要は、便利さとか楽を求めていくと、より苦しむ道にはまり続けるということである。
「忙しい」と感じている現代人は、これからますます「便利」になるのだから、死ぬまで忙しさと義務感が加速し続けるだけである。

私は今回、『「捨てる」仕事術』という本を書いた。
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5
「時短の本」だと思われるかもしれないが、全く違う。
「べき」「ねば」の常識を捨てようという提案である。
忙しいというのが自分自身の作り出した「神話」であり、異常事態だと気付こうという提案である。
どんなにスピードアップしても、その分仕事は無尽蔵に増えるのである。
力尽きて倒れる前に、捨てるしかない。

冒頭に紹介した全世界ベストセラーの本とはとても並べられないが、私の本もぜひ手に取ってみて欲しい。
本を書くことで、誰か一人のためになれたら、と願う。
それは、どんな本にも込められた、同じ願いだと思う。

2017年11月21日火曜日

腹が立つ時には

最近、腹が立つということが減った。
なぜか。
自分自身の怒りを眺められることが増えたからである。

腹が立つ時を考えると、大抵が「痛い」ところを突かれた時である。
もう一つは、自分が否定された、妨害されたと感じた時である。
要は、ほぼ全てが、自己防衛本能の発動である。

子どものケンカパターンを見ても同じ。
終始、お互いが「自分が悪くなくて相手が悪い」という主張である。
これをしている限り、永遠にケンカは終わらない。

最近、自分が腹を立ててる時に
「お。腹立ててるな。」と気付くことが増えた。
そうすると、腹を立ててるのが馬鹿馬鹿しくなる。

必ずしもこうなるとは限らないが、結構効果がある。

例えば教室で子どもが、望ましくない言動をする。
例えば電車の中で、望ましくない言動にあう。
そうすると、自分の中の「正義」が発動したがるのが感じられる。
お、出てきたね、と眺める。
そうすると、すっと引っ込む。

眺めると、色々と面白い。
何に自分が反応しやすいかわかる。

議論に負けるのが嫌なのは、自信がないからである。
車内で大きな喋る人が人が鬱陶しいのは、電車を自分のものだと思っているからである。
(それにしても、最近、よく酔っぱらいのおじさん集団によく当たる。
グリーン車に乗っても当たる。
試されてるとしか思えない。)

周りに起こる状況は、すべて修行である。
状況にとらわれないようにしたい。

2017年11月19日日曜日

やる気が出る仕事の探し方

次の本を読んだ。

『「仕事が速い」から早く帰れるのではない。「早く帰る」から仕事が速くなるのだ。』
千田琢哉 著 学研プラス
http://hon.gakken.jp/book/1340659400

タイトルからして仕事術系の本で、私の新著『「捨てる」仕事術』と内容的にリンクするところが多い。
著者の千田拓哉氏が自身のブログ上で「僕は中谷彰宏さんの影響を受けている。」
と明言している。
私も中谷さんファンということもあり、大変興味深く、面白く読めた。

この本から、次の文を引用する。
================
(引用開始)
やる気が勝手に出る仕事とは、
どんな時に見つかりやすいのか。

それは意外なことに、
やる気の出ない仕事をやっている最中だ。
(引用終了)
================

どういうことか。
以前も例として挙げた「テストの〇つけ」で考えてみる。

この状況における対策として、「どうすればこれを面白くやれるか」という工夫をし出す。
そこにやる気が出る。
面白くないことを面白くしようとする。
例の場合、テストの〇つけを楽しくする工夫をする。
どれだけ早くやれるかタイムチャレンジしてみるとか、音楽に乗ってつけてみるとか。
(これでミスが多くなると、元も子もないが。)
これが一つ。

他の対策として「どうすればこれを早く済ませることができるか」という工夫をし出す。
ある設問のみに絞ってまとめて〇をつけるとか、「×つけ」だけして後でまとめて〇をつけるとか、特別な道具を編み出すとか。
これがもう一つ。

そしてこちらが本質なのだが、「やる気の出ないことだからこそ、どうやればやらないで済むかを考え出す」ということ。
つまり、現実逃避している内に、「何が自分はやる気が出ることなのか」という答えに気付く。
逆算なのである。

やる気の出ない仕事に、やる気が出る仕事のヒントが隠されている。
苦手な相手にこそ、自分を改善するヒントが隠れているということに似ている。
(私と飯村氏の共著『やる気スイッチ押してみよう!』にも、冒頭に似た内容を書いている。)

就職活動を始めている社会人も多いと思うが、職業選びの一つの方法にもなる。
自分は、何をしたくないのか。
人に従うのが嫌なら、独立して会社を作る方向を考えるのがいいだろう。
自分で考えたり工夫するのが嫌なら、単純作業が多い仕事が向いている。
じっと座っているのが苦手、肉体労働が苦手、人に接するのが苦手、何でもいい。
嫌いなことがあるのが悪ではなく、逆もまた真ということである。
(ただし、大人が苦手だからという理由で、単純に子ども相手の仕事を選ぶと失敗する可能性が高い。
 なぜなら子どもの人間関係の本質は、大人のそれと同じだからである。)

苦手なことの中にこそ、光明あり。
あらゆることに応用の効く真理である。

2017年11月17日金曜日

「勿体ない」ことをしない

10月、ノーベル賞が発表された。
故人だが、2004年に環境分野で初のノーベル平和賞を受賞したケニア人女性、ワンガリ・マータイさん。
そこに関連した気付き。

私は初任校の頃から、毎日、または断続的に、子どもに「日誌」の宿題を出している。
私は一切の宿題を出さないと思っている方もいるかもしれないが、そういう訳ではない。
毎日5分程度でも、気付きを記すことの重要性を感じている。
私自身も、ずっとやっている。
上下で半分に切ったノート1ページ程度に「気付き」を書く。
ただ出来事を記す「日記」ではない。
気付きを書き、それを共有する「日誌」である。
(私が以前学んだ「原田メソッド」でも、「日誌」という言葉を用いる。)

子どもが、こんな気付きを書いてきた。
みんなが使う物の片付け方や、整理整頓の仕方が悪い。
そうすると、やがてなくなったり壊れたりする。
結果、買い直すことになり、新しく買えたはずの他の物も買えなくなる。
結果、自分たちで自分たちを苦しめる。

当たり前のようだが、これは素晴らしい気付きである。
物の乱雑な扱いが、結局、最終的に自分に返ってくる。
そして常々言っている「物の扱いは人の扱い」である。

ここからは私の解釈だが、これこそまさに「勿体ない」である。
元々は「勿体」は「物体」であり、物の扱いが妥当でない、不行き届きである、不相応である、ということからくる。
物の扱いが、不当ということである。
当然、やがて自分も「不当」な扱いを受けることを甘んじて受け入れなくてはならない。
そういう覚悟で、物を扱う。
特に公共の物に対する扱いは、世間を通して自分に返ってくる。
私物以上に、注意していきたいところである。

また、こんな気付きを書いた子どももいた。
総合的な学習の時間で、身体が不自由ということについて学んだ。
身体が不自由な人や、言葉が通じないで困っている外国の方がいたら助けたい。
しかし、自分には能力が足りない面がある。
それならまずは、身近な人から親切にしていく。
これも大切な気付きである。

毎日の気付きを書く。
学びは、日々の気付きにあり。
毎日の宝物を捨てたら「勿体ない」と思う次第である。

2017年11月15日水曜日

「信・尊・慕」は、すべての人間関係の原理・原則

毎回、教育実習生に最初に教えることがある。
「信・尊・慕」の話である。

参考 過去記事「教師の寺子屋」
「信・敬・慕」は「生活・授業・遊び」で育つ
http://hide-m-hyde.blogspot.jp/2015/02/blog-post_27.html

教師から子どもへの関係の話としてするのだが、これは実は私と実習生の関係にも当てはまる。
どんなに役立つことを教えても、この3つがないと成り立たない。

うまくいっている人間関係は、すべてこれが成立している。
職場関係然り。
友人関係然り。
親子関係然り。
夫婦関係然り。

目の間の相手と「信頼」を築くにはどうするか。
小さな約束を常に果たすことである。
相手とのルールを守るということである。
仕事なら、契約違反しないということである。
信頼される側に依るところがある関係である。

目の前の相手と、「尊敬」の関係を築くにはどうするか。
自分の能力を示して提供することである。
「尊敬」は3つの中でも特殊で、直接関係しない人でも築ける関係である。
歴史上の偉人を「尊敬」できるのは、その能力や業績が書物等で伝わるからである。
その生き方に+の影響を受けるからである。
尊敬は「受け手次第」のところはある。
傲慢な人は、どんな優れた人も尊敬しない。
謙虚な人は、どんな相手にも優れたところを見出す。
下から上を見上げるという面で、上下の関係である。

目の前の相手と「慕う」関係を築くにはどうするか。
単純接触の機会を増やすことである。
相手の話を聞くことである。
一緒に何かをすることである。
「人に人として接する」関係といえる。
フラットな関係である。

結局、子どもに教えているようで、教わっているということである。
教室の子どもとうまくいかない面があったら、他の大人との人間関係づくりも見直す機会である。
小さな約束を守っているか。
自分の能力を磨き、提供することができているか。
相手の話を聞いているか。

教えるようで教わっている。
教育実習は、指導担当者にとっても自分自身を見直す絶好の機会である。

2017年11月13日月曜日

一所懸命

教育実習生を見ていると、授業の準備の大切さを感じる。
指導案、略案の大切さを感じる。

準備不足で行う授業は、ぐだぐだである。
ただでさえ経験がない上に予想もしていないので、当然である。
(逆にいうと、なまじ経験があると、準備不足でも誤魔化せるのが怖いところである。)

王貞治選手の名言に次のものがある。

敵と戦う時間は短い
自分との戦いこそが明暗を分ける

これは、授業にもいえる。
言い換えるなら

授業の時間は短い。
準備の時間こそが、明暗を分ける。

といったところである。

私が子どもによく言う言葉がある。
「テストや試合の時にがんばるのは、当たり前。
全員、誰でもやるから、差はつかない。
実は本番の前の練習で、勝負がついている。
がんばるところは、日常。
日常がすべて。」

まあ、子どもに言う割に、自分ができているかというのは毎度考えるところではある。
しかしながら、真理。
日常にがんばった上での失敗は、積み上げる失敗。
それは、プラスの失敗。
努力もしないで繰り返すのは、広がる失敗。
それは、マイナスの失敗。
失敗は、積み上げるもの。
がんばった上での失敗だけが、積み上げられる。

テキトーにやった授業に、積み上げはない。
テキトーにやったから、マイナスの失敗かたまたまの成功しかない。
長い目で見たら、失敗でしかない。

精錬授業は、必死に準備したが故に、どんな結果でも価値が出る。
必死に準備したから、プラスの失敗か成功しかない。
長い目でみれば、成功でしかない。

授業の準備は、一所懸命。
そこは、捨てない。
教師としての在りようを思い起こさせてくれる教育実習生の姿である。

2017年11月11日土曜日

反抗したら、一安心

前号に続き、明橋大二先生講座からの気づき。

思春期。
「中二の二学期がど真ん中」とのこと。
個人差がかなりあるが、平均をとるとこれぐらいだろう。

反抗期が来ると、親はうろたえる。
特に、「いい子」で育ってきたはずの第一子の反抗期を相手にする母親はそうである。
しかし「反抗したら一安心」だという。
どういうことか。

前号で「甘えることで自立する」という話を紹介した。
思春期は甘えと反抗、依存と自立を繰り返す。
つまり、反抗できるということは、親がちゃんと育ててきて、自立に向かっている証拠の一つだという。

一方で、不安が強くて反抗できない子どももいる。
何が不安かというと、反抗すると親に見捨てられるのではないかという不安である。
十分に甘えられず、親からすると手がかからず「いい子」で育ってきた子どもである。
これら抑圧の状態で育ってきた子どもは、成人を過ぎてから突如爆発することがあるという。
私はこれを聞いて「ずっと爆発をしていない休火山のようなもの」と思った。
思春期に「反抗」という小爆発を繰り返していれば、やがて落ち着く。

そう考えると、反抗期も「必要悪」のようなものに思えてくる。
教室でも、子どもが悪態をついたり仲間と悪さをし出すようになるのも、同じような意味合いがある。

そうはわかっていても、愛する我が子が突如
「うるせえくそばばあ!」
と言ってきた時のショックは大きい。

ここへは「思春期の言葉は、外国語だと思って」とのアドバイス。
つまり、そのまま受け取らずに、翻訳が必要である。
例えば
「くそばばあ」→「お母さん」
「ぶっころす」→「怒っているんだよ」
「ウザい、知らねえ」→「放っておいてね」
だそうである。
つまり、
「うるせえ、くそばばあ!」→「お母さん、今僕もがんばってるから、わかってね。」
といったところか。

この「感情が高ぶった相手の言葉を外国語とみなす」というのは、結構応用の効くテクニックである。
教室でパニックを起こしていたり、自己肯定感が低くてネガティブなことをよく言う子どもの言葉にも使える。
何なら、職場や夫婦間でも使えると思う。

反抗したら、一安心。
それを聞いて、一安心した親も多かったようである。

2017年11月9日木曜日

明橋大二先生 甘えると甘やかすの違い

先日、本校のPTA活動の一環で、明橋大二先生の講演会を聴く機会があった。
私は明橋先生の本が大好きで、我が子が1歳の頃から
『子育てハッピーアドバイス』シリーズ(1万年堂出版)を愛読している。
空き時間に許可を得て抜けさせてもらい、保護者に紛れて拝聴してきた。

私も何度か言ってきた
「甘えると甘えさせるの違い」についても言及していた。
(参考「なぜ頭のいい子は家でダラダラユルユルか」プレジデントオンライン
http://president.jp/articles/-/16508?page=2)

私は
「甘えさせる」=子どもの将来に役立つ
「甘やかす」=子どもの将来をダメにする
と定義している。

明橋先生は
「甘えさせる」=情緒的要求にこたえる・できないことを手助けする
「甘やかす」=物質的要求にこたえる・できるのに手を出す
というように定義していた。(話を聞いてのメモなので、意訳である。)
具体的である。

一概に必ずそう、とも言い切れないところもあるが、大筋この考えでいけば間違いないように思う。
特に日本は、物質的に豊かなゆえに、「甘やかし」の道にはまりやすい。
逆に、抱っこをはじめとしたスキンシップや、子どもの話をきく、といった「甘えさせる」が不足しがちである。

「甘えない人は自立しない」とはっきり断言していた。
これにも賛同・納得である。
甘えることが、自立につながる。
甘やかすことが、自立を妨げる。
親子だけでなく、教師と子どもの関係にもいえる。

続きは次号。

2017年11月7日火曜日

どうしたのかな?とみる

学級で、よろしくないことが起きる。
「何やってるの!」と思う。
そうすると、正したくなる。
正しくないことに対して、感情が働いて腹が立つ。
視点と評価基準が、自分にあるからである。

学級で、よろしくないことが起きる。
「どうしたのかな?」とみる。
そうすると、理解したくなる。
理解できないことに対して、頭が働き、心が働き、「心配」になる。
視点と評価基準が、相手に移るからである。

この習慣は、なかなか身につかない。
学級だけでなく、いつも意識して、日常生活で一生をかけてトレーニングしていく必要がある。

例えば、運転中。
信号待ちしていて、青になっているのに前の車が動かない。

「何やってるの!?動いてよ!」と思う。
腹が立つ。
これが、意識していない普通の反応とする。

「どうしたのかな?」とみる。
車の中を想像する。
何か考えごとをしているのかもしれない。
何か哀しいことがあって、ぼーっとしているのかもしれない。
スマホをいじっているだけかもしれないが、それはわからない。
だったら、「何か事情があったのだろうな」と思った方が、自分の心も穏やかである。

「どうしたのかな?」は、想像力。
思いやりとは、想像力を相手のために働かせること。
想像力を働かせないと、すべて自分視点でものを考えることになる。

相手に伝える時は「Iメッセージ」がいい。
でも相手を理解したい時は、相手視点がいい。

「どうしたのかな?」は、学級経営のキーワードである。

2017年10月30日月曜日

字が下手な教師の苦悩

教育実習を通しての学びのシェア。

教育実習生はまだ学生だからといって、侮れない。
子どもが教師より優れている面が多々あるのと同様、教育実習生の方が優れている面もたくさんある。

例えば、体力。
多くの場合、ここはまず勝てまい。
若さに至っては、もはや「設定」の違いである。
例えば、字。
これはもう、完敗である。
ただでさえ勝てないのに、中にものすごいきれいな字を書く実習生がいる。
黒板の字が、芸術的ですらある。
完全に「参りました」という感じである。

ただ、当たり前だが、これは授業が優れているということとは、別の話である。
黒板の字がきれいなのである。
美しい文字の書き方はこの学生に教えられないが、他の面はたくさん教えることができる。

ここまでは、普通に考えるところである。

問題は、ついここを裏返しに考えてしまうことである。
「字はきれいだけど、授業はね。」というのは、オヤジな考え方である。
私は、字が下手だ。
でも、授業はできる。
だから、大丈夫。
この論理は、「論点のすり替え」というものである。
詐欺師の手法である。

「字が下手」と「大丈夫」には、論理的つながりはない。
「字が下手」と「授業に支障がある」は、論理的つながりがある。
字が下手だと、授業にマイナスの効果が働きやすい。
字がきれいな方が、いいに決まっているのである。

一方で「字がきれい」と「授業が上手い」も、論理的つながりはない。
「字がきれい」に「授業にプラスの影響がある」は、論理的つながりがある。
字がきれいな方が、見やすいし、見ていて気持ちがいいからである。
だから、教師にとって、字がきれいに越したことはない。
残念ながら、その点においては、どんなに論理を展開しても完敗である。

もしできないことの正当化をしだしたら、罪悪感をもっている証拠。
「字がきれいでも授業は別だからね」
と考え出したら、かなりコンプレックスを抱えている。
私はついそういう考えが頭をよぎってしまったので、自分自身に残念な思いがした。
しかし、このコンプレックスを抱えながら生きていくしかないのである。
(開き直ってないで改善する努力をしろという声が聞こえるが、本人としては百も承知である。)

私は字が下手だから、せめて少しでも内容的にましな授業をしよう。
そう思わされる、芸術的に字の上手い実習生からの学びだった。

2017年10月28日土曜日

薫陶の教育

前号の続き。
教師と子どもの願いのギャップを埋めることが大切。

しかし、教える側の願いの方が強く出ざるを得ない場合もある。
例えば授業研究として行う場合は、ある程度仕方がない。
明らかにしたいことのために、その時の子どもに付き合ってもらうことになる。
願いが、教える側の方に強く明確にある。

ただ、それは言うなれば特殊状況であって、本来は子どもの願いが先にあって然るべき。
子どもの育ちたい方向に、どうすればうまく伸びるかを手助けする。
それが「理想的な」教育の姿である。

「理想的な」としたのにも意味がある。
理想的ではあるが、あまり現実的ではないのである。
子どもの側は、願いをもつ以前に、知らないことが多すぎるためである。
そして、本能的な願いのままだと、あまり社会的に望ましい方向に行かないことも多々あるためである。
そのままだと、「自然」に野放図に伸びるだけになってしまう。
何度も言っているが、野口芳宏先生の「教育とは自然のままにしておかないこと」とは、至言である。

例えば様々な体験は、親が連れ出すからこそできる。
何の前触れもなくいきなり「ダイビングがしたい」という子どもはいない。
海の底の美しい世界を知り、憧れる機会から、子どもの願いが始まる。
実際に行ってみて、「もっとやりたい」となり、それが場合によっては生涯の仕事や趣味になることもある。
そういった豊かな体験活動は学校教育では限界があり、家庭教育や社会教育が主に担う分野である。

例えば、電車のマナーは、教えないと身に付かない。
「騒ぐと周りの人が不快」など、幼い子どもに想像できる訳がない。
「閉まった踏切をくぐると危険」というのも、電車のルールを事前に知ってこそであり、勝手に覚えるのを待っていたら取返しがつかないことになる。
これらは、子どもの願いは関係なく、教える側が一方的に明確なねらいをもって教えるべきことである。

学校は、この種の集団社会としての教育がかなり多い(というより、大半である)。
それがいつの間にか教える側の願いが常に優先されやすい状況を生むようにも思う。
本来、学問は楽しむものであるのに、お互いに義務みたいになってしまうのは、こういう仕組みのせいもあるかもしれない。

ちなみに、「育成」「養成」の関連語として「薫陶(くんとう)」がある。
「香を焚いて薫りを染み込ませ、粘土を焼いて陶器を作る意から、
優れた人格によって子供や弟子に影響を与え、立派に教育すること。」
である。
松下幸之助氏の言う「主体変容・率先垂範」の重要性がよくわかる言葉である。
できれば、親も教師も「薫陶」を目指したいものである。

「共育」という言葉がある。
やはり、教える側も教わっていて、一緒に育つ。
教育は、いつでも互いの願いをすり合わせる行為なのかもしれない。

2017年10月26日木曜日

授業における教師と子どもの願いのギャップを埋める

教育と育成・養成の話の続き。

例えば学校や家庭で「こういう約束にしたはずです」と子どもに説教する場面がある。
子どもは、そんな約束をした覚えがあるまい。
こちらが勝手に都合で「〇〇しましょう」「この行事の目標は〇〇」と設定しているだけのことが結構ある。
その姿にこちらが「育成」したいだけであり、子どもの願いは置いてけぼりである。

子どもからすれば、本来「遠足の目標」など知ったことではない。
本当の願いは「友達と一緒に思いきり遊びたい」だけである。

だからといって「自由にさせればよい」ということではない。
ここが難しいのだが、子どもからすると思いきり遊んでいるだけのようで、実はこちらの願いも達成しているというのがベストである。
そうでなければ、わざわざ教育の場として設定する必要はなく、単に時間と場を与えて遊ばせればいいだけである。

同じ鬼ごっこでも体育の授業でやるものと休み時間にやるものは、やはりねらいが違うのである。
前者には教える側の願いがあるが、後者には子どもの願いしかない。

学校教育には「目指す姿」があるからこそ、わざわざ学校に来させて行っているのである。
この願いのギャップを埋めていくこと。
授業を考えていく上での基本中の基本である。

2017年10月24日火曜日

「教育」と「育成」「養成」

教育とは文字通りに見ると「教え育てること」。
広辞苑でも明鏡でもブリタニカでも、どれでも同じ表記がなされている。
世間一般の定義としては確定しているといえる。

しかし、実際の自分の実感としては、順番が逆である。
育つが先で、教えるが後。
育つ力が先にあって、教えることでよりよい方へ向かう。
そんなイメージである。
ただ、教育の主語は教える側なので、「育つ方向に教える」よりも「教えて育てる」という順番になっていると思われる。

「教育」に似た言葉に「育成」「養成」がある。
違いは何か。
こういうのは「類語例解辞典」で引いてみる。
どちらも「立派に育てる」という意味をもつ。
「養成」が「訓練して一定水準以上にする」で、「教員養成」「体力の養成」などの使い方をする。
「育成」も同じだが、育てた結果を重視する言い方で、「青少年健全育成」「植物の育成」などの使い方をする。

「養成」の特徴は訓練。
教員も体力も勝手には育たないという前提からの、外的な働きかけである。
「育成」の特徴は結果。
目指す基準がある程度はっきりしていて、その到達への働きかけである。

我々が携わるのは「教育」である。
特に「学校教育」「家庭教育」「社会教育」の3つ。
どれも本来、子どもが生来もつ力を引き出す営みである。

ここが、少し、おかしくなってはいないかと思う。

何かというと、時に「養成」「育成」に偏りすぎていないかということである。
育てる側の願い(到達目標)がはっきりしすぎていて、子どもの側の願いを置いてけぼりにしていないかと思うことがある。

長くなったので、次号から具体例を挙げて続けていく。

2017年10月22日日曜日

界王拳より「捨てる」工夫

時間は有限だから、能率よく使いたい。
そこで単純に考えるのが、スピードアップ。

例えば、小テストの〇つけ。
1枚20秒でつけるところを、10秒で終わらせる工夫をする。
倍の速さであるため、能率は2倍である。
限界まで高めていったら、5倍ぐらいまでいけるかもしれない。
(ドラゴンボールの「界王拳」みたいな話である。)

しかし、このスピードアップには、限界がある。
根本的に考え直す。
そもそも、〇つけをしないとしたら。
作業時間はゼロである。
これは、何百倍とか何千倍のレベルではない。
発想の転換である。

これが、新刊の『「捨てる」仕事術』の基本的な考え方である。
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5
作業スピードを上げるのではなく、そもそも、やらない。
代わりに、価値のあることに、コストをかけていく。

すべての小テストの〇つけに価値がないとはいわない。
何のためにやったかである。
到達度を測るためにやらせたのなら、そこの正誤は見極めたい。
しかし、やらないで済むものはやらないでもよい。
子ども相互で〇つけをさせてから回収する手もある。

例えば作文は、書かせることが大切である。
残念ながら、朱を入れることで学力がつくことはない。
書くことで学力が形成される。
ともかく、書かせることである。
教師が読むことにさほどの意味はない。
だったら、作文を書かせることは捨てないで、朱を入れる方を捨てた方がよい。
(ここを往々にして、逆の手段をとってしまう。
朱を入れるのが面倒だから、作文を書かせないのである。
本末転倒である。)

つまり、「捨てる」の目的は、得るためである。
大切なものを得るために、捨てる。

朝の時間が少ないなら、やらないで済むことを捨てればよい。
朝に着る服を迷う時間が無駄なら、これ自体を捨てる。
日曜日の昼か夜にでも1週間分の服を決めてクローゼットに順番に吊るしておけばよい。
Facebookのマークザッカーバーグのように、毎日同じ服しか着ない手もある。
それによって、意思力の消耗が防げる上に、時間も生み出せる。
一石二鳥である。

何でも、工夫しだいである。
そのヒントとなる考え方を提示して、全国の先生方の元気を引き出し、子どもの笑顔につなげたい。

2017年10月20日金曜日

どうせなら残業しない工夫を頑張る

拙著『「捨てる」仕事術』の本文からの引用記事。
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5
================
「頑張る」というのは教員に限らず職業人にとっては当たり前のことであり、何ら褒められることではありません。
================

今回の本は結構、書きたい放題書いている。
この文なども、これ単体で見ると、結構きついことを書いている。
しかし、事実である。

仕事を頑張るというのは、当たり前のことである。
問題は、頑張るというエネルギーと時間の配分である。
どうでもいいことに頑張るのは、無駄なだけでなく、マイナスなのである。
なぜなら、時間とエネルギーは有限であり、無駄に使った分のしわ寄せが、本来必要な部分にいってしまうからである。
本来やるべきことを削ってしまうからである。

頑張って残業するというのは、頑張り方が間違っている。
残業は、その前を頑張らなかったから生じるものである。
もっと正確にいうと、がむしゃらに頑張るだけで工夫しなかったから起きる状況である。
それを何年やっても、同じことが起き続ける。
果てには「これが常識だ」「仕方ない」とのたまわるようになる。

業務量自体の多さは嘆いても減らない以上、自分で工夫するしかない。
そして現実には、多分、残業ゼロにはならない。
私も含め、この課題をクリアする工夫が思いつかないからである。
知識・智恵不足である。
だから何度か紹介しているように「残業デー」をつくるという発想も必要になる。

頑張るのは、残業ではなく、仕事の工夫の方である。
仮に「頑張る」の総量は全員同じだと考える。
すると、残業しない工夫をすることに頑張る人が、結果的に成果を出すようになる。
今の時代に求められるのは、長く働くことではなく、成果を出すことである。
これも本文からの引用だが、
「部下には頑張ることよりも、成果を期待していることを忘れないようにしましょう。」
である。

10月は、まだまだ寒暖差が大きい。
ここで体調を崩しては元も子もない。
健康第一を考えるのならば、残業しない方の頑張りを求めていきたい。

2017年10月18日水曜日

制限が自由を生む

新刊『「捨てる」仕事術』に関連して、制限の話。
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5

捨てるという行為は、制限そのものである。
例えば「机の上のモノを9割捨てる」という項目がある。
要は、机の上に置くモノを制限するということである。
野放図にあれこれ置かない。
制限をかけることで、余計なものが載せられなくなる。
具体物で制限の練習をしておく訳である。

第1章の「時間術」は、まさにこの制限が肝である。
「休日出勤を、捨てる」という項目は、この制限の一つ。
人間は「タイムリミット」があれば、そこまでに終わらせようと必死になる。
いわゆる〆切効果である。
これを使うと、仕事効率が一気に上がる。

逆に〆切がない状態というのは、「パーキンソンの法則」で考えるとよくわかる。
この第一法則は「仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」というものである。
つまり、余裕がある分まで、完了が伸びる、あるいは単位時間あたりの仕事量が希釈されるということである。

だから、休日出勤も、無計画な残業もダメなのである。
仕事がそこまで膨張してしまう。
結果、仕事の筋力は弱いままになる。

今私は、毎日教育実習生の指導をしている。
教育実習生には、時間の制限がある。
だから、あの短期間で、何とか指導案を書いてやりきれる。
多少無理ができるのも、時間制限があるからである。

時間に、制限をかける。
タイムプレッシャーである。
適度なプレッシャーは、実力を引き出す。
結果、仕事が早く終わり、生まれた時間を自由に使えるようになる。
要は、制限が自由を生み出す。

時間制限を意識してかけているか。
仕事の能率がいまいち上がらないという方は、見直してみて欲しいポイントである。

2017年10月16日月曜日

助け合うとは、デメリットの共有

月曜日ということで、仕事にやる気の出る話を。
私の大好きな作家である、中谷彰宏さんの言葉を3つ紹介する。
==================
助け合うとは、メリットではなくデメリットを共有することだ。

人を助けることは、ひたすらきれいごとでは済まない世界。

優しいとほめられることを求めない。
===================

道徳でも「協力」や「思いやり」は大切な内容である。
しかし、実践すると、これが難しい。
人間は、自然と自分の損得を優先してしまうからである。

せっかく行くのなら、人気の美味しい店がいい。
値引き交渉で安くなるならそうしたい。
大混雑の中で並ぶのも面倒だし、満員電車なら椅子にも座りたい。
くじ引きなら自分に当たって欲しいと思う。

どれも、「相手が損しても自分が得したい」という面があることが否めない。
別に否定すべきことではなく、当然のことである。

だからこそ、助け合うということは、意識と覚悟が必要である。
メリットではなく、デメリットの共有。
パンが一つしかないなら、自分の取り分が減っても相手に半分に分けることを厭わないかである。

汚れている場所があったら、自分の手を汚してもきれいにすることである。
自分の手は汚さないできれいにしたいなどというご都合主義は通らない。

さらに、がんばったから褒められるなんて思わない。
優しくしたから感謝されるなんてことを求めない。
そういう期待を先にするのは、損得勘定の世界を離れられていない証拠である。

何かをさせてもらっている、助けさせてもらっている。
役割を与えられるほど、有難いことはない。
そこに気付くことで、感謝も生まれ、幸福感につながる。
幸せとは、気付きである。
不幸とは、目の前の幸せに気付かないことである。

今日からまた一週間、働けることに感謝したい。

2017年10月14日土曜日

保育園のお迎えに行ける父親に

新刊『「捨てる」仕事術』に関して、読者の方から有難い感想をいただいた。

================
「本を読んでから家族と相談し、週2回残業デーを設定することいしました。
これで平日も保育園の迎えが出来そうです。
ありがとうございます!」
==================

もう、この1通だけで、本を出して良かったと思えた。
「教師にもっと楽しい人生を」というコンセプトで書いた本なので、本当に嬉しく思った。

ところで、読み飛ばさないで欲しい。
「週2回残業デーを設定」である。
決して「週2回ノー残業デー」ではない。
ここがポイントである。

詳しい解説は本に書いてあるが、ここの意識の差である。
多忙すぎる教師には、「残業デー」を作ることが大切なのである。
異常な業務量の中、ノー残業デーを目指すメンタリティのままでは、この多忙感から脱することは難しい。

この方は、「家族と相談」して、「残業デー」を設定したのである。
嬉しいことである。
何より嬉しい記述は、「これで平日も保育園の迎えが出来そうです。」
というところ。
子どもと奥様の笑顔、そして何より、我が子を迎えに行く本人の最高の笑顔が、目に浮かぶようである。

私自身、幼少の頃から、家には父親がいないことが普通だった。
小学生になってからは、夕飯時に母親もいないことさえ、普通のことだった。
諸々の事情があり、仕事で忙しかったのである。
(後できくと、生活のために泣く泣くのことだったようである。)

夕飯時に家族が揃っているというのは、子どもの頃の私にとって、夢の風景なのである。
父親が夕飯時に帰ってくるなど、望むべくもなかった。
バブル真っ盛り当時の流行CMのキャッチフレーズは、
「24時間、戦えますか。」である。
当時のビジネスマンは、戦えたのかもしれない。
しかし、そのビジネスマンの背景にいる家族は、それを望んでいたのか疑問である。

仕事をがんばることはいい。
しかし、それが、自己満足で終わってはいけない。
家族や周りを犠牲にしているようでは、カッコいい働き方とはいえない。
自分の人生なのだから、自分で選択すべきである。
残業だって、自分の選択
保育園のお迎えだって、自分の選択。
働きながら保育園のお迎えにも行けるというのは、結構カッコいいと思う。

多くの方に読んでもらい、働き方の見方を変える一助になればと思う。

2017年10月12日木曜日

いじめ解決が絶対の理由

学級でのいじめは絶対に解決すべき理由について。

前号で、行動を変えるには理由付けが大切ということについて述べた。
そして理由付けには、欲求段階を考えることも大切であると書いた。
これは、学級経営における子どもの行動にもいえる。

「生理的欲求」は最優先される。
飲食店がいつまでもなくならないのは、生理的欲求が日ごとに起きるものだからである。
「1ヶ月分食べたから1ヶ月食べたくならない」となれば、飲食店経営も立ち行かなくなる。
「寝だめ」ができないと知ることも、早起きの習慣をつける上で大切な知識である。
そして「寝だめ」はできないが、「睡眠負債」はできるところがまた厄介である。
早寝早起きとまでいかなくても、子どもが睡眠不足や朝ご飯抜きで登校していてはダメな理由はここである。
欲求段階の最下層で満たされていないのに、やる気が出るはずがない。
(これは、大人でも当てはまる。)

次に「安全欲求」。
心身の危険にさらされないことである。
日本に普通に暮らしている以上は、ほぼ満たされる。
家庭にDVや虐待といったことがあると、ここの欲求段階で止まる。
今では大分減ったと思うが、ミスをすると殴られるといった異常に暴力的な部活動などもここの段階である。
死なないように生きることに必死という段階であり、野生の動物と同じ過酷な状況である。
戦争中に生きると、この段階に多くの人が留まると予想される。
はるか昔だと、村ができて稲作ができるまでは、どの人間もこの段階だったのではないかと推測できる。

さて、衣食住足りて安全となると、次の「社会的欲求」の段階に進む。
集団に所属したい、仲間として認められたいという欲求である。
いじめられていると、この段階に留まる。
いじめがあるクラスで何をやってもうまくいかないのは、このためである。
次の段階に行こうという欲求が生じない。
ただ自分が集団からはじかれないことに全神経を集中することになる。
一人でもいじめられていれば、本能的に「明日は我が身」と感じ、防衛本能が働くのみである。

ここまでが「外的に充たされたい」という欲求の段階である。
これさえ満たされないで、次の「内的に充たされたい」段階には進めない。
どんな素敵なお題目も、机上の空論であり、無駄である。

いじめをどう解決していくかということは、また別の機会に書くが、とにかくまずはここ。
絶対にいじめを放置してはならない。
学級経営における基本的な重要ポイントである。

2017年10月10日火曜日

朝寝坊の正当化を倒す

新刊『「捨てる」仕事術』の中から、早起きの習慣について。
https://www.amazon.co.jp/dp/4181713350
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5

今回の本のねらいの一つとして、忙しくて倒れそうな日々を送る多くの方への、生活習慣の改善がある。
生活習慣の改善というとハードルが高いと感じるかもしれないが、ここでの提案はシンプルである。
悪い生活習慣を「捨てる」ことができる理由を付ける。
良い生活習慣を「選ぶ」ことができる理由を付ける。
習慣を変えるにはこの「理由付け」が非常に大切である。

身近な例だと、夏休み明けの出勤や登校。
夏休み中に「遅寝遅起き」のだらだらな習慣が身についてしまった人も、そこから行動が一変する。
なぜか。
そこに正当な理由付けがきちんとされるからである。
「行かなくてはならない理由・行った方がいい理由」が山ほど挙げられる。
登校・出勤するという他からの束縛を受け容れざるを得ない理由ができ、実際の行動に移せる。
そこに「行かなくてもいい理由・行かない方がいい理由」が勝つと、不登校や出勤拒否等の状況が生じる。


私の尊敬する野口芳宏先生は、これを
「他律的自律」
という短い言葉で表している。
要は、人間の意思は弱いのだから、他からの価値ある束縛を進んで受けることで、我が身を律するということである。

さて、今回の『捨てる!仕事術』の中に
「土日の朝寝坊を捨てる」
という項目がある。
まあ、これだけ聞けば、
「早起きが大切なんでしょ。そんなことわかってる。けど自分にはできないの!」
とお叱りを受けるであろうことは容易に想像できる。
それは百も承知である。
そこに対し「早起きする理由」「土日朝寝坊しないでいい理由」を挙げている。

本の中にも記述しているが「朝寝坊の正当化」が最も手強い相手なのである。
「眠いから寝るのが正しい」という理由が100個、起きかけた頭の中を駆け巡り、あなたを朝寝坊の誘惑に陥れる。

手順としては
「朝寝坊の正当化を倒す」

「早起きする理由付けをする」
となる。
つまり、マイナスをゼロにして、ゼロをプラスにする、というステップである。
逆ではうまくいかない。
マイナスを生じると思われる状況では、人は動けない。
マズローの欲望5段階説でも「生理的欲求」「安全・安心」の方が根本欲求である。
「睡眠」などは、もろにここに当てはまる。
早起きしてもこの2つを満たせるということを脳に刷り込む必要がある。
そのための、理由付けである。

読んでいる内に、「こんな考え方も有りかも」というように思えるようになるかもしれない。
一つ信用して、読んでいただければ、何かの一助になるのではないかと期待している。

2017年10月8日日曜日

教えること以上に、教わっている

教育実習がまた始まる。
実習期間中は、教える以上に自分が学べる。
視点が新鮮なのである。

実習生から、一日の中で気付いたことへの質問を受ける。
質問の内容は、かなり根本的なことが多い。
「当たり前」に流れていて「何のために」が抜けていると答えられない質問である。

例えば
「授業の始まりに日直が号令かけないのはなぜですか?」
という質問が来る。
(教室によっては「日直が号令をかけるのはなぜですか?」になる。)

意図的に行っているので、理由を伝えられる。
いきなり教えないで、「なぜだと思う?」と一旦問い返して、考えを引き出す。
この辺りは、授業をする時の手法とほぼ同じである。

一通り聞いてから、自分の解を示す。
同時に、これが万人への正解ではないことも伝える。
今の相手に対し、今の自分ならこうするのが最も良い、と判断しているからである。

ちなみに、私は現在、授業の始まりでは一旦黙って姿勢を正し、こちらから先に礼をする。
それに合わせて、子どもと同時に礼をし「お願いします」と伝え合う。
この「お願いします」の相手も、誰なのか、一度子どもとも共通理解しておく必要がある。
(この辺りは他でも色々書いているので割愛。)

こんな具合に、普通にやっていることを改めてふり返る機会がもてる。
授業研で、参観者から質問をされて考えが深まるのと同じである。

教えること以上に、教わること。
目の前の相手には、教えているようで、教わっている。
子ども相手にもいえることである。

2017年10月6日金曜日

心は見ているもののようになる

最近読んだ本からの学び。
「被災地に学ぶ会」に参加した際、次の本をいただいた。

『すぐに結果を求めない生き方』鍵山秀三郎著 PHP研究所
https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-83854-0

この本の中で、
「人間の心は見ているものに似ていく」という言葉がある。
掃除が心をつくるということに繋がる話である。

全くその通りであると実感する。
特に学級の様子は、教室等のものの状態でわかる。
雑巾の干し方一つでも、ロッカーでも靴箱でも何でもいい。
見るからに荒れていれば、何かある。
当たり前だが、人間にはきれいな環境の方が快適である。
ほこりだらけだったり、ウィルスまみれの空気がいい訳がない。

心は見ているものに似てくる。
きれいなものを見ている方が、心が安らぐ。

ここをつくるのが掃除だが、掃除は「きれい」のきっかけである。
掃除を一生懸命やっていると、色々なことに気付く。
気になっていなかったところが、汚いことに気付く。
それを磨く。
自分の手が汚れる。
それがやがて、気にならなくなる。
「後で洗えばいい」という精神になる。
無私に近付く。

とはいえ、自分の手を汚すのは、普通は嫌である。
普通だからこそ、修行。
見ているもののようになるのだから、自分の目には、きれいにする自分を見せてあげたい。

2017年10月4日水曜日

1を積み重ねて

第29回被災地に学ぶ会のレポート。

今回も、向かった先は南相馬。
街自体は少しずつ復興に向けての動きが進んできているようである。

しかし、ボランティアセンターの方の話では
「復興したからもう大丈夫、というメディアの情報の誤解が一番困る」とのこと。
復興に向けての動きが進んでいるといっても、決して復興した訳ではない。
今回の支援先である小高区では、未だに震災前の人口の6分の1しかいない。
1万2千人中、1万人は帰ってきていないのである。
やっと帰る人たちが出てきたからこそ、以前よりもさらに人手不足になっている。
今後も、ボランティアの参加は大歓迎である。

さて、今回の支援先も、個人宅。
かなりの敷地に、草木がびっしりである。
しかも、斜面やら水路やらで囲まれており、草刈りにはなかなか手強い形をしている。

今回は、依頼主の方が所用により不在の状態での作業である。
作業に取りかかる前に、リーダーの村田先生に尋ねてみた。
「この敷地は、今後何に使うつもりなんでしょうね。」

私としては、用途がわかった方がどこまでやるといいかがわかるし、やり甲斐も出るだろうと思った訳である。
村田先生は、全体の前で次のように話された。
「依頼主の方は、きっと途方に暮れていることと思います。
どこから手を付けたらいいかわからない状態です。
この敷地をきれいにすることで、依頼主の方は、希望がもてるのではないでしょうか。」

さすがリーダーである。
リーダーとは、集団に指針を示す人のこと。
この言葉で、一気に「がんばろう」という気持ちが芽生えた。

作業中も常に考えることは
「ここの見晴らしがよくなったら、気持ちがいいだろうな」
「ここが通れるようになったら、喜んでくれるのではないか」
というようなことばかりである。

しかし、がんばってはいるが、実際、暑い。
暑さにやられて水分補給をしながら周りの仲間を見ると、それぞれが熱心に作業に取り組む姿が見えた。
手作業で細かいところまで丁寧に刈り取っている人。
汗だくになって草刈り機を操るベテランの方。
仲間と声をかけあいながら、楽しんで協働している学生グループ。

どの人も、いきいきしているように見えた。
そう、この会の名前は
「被災地に学ぶ会」。
学ぶことは、喜びであり、楽しみである。
依頼主の方の喜ぶ姿を想像しながら作業しているに違いないと思った。

午前中から昼食をはさみ、4クールを経て無事作業終了。
ビフォアーアフターよろしく、すっきりとした敷地を眺め、全員で記念撮影をした。

今回の作業も、復興に向けた小さな一歩でしかない。
しかし、小さな事を成し遂げずに、大きな事を成し遂げることはできない。
どんな大きな数でも、すべては1から成り立つ。
これからも、小さな1を積み重ねていきたい。

2017年10月2日月曜日

助けさせてもらうボランティア

今日は、被災地復興支援の話。

新刊『「捨てる」仕事術』の
「お金にならない仕事をやってみる」
という項目から、やや長めに引用する。
==============
(引用開始)
ボランティア活動は、教員の仕事を離れて、社会を見る目を養えます。
例えば、私の知人の方が主催している「被災地に学ぶ会」という活動があります。
この名称がポイントで「被災地を助ける」ではなく「被災地に学ぶ」なのです。
被災地に行けば、学べることは数知れません。
「助けに行く」というより「助けさせてもらう」という方がより正確です。
被災地に行くと、他人事が、自分事に近付きます。
同じ日本人としての意識もはたらきます。
日本の問題を、自分事として捉える機会にもなり、日本社会を見直す視点ができます。
それは、確実に授業でも役立つ力です。

そしてボランティア活動の理念は
「できる人が、できる時に、できることをする。」です。
余裕がないと、なかなか難しいものです。
仕事を真剣に精選している人だからこそ、やれるともいえます。
人の役に立つことをするという、仕事本来の目的も改めて見直すこともできます。

目の前の損得を抜きにして、「尊」「徳」を優先する。
余裕ができた時こそ、そんな機会を自らつくっていきましょう。
(引用終了)
==============

何か、読み直すとえらそうな印象を受けないこともないが、本音である。
ボランティア活動は、自ら工夫して余裕を生み出さないと厳しい。
自分がぎりぎりの状態では、なかなか踏み出せない。
そして、助けるのではなく、助けさせてもらうのである。
これが実感である。

うだるような暑さの中での作業になるが、

福島は、他の被災地とは様相が全く異なる。
復興への道は、まだまだ遠い。
しかし、千里の道も一歩から。
仲間と共に汗を流すことで、こちらにとっても得られるものがきっとある。
何より、依頼主の方の喜んだ姿を想像すると、がんばれる。

先日、この会を紹介したら、「次は参加したい」という嬉しい声がいくつか届いた。
参加する時は、無理をしないこと。
例え参加しても、自分がやれることだけやればいい。
気持ちと関心をもち続けることが大切である。

次号では、被災地の現状を少しでも伝えていきたい。

2017年9月30日土曜日

「定型発達」を考える

最近、本を読んでて考えたこと。
ちなみに、少し前に紹介した、東田直樹さんの本からである。

「定型発達」という言葉をご存知だろうか。

Wikipediaによると
「自閉コミュニティにおいて造り出された用語で、自閉症スペクトラムに当てはまらない人々を指し示す」
とのこと。
要するに「健常者の発達」を指す言葉のようである。

では、どういうことが定型発達なのか。
簡単に言うと、その年齢の平均値内だと、定型発達ということになる。
〇歳だとこれができるのが「普通」といわれるアレである。

世に出る「平均」の数値というのは、妥当性を考えると、かなり怪しい。
例えば、適当にネット検索して、日本の40歳の年収の平均を調べると、あるサイトでは「561万円」というデータが出る。
561万円周辺の人の絶対数が多いほど、この平均値の妥当性が高いといえる。
(いわゆる、数学で言う「ばらつき」や「偏差値」である。)
しかし、実際は、かなり困窮している人から、世界的大富豪レベルの層まで、かなり幅広い。
年収100万円以下だってざらだし、100億円以上だってゴロゴロいる。
しかも、それが「特異」な数人ではなく、相当な数がいる。
この場合、平均値の数値は、あまりあてにならない。

学校というのは、都合により学習指導要領で最低限身に付けるべき内容が決まっている。
これは、少数の教員で多数の子どもを教える以上、一面で仕方のないことである。
しかし、個人の発達を考えれば、年齢で一律の発達を想定して教えるというのは、全くナンセンスな話である。
「時速90kmで東京から360km離れた名古屋に向かって車で走ったら何時間でつくでしょう」という問題と同じである。
そんな一定の速度で予定通り行ける訳がない。
実際は、その日は東名高速道路が渋滞しまくって半日かかりましたという話である。
そんな算数の問題ばりに「〇歳でこうなる」という「右肩上がりの成長直線」が設定されているように思う。

個人的には、2歳児の成長発達曲線とか、ない方がいいと思っている。
あれを見ると、平均値から外れた場合に親は過剰な心配をしてしまう。
2歳ぐらいで皆が同じように発達したら、ロボットじゃあるまいし、それこそ「不自然」である。
(逆にあるから安心な面もあることは否定しない。)

現実には教育システムの基本が「定型発達」を前提に組まれている訳である。
例えば文字言語一つとっても、これがいえる。
平仮名と片仮名を覚えるのは小学1年生。
あの漢字は「難しい」から6年生。
この漢字は「簡単」だから2年生。

現実には、ある子どもにとっては3歳で平仮名も片仮名も無理なく覚えられるし、ある子どもにとってはその時は小学一年生よりずっと後である。
学級担任を数年やったら誰しもがわかることである。

「発達」を考える時は、植物を育てるとわかりやすい。
同じように同じ植物の種を育てても、個によって芽の出る時期も育ち方も全く違う。
栄養をやたら与えてもダメ。
やらなすぎてもダメ。
時期を外してもダメ。
無理にひっぱって伸ばしてもダメ。
心配になって掘り返したりしたら完全にアウト。

子どもは(大人もだが)、個の中にある「自然」の時に合わせて発達する。
「〇歳だから●●ができる」という大人の作った時計(枠)とは別の時間の流れである。

だから、特別支援教育が必要だし、インクルーシブ教育や授業のユニバーサルデザインの必要性が台頭してきている。
全体主義から「個」へ視点が移ってきている傾向にある。

平均の拠り所とは、要は「比較」である。
平均を重んずるということは、自分よりも他との比較の方が重視されている訳である。
本来、馬鹿馬鹿しい話である。

目の前の唯一無二の子どもには、可能な限り比較でない見方をしてあげたい。

2017年9月28日木曜日

夏休みの宿題 親に丸投げ禁止

夏休みの宿題の話。
今回は懺悔も込めて。

先に「懺悔」をすると、これまで散々偉そうなことを書いているが、どれもこれまでの私自身の失敗談である。
「不要に多い宿題」を出した過去がある。
「事前指導なしの自由研究・読書感想文」を出した過去がある。
それらを出した理由は、過去に書いた通りである。
↓参照URL
http://www.mag2.com/p/news/259893
平たく、かつ正直に言えば、宿題に関してそこまできちんと考えていなかったのである。
親の負担なんて「これっぽっち」も考えていなかったのである。
「前例」、即ち「前へ、ならえ!」に無思考で従っていた訳である。
考えて出す、あるいは出さないようにしたのも、ここ数年の話である。
そんな数多の失敗経験を踏まえて、現在の考えに至っていることを先に述べておきたい。
(今まで私が担任させてもらった皆さん、本当に申し訳ございません・・・。お許しを。)

ここまで、懺悔終了。
本題へ。

基本スタンスとして、夏休みの宿題は不要だと思っている。
理由は以前に述べた通りである。
ただこれも「全員一律」の課題に問題ありというだけである。

意味のある夏休みの宿題もある。
完全な「自由課題」としては存在意義がある。
ここでしかできない経験を表現することには意義がある。
それを一律に課すから問題なのである。
(選択させても提出必須であれば一律と同じことである。)

子どもが旅先で、感動することがあった。
それを「旅行記」にまとめたり、「〇〇海の生態」というレポートにしたりする。
電車で旅したことを「鉄道記」として記すのもいい。
夏休み中に読んだ本に感動して、それを伝えたくて文章にするのもいい。
とにかく、本人が好きなことで、夏休みならではの表現のチャンスとして利用するなら意義がある。
この場合、子どもが「手伝って!」と言ったら、親としても手伝いようがあるし、悪い気がしない。
本当に子どもの興味から始まっているからである。

それをはじめから「学校からの課題ありき」だから、よろしくないのである。
「宿題がある」→「ネタ探し」という順番だと、確実に「自由」からほど遠い義務感からのスタートになる。
「表現したいネタがある」「元々〇〇を作るのが好き」→「自由課題として提出」なら意味がある。
要は、「課題」から入るのと「興味」から入るのでは、子どもの動機付けに決定的な違いが生じてしまう。
読書感想文などは、その最たるものである。

課題の提示者である教師が指導ができる「授業」ならまだしも、良心的な家庭に課題を丸投げしている実態がかなり見受けられる。
事前指導なし、丸投げの自由研究や読書感想文など、もはや「親への宿題」と言っても過言ではない。

逆に、実態に応じて「強制」してでも課題を与えた方がいいものもある。
例えば、何かしらの理由で、個人的に学業に関して大幅な遅れが生じている子どもの場合。
授業のない夏休みは、遅れた分の差を埋めるチャンスである。
この場合、計算練習や漢字練習など、足りない面の「反復系」「暗記系」の課題を与えることは意義がある。
「反復系」「暗記系」というのがポイントである。
これらは、教師が横について指導する必要がない。
だから、夏休み中でも課題としては取り組める。
家庭に声かけはお願いしないといけないが、そこに複雑さはない。
全員一律の課題ではないので、家庭と本人次第である。
(ただし、この課題も、今の時代だからこそ。
今後、計算や漢字の力がどういう扱いになっていくかである。)

一年生や二年生だと、計算カードの復唱などの課題が一律に出ることもある。
これも、本人だけでできる範囲であり、かつやっていなくても家庭には影響がない点が、家庭学習の課題としては適切である。
「学校からの課題は毎日やろうね」とも声かけできるし、たまには「今日は仕方ないかな」と、調節ができる。
こういった反復による「量」が命で、かつ子どもと家庭の負担が少ないものも、一律の課題としては適切である。
(やったかどうか確認する手段をとるかどうかはまた別の問題。)

要は、親への丸投げにならないこと。
家庭の状況や個人差を無視した一律の課題にしないこと。
最近読んだある記事には「夏休みの宿題で家庭レベルがわかる」といった記事があったが、本来それではいけない。
宿題は、親ではなく、あくまで子どもに出すものである。

宿題の出し方には、教育観の一端が出る。
何が「正しい」かはわからないが、「なぜ自分はそうしたか」は、明確に答えられるようにしたい。

2017年9月26日火曜日

宿題と働き方改革

宿題について、もう少し深掘りして考える。

そもそも、宿題に法的な位置づけはない。
法的には、一つも出さなくても何ら問題ない。

しかし、現実にはかなりの量が出る。
なぜなのか。
諸々あるが、表の理由は「子どものため」。(学力の保証、生活習慣の形成云々。)
本来、これしかない。

しかし裏の理由は、「大人の都合」や「前例」という縛りである。
そんな下らない理由ならやめてしまえと思うが、そう簡単にはいかない。
ずっと続いていることを自分の代でやめるというのは、相当気合いがいるのである。
下手なことをして「学力が下がったのは宿題をなくしたせいだ」などと言われるかもしれない。

という訳で、宿題は日本の学校文化として脈々と続いているわけである。

そして多くの場合、実際に宿題のカギを握るのは、親である。
特に夏休みは顕著である。
夏休みの自由研究を子どもの自力だけで解決していくのはかなり困難である。
また、声かけもチェックもなしに、子どもが毎日ドリルをやれるかというのもある。

内心では夏休みの宿題を「面倒」と思っている親は相当数いる。
正確には「全くないのも不安だけど、あんまりあるのは面倒」という感じである。
(ちなみにこの不安感も「前例」から来るものである。その効果測定はされていない。)

その証拠として「宿題代行業」の存在がある。
ドリル1冊何千円、という感じで、「代行」してもらうサービスである。
特に受験を控えている子どもにとって、宿題が「受験の邪魔」になっているのが現実である。
こういった「代行」業の方々にとって、「大量の宿題」は金の生る木で、大歓迎だろう。
夏休みの過剰な宿題へのニーズは、すべてここにあると言っても過言ではない。
現に、この業界の売り上げは、3年間で10倍に跳ね上がったという調査結果もある。
夏休みの宿題様様である。

受験を控えていない子どもにとっても、長期の宿題は、やはり面倒である。
大人だって、やっととれたお盆休みの最中に「毎日〇時間の作業」や「レポート&プレゼン資料の準備」という残業を課されるのは嬉しくないだろう。
お金を払ってでも代行してもらいたいという気持ち自体はわからないでもない。
逆に、中にはそれで小遣い稼ぎをしたいという子どももいる。
個人の「負担感」の違いである。

負担感といえば、教師の側。
大量に持ち込まれる35人×課題の数々=何百。
これを、一体どう「捌く」のか。
「一行日記」が30日間分書かれていたら、これだけでトータル千を越える文章を読む訳である。
「多忙」な教師生活のスタートがもうここから始まる。
多忙の根本的な原因を「捨てる」必要があると思う次第である。
参考 拙著『「捨てる」仕事術』
https://www.amazon.co.jp/dp/4181713350
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5

本質に立ち返る。
本当に、夏休みの宿題は、必要なのか。
多くの人に、歓迎されているのか。
利益をもたらしているのか。

夏休みの宿題の出し方自体に、働き方改革の根本的な問題が隠れていないか。
根本・本質・原点に立ち返り、見直す必要がある。

2017年9月24日日曜日

一律の宿題は、いらない

宿題の話。

例えば夏休み、学校では、どれぐらいの宿題が出た(または出した)だろうか。
教師の側からすれば「山ほど出した」という人は少ないと思う。
なぜなら「山ほど」かどうかは、受け手が感じることだからである。
「子どもの負担を考えて、少なめにしました」という人でも、相当多く出していると思っていい。

私がやむを得ず宿題を出す時に一番考えるのは、「負担感」である。
同一の分量を出しても、負担感は子どもによって全く違う。
だから、基本的に宿題の分量は全員一律にはしないように心がける。
漢字の宿題一つとったって、ある子には1分足らずで済むものが、ある子には2時間かかるということもざらである。
「そんな大げさな」と思った人は、ちょっと危ない。
たくさんのご家庭で普通に起きている現象である。
問題が表面化しないのは、期日までに親が協力してなんとか形にして仕上げてくるからである。
受け取る側は、普通にやってきたということで、また普通に宿題として出す。
この繰り返しである。

多くの慎ましいご家庭の方々は、面談等では教師に本音の意見を言えないのである。
「こんなことを言って、モンスターペアレントとか思われたらどうしよう」と悩んでいるのである。
もっと言うと「そんな時間をかけているのが悪い」と言われたらぐうの音も出ないと思っているのである。
子どもの能力や性質の問題を指摘されたら、反論できない。(場合によっては怒り出すしかない。)
教師の側は「人質をとられてる」ぐらい言いにくい立場の相手だと思われていると考えると、ちょうどよい。

さて、世の宿題の内容をきくと、この辺りの感覚を教師の側がしっかりともっているかは疑問である。
夏休みの宿題を見ても、一般的に結構な量が出ているようである。
ただこの辺りは、地域社会が求めるコンクールの関係とか色々あるので、学校裁量ではどうにもならない面があるのも否めない。

私個人としては、夏休みは、思い切り遊ぶべき時だと思っている。
だって、夏「休み」だから。
齋藤一人さんの言葉だが「宿題は残業」である。
休みの日に強制的に課すのだから、間違いなく残業である。
ノー残業デーを推進している大人が子どもに残業を推奨しているともいえる。
(将来の残業と持ち帰り仕事に対する耐性を鍛えているという明確なねらいがあるなら話は別である。)

夏休みの宿題は、いらないのではないか。
生活習慣の形成だとかうんたらかんたら理由は色々つけられる。
こういうことを言うと一部の人に嫌われるが、言う。
実は、大人たちが、ただ「安心したい」だけではないか。

もう一度言う。
夏休みの宿題は、大人が安心したいだけではないのか。

夏休みの宿題をやらなかった人たちは将来ダメになりましたという事実でもあるのだろうか。
ただでさえ塾だ習い事だ何だと忙しい昨今の小学生に、これ以上の課題を与えるメリットは何なのか。
生きる力って何だ。
残業に耐える力?
我慢強さが鍛えられる?
それは、他でできるのではないか。

小学生の頃、「なつやすみの友」という名の友人と常に向き合っていた。
「お前、いつかやるから、待っとけ」と、8月31日まで放置していた友を懐かしく思う。
今思えば、あれは、完全に「なつやすみの敵」であった。
言葉は表面をコーティングするから恐ろしい。

「一行日記」とかも、考えものである。
日記どころか、90%の子どもは、どこかでまとめ書きの「月記」になる。
(しかも親に怒られて手伝われながらするのも、世の常である。)
10%のきちんと書く子どもにとっては、そもそも無用の長物である。

ねらいと手立ての不明確な一律の宿題は、いらない。
夏休みなどは完全に「自由課題」のみにしてしまえばいいと思う今日この頃である。

2017年9月22日金曜日

共感と勘違い

「インクルーシブ教育」に関連した話。
最近、刺さった本。

『跳びはねる思考 会話のできない自閉症の僕が考えていること』
東田 直樹 著 イースト・プレス (2014/9/5)
http://www.eastpress.co.jp/shosai.php?serial=2137

著者の東田さんは、偶然にも私の元勤務校の市内に住んでいる方である。

紹介文にもある、帯から引用する。
=============
(引用開始)
僕は、二十二歳の自閉症者です。人と会話することができません。
僕の口から出る言葉は、奇声や雄叫び、意味のないひとりごとです。
普段しているこだわり行動や跳びはねる姿からは、僕がこんな文章を書くとは、誰にも想像できないでしょう。
(引用終了)
=============

もう、仰る通りである。
一時期、テレビにもかなり出ていたようなので、知っている方もいるかもしれない。
世の中の自閉症者に関する誤解を解くとともに、正しい理解や新しい視点を与えてくれる内容である。

もう刺さりまくる言葉だらけなのだが、次の言葉を紹介したい。

===========
共感は難しい。相手の気持ちを考えるだけでなく、そこに自分の気持ちを重ねてしまうから。
自分が主人公になった物語を創作してしまうのだと思います。
===========

「自分が主人公になった物語を創作」という表現が、ぐさりと刺さった。
共感の大切さは、言わずもがなである。
しかし、つい次のように言ってしまわないだろうか。
「わかるよ。○○だものね。」
ここが、結構、いや、かなり的外れなことが多いようである。

これは自閉症やその傾向にある人に対してだけではない。
あらゆる意思疎通の場面において起きる。
「わかるよ。○○だもんね。」
「あ、ああ、そうね・・・(汗)。
(いやいや、だからそれが違うんだって!!わかってよ!!)」
ということがないだろうか。
いや、かなりあるのではないか。
自分がそういう思いをしたことがあるということは、自分も誰かにそういう思いをさせている可能性がかなり高い。
空気が読めなくても別にいいのだが、相手の心が読めてないかもという自覚だけは常にあった方がよい。

共感。
言うは易く行うは難し。
それは本当に共感か、自問するようにしたい。

2017年9月20日水曜日

「捨てる」人間関係を考える

「捨てる」において、最も難しいのは、人間関係におけることである。
付き合いを捨てられないで、過剰な気遣いで苦しむ人も多い。

人間関係において、捨てると捨てないの基準は何か。
これは、自分なりでいいのだが、シンプルに設定しておく。

絶対捨てられないものをまず考える。
いの一番に挙がりそうな「家族」は、家庭によって微妙な問題を孕むので、一旦置いておく。

迷わないのは、親友である。
ここは切れない。というより、切ろうとしても切れない。
切れるようなら、その時点で親友ではない。
親友かそうでないかの見極めは、互いが「本当に困った時に助けてくれるか」である。
それがたとえどんな酷い状況であっても、である。
利益を度外視した付き合いである。
さらに、相手に強制や強要をしない。逆にべったりくっつくこともしない。
時折、高学年女子の間で交わされる「○○してくれないならもう親友じゃないからね」という言葉がいかに間違っているかである。

もう一つは、恩師。
これは、形式的な「先生」という訳ではない。
自分の人生の指針を示してくれる人物である。
ここが切れると、人生そのものがあらぬ方向に迷うことになる。

「良き師 良き友 良き書物」の2要素は最も大切な人間関係である。

これを基準に、捨ててよい人間関係の基準を考えればよい。
端的に言うなら、自分を良い方向に導かない人である。
その人が厳しくても、自分の人生のためになる人なら、それは切らない方がいい。
一方で、一見優しいようで、自分を堕落させたり、自信をなくさせたりする相手は、切った方がよい。

また何が「人生のためになる」かは、その人の基準次第である。
ぶつからないことを望む人なら、少し我慢してうまく渡っていけばいい。
嫌われてもいいという覚悟ある人なら、切るところを切っていけばいい。

職場の仲間ならば、一緒に働いている期間中は、好き嫌いは関係ない。
ビジネスなのだから、目的を完遂するために協力することが必須である。
ただ「職場が離れてからもまた会おうという人になるかな」と考えると、付き合い方は一辺倒ではない。
自分にとって魅力的な人なら、その後何十年でも会うし、そうでない人なら二度と会おうと思わない。(相手にとっての自分もそうである。)
今だけの人間関係と捉えるならば、適当なラインで切ればよい。
無理に気をつかいすぎたり媚びたりする必要はないし、無駄にぶつかる必要もない。

八方美人も四面楚歌も、どちらも疲れる。
職場のストレスの原因第一位は、ぶっちぎりで人間関係である。
↓参考「社会人のストレス原因」(enジャパンH.P. 厚生労働省調べ)
http://partners.en-japan.com/special/old/110601/2/
教師が仕事で疲れている原因の多くは、実は授業の準備や大変なあの子のせいではない。
八方美人または四面楚歌を作り出している自分自身の生き方が原因かもしれない。

2017年9月18日月曜日

敬老の日は、あっていい日

祝日ということで、特別に連日投稿。

敬老の日である。
その意義は言わずもがな。

しかし、この敬老の日に対しても、様々な意見がある。
平たく言うと
「本来、いつでも敬するべきであり、この日だけ敬って祝ってはい終わりというのはけしからん」
というものである。

なるほど、一理ある。
確かにその通りである。
しかし、私はやはり意義があると思っている。

当たり前のものというのは、気付く機会がないと有難みがわからないのである。
空気の有難みに気付くのは、汚れた空気の中で暮らす時や、水中に潜っている時ぐらいである。
例えば毎日食事を作ってくれる相手への有難みは、意外と気付けない。
日常すぎて、感謝する機会がないからである。
病気をして倒れると気付く。
つまり、有難みに気付くための一つには、不足の状況がある。

もう一つは、言われて気付くというもの。
不足する前に、失う前に気付いた方がいい。
「いつまでもあると思うな親と金」という言葉があるが、全くその通りである。
子どもが可愛い時期だってそうである。
あっという間に巣立っていく。

私は今年祖母を亡くし、自分の祖父母というものが完全にこの世からいなくなってしまった。
もっと会っておけば良かった、というのは、後の祭りである。

もし今日、「いつもありがとう」が言える相手がいるなら、それは幸せなことである。
自分の祖父母でなくても、近所の方でもいい。
何なら、心の中で思うだけでもいいと思う。
これらの理由から「敬老の日に、意義はある」と思う次第である。

2017年9月17日日曜日

「気になる子」は、やっぱり神様

ある学校でインクルーシブ教育をテーマに話をさせていただいた。
教育委員会よりインクルーシブ教育の研究指定を受けているとのことである。
もう、職員室の前を通るだけで、職場の雰囲気がいいのがわかる学校である。

「気になる子を伸ばす指導」という演題であった。
私の講座内容の中心となる考えは「気になる子こそ、神様」である。
ちなみに、この本の中で私の書いた章と同じタイトルである。
https://www.amazon.co.jp/dp/4181856119

現に、私が色々な場でお話ができるのは、歴代の子どもたちのお陰である。
その中でも、「気になる子」が教えてくれたことは数知れない。
(その学びを支えてくれたのは、その周囲のもっと数多くの子どもたちである。感謝しきれない。)
今回もチャンスもいただけた。
「気になる子」は、やっぱり神様だったというのが実感である。

私は、経験知で話す。
散々悪戦苦闘させてもらったお陰で「気になる子」の話はネタが尽きない。
(そんな配置をしてくれた歴代の校長先生方にも感謝である。)
元ネタがバリエーション豊富にたくさんあるから、アイデアもいくらでも生まれる。

創造性とは、表現そのものである。
創造性とは、勉強するものではなく、実践するものである。
だから、たくさん辛い思いをして苦しみ泣いた経験のある人の方が、この面は強い。
最低限の知識を勉強したら、創造性を発揮するべくあとは実践あるのみである。

一方で、この「最低限の知識」の大切さも強調したい。
知識があると、見え方が変わる。
「観」が変わるということである。
捉え方が変わるということである。
例えば、電車内で突然意味不明の言葉を叫ぶ人がいたとする。
普通にみれば「変な奴がいる」「怖い」となる。
何かしらの知識がある人なら「ああ、今フラッシュバックしたのかな」「何か思い出したのだろうな」と思う。
教室にいる「気になる子」も、知識がないと「ただのわがまま」「手のかかる子」で片付けられてしまう。

今回の講座では、前半に理論と私の実践例を紹介し、後半にワークをしてもらった。
前半の知識をもとに、後半やってみるという流れで、私はこの形をよくとる。
講座が終わった後に「(夏休みだから)明日子どもがいないのが残念でならない。」
という感想を述べていただいた。
「学ぶ」ということに真剣に向き合っているからこそ出るコメントである。
「学即実践」である。

講師をさせていただいたお陰で、誰より私自身が学べた。
今回学んだことを早く実践したくてたまらない気持ちになった。

2017年9月15日金曜日

一斉指導は時代遅れ?

最近、原稿でも講演でも、インクルーシブ教育に関わる依頼が多い。
現代のニーズがそこにあることが読み取れる。
多様な子どもにどう関わるか。
体育でも「共生」の大切さが強調されており、パラリンピックへの啓蒙意識も強い。

さて、「インクルーシブ教育」も「共生」も理想はいいのだが、現実はなかなか厳しい。
学力の面でいうと、学習指導要領には最低基準が示されており、そこへの全員到達が望まれる。
そうなると、かなり進んだ子どもへも、到底届かなそうな状態の子どもへも、その中間含めすべてへの対応を望まれる。
一人一人に完全個別指導することができれば可能だが、現実的ではない。
結局、一斉指導をどうするかという原点に行き着く。

昨今、一斉指導を否定する言がちらほら聞かれるが、これを鵜呑みにすると危ない。
そもそも授業とは、一斉指導である。
複数の相手に一人の教員が指導するのだから、一斉指導以外にない。
(制度自体が変われば話は別である。)
インクルーシブ教育における個別指導だって、個別の合理的配慮はしても、一斉指導の中での話である。
有識者が言っているのも、一斉指導の単なる否定ではなく、その真意は黙って座って聞かせる授業に限界があるということである。
(ちなみに、有識者側もそれを教えるために黙って座って聞かせていることが多い。)

怖いのは、横文字教育用語や「一斉指導否定」などを、前衛的だと思って、若者が感化されすぎることである。
一斉指導が当たり前にできない教師では話にならない。
インクルーシブ教育どうこうの前に、特に問題なく学習できる子どもたちを荒らさないことである。
そういう諸々ができた上で、理想の話に近付く、というのがステップである。

今の時代は、ここが厳しい。
いきなり難しい状況に放り込まれて、さあ努力と工夫でがんばれ、という感じがある。
まずは、マニュアル的ノウハウが必要である。
マニュアル否定は、マニュアルを越えた時にすればよい。
最初からゼロベースのオリジナルのやり方では、非効率すぎる。
大学の実習時代に最低限教えておきたいところである。

まずは、一斉指導。
ここの大切さを、今一度強調したい。

2017年9月13日水曜日

音読を考える

木更津技法研での野口芳宏先生からの学び。
音読をどう評価するか、というのはなかなか難しい。

音読は、あくまで現象。
そして音読は一つの技法、技能である。
読解力と関連づけたいところだが、実際は音読の現象からその力を評価するのは難しい。
内容がよくわかっていなくても、上手い子どもはいる。
内容がよくわかっていても、読むのはあまり上手くない子どももいる。
それが現実である。

では、授業における音読の意味、形成学力は何なのか、と全体へ尋ねてみた。
一番は、間違いの発見だろうということで、意見が一致した。
わかっているつもりが、声に出して読むことで、初めてわかっていないことに気付く。
不備・不足・不十分に気付けるのである。
あとは、量。
やはり、何はともあれ、量を積むことは大切である。

ここに関連して「素読」の大切さについても述べられた。
教科書のない時代などは、写すことと素読だけで学習が成立していた。
それぐらい、時代を越えて根源的に大切な学習である。
声に出して読むことで、身体に染みこませることにも意味がある。
齋藤孝氏の「声に出して読みたい日本語」が大ヒットしたのも、そういう原点回帰といえる。

また、一方で高学年における「黙読」の大切さについても述べられた。
低学年の教材などは、短いのでそれほどの負担感もなく何度も読める。
しかし、高学年は、長い教材文も多い。
やはり、量が不足しているという。
「黙読」も大切にしてもっともっと読ませたい。

結局、読む力というのは、一朝一夕、うまい方法で身につくものではないらしい。
現代は何でも効率化が重視されるが、一見非効率な量の積み重ねは、何にもまして学習の基本である。

2017年9月11日月曜日

学習指導要領は「たたき台」

今年の3月に学習指導要領が公示されてから、教育界の動きは大きく変わった。
そもそも、学習指導要領とは何なのか。
文部科学省のH.P.には次のように解説されている。
============
(引用開始)
学習指導要領とは何か?

 全国のどの地域で教育を受けても、一定の水準の教育を受けられるようにするため、文部科学省では、学校教育法等に基づき、各学校で教育課程(カリキュラム)を編成する際の基準を定めています。これを「学習指導要領」といいます。

「学習指導要領」では、小学校、中学校、高等学校等ごとに、それぞれの教科等の目標や大まかな教育内容を定めています。また、これとは別に、学校教育法施行規則で、例えば小・中学校の教科等の年間の標準授業時数等が定められています。
 各学校では、この「学習指導要領」や年間の標準授業時数等を踏まえ、地域や学校の実態に応じて、教育課程(カリキュラム)を編成しています。
(引用終了)
===========

国として、一定の教育水準を保つためのものである。
つまり、あくまで土台、たたき台である。
だから「地域や学校の実態に応じて、教育課程を編成」とある。

つまり、あくまで基準であり、すべてこの通りにやれというものではない。
マニュアルはあくまでマニュアルであり、応用されるべきものである。
たとえ何かのバイトであっても、マニュアル通り一辺倒の対応にはならないはずである。

時にマニュアルから大きく外れても良いが、目的を見失ってはいけない。
例えば一般企業であれば「顧客満足」と「長期的利益」の双方は落とせない。
学校であれば、子どもの「学校が楽しいこと」と「長期的な成長」である。
それを最低限保証するためのものである。

学習指導要領にこう書いてあるからそうするという思考は、危険である。
それは「先生がこう言ったから」と言うことを鵜呑みにして聞く子どもと同じ。
ロボットみたいな人間に教えられたら、ロボットみたいな子どもに育つのは必然である。
そんな姿勢で「主体的・対話的で深い学びを」などとは、口が裂けても言えない。
アクティブ・ラーニングの視点は、むしろ、教える側の心構えである。

「偉い人」がそういうからするのか。
それも同じこと。
自分の頭で考えていないことこの上ない。
先頭に立っている人間がもし間違えていたら、全員アウトである。
(無責任で依存的な人ほど、その人が失敗した時に手の平を返したように文句を言う傾向があるのも見逃せないポイントである。)

結局、最終的に頼れるのは自分自身だけである。
失敗しても成功しても、自分が決めたことなら納得がいく。
「文科省がこう言ったから」と過去の施策を批判するのは誰でもできる。
「学校がこうだから」「校長が、教頭が」「学年が」「子どもが」。
誰かのせいにさえすれば、言い訳は無限にできる。

自分の責任においてなら、一切の言い訳はきかない。
「自分がこう決めたから、こうした。」
といえば、自分で自分の人生を背負える。

学習指導要領は、あくまで土台、たたき台。
それをどう実践して形にするかは、すべて自分の創意工夫。

すべては私の責任。
そう言い切れるように、自分の実践をしていきたい。

2017年9月10日日曜日

議論より対話

今日は教育のネタというより、雑感、エッセイ。

最近、記事を書く度に、色々な場で反応が得られるようになってきた。
本メルマガの記事でも「まぐまぐニュース」に取り上げられると、他のサイトで転載される。
私に全く興味のない人の目に触れ、様々な意見がコメントされる訳である。

特にプレジデントオンラインの記事は、ヤフーニュースに転載されやすいので、コメント数が多い。
肯定的なものから否定的なものまで、あらゆる意見が出る。
作者は完全にそっちのけで、議論が盛り上がっている。
話題の提供ができたという点で、そこは意味があると捉えている。

ちなみに、それらの議論に対し、作者は首を突っ込まないに限る。
子どものことで夫婦げんかしている状況とほぼ同じである。
下手に介入すると
「あんたは関係ないから引っ込んでなさい!」
となって、その内
「大体あんたがね・・・!」
と巻き込まれること必至である。

私は、争い事全般が嫌いである。
スポーツやゲームなどの、ルールに基づいた正々堂々とした勝負ならばいい。
勝ったら嬉しいし負けたら悔しいが、それも爽やかである。
それは、正義や主張を通すための無益な争い事とは区別する。

争い事や喧嘩は、ルールがない上に、双方が無駄に傷つくから嫌なのである。
生産性がないともいえる。
不条理に傷つけられて黙っているほど、皆お人好しではない。
腹の底に溜まった怒りは、数倍、数十倍に膨れあがる。
非生産的というより、むしろ反生産的である。
人を馬鹿にしたり傷つけたりしたら、それが必ず自分に返ってくる。
その個人の権益争いが最悪に発展した形が、国家間の戦争である。
人に喧嘩を売る時は、それぐらい考えるべきである。

対話する力が求めらているが、それが議論で主張する力と混同されている感が否めない。
本来求められていることの中心は「人の話を聞く力」である。
共感しながら話す力である。
「自分の主張をしゃべりまくって相手を説き伏せる力」ではない。
それはアメリカの大統領選挙で勝つような力であり、一部には必要だが、そういう子どもを多く育てたい訳ではないだろう。
ある議論に勝った時、人生レベルで見た時に、多くは「実質的に負け」なのである。

どうせなら議論ではなく、対話をしよう。
私は、色々な意見があって然るべきという立場である。
教育実践一つとっても、様々な主張があっていい。
どれかが絶対的に正しいということは、ないと考える。
(絶対は絶対にないという矛盾を主張している点が悩ましくはある。)

これからも、様々な立場の方と対話するために、堂々と自分の意見を発信していきたい。

2017年9月8日金曜日

子どもの「量」を阻むもの

前号の「質か量か」の話の続き。
質と同様、量は大切ということについて、自分の大失敗談を交えてお伝えする。

うまくいくまでの、試行錯誤。
子どもがそれをやり続けられる鍵は何か。
一つに、親や教師は、それを見守る余裕があるかどうかである。
余計な手出し口出しはせずに、励まし見守ってあげられるかどうかである。

この「余計な手出し口だし」が、厄介である。
親や教師の側は、自分ができたり、「正解」の理論がわかったりしているだけに、やきもきする。
「何でこんなことができないの?」と、疑問と同時にその不甲斐なさに苛立ってきてしまう。
この態度こそが、子どもが自由に試行錯誤しながら挑戦する最大の障壁になる。

わかっていても、やってしまうものである。
私は以前に担任していた子どもへの体育の指導で、深く深く反省し、後悔していることがある。
その当時、器械運動が苦手な子どもに、できるようにさせてあげたいという純粋な願いで、様々な方法を試した。
しかし、思うような成果が一向に上がらない。
その時、ぽそっと
「これもダメか・・・」
とつぶやいてしまったのである。
それが、子どもに聞こえてしまったのである。

これは、大失敗の極み。
苦手なことも前向きに努力し、我慢するその子どもは、直接私には言わなかった。
後日、面談の際に、親御さんに言われて知ったのである。
言った本人は全く気付いていないが、言われた方は深く傷ついている。
最悪である。
救われる唯一の点は、親御さんが私に伝えてくれたことである。
これは決して「クレーム」ではない。
適切な言葉を選ぶとすれば、「願い」である。
我が子の気持ちをわかって欲しいという願い。
担任の教師によりよく変わって欲しいという願いである。
伝えることで、角が立つかもしれないことを、言ってくれたのである。
深く反省し、謝罪し、改善して感謝するしかない。

何が言いたいかというと、教える側の強すぎる願いは、時に子どもの「量」を阻むということである。
うまくいくはずという思い込みが、最大の障壁になるということである。
親や教師の心ない一言が、子どものやる気を大きく挫くということである。

指導の知識をもった上で、手出し口出しは最小限に。
しかし、最後は子どもの可能性を信じる思いを腹の底にもつこと。

結局、子どもに量を積ませる指導の肝は、教師のエゴを捨て去った上での我慢強さと、思いやりがすべてである。

2017年9月6日水曜日

質か量か

前号の続き。
技能不足をルールに逃げてはいけないという話に関連して。
先日、船橋でのサークル「スイッチオン」で話した内容である。

実際、成果が上がらない時、「やり方」に原因があることは多い。
漢字練習しかり。
水泳指導しかり。
やり方は大切である。

一方で、やり方以前に、量に問題があることも多い。
正しいやり方を知っていればすぐに成果が上がるはずという思い込みである。
とんとんと上手くやれてきた人が壁に当たると弱いというのは、この点にもある。
やり方さえ上手ければすぐにできるというものもあるが、そうでないものもある。

わかりやすい例で言うと、水泳である。
「畳の上の水練」という諺がある通り、どんなに理論がわかっていても、実際泳がないことには始まらない。
理論の上でどうすれば泳げるか完璧にわかっていても、そのままプールに入っていきなり泳げるはずがない。
時に水を飲んだり鼻に水が入って痛い思いもしながら、段々に上手くなる。

そのためには、量である。
正しいやり方を知った上で、やはりまずは量。
たとえ非論理的な方法であっても、量は何かを残す。
どんなに質の高い方法であっても、量がなければ机上の空論にすぎない。
十分な経験や量があればこそ、理論も生きるというものである。

そして量をこなすには、数え切れない失敗体験が必要である。
うまくいかないからやらない。
その考え方では、量を積めないからうまくいかないという悪循環である。

とにかく、量を積ませる。
これができると、少なくとも子どもに力は確実につく。
ただやらせ方によっては嫌いになって長期的にみて逆効果になるので、そこが難しいところである。
(小中学校の大会でとんでもない新記録を出して、その後二度とその競技をやらないというパターンは結構多い。)

逆に言えば、進んで量を積もうとさえ思わせるようならば、それは指導として成立しているといえる。

量か質か。
この問いの答えは、二者択一ではない。
質と量は、車の両輪である。
どちらもないと成り立たない。
今回、様々な指導を通して、痛感した学びである。

2017年9月4日月曜日

技能は「次」を見通して確実に指導する

公開研究会での気付き。

公開研究会で行ったネット型ゲームで、技能が問題の一つになった。
ゲームを通して技能を徐々に身に付けさせればよい、という考えで行った。
実際は、技能が身につかないまま、ルール変更で対応してしまったのである。
具体的にいうと、バレーボールでいうレシーブの動きにいかず、終始キャッチにはしった。
「キャッチばかりでは面白くないからはじくようにしよう」という方向にもっていきたかったが、いかなかった訳である。

代わりに、落とさないでつなぐにはどうするかということにばかり目がいってしまった。
「ボールを落とさない」ということを、自分たちのメリットとしか捉えなかった訳である。
自分たちがボールを落としにくいルールということは、相手にとっても落としにくく、得点しにくいということに気付かなかった。

つまり、できあがっているスポーツにとってのルールや技能というのは、相当に妥当性があるということである。
やたらにいじると、問題が起きる。
簡易化されたゲームを楽しめればよい、という視点に立脚していたが、やはり問題があることに気付いた。
協議会でも出たが、次の活動への見通しやつながりが大切なのである。
それが、生涯スポーツにつながるのである。

仮説が打ち砕かれるのも、チャレンジした結果であり、成果である。
安全地帯に安住していては、この発見はない。
この成果を次に生かしたい。
協議会や批評箋で意見をくださった方々に深く御礼申し上げたい。

2017年9月2日土曜日

捨てれば、得られる

先週、新刊が出た。

『「あれもこれもできない!」から…「捨てる」仕事術』
https://www.amazon.co.jp/dp/4181713350
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5

タイトルからして、そのまま仕事術の本である。
よく「いつ書いてるの?」と聞かれるが、その答えもここにある。
自分が一番好きな時間に書いている。

とにかく今の時代、新しく求められることが多すぎる。
しかも、求める方は増やす一方で減らす発想がない。
何も捨てずに全てまともに受けていれば、当然パンクする。

クローゼットと同じである。
古い洋服やいらなくなった服まで大事にとっておく必要はない。
新しい服を着たいなら、古くて使わない服をさっさと捨てることである。
その際、最も強敵なのが「これ、高かったのよね」という服と、「思い出」のある服。
要は、時間と労力を費やしてきたことと、義理関係である。
気に入っていないけど、理由があって捨てられないというものもある。

必要な理由も、不要な理由も、いくらでも述べられる。
様々ある中で、最も大切な資源は何か。
それは「時間」。
これに尽きる。
時間とは、命そのもの。
もし時間が無限に与えられたなら、無限にすべてをこなすことができる。
クラスのあの子がどんなに勉強が遅れても、準備が気の遠くなるほど遅くても、ひたすら待てる。
しかし、現実に時間は有限。
お母さんの口癖ナンバーワンは「早くしなさい!」というのも、なるほど納得。
幼稚園バスも小学校の始業も電車の発車時刻も、一人一人への合理的配慮をもって待ってはくれないのである。

だから、我が人生において本当に大切なもの以外は、捨てる必要があるというのが本論である。
捨てることは手段。
目的は、得ること。
何を。
教師人生における、一人の人間としての人生における、本当に欲しいものをである。

吐けば、吸える。
水泳指導の基本である。
吸うために、しっかり吐くこと。
得るために、しっかり捨てること。

このロジックが何となくわかったという方は、何となく買ってみてはいかがというのが、最重要で伝えたいことである。

2017年8月30日水曜日

自分の一部を提供する

ここ最近「平和」について書いてきた。
そこに関連して、宮沢賢治の次の言葉を残している。
「世界全体が幸福にならないうちは 個人の幸福はあり得ない」
個人の真の幸福を考えるなら、世界全体の幸福を考えないと成り立たないということである。
「世界」の解釈をどこまで広げるかで、誰にでも当てはまる法則となる。

学級経営をする際も、この考え方は基本である。
身近な誰かの抱える苦しみに共感できない以上、真に幸せなクラスにはなり得ない。
一人でも陰湿ないじめで苦しんでいる状態だと、学級の何もかもがうまくいかないのは周知の事実である。
一人を救うことが、結局全体を救うことにつながるというのが、学級経営の真理の一つである。

それは、周りのために、自分の財産や、命である時間の一部を提供することになる。
理不尽な要求や、労力を被ることへ「忍耐」する必要も出る。
「自分自身の幸せ」を全く度外視してまで実行するというのは、無理が生じる。
だから以前に紹介した「できる時に、できる人が、できることをする。」
という福島のボランティアセンターの精神は、現実的である。

今、世界情勢は逆の方向に動いている。
私利私欲のために、他の人々の幸福を犠牲にしようという動きである。
宮沢賢治の理想とする世界全体の幸福は、どんどん遠ざかるばかりである。

2017年8月26日土曜日

「こだわり」を捨てる

新刊『捨てる!仕事術』の紹介。
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5
https://www.amazon.co.jp/dp/4181713350

本日より店頭に並ぶ予定である。
この本のテーマは見ての通り「捨てる」こと。

何のために捨てるのか?
大切なことをするためである。

何を捨てるのか?
不要なものにつながる習慣、思い込み、こだわりである。

「こだわり」は「拘り」と漢字で書かれることが少ない。
現代では肯定的な意味で使われることが多くなり、それも誤用ではなくなった。
しかし、漢字で書くと、本来の意味がわかりやすい。

「拘泥」という熟語もあるように、どうでもいいことにやたらに時間をかけることである。
時間が有限という前提に立つ場合、不要な「こだわり」は捨てる必要がある。

例えば、通知表へのこだわりについて書いた項目がある。
以下、本文から一部を引用する。
=============
(引用開始)
結論から言うと、通知表作成、特に所見欄にやたらな時間をかけてはいけません。
指導案と同じで、何のために書くか、読み手のニーズは何かが大切です。

小学校の場合ですが、通知表の主な目的は、保護者に学習状況を把握してもらって今後について考えてもらうことと、
子どものモチベーションアップです。
例え「ここができていない」を伝えるとしても、そこから上げるために伝えます。
相手に「最後通告」をするためのものでありません。
そこで、「読み手がどこを見るか」が大切なのですが、ダントツの一番は「評定」欄です。
(中略)
しかし、成績処理に時間をかけすぎる人の中には、この力の入れどころを間違えている人もいます。
生活や学習について記述する「所見」欄に命をかけてしまうのです。
もっというと、評定しない「外国語」や「総合的な学習の時間」の記述に命をかけます。
そこは、やったことの事実が素直に書いてあればそれでいいのです。
そこに関して熱く伝えたいことがあるなら、通知表以外の場で十分です。
(引用終了)
============

通知表作成は、教師の仕事の中で「大変」と言われるものの一つである。
がんばった分だけ子どもに返るかというと、そうでもない。
これにもやはり、コツがある。
ひたすら自分の経験則でいくより、コツを習った方が成長が早い。

そのコツを、どう見極めて、どうやってやるかである。
その具体的な方法や考え方が書いてある。
ぜひ一度、書店で手にとってみて欲しい。
教師だけでなく、多くの人の働き方や生き方を見直すための一助になるのではないかと思う。

2017年8月24日木曜日

戦争と罪のない子どもたち

先週は北朝鮮がグアム沖にミサイルを撃つと宣言し、世界中が戦々恐々とした。
騒がれたXデーは保留となったが、全く安心できない。
それにしても、この日に、しかも広島の上空を通過させるとの宣言。
挑発的とか無礼とか非常識とかのレベルではない。
国際紛争において、正義や善悪、良心の類は全く通らないらしい。

そんな「暴君」でも、日本の隣国である。
ニュースを見ながら息子に「北朝鮮とだって、本当は仲良くできた方がいいんだよ」と話した。
「何で?」と聞かれた。
この「暴君」に対し、当然の疑問である。

そもそも、ミサイルを撃つぞと脅している「北朝鮮」とは誰なのか。
北朝鮮の国民の総意か。
そんな訳はない。
報道を見る限りだと、北朝鮮の国民は戦争賛美の「危ない人達」に見える。
しかし、以前お伝えした通り、「情報」とは「情の入った報せ」である。
(ブログ教師の寺子屋「風評被害と情報」
参照URL http://hide-m-hyde.blogspot.jp/2011/05/blog-post_03.html
報道が、真実の姿を映し出しているとはいえない。

北朝鮮にだって、子どもたちや、我が子を愛する母親たちがいるのである。
そこにいるのは、我々と全く同じ人間である。
戦争をしたいなんて思う訳がない。
核爆弾を落として大量の人を殺したいなんて思う訳がない。
我が子と同じような幼い子どもたちが死ぬことを望むはずがない。
ただ、それを態度や口に出して言ってはいけない国策のもとに暮らしているだけである。
その辛さは、戦時に負け続けて強烈に統制されていた当時の日本国民と、きっと同じではないか。
与謝野晶子のように「戦争反対」と堂々と叫びたい考えの人たちが、たくさんいるはずである。

日本も北朝鮮もアメリカも、多くの国民の願いは「幸せ」である。
これ以外ない。
それは、世界中のどの子どもたちとも同じ願いである。

だから、我が子にも「〇〇人は〇〇」という偏った考えはもって欲しくない。
どの国の人だって、あくまで同じ願いをもった一人の人間なのである。
様々な国の人と協力して働くのが当たり前のこれからの時代、誰に対しても、同じ一人の人間として見るようになって欲しい。

私にも、海外の国々に関わる友人や知人、教え子たちがいる。
実際にどの国に行った時だって、それぞれ親切にしてくれた人がたくさんいた。
それを考える時、とてもではないが、その国の悪口を言ったり争ったりする気にはなれない。
一人一人を見れば、間違いなく同じ幸せを願う人間同士である。

その戦争は、本当は誰が望んでいるのか。
国の施策と、国民の真の願いは分けて考える必要がある。
いつでも、搾取されるのは国民。
とりわけ弱い立場の人間、すべての子どもたちである。

どんな理由であれ、戦争で人を殺したり、それをネタに憎んだり脅したりしていいことにはならない。
その国にも、罪のない子どもがいる。
過去や現在に負の歴史がある国の子どもでも、その子ども自身に罪はない。
子どもに歴史や国際理解を教える時には、そのことを忘れないよう伝えたい。

2017年8月22日火曜日

採用試験の重要性

つい先日、千葉県の教員採用試験の二次選考があった。
この採用試験というのは、学校現場にとって非常に重要な意味をもつ。

以前も書いた気がするが、記事を探しても見当たらないので再度書く。
ずっと前に「東京教師塾」で、塾頭の原田隆史先生に次のような話を伺った。
(記憶を辿っているので、あやふやな面もあるがご容赦いただきたい。)

どの県のどの学校でも、多忙の原因の上位に「人が足りない」という声が上がる。
そこで、ある県では対策として費用を投じ、教員を大量に採用して少人数学級を実現したそうである。
これで担任の数も増え、教員の多忙化にも歯止めがかかるはず。

実際には、何が起きたか。
以前よりも学級崩壊が多発し、多忙化に余計に拍車がかかったという。
(予防に対し治療は10倍以上の労力を要する。)

原因の一つに、大量採用によって急に門戸が開きすぎたことが考えられるという。
要は、今までなら採用しなかった人材をも、数が足りないのでとにかく採用することになる。
そうすれば、本来なら教師の仕事への志がそんなに高くない人や、現段階では採用に適さない人材も含まれることになる。
(人材としては適しているのに試験に弱いという人も中にはいると思うので、その面ではプラスのチャンスでもある。)
経験のない新規採用者が多いということも考えられるが、新規採用者の質も問われる形となった。

要は学級担任を考える場合、量も必要だが、やはり質なのである。
試験内容を吟味し、適した人材を厳選することが大切なのである。
(ただ現実問題、そう悠長なことも言ってられない現状はある。)

この場合の必要な「質」とは、格段晴らしい実践をする人のことではない。
教育実習生の段階から言えることだが、情熱があって一生懸命で、何とかかんとかやってくれそうな人物である。
そこさえ落とさなければ、現場としての最低基準は満たされる。

そう考えると、採用担当者というのは、非常に大切である。
膨大な数の人を相手しているのだから、選別の目も鋭い。
面接を受ける際は、誤魔化さず、どうせ見抜かれていると腹を括ることである。
(だからこそ、服装のような全員が当たり前のところで無駄に印象を落とさないことが大切である。)

採用された後は採用試験とは無縁のようだが、実は大いに関係がある。
我々の未来の仲間を採用するにあたり、果たしてどんな選別がなされているのか。
採用試験に関心をもつことには意味があると思う。

2017年8月18日金曜日

「LOVEさえなければ、PEACE」を考える

メルマガで長崎原爆忌の翌日に書き、まぐまぐニュースで取り上げられた記事。
http://www.mag2.com/p/news/260236

戦時中を思えば、今は空襲や飢餓を恐れないで生きられる分、平和である。
原爆忌は、慰霊とともに、今自分がこうして生きていること自体に感謝する機会になる。

ただ一見「平和」とはいえ、現代も静かな戦争が繰り広げられている。
国家間で武力を用いて権益争いをしている状態を「戦争」という。
先日記事にした「核兵器禁止条約」の参加国間の温度差などは、それを象徴する出来事である。

戦争の難しいところは、突き詰めると個人の「愛」に端を発する点である。
以前にも紹介したタモリさんの言葉だが
「LOVEさえなければ、PEACE」。
何かを愛する、守るという感情がなければ、争いは起きず、自然「平和」の状態になる。
愛し守る対象さえなければ、何を奪われても何の感情も湧かないのだから、当然である。

先の戦争への解釈としても、個人単位で考えれば、それぞれ自分の大切な何かを守るために、両国の人間は動いた。
例えば特攻は、自分の命を優先順位の二番手以降にしないと成り立たない。
その時の優先順位の一番目は、自分の命を越える何か、守る対象である。

しかし、「愛」によれば相手の命を奪っていいかという問題は全く別である。
「愛」と「平和」によって爆撃をしたのだ、と言われても、命を奪われた側が納得いくはずがない。
愛する者を守るためだ
戦争を終わらせるためだ
単なる実験だった
どの理由だろうが、愛する者を無情にも奪われたという本質から見れば同じことである。
「致し方なかった」理由を並べて正当化を試みても、やはりその個人の恨みは消えない。
結局、戦争は両者の(特に個人である一般市民の)恨みしか残さない。
一般生活レベルで言うと、何をどう言おうが、他人のものを奪ったりいじめたりしていい理由にはならないのと同じである。

戦争と平和について考えることは、学校教育で何を教えるかを考える上でも、大いに関係がある。
世界共通の教育テーマである。

2017年8月16日水曜日

戦争に「justice」はあっても「正義」はない

終戦記念日に関連して、最近、読んだ本から考えたこと。
次の本を読んだ。

『しない生活』幻冬舎新書 小池龍之介 著
http://www.gentosha.co.jp/book/b7753.html

自分の次の新著(https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5)のテーマが「捨てる」なので、こういったテーマの本には関心がある。
この本の中で、次の文が心のフックにひっかかった。
==============
(引用開始)
つまり、ものごとは、公平に、釣り合いが取れてなきゃ気が済まない、という強迫観念がつきまとっているのです。
この強迫観念につけられた名前こそまさに「正義(justice)感」という煩悩に他なりません。
(引用終了)
==============

人間というものは、「不公平」や「不平等」が気持ち悪くて仕方無いということである。
しかし、実際の世の中は不平等だし不公平だというのが現実である。
個人レベルでの不平等も、世界レベルで大きく見てバランスがとれている状態といえる。
私の尊敬する野口芳宏先生も
「安心・安定・秩序・格差。」と仰っている。
安易な平等主義は、むしろ危険であるという。
(こういうことを言うと「平等主義」という「常識」に叩かれるから普通言わないのだが、それを言い切るのがすごい。)

「justice」の語幹「just」は天秤の釣り合いを示す。
前にも紹介したことがあるが、タロットカードのNo.11「justice」の絵柄は、天秤と剣を持った「裁判の女神」の姿である。
裁判とは、物事を測る天秤が「正義」の水平を示すようバランスをとる行為に他ならない。
つまり、罪の深い者に「正義の剣」で罰を与え、他方に利益をもたらすことで、両者のバランスをとろうとするものである。
難しいのは、その「正義の剣」を誰がふるうかという点である。
歴史上では、「正義の剣」を持つものは、常に強者、勝者である。

日本は、降伏宣言を1945年8月15日にした。
しかし、当時の敗戦国に「正義」の権利はない。
ロシアが「そんなの知らない」といえば、ロシアの「正義」が通る。
北方領土問題の解決の難しさは、「正義」の所在の違いである。

今、「正義の剣」は、どの国が握っているのか。
言わずもがな、アメリカ合衆国に他ならない。
世界中のどの国も、アメリカを無視しての国政は有り得ない。
日本にとっても、アメリカの「核の傘」の恩恵は無視できないし、下手に沖縄から米軍を撤退させられない。
自衛隊の米軍への後方支援としての「人道支援」とは何なのかという、安保問題の難しさもある。
結局、日本はアメリカの「正義の剣」によって、「平和」のバランスをとっているのが実情である。

つまり「平和に向けた正義の戦い」というのは、世界レベルの視点からいうと、有り得ない。
ある特定の国の視点でしかない。

そもそも英語の「justice」と日本語の正義という言葉はイコールではない。
日本語の「正義」には「人間行為の正しさ」という意味がある。
戦争に「justice」はあっても「正義」はない。
文化の違いである。

終戦記念日は、日本という国の在り方について考える機会にしたい。

2017年8月14日月曜日

お茶でもすすめればいいっちゃが

6月29日に他界した祖母の話。

私の祖母は、生涯笑顔とユーモアの人だった。
そして、自分にできることをして生きることを何よりも大切にしていた。

20年ほど前に祖父がなくなった後にも、しばらく山の中で一人で暮らしていた。
運動不足を防ぐべく、NHKで放映されている朝のラジオ体操をテレビのお姉さんと一緒にやっていた。
「毎朝やるっちゃが。これがいいとよ。」と笑顔で言っていた。

足腰を悪くしてから、動き回れなくなった後は、とにかくよく手を動かしていた。
私の「やる気スイッチ押してみよう!」が枕元にあり、それを読んで、視写をしていた時期もあった。
頭の体操になるそうである。

人が尋ねてきては、必ず笑わせて帰す。
サービス精神が旺盛なのである。

山奥で一人で暮らす祖母を心配して、
「強盗とか悪い奴が来たらどうするとか。」
と尋ねると、
「お茶でもすすめればいいっちゃが。」
と答えたという。
本当にやるかどうかは別として、祖母らしい切り返しである。

人生ではあらゆる「非常事態」が起きるが、どう対応するかで全て決まる。
あらゆる出来事をユーモアで見る人にとっては、困った出来事を「そう来たか」と面白がる。
すべてに感謝する人もいるし、天に唾する人もいる。

生き方を考えさせてくれた祖母に、改めて感謝したい。

2017年8月12日土曜日

図と地の反転

私は大学時代に教育心理学を専攻していたこともあり、心理学が好きである。
その中の「ゲシュタルト心理学」に「図と地」という知覚に関する面白い考え方がある。
簡単に言うと、図とは、対象物そのものとして知覚されるもの。
地とは、「下地」という言葉にあるように、いわゆる背景のようなもので、知覚されない部分である。

よく知られている例でいうと、白黒の「くびれた壺」の絵である。
黒地の真ん中に白い壺の絵が見える。
しかし見方を変えてみると、「向かい合っている人の顔」に見えるという、あれである。
他にも、例えば次のような絵である。
http://livedoor.blogimg.jp/humon007/imgs/e/8/e8064f53.png
見えただろうか。
この画像の正解は、まさに意識しないと見えないものの一つである。
図と地を反転させると、見えるものが一変するということである。

通常、人間は面積が大きい部分を「地」、小さい部分を「図」と捉えやすい。
つまり、小さい部分の方に着目してしまうという、厄介な心理が人間にはある。
真っ白な布に小さな染みが一点あると、そちらが気になって仕方がないのと同じである。
小さいこと、細かいこと、些細なことに囚われやすいということである。
親が子どもを叱りたくなるのも、この心理である。
我が子が元気であることの有り難さなど、病気になるまで完全に吹っ飛んでしまう。

学級でも、この心理の罠に陥りやすい。
目の前の子どもたちの、些細な「望ましくない点」を「図」としてとらえ、目がいってしまうのである。
もっと大きな面積を占める「地」の方に目をやると、見え方が変わる。
そもそも、今日も元気に学校に来ているということ自体、かなり大きなことである。
あんなつまらない授業をしたのに、あんなひどい叱り方をしたのに、今日も来ているあの子。
にこにこして「先生」と呼ばれること。
この「地」の部分を見ると、畏れるべきことである。
こういう「当たり前」をただの「地」としてみるか、非常に大きな「図」として見るかである。

地と図。
人間は些細なことに着目しやすい。
大きな大事なことを見落としやすい。
家族や職場などの人間関係。
もっと身近だと、自分自身である。
「生きているだけで丸儲け」とは、至言である。

暑いとか文句言ってないで、今日も生きていることに感謝したい。

2017年8月10日木曜日

「自分に厳しく」もほどほどに

「自分に厳しい」というのは、一般的に良いことと捉えられている。
しかし、自分に厳しく他人に優しい、というのは、理想的だがなかなか難しい。
自分に厳しくしていると、どうしても他人が許せなくなってしまう。

わかりやすい例だと、授業。
一生懸命に用意をするのはいい。
しかし、こちらの努力に対し、子どもがノってくるかは、別問題である。
子どもの側からすれば、こちらの努力など、知ったことではない。
ノってくるかどうかは、それが単に子どもにとって面白いかどうかだけである。

努力するほど、往々にしてここを勘違いしてしまう。
努力量と成果は、すぐに直結するとは限らないというのが真実である。
努力が担保してくれるのは、自分が納得することまでである。
自分に厳しくしても、他人に厳しくしていい免罪符にはならないということである。

この時期、湿気と暑さがものすごい。
あまりに自分に厳しくしていると、疲れる。
急激な気温の変化は、体に負担をかける。
この時期、肉体的にも精神的にもだるいのは、あなたがだらしないので決してなく、正常なのである。

肉体が無理をしているのに精神で統御するのは、修行僧でもない限り難しい。
倒れたら元も子もない。
また、自分に厳しくしていると、往々にして他人にも厳しく接してしまうものである。

かの文豪ゲーテも
「人間の最大の罪は不機嫌である。」
と言っている。
疲れていてもいいが、不機嫌なのは、大罪なのである。

こういう時期は無理をせず、「そんなもんだ」とゆるゆる自分の機嫌をとってやっていきたい。

2017年8月8日火曜日

笑って終わる人生

今年の6月、祖母が亡くなった。
97歳の大往生。
「亡くなった」よりも、「生ききった」という言葉がぴったりである。

私の好きな言葉の一つに、次のものがある。
ネイティブアメリカンの言葉だという。

あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。
だからあなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい

祖母の葬儀は、終始和やかだった。
私を含めて孫が10人、ひ孫が24人もいるのである。
みんな、お別れの時は泣きに泣いたが、その分、本当に笑顔と思い出話が咲き誇る葬儀だった。

祖母は亡くなる前の日、心配して駆けつけた父にジョークを言って笑わせていたという。
「まだ大丈夫」と思わせて、すっと逝ってしまった。
祖母自身、最後まで笑っていたのである。

どう生きるか。
それは結局、どう死ぬかである。

祖母のように、自分が笑って周りが泣いてくれる生き方をしたい。

2017年8月6日日曜日

原爆記念日 核兵器禁止条約を考える

今日は広島の原爆の日である。
3日後の8月9日は長崎。
そして8月15日が終戦記念日である。

核兵器禁止条約が今年の7月7日に国連により採択された。
一見すると、核兵器根絶にとって大きな一歩に見える。
しかし、ここには主要な核保有国が参加していない。
そして何より、日本が参加していない。

これは、非常に奇異な決定のように見える。
しかし、当たり前だが、日本は核の撤廃について相当な関心がある。
さんざん考えた上での政治的判断である。

次の記事は参考になる。
『核兵器禁止条約、日本はなぜ反対したのか』2016.12.5 ヤフーニュース
https://news.yahoo.co.jp/feature/452

世界中の問題が、複雑に絡み合っている。
誰にも解けないパズルである。
この問題が解決する日はくるのか。

この問題の解決策を自分の力で考え出すのは、恐らく不可能である。
我々にできることは、関心をもつこと。
東日本大震災等も含め、負の記念日のもつ意味は、そこである。

2017年8月4日金曜日

聖戦は危険

子どもに、何かしら指摘をする。
説教をする。
明らかに、子どもの行為が良くない。
だから、正々堂々と叱る。

「明らかに」なので、迷いなく注意できる。
しかし、その自信の度合いが高い時ほど、要注意である。
正義、正当だと信じている時ほど、危ない。
大抵、子どもに対して自信をもって指摘をしていることが、自分の問題である。

そうでないことなら、控えめになる。
「まあ、そんな言っても私もできていないのだけれど」と付け加えながら話すのとでは、全く違う。

国際間の紛争を見てもわかる。
宗教や思想による争いは、両者一本も譲らない。
両者にとって我こそが正義の「聖戦」である。
明後日は原爆の日だが、原爆問題も互いの正義の二項対立では解決しない。

話を戻す。
子どもに「だらしない」とか「どうしてそんなことが」「信じられない」などと思ったら、自分のこと。
我が身を振り返るチャンスである。

2017年8月2日水曜日

課題は成果

公開研究会での学び。

学習指導要領の解説が公示された。
各教科とも、変更点がはっきりと示されている。
中でも、教科横断的な学びは強調されているものの一つである。
「カリキュラムマネジメント」が求められている。
算数と体育、音楽と体育など、教科間にまたがる横の学びを計画していくことが求められる。

それは一方で、教科の特性をよりはっきりさせることにもつながる。
算数でしか学べないことは何なのか。
体育ならではの学びは何なのか。

例えば、当たり前のことだが、体育では運動機能の向上が大切である。
広義の意味での「体力」が向上するはずである。
筋力の発達だけでなく、柔軟性や巧緻性等の発達を促す役割がある。
ずっと動かず座学のみの体育などありえない。

だからこそ、体育の授業では、何を身に付けさせたいのかをはっきりする必要がある。
私は「みんなが楽しめるゲームをしよう」というテーマを本時の設定として、ネット型ゲームの授業を行った。
そうすると、ルールや作戦に意識が向き、言語活動の時間が増える。
それ自体は悪いことではないのだが、それによって運動量が減ることは問題がある。

講師の高田先生からは、
「発言量は後半になるほど増えていくのが理想」
「動きながらの言語活動がより大切」ということを教えていただいた。

つまり、話し合いがどんどん活発になっていくということ。
みんなで円になって話し合うだけでなく、運動をしながらその場での発言が増えていくこと。
そういう授業をイメージして作っていけば、より良くなるはずである。

高田先生は講評の冒頭に「課題は成果」というお話をされた。
授業をやって課題が出るのは、その授業の「成果」という意味である。
つまり、課題が見つかったということ自体が次につながる成果ということ。
その考えに至れば、授業では挑戦すること全てに価値が見出せる。
壁に当たることを怖れず、常に挑戦を続けたい。

2017年7月31日月曜日

授業者が一番得をする理由

アインシュタインの名言。
「問題を生み出した時と同じ考え方では、
その問題を解決することはできない。」

全くその通りである。

公開研究会で授業を行った。
自分としては問題意識をもって臨んだ。
子どもが自ら運動の楽しさを追求していく体育学習はどうあるべきか。
その方策として「サンドイッチ型学習」を用いた授業展開を行った。

「はじめにバレーボールありき」という従来の発想でなく、自分たちでルールから作っていきたいという思いである。
ルールが、ゲームを楽しむために存在するということを発見的に学んで欲しかったのである。

しかし、どんなにがんばっても、参観者の視点の方が鋭い。
それは、問題を外から客観的に分析できるからである。
その人の置かれている環境から見られるからである。
どうがんばっても、授業者は参観者の数の分の視点を、すべて想像して見ることはできない。
だから「授業をやった人が一番得する」のである。
有難い限りである。

頂いた視点をもとに、今日から新たな考え方で問題解決に当たっていきたい。

2017年7月29日土曜日

大丈夫な私

少し前の話になるが、自分自身への気付き。

以前、6年生を送る会で、「送る側」の5年生が劇をした。
この5年生は、4年生の時に私が担任していた子どもたちである。
私を含めた6年生の全担任の役があり、台詞や動きがそれぞれの特徴を捉えていて面白かった。

ちなみに私を演じた子どもの台詞は両腕の力こぶを作るポーズで「大丈夫、大丈夫!」である。
そう、全く根拠のない「大丈夫」。
無駄にポジティブ。
冬はまだしも、夏場はちょっと暑苦しい。
イメージが、「とにかく、大丈夫」なのである。

何度も言っているが、学校には、色々なタイプの教師がいた方がいい。
私のようにポジタイプの教師は、子どもからすると、励ましてくれる分にはいいが、時に心配でもある。
また、校外学習の下見のような場合は、注意深く心配性の人がいた方がいい。
トイレの心配や交通安全、緊急事態への配慮は、「もしも」「万が一」「最悪の事態」を豊かに想像できる人の方が向いている。
私のように「大丈夫、大丈夫!」といって準備を怠ると、大丈夫ではない事態になる。
何事も、多様性とバランスである。

話を元に戻す。
今の教育を続けていると、将来的に、子どもにどんな演技をされるか。
自分を理解する上で、一つ有効な視点である。

2017年7月27日木曜日

スペースを埋めない

7月29日、高校サッカーインターハイが開催される。
私も高校時代、燃えていたので、どこか出るのかとかは気になる。

さて、サッカーでは、ポジショニングが大切である。
それぞれの選手がその瞬間にどこにいるか、ということが次のプレーを左右する。

ポジショニングの上で大切なことの一つが「味方のスペースを埋めない」ということである。
味方の誰かがそこに突っ立っていると、他の仲間がそのスペースに走り込めない。
逆に、自分が埋めているスペースは、自分で責任をもつ必要が出る。

原則として、フォワードは味方のディフェンスラインまで下がる必要はない。
時に下がってもいいが、全力で元のポジションに戻る必要が出るので、やたらに下がると貴重な体力の浪費につながる。
自分が無理に下がってボールを奪い取るより、ディフェンスという本来のポジションの仲間を信頼して任せる。
自分は「得点を取る」というフォワードの本来の役割を果たすこと。
それがチームに貢献することになる。

このポジショニングの考え方は、仕事の上でも大切である。
誰かが埋めているスペースには、入れない。
その分、自分のスペースの仕事は自分で責任をもつ。
時に自分のポジションにカバーに入ってもらうことがある。
逆もある。
それが役割を越えたチームプレーである。
あくまで、自分のスペースは自分で確保した上での話である。

学級に当てはめてみる。
教師は、大人なので、動ける範囲が広い。
そして基本的には「プレーヤー」ではなく、「監督」のポジションである。
しかし、試合中なのにフィールドに出てしまって、自分でゴールまで決めてしまうことがある。
その時、選手も観客も「どっちらけ」である。

クラス会議をやると、このさじ加減が難しい。
今は監督して出るところなのか、プレーヤー(子ども)が悪戦苦闘しているのを見守るところなのか。
自分が出たら早いのだが、それは下手すると本来子どもが走り込めるはずのスペースを埋めることになる。

何でもやってあげる一見「親切」な先生は、この辺りが落とし穴である。
子どものプレースペースを埋めていないか。
時々自分のポジショニングを確認できる視点をもちたい。

2017年7月25日火曜日

子どもの眼・子どもの心

夏の読書に、次の本を紹介する。

『一年一組せんせいあのね―詩とカメラの学級ドキュメント』
鹿島 和夫 編 フォア文庫
https://www.amazon.co.jp/dp/4652039077

35年以上前の本だが、今の教育で欠けている視点が手に入る良書である。
まっすぐな子どもの視点が本当に素敵な詩集である。

========
でんでんむし
    やまとなおみ

でんでんむしが
あめにむかって
のぼっていきました


せんせい
  いいお つた

わたしのせんせいは
てつぼうを
10かいさせます
せんせいは
いっかいもやりません
========

一年生でも、色々考えているものである。
そして、35年以上前でも、今でも、子どもは子どもで変わらない。
変わっているとしたら、それは社会全体を含めた教育の影響である。

前半は子どもの詩、後半は灰谷健次郎氏との対談が載せられている。
その中で、灰谷氏が厳しい指摘をしている。
=========
(引用開始)
子どもの優しさっていうものが通らない社会、
子どもの楽天性が通らない社会を、
われわれが作ったんだということ。
そのためにほんとうに優しい子どもが苦しんでいるんだということを、
ぼくたちは本気で考えなくちゃいけないんじゃないか。
(引用終了)
===========
35年たった今でも、言えそうな言葉である。
「ほんとうに優しい子ども」が、辛酸をなめさせれらる。
子どもらしいがゆえに、苦しんでいる子どもがいる。

純粋に児童詩集としてみても楽しめる。
その一方で、何かと考えさせられる、おすすめの本である。

2017年7月23日日曜日

『おじいちゃんのノート』

司書の方からおすすめしていただいた本。

『おじいちゃんのノート』
中村輝雄著 セブン&アイ出発

世界初の水平開きノートの開発ストーリーである。
次の言葉がささった。

(引用開始)
仕事ってのはな、どんだけ頭下げたって、もらえないこともあるんだ。
いや、それがあたりまえなんだ。
だから、たとえ名刺一枚だろうと、いただいた仕事はありがたいと思わなくちゃいけない。
それをお前、100枚ぽっちだなんて言ったら、バチが当たるよ。
(引用終了)

100枚というのは、著者の父親がずっと懇意にしている方の名刺の注文のことである。
相手が大会社か個人か、大きな仕事か小さな仕事かということではない。
どんな仕事も有り難く感謝して受けるということである。
特に、順境の時ほど、忘れがちなことである。

そろそろ教員採用試験の時期である。
思えば、この仕事がしたくて試験を受けてまでなった仕事である。
目の前に仕事があること、やるべきことが与えられていることに、改めて感謝の念を思い起こしたい。

2017年7月21日金曜日

オレオレ病

作家であり心理学者でもある、早稲田大学名誉教授の加藤諦三先生の言葉。
================
他人のために何かをしてあげれば、
大抵の自分の悩みはたちどころに消える。
================
大学生の頃、教育心理学を専攻していたこともあり、加藤諦三先生の著書はかなりたくさん読んでいる。
読むと視点が変わり、心が落ち着く本が多く、おすすめである。

冒頭に紹介したこの言葉は、ボランティアにも当てはまる。
悩んでいる人ほど、ボランティアは効果てきめんである。
被災地に行けば、自分の悩みがいかに小さいか思い知らされる。
そういう意味でも「被災地に学ぶ会」なのである。

学級でも当てはまる。
大抵、小さなことで怒ったり悩んだりする子どもは、自分のことばかり考えている。
すべてが「自分が自分が」なので、自分を尊重してくれないことに腹を立てたり落ち込んだりする。
これを「オレオレ病」という。
私のオリジナル言葉にしたかったが、残念ながら何十年前から使われている用語である。

これが大人だと、周りから「めんどくさい人」扱いとなる。
会社とそのメンバーは、自分を中心に存在してはくれない。
自分が、会社とそのメンバーのために存在するのである。
それが嫌なら、大人なんだから自分が変わるかその会社を辞めるしかない。

例えば、テストの点を周りと比べて一喜一憂しているようではダメである。
それは、自分のことを自分でやったかどうかだけ。
テストの点が100点だろうが0点だろうが、周りへの貢献度はない。
あくまで、自分にとっての価値である。
喜びも悔しさも自分の中でかみしめれば良い。

授業中に、仲間に教えてあげたり補助してあげたりしたなら別。
これは、周りへの貢献度がある。
周りへの価値がある。
称賛される行為である。

社会に出た時、自分のことが自分でできるというのは、最低要件である。
社会で、会社で重宝されるのは、周りへの貢献度の高い人である。

子どもを、どういう大人に育てたいのか。
そう考えると、清掃指導一つとっても、教育観が出る。

それには、大人の側が「観を磨く」のがより大切である。
あらゆるボランティアへの参加は、それを考える良い機会になる。

2017年7月19日水曜日

被災地と一言でいっても

被災地からの学びの続き。

東北の各地は「被災地」と一言では括れない多様さがある。
津波の直接的被害を受けた方々と、福島の原発問題に絡む被害を受けた方々は、苦しみの種類が別である。

例えば、本メルマガ読者の方に教えていただいた次の本には、岩手の方々の苦しみが綴られている。

教育を紡ぐ――大槌町 震災から新たな学校創造への歩み https://www.amazon.co.jp/dp/475033975X/ref=cm_sw_r_cp_apap_67kmghxDBaBwF

途中が苦しすぎてなかなか読み進められないが、読むだけでもこの苦しみは想像を絶することが感じられる。
人の生死が直接的に関わる。
生きていること自体がいかに恵まれているかも、思い知らせてくれる。

一方で、福島の放射線による避難区域の人々の苦しみはまた違う。
生きているし、土地もそこにあるが、帰れない。
不当な扱いを受けることもある。
生きている上での苦しみである。
震災後の自殺率が一番高いのが、福島だという。
自然というより、人的被害が大きい。

いずれの地域も、物心両面でのケア、支援が必要なのは同様である。
しかし、そのアプローチや支援の仕方は、かなり異なる。

肉体労働だけで助かる人もいる。
肉体労働では助けにならない人もいる。
今回の「被災地に学ぶ会」の参加者の中には、教育面で被災地の子どもへの支援をしている人もいた。
お金で支援してくれている人もいた。

できる時に、できる人が、できることをする。
今、ここ、自分ができることは何か。
やれることは、やっていきたい。

2017年7月17日月曜日

日本の誇る「福島」周辺の土地の美しさ

福島を「被災地」という面だけ切り取って思ってみると、痛々しい。
しかし、純粋に一つの場として見た時、とても素敵な場所である。

「被災地に学ぶ会」では、作業を開始する前に、必ず全員で黙祷を捧げる。
その時、聞こえてくるのは、風の音、川の音、ウグイスの鳴き声である。
山々に響き渡る、美しい音や声である。

見回すと、空も緑も山々も本当に美しい。
相馬小高神社へ向かう道を自転車で走れば、川がらきらと光を照り返して流れている。
神社の木も大変に立派で、神々しさが感じられる。
ここの神社では、毎年7月下旬(2017年は7月29日~31日)に「相馬野馬追(そうまのまおい)」という、馬で馬を追う伝統行事が行われる。
中日の30日には、大迫力の甲冑を着た騎馬武者たちのレースが見られるという。
平将門の時代から、1000年の歴史を誇る、「相馬」の地の名に相応しい行事である。
相馬復活に向けた原動力として、盛会になることを願っている。

思えば、「被災地」となるまでは、元々美しい土地として誇っていた場所である。
桃の産地としても有名で、わざわざ福島産を選んで買っていたぐらいである。
すぐ南の県の茨城県水戸市にも、日本三大庭園である偕楽園がある。
北には、牡蠣の産地として有名な三陸海岸もある。
あの海岸線沿いの土地は、元々がどれも美しい土地なのである。

今、被災地に足りないのは、若いエネルギーである。
若いエネルギーが注がれれば、元の美しさを取り戻せる。
高齢の方々だけでは、成り立たない。
ただでさえ限界集落が多い中、正直厳しい面があるとは思うが、若者が土地に根付く環境が必要である。
そのために、福島だけでなく岩手や宮城などでも、NPO法人を立ち上げている人たちがいる。
復興に向けた動きは、確実に進んでいると感じた。

歩み始めたことと、ボランティアが必要なことは、同義である。
ボランティアセンターや各NPO法人など、金銭面での支援も大歓迎だという。
できる人ができる時にできることをする。

「自分」の範囲はどこまでか。
家族までだろうか。
同学年の同僚までだろうか。
職場全体までだろうか。
町か。
県か。
「関東」というような地域か。
日本か。
一番大きいと「世界」か。
どれにしても「自分」が所属しているのだから、無理なく、何かやれることをやれたらいいと思う。

2020年の東京オリンピック開催時に、福島を訪れる外国の方もいるのではないかと思う。
世界に「おもてなし」の国として認識された日本の美しさを誇るためにも、被災地への支援は続けていきたい。

2017年7月16日日曜日

みんなでやれば、できる。

前回の続き。

今回も鍵山秀三郎先生ご提供の美味しいお弁当をいただき、午後の作業へ。
次は、田んぼの側溝掘り&草刈りである。
現地に行ってみると、完全に埋まっていて、どこが側溝なのかさっぱりわからない状態。
数十mということだが、水が流れないで溜まっているために土地も沼のようになっており、作業は難しそうである。
加えて、震災前からある長い小屋が邪魔で、人が入っての作業スペースの確保も困難。
機械ではできず、人の手を借りてしかできない仕事である。

とにかく、探しながら掘ってみることにした。
この泥が、思いの外、重い。
本来流れるはずの水をたっぷり含んでいる。
そのせいで足場が悪い上に、植物の根がばっちり絡んで、スコップが入らない&持ち上がらない。
とにかく腰が痛い。
土手を押さえていたはずのネットも倒れて絡んでいる。
おまけに、濁った水を含んだ、独特の臭いがあり、三重苦、四重苦である。
一緒にやっていた会の主催者の村田先生も「これは、今回少しでも進めて、次の団体にリレーかな・・・」とのこと。
私もひいひい言いながら作業を進めつつ、「これは、今日中には終わらんな・・・」と半ば諦めかけていた。
しかし、「とにかく、今、できることをする」と念じつつ、ひたすら続けた。

すると、ちょうど「これは無理だぁ~」とかぶつくさ言いかけてきた時に、依頼主の方が様子を見にきてくださった。
今日ボランティアに入ってもらえると思っていなかったらしく、急いで駆けつけてくれたようである。
俄然、やる気が出る。
みんなでがんがん進めていったら、何か終わりそうな雰囲気が出てきた。
両側から掘り進めてきた側溝の道が、合流するのが見えてきた。
そして、道がつながった。
水が「ザア~~~」と音を立てて流れる。
みんな、満面の笑みである。
依頼主の方も、とても喜んだ表情を見せてくださった。

依頼主さんの感謝の言葉とともに、差し入れの飲み物をいただく。
とにかく道をつなげたくて、ひたすら作業をしていたため、喉がカラカラである。
(というより、手も顔も泥まみれで、作業途中で飲めない状態だった。)
葡萄ジュースを選んで、真っ青な空を仰いで一気に飲んだ。
最高にうまい。
耳を澄ますと、水の流れる音が聞こえる。
やった甲斐があるというものである。

今回、一番の学んだこと。
それは、無理だと思う状況、先が見えない状況でも、「みんなで力を合わせると、できる」ということ。
その「みんな」が集まるには、核となる部分に正しい志があること。
たった一人の正しい行為には、自然と多くの「フォロワー」がつく。

無理だとか言ってる暇があったら、体を動かして、少しでも前に進めること。
できた時の達成感は、次へのエネルギーになる。
まだまだあるが、そんなことを感じた次第である。

結局、人様のためにやっていたはずのことが、すべて自分のためになる。
前回述べたように、人間の遺伝子は利他的で利己的、利己的で利他的である。

主催者の村田先生は、小さく会を立ち上げて、結果的に数百人もの仲間を巻き込んできた。
被災地の方だけでなく、助ける側にとっても、生きる希望になっている。
影響の輪で言えば、数千人規模である。
そして、帰りのバスの中で、仲間と今日のことについて語り合う姿が、本当に嬉しそうである。
利他的な行為が、結局自分自身にも返っている。

被災地の復興は、先が見えない。
しかし、見えなくても多くの人の手で少しずつ進めれば、確実に見える時が来る。
私の大好きな、上杉鷹山の次の言葉で今号を締める。
「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」
「被災地に学ぶ会」で自分ができることは本当に少ないが、この会がある限り、これからもここで学び続けたい。

2017年7月15日土曜日

ボランティアも、明るくやる

「まぐまぐニュース」で三回に渡って紹介された記事を掲載する。
http://www.mag2.com/p/news/251994

「被災地に学ぶ会」に参加してきた。
今回も、学んだことは広げるという会の使命のもと、レポートする。
レポートなのでいつものメルマガに比べやや長いがご容赦いただきたい。

今回も、場所は南相馬。
2ヶ月前は、一部地域に避難勧告が解除されたばかりの頃で、まだ戻ってきている人は少なかった。
その頃に比べて、全体的に良くなってきている印象である。
崩れていた建物がきれいに直されていたり、すれ違う車が増えたり、住民の方々の姿もちらほら見えたりした。

ここがポイントなのだが
「じゃあ、良くなってきたらからボランティアはもう大丈夫ね」
となりがちだが、これが真逆である。
住民が戻り始めたということは、「人手がより必要」ということである。
つまり、助けて欲しい人が増えたということである。

事実、ボランティアセンターへの依頼は、増えることはあっても減ることがないという。
ボランティアセンターは基本的に無償のため、依頼が増えれば触れるほど経営が大変である。
そこに加えて、被災地へのボランティアの数はここ最近ますます減っているという。
需要が増えてきているのに供給が追いつかないのである。
「できる時に できる人が できることをする」
が合い言葉なので、少しの気持ちがおありの方は、一度でいいから被災地に足を運んでいただきたい。

ボランティアの実務の内容は多岐にわたる。
個人宅のことが多いが、神社やお寺といった文化財に関わることもある。
引っ越しの手伝いや敷地整理が多い。
以前から何度かレポートしているが、敷地の「竹」をどうにかしてくれというのはすごく多くて、かつ手強い。

どれも、大型の機械ではできず、行政からは支援がもらえず、ボランティアに頼るしかない仕事ばかりである。
特別な技術者のいる団体には、大きな木を切る依頼がくることもある。
今回我々の団体は大学生が過半数で、他団体に比べてかなりパワーのある集団となっていた。

今回は午前と午後で2件の依頼をこなし、草刈りと側溝の泥のかき出しをしてきた。

まず1件目は個人宅の草刈り。
夏らしく、草が伸び放題で足下が全く見えず、密林状態である。
かなりの広さがある上、大きな石やブロック、井戸のようなものの後や切り株などが多数あり、機械を使って草刈りをするには危険である。
各々が草刈り機をもち、慎重にやっていった。
(こういう時、学校の教職員は強い。
 学校での夏の奉仕作業といえば、草刈り機。
 手慣れたものである。)

広い土地だったが、15人で協力したらあっという間に終わった。
掘り返した木の根元から生きたセミの幼虫が見つかり、妙にはしゃいでしまう40前のおっさんの私。
(この子、出てきた時に切り株じゃどっちにしろ残念だったろうなぁ)
と思いつつ、土の中に返した。

大学生&中学生のペアは、手強い木の根を引っこ抜こうと、ひたすらがんばっていた。
周りの大学生たちも加わり「おおきなかぶ」状態。
十数分の格闘の末、やっと引っこ抜けて、大歓声&記念撮影。
妙な連帯感である。
「被災地のボランティア」だからといって、必ずしも悲壮感を漂わせながらやる必要はない。
少しでも明るく、楽しみを見つけながらやって、続けていけることの方が大切である。
(無論、被災地の皆様への配慮は大切である。前向きにやるということである。)

2017年7月13日木曜日

利他の遺伝子をオンにする

先月もまた「被災地に学ぶ会」に参加させていただいた。
今回も福島県の南相馬市である。

遺伝子工学の第一人者である、筑波大学名誉教授の村上和雄には
「人間には、利他の遺伝子がある」という。
人間の細胞そのものが、相互共存しようとする遺伝子によって成立している。
一方で、遺伝子は利己的でもあるという。
利己的で利他的。
一見、相反する要素をバランス良く備えているという。

ボランティア活動とは、「やらせていただく」ものである。
人様のために自分の力を少しでも提供させていただく。
最初は「やってあげる」つもりでも、自然と抱く感覚である。

大きな団体でも、最近被災地支援を打ち切ったという話をきく。
主な理由は「もう十分に復興した」という誤解である。
大きな誤解である。
まだ全く復興に至っていない。
荒れ果てて、人が帰って来られない状況なのである。
ひどいところは、手つかずである。

また、どんなにやっても終わらない、本当に自分が役立っているのか疑問になる、というのもあるかもしれない。
ボランティアの活動は、あまりにも地味で地道である。
「牛歩」「泥臭い」という言葉がぴったりである。
何なら、出先で怒られることもある。
割に合わないと思う人がいるのも、至極当然である。

それでも、やれることを少しずつ積み重ねていくしかない。
終わりが見えなくても、立ち止まっていたら、いつまでも辿り着かないと思う。
そして一人の一歩より、多くの人の一歩の方がいい。

だまされたと思って、一度参加して欲しいと願う次第である。
人間には利他の遺伝子があるのだから、確実に何か得るものがある。
結局は自分のためだと思って参加してもらっても構わないと思う。

「被災地に学ぶ会」の村田先生は、震災の年からこの活動を続けている。
「そして今後10年は続けるつもり」という。
参加チャンスはまだいくらでもある。
興味がおありの方は、いつでもご連絡いただきたい。

2017年7月11日火曜日

相手によって対応を変える

一般に「差別」はよくないと言われる。
人種差別しかり、男女差別しかり。
不当な差別はいけない。

しかし、これを拡大解釈して、何でも同じように扱うこと、と捉えると間違える。
誰に対しても、何に対しても同じ対応でいいはずがない。
以前にもこの例を出したが、すべてに金槌ではダメなのである。
(アブラハム・マズローの言葉「ハンマーを持つ人には、すべてが釘に見える。」)
釘を叩くには金槌、太鼓を叩くにはばち、肩を叩くには手である。
全部金槌でいかれたら、とんでもないことになる。

幼い子どもとそうでない相手と対応が同じはずがない。
そして何よりも優先されるのは、個人差への対応である。

同じように伝えても、伝わり方は千差万別である。
だから「言ったでしょ」は通用しない。
(この言葉は、何でもてきぱきやる人に多い言葉である。)
言われた側からすれば「あんたが勝手に言っただけ」である。
言えばわかるなら苦労はない。
言ってわかる子どもは、聴覚情報優位の子どもだけで、全体の3割程度である。
視覚優位の子どもが最も多く、書いた方がわかる子どもの方が多い。
身体感覚優位の子どもは、見せたり聞かせたりするより、やらせた方がわかるということもある。
相手によって、対応は変えるべきである。
金槌の話と同じである。

一方で、相手によって変えない点が一点だけある。
人格の尊重である。
幼子でも人格は尊重すべき。
その点において、子どもより大人の方が上ということはない。
上司より部下の方が上ということもない。
この点を履き違えると、尊大になり、あらゆる人に嫌われることとなる。

時々、友達口調の店員さんやセールスマンがいたりするが、これも場合によって正解だし、場合によっては間違いである。
初見のお客さんに対し「いいっすよね?」は、ない。
子ども時代から「平等」「自由」の名のもと、言葉づかいを正されなかった教育の結果かもしれない。
そう考えると、公的な場で大人に対する言葉遣いを教えるのは、親と学校の両者の責任である。

総じて「素晴らしい」と言われる人たちは腰が低い。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の句の通りである。

その方法は、目の前の子どもに適合しているのか。
常に自問するようにしたい。

2017年7月9日日曜日

結果を価値付ける

休日ということでやや長文。
運動会が終わった時に書いた記事。

陸上等の大会関係でも毎回同じようなことを言うが、結果の取り扱いが重要である。
特に、勝った場合(望む結果が得られた場合)こそ要注意。
結果の価値付けに失敗すると、傲慢になったり「ロス」状態になったりする。

結果への価値付けは、日常の授業や生活からして行う。
例えば、テストで100点をとったとする。
100点であることを褒める。
すると、100点そのものに価値を見出す。
積み重なると、100点以外に価値はないと思うようになる。
結果、100点でない時に無駄に嘆いたり、他者に対し下に見たりするようになる。
100点をとらないとダメな子だと思われるという変なプレッシャーを抱くこともある。
100点を取るために、カンニング等の不正すら用いるようになる。
競争心が良くない方向にはたらく。

100点をとったら、その過程を褒める、というより、認める。
とりあえず「おめでとう」を言ったら、その後の過程を価値付ける。
「普段からよく練習したからだね。」
「〇〇さんがよく教えてくれて、それを素直に受けた結果が出たね。」
「前回の反省を生かしたからだね。」
何でもいいが、とにかく結果でなく、過程に価値付けをする。
そうすると、100点でなくても成長につなげられる。

例えば、多数が立候補して何とか応援団やリレーの選手に選ばれたとする。
良かったね、おめでとうで済まさない。
なったからには、教えるべきは、責任感と感謝である。
人に教える立場になる以上、相手の数倍がんばる責任が課される。
その場合、普段どんなにだらだらだろうが、それは許されない。
一緒にがんばる仲間や、ついてきてくれるみんなへの感謝も忘れさせない。
選ばれたという結果以上に、選ばれてからの方が大変なのだと自覚させる。
「勝てば官軍」のような態度を諭していく。

結果への価値付けは、技術である。
知らないとできない。
人間は、野放図の、自然のままでは、望ましい方向に行かない。
(または、望ましくないように方向づけられている可能性がある。)

小さい頃は、「あんよが上手」で構わない。
子どもにとって、できるようになること以上に、それを見てくれているということ自体が喜びである。
しかし、「〇〇ができるからすごい」をいつまでも続けていると、そういう価値観を植え付けることになる。
できるからすごいのではなく、子どものがんばりそのもの、存在、行為そのものを普段から認める。
だからこそ、結果がうまくいったら「おめでとう」だし、うまくいかなくても「がんばったね」といえる。

この「できる」「成功する」への親の盲目的価値付けは、我が子が幼い頃から見てとれる。
我が子がなかなか歩くようにならなくて、または喋るようにならなくて、不安になる親は多い。
(気持ちは痛いほどわかる。何か実は問題を抱えているのではないかと、不安になる。)
逆に、少し早く何かができる我が子に、得意になる親も多い。
ただ両者とも、比較対象は「他人」である。
その子自身ではない。
大体、多様なはずの人間が、みんな一律に同じように成長したら気持ち悪い。
兄弟すら全く異なる成長曲線を描く。
しかし、頭ではわかっていても、比べてしまうのが親心である。

そんな時でも、我が子のがんばりを見てとれるか。
遅いなりにがんばる我が子を、認めるのは忍耐がいる。
「認」=「言」を「忍」ぶことである。
つい望む結果を求めてしまう我が口を、どう使うかである。

学級担任でも同様。
つい結果の方を望んでしまう。
しかも、多様な目の前の一人一人に、一律な結果を。
教育内容の達成目標があるからとはいえ、同じアプローチで同じ結果を求められるはずがない。
運動会の競技一つとったって、苦手な子どももその子なりにがんばっているのである。
どんな結果でも、認めてあげたい。

登山は、登る時ではなく、下りる時に事故が起きるという。
良い結果が出た時こそ、取り扱いに注意する。
望む結果に至らなかった時こそ、成長の糧にする。

結果への望ましい価値付けは、大人が子どもにしてあげられる最高のプレゼントである。

2017年7月7日金曜日

七夕と助けて力

七夕と学級経営に関連する話。

「助けて力」ということをずっと前に書いた。
(ブログ記事参照 http://hide-m-hyde.blogspot.jp/2015/12/blog-post_27.html)

願いを口に出せるというのは大切な力である。
「助けて」と周りに伝える力があれば、大抵の問題は解決する。
もっと具体的に「〇〇を助けて欲しい」と言えたら、完璧である。

例えば、授業。
わからない、できないと言った時に、これが言えるかどうか。
教える側としても最も難しいのが、子どもが一体何によって困っているのか見極めるところである。

例えば、いじめ問題。
何が原因で、誰がやっていて、どんな助けを求めているかわかれば、大抵解決する。
やられている本人が我慢して周りに言えないことで、悩みがより深くなる。
真面目な子どもほど「自分が悪いのかも」「迷惑や心配をかけてはいけない」と自分を責めて「助けて」と言えない。

日常的に、迷惑や心配など、どんどんかければいいと教える必要がある。
「お互い様」の精神を、授業でも生活でも当たり前にしていく必要がある。

何かを始めるにも、資金集めにクラウドファンディングが当たり前の時代。
「助けて」といえば、助けてくれる人は世界中にいる。
そういうことを、もっともっと教えていく必要がある。

七夕は、天に願いを書く。
神頼みのようでいて、ちゃんと周りの人が読んでいる。
その願いを知った周りの人が、応援してくれる可能性が高まる。

お願いをする力、助けて力を高める意味でも、願いを紙に書くことは大切である。

2017年7月5日水曜日

バカになれるか

今年度も、応援団の指導担当をした。
(指導したといっても、9割方見ていただけである。)
団長が中心となってまとめて、頼もしい限りである。

団長の子どもが、メンバーにどう応援をやるか教えている場面。
応援団が教えても、他の子どもがなかなか「ノって」くれないという悩みがある。
それに対し、次の言葉を黒板に書いて教えていた。

「バカになる」

どういうことか。

以下、少し長いが、過去の記事の引用。
=================
(引用開始)
「指導とは、ちょっとの無理をさせ続けること。」
例の如く、野口芳宏先生の言葉である。
指導とは、まさにここにあると思う。
現状維持は楽。
負荷をかけ続けて少し無理させるから伸びる。

極端なことを言うと、普通にできることは指導する意味がない。
わざわざ導かなくてもできる。
下のレベルだけに合わせると、ほとんどの子どもにとって意味のない指導になる。
「底上げ」というのなら、底の上にある全部を上げないといけない。
上のレベルを基本にして、下まで含めて全体を引っ張り上げるのが指導である。

例えば、日直のスピーチ。
自分の普段通りのしゃべり方で話していては、よく聞こえない。
教室で全体に向かって話すのだから、無理が必要である。
(野口氏はこれを「公的話法」という言葉で教えている。)
「不自然でよい」のである。
自然ではいけない。
無理をするから、伸びるのである。

応援での声がよく出ない子どもは、無理できてないのである。
普通に出そうとしている。
応援などは「パフォーマンス」なのだから、演技が必要だ。
これは意外と難しい。
教師が前に立ってオーバーに演技することで、殻が破れることもある。
相手に少し無理を強いるのだから、教師はその倍は無理をする。

応援係はここが最重要になる。
全校の前で手本として立つのだから、恥ずかしがったりしていてはアウト。
応援団長が自ら「バカ」になって大げさにパフォーマンスをする必要がある。
山口の福山憲市先生の言葉だが「バカ」が大切である。
「バカ」の読み方は「馬力(ばりき)」であり、「心力」である。(「バ」の字を崩して「心」に変化させる。)
エネルギーと心がないとできない。
これを、団長ができるようになるために、先に教師が応援係への指導でやる。
教師が「バカ」になって、まず応援係にエネルギーを入れる。
応援係全員がこの「バカ」になれれば、ものすごい力を発揮する。

自分のキャラとかはあるが、そこは置いておく。
それは「自然」であるが、殻を破れない。
まずは、教師が無理をしてでもバカになる。
自分が無理をしてから、初めて子どもにも無理を求めることができる。
指導全般の鉄則である。

(引用終了)
=========================
こういうことを、今年度もちょろっと教えた気がする。
すると、本当に賢い子どもは、教えをあっという間に使いこなしてしまう。
「バカ」を演じられるのは、賢い証拠である。
明石家さんまのような人気お笑い芸人など、その顕著な例であると思う。
サービス精神は、相手の気持ちを読み取る知性があるからこそ発揮できるのである。

バカになる。
良い言葉と悪い言葉というのは存在しない。
そこに、どんな解釈がなされるかである。

自分自身も、思いっきりバカをやれる知性をもちたい。

2017年7月4日火曜日

大縄の回し方は「知っている」かどうか

中学校の運動会を見にいくと、例年、どこに行っても「大縄」(30人程度の一斉跳び)をやっているところが多い。
団結がポイントになる、一斉にできるなど、種目として適当なのだろう。

だからこそ、回し方が結構気になる。
どうしても、振り回す形になっている。
それが、大縄の「常識」になっているからである。
相当やりこんだ経験がある人でないと、多分知らない。
当たり前で、中学校が多忙なこの時期に、大縄にそれほど打ち込む環境はない。
引いて張る「びゅんびゅんごまの原理」を用いれば、より楽になる。
多分、中学生なら、一回教えるだけで使いこなすはずである。
現に、私の友人は、その方法を知って生徒に伝え、短期間で記録を大幅に伸ばしたようである。
別に記録が伸びようが伸びまいがどっちでもいいのだが、単純に、楽に連続で跳べた方が楽しいと思う。

ちなみに昨年度、縦割りの交流集会で、合同で大縄レクをやったことがあった。
事前指導なし、1回こっきりのレクである。
そこで、あまりにすぐ引っかかるので、回し手の子どもをちょこっと指導してみた。
途端に、きれいに回すようになった。
やはり、導入の指導はあった方がよいと思った。
(本当は、他の子どもにも教えたかったが、出しゃばるのもと思い、遠慮してしまった次第である。)

単に、知っているかどうかである。
知識や技術は積み上げなのだから、ある程度知っておくことは価値がある。
もしこれから運動会で「大縄」か「8の字」がある方がいたら、レポートを一読しておいて欲しいと思う。

2017年7月3日月曜日

競争と応援団の話。
運動会の時期に書いた記事。

応援団の本質は、あくまで、周りを輝かせようと努力すること。
それが、結果的に自分の輝きになる。

どこの国の諺だか忘れたが
「花を相手に手渡す時、必ず自分の手にも香りが残る」というような内容のものがある。
人にいいことをしてあげようとすると、どうやっても自分に返ってきてしまう。
恐ろしいことに、逆も真である。
人を出し抜こうとすれば、必ず他人に出し抜かれる。
悪口を言えば、悪口を言われる。
当たり前である。

応援係は、何をすべきか。
どうすればみんながもっと元気に楽しくやれるか考えること。
指導者の側なら、どうすれば目の前の子どもがもっと元気に楽しくやれるか考えること。
自分のことばかりを考えていては、うまくいかないのは当たり前である。

自分たちで応援を作らせるためには、ある程度心構えだけ教えたら、後は任せる。
指導者は、つい細かく口出ししたくなるが、基本はこらえる。
子どもの成長が第一の場である。

応援団指導の「根本・本質・原点」を、日常でも忘れないようにしたい。

2017年6月30日金曜日

実質的に勝つ

運動会の時期に書いた記事。

運動会では、表現などの一部を除き、競争がつきものである。
応援合戦や綱引き、リレー、学年団体種目などは、チームでやるものなので、指導者の側も熱が入る。

この時期になると、この「競争」の使い方、捉え方が大切であると切に思う。
6年前にメルマガに書いた記事だが、以下引用する。
=============
(引用開始)
大縄などの大会が校内であると、隣のクラスの記録が気になり出す。
まあ、大抵は「一番になりたい。勝っていたい。」と思っている。
それ自体は悪くないのだが、相手の記録が伸びることに恐怖心を抱くのは問題である。
それは、つまり暗に「自分達はそこまで伸びない」と自己暗示をかけていることになる。

逆の発想でいく。
つまり、周りのクラスに、もっともっと強くなって欲しいと願うのである。
心から願うのがポイントだ。
そうすれば、自分達もそれ以上になれる。
目指す頂が高くなるのである。
他のクラスで自分達以上の記録が出たと聞いたら、素直に喜ぶ。
達成しているクラスがあるので、現実的である。
自分達にもできるというイメージを持ちやすくなる。
自分達が突破したら、それを周りに伝える。
すると、周りがさらに強くなる。
正のスパイラルができあがる。
ちなみに本校では、週に1回全クラスの最高記録を放送することで、これを行っている。

大縄、8の字跳びの目的は何か。
クラスの団結を深め、より良い人間、より強い人間に育てることである。
隣のクラスの子どもまで良くなったら、一石二鳥ではないか。
人の成功を、心から喜ぼう。
(引用終了)
==============
今でもこの考え方は変わらない。
自分がもっているのは学級の子どもだが、所属はその学校である。
学校全体の子どもが良くなった方がいい。
当たり前である。
私は、できれば、学校だけでなく、全国の子どものためになれたらいいと思ってるので、このメルマガを発行したり、本を書いたりしている。
ブログ上で「大縄・8の字レポート」を配付したのも、そのためである。
(ちなみに今でも同じもので良ければ配付している。希望者はメールでご連絡いただきたい。
活用していただけた方が多数いて、嬉しい限りである。)

「勝ちにいくことに価値がある」とは、他の誰でもなく、私の言葉である。
これは「勝つことに価値がある」という言葉とは大違い。
それなら、どんな過程を経てどんな手段を使っても、勝てばいいということになってしまう。

甲子園のように、勝つことで選手も指導者の側も将来が開ける場なら、まだ話はわかる。
どんな辛い思いをしても勝ちたいと願うだろう。
また、オリンピックのような大舞台の話を持ち出す人もいるが、これも全く別。
それは、勝負の重みも目的も全く違う場である。
国の経済や威信も絡む。
そこで作戦や練習方法をばらして負けてしまっては、話にならない。
「勝つ」こと自体に大きな価値がある場である以上、やむを得ない。

ただ少なくとも、運動会や地域の縄跳び大会は、そんな場ではない。
目的は、あくまで「子どもを育てる」場である。
競争を通して、子ども同士が伸びることが大切である。
隣のクラスが失敗したり悩んでるのを見て「しめしめ」と思わせるようでは、真逆の教育である。
隣のクラスが強くなったのを見て「すごい!うちも負けてられない!」と燃えるのが正しい競争の利用である。

だから編み出した必勝法は、公開してしまう方がいい。
これについて、大反対する人がいるのも知っていて、敢えて言う。
そういう考え方の人は、けちくさいと思う。
度量が狭いなと思う。
技術は、共有されるからこそ技術の価値が出るものなのである。
それで特許を取りたいのでなければ、さっさとオープンにしてしまえばいい。

私自身、ここで失敗することを何度も経験している。
何かちょっと見栄を張って勝ちたい時は大抵、結果的に大負けするのである。
しかも負けた後の、後味も悪い。
最悪である。

必勝法をきちんと公開すると、子どもがオープンになる。
「隣が高まるから自分達ももっと高まる」というマインドが前提である。
一番いい状態だと、子どもが隣のクラスの友達を見て、その友達にアドバイスをするようになる。
同様に隣のクラスに教えてもらったり真似したりして、更にレベルアップする。
そうなると、本番も正々堂々と清々しく勝負できる。
そして、逆説的だが、結果的にこれを多く出せたチームが勝つことが多い。
必勝法をより多く編み出したチームが、やはりそれを使いこなせるのである。
さらに、伝える過程で、自分たちの不備にも気付くのである。
算数を友達に教える時と同じである。
要は、運動会だけでなく、日常の授業がすべてということである。

勝負の相手は、常に自分。
そのために、周りにも一緒に強くなってもらう。
強くなろうとしないと、その過程すらも起きない。
それが「勝ちにいくことに価値がある」という言葉の本質である。
あくまで「私」に勝ちにいくのである。
あらゆる場面で応用の利く考え方であると思い、紹介してみた。

2017年6月28日水曜日

子どもは真似の天才

いつも気になっていることについて。

最近、朝もテレビを見なくなった。
理由は、ネットと違い、テレビは情報を選択できないためである。
見たくない、聞きたくない情報が入るからである。

朝のニュースは、家族全員が見ることになる。
子どもも見る。
ニュースを知ること自体はいい。
ただ、見ない方がいいニュースの割合が多すぎる。

何かというと、殺人等の各種重犯罪や、凄惨な事故である。
社会を知る手段はあってもいいが、割合の問題である。
爽やかなニュースを流してくれればいいが、テレビは視聴率が命。
そうなると、スキャンダラスなものがいいということになる。
子どももが朝一起きてリビングで最初に触れる情報が殺人や放火では悲しい。

子どもは、見たままを学習する。
「真似の天才」なのである。
そこへの善悪や評価は関係ない。
(大人も同じだが、子どもの吸収率の方が高い。)
心理学でも「観察学習」というのがあり、脳は判断なしに、そのまま真似た行動をすることがわかっている。
繰り返し見るテレビ番組の影響力は、絶大である。
見る番組によっては、そこでプラス行動を学習する面もある。

日常の学級経営においてもいえる。
直して欲しい行動や叱責を繰り返し伝えると、その行動そのものを学習することになる。
逆に、望ましい行動や褒めることを繰り返し伝えても、同様の効果が得られる。
叱責に意味があるのは、特にそれを悪いことと自覚していない時である。
だから、叱るより褒める割合の方が10倍ぐらい多い方がいい。
(特に子育ての場面においては、現実的にはそうも言ってられないのが事実ではある。
 親子のバトルは果てしない。)

わざわざ悪い行為を繰り返し伝えない。
良いところをもっと指摘する。
子ども同士の関係にはもちろん、大人にもいえることである。

2017年6月26日月曜日

教育力のある子ども集団を育てる

5月に他県の教育委員会に招かれて行った、研修講座で話した内容。

学級における2対6対2の話をした。
問題行動や遅れの目立つ2割にひっぱられないこと。
自主的に動く2割の行動には特に着目して広めること。
6割がどちらに動くかで決まるということ。
結果的に、困難の多い2割も救われるということ。

かなり基本的なことだが、失敗の大半はこの対応にある。
特に5月から6月は、子どもも問題行動を起こしやすい。
大人も子どもも疲れる時期なのだから、自然なことである。

親は、我が子がどうかということに最も着目する。
当然である。

担任は、クラスの子ども全員、一人一人がどうかということに着目する。
一人でも問題を抱えている子がいれば気になるし、全体としても気になる。

その辺りの意識の差をもつこと。
親が我が子を中心に見てくれと要求するのは、ある意味当然である。
その願いをまずは受け止める。

その子だけをかまっていれば、当然他の子やその親から見てくれと要求がくる。
だから、全体を見る目が必要で、一人で学級を抱え込まない事が大切である。
周りの助けを得る。
何より、子どもの助けを得る。
手のかかるところにばかり着目していると、そこを落とす。

教育力のある子ども集団を育てる。
そのためには、きちんとやる子を落とさない。
基本的なことだが、大切なことなので、改めて書いてみた。

2017年6月18日日曜日

公開研究会 文科省の先生の話が聞けるチャンス

公開研究会の案内。
http://www.el.chiba-u.jp/kenkyu.html

以前にも紹介したが、私は、次の金曜日に4年生の「ネット型ゲーム」の授業展開を公開する。
ネットをはさんでボールをやりとりし、相手陣にボールを落としたら得点というシンプルなルール。
これだけのルールでかなりバレーボールに近付くとは思うが、そこからは工夫次第。
どんな作戦やルールを子どもたちがつくりながら展開がしていくかを見ていただきたい。

同日には2年生の表現リズム遊びも展開される。
ちなみに千葉市は、表現運動を長く研究している地域である。
千葉市から着任した同僚の授業展開なので、こちらもご覧いただきたい。

そして、今回お伝えしたいのが、午後の「教育フェア」。
選択式だが、ぜひとも体育に来ていただきたい。
2020年パラリンピックの種目である「シッティングバレー」を体験していただく。
1980年より正式に認定されている種目だが、意外と一般に知られていない。
障害の有無に関わらず楽しめる、ユニバーサルデザインな種目である。
運動が苦手という人ももちろん大丈夫。
勝負の分かれ目は「作戦」と「チームプレー」。
ぜひ一緒に「アクティブ・ラーニング」の授業を体験していただきたい。

なお、一日を通して、文科省の高田彬成先生にご指導をいただける。
高田先生は「体育科教育」等の体育専門雑誌執筆を始め、数々の場で講演もしている体育界の「オピニオンリーダー」である。
現在の体育科教育の第一人者といえる。
なぜそんなビッグネームを本校体育科のためだけに呼べたかというと、それはいわゆる「縁」と「運」である。
人が人を呼び、繋がる。
私は、ご存知の通り運がいいので、「運」ばれてきた縁で繋がれた訳である。

次期学習指導要領のことについても質問できる大チャンスである。
授業後の分科会はもちろん、教育フェア1のシッティングバレーの後でもご講義をいただく。
ちなみに、教育フェア1がジャージ着用なので、そのままの恰好で参加していだたいてOKである。
文科省の有名な先生の話を、実技を交えて聞けるまたとないチャンスである。
(そして、シッティングバレー自体が、単純に楽しい。)

6月23日(金)は「本校児童のために、文科省の先生へ次期学習指導要領の体育を学びに出かけます」で決まりである。
学校にとっても、必要な学びのはずである。
特に体育主任なら、尚更言いやすい。
年休よりも、「出張」で堂々と来て頂きたい。

また、2日目は体育の授業が1本と、全体講演もある。
こちらは、5年の「バスケットボール」の授業展開である。
私の同僚が尊敬してやまない、印西市の鈴木弘之先生が講師である。
私も初めてお話が聞けるので、この日も楽しみである。

なお、2日間にわたり、体育館前では明治図書や各出版社のブースが出店される。
私の著書もあるので、まだの方はお手にとっていただきたい。

皆様と直接お話する機会がもてれば幸いである。

2017年6月16日金曜日

クレームは、願い

先月、厚木市教育委員会にお呼ばれして、講座をもたせていただいた。
その内容から。

「学級経営」と「切り返しの技術」をテーマにお話をさせていただいてきた。

色々話したが、切り返しワードの要点は一つで、

お互いの願いを近づけること
である。

例えば「クレーム」は「文句」ではなく、「願い」そのものである。
そのままネガティブに受け止めると、自己防衛と弁護に走りたくなる。
願いなのだから、まずは受け止めて、こちらの願いも伝える。
この願いをます受け止める、という過程が、言うは易く行うは難しのポイントである。

2017年6月14日水曜日

「これやっときゃ大丈夫」は、ない

だいぶ長い間ひっぱっているが、小学館セミナーでの学び。
いいものは広めるべきなのでシェア。

メイン講師の一人、菊池省三先生の言葉。

「これやっときゃ大丈夫」は、ない。

それがもしあるなら、戦後何十年でとっくに発見されているはず、ということである。

菊池省三先生といえば「ほめ言葉のシャワー」が有名だが、その人が言うのだから、説得力がある。
(私も同じことを何度も言っているが、やはりそこは実践の長さと深さの差である。説得力が違う。)
自身の実践が広まってくるほど、誠実さをもって強調したくなる言葉であると思う。

うまくいっている人の話だとか、著名な先生の言うことだと、鵜呑みにしすぎてしまうことがある。
「鵜呑み」とは読んで字の如く、鵜がするように対象を噛まずに丸呑みすること。
「よく理解せずに受け入れること」の比喩である。

何度も言っているが、「ほめ言葉のシャワー」は、すごい。
ただし、菊池実践は、相当に深い。
そこだけ真似しても、全く形にならない。
「ほめ言葉のシャワー」が菊池実践のシンボルとして広まっているだけである。
本当にやるなら「菊池道場」等に入るなり、菊池実践の本を何十冊も読んだりセミナーに出かけたりして、深める必要がある。

学級経営において、「鉄板」の手など、ない。
千手観音よろしく、多くの手をもつことである。
千手観音が多くの手をもつのは、どのような生命をも漏らさず救済しようとすることからであるという。
こちらは神様ではないので、すべてを救うことは難しいかもしれないが、最低でも学級の子どもの人数分の手は必要になる。

だから「これやっときゃ」がない以上、たくさんの手法を学んでもつしかない。
「意図的な経験」を意識して何十年もやっている、本物のベテラン教員の方が、若手より対応の幅が広い理由である。
時代が激変しようがそうでなかろうが、教える立場にある以上、一生学び続けるしかない。
私の尊敬する野口芳宏先生は齢八十を越え、未だ学び続けている。
だからこそ、多くの人の尊敬を集め、教えをこう人が絶えないのだと思う。

「これやっときゃ大丈夫」は、ない。
人前に立つときは、緊張感をもって準備をし、その上で楽観的に目の前の事に当たりたい。

2017年6月12日月曜日

自分の周りにいる人こそ自分自身

以前紹介した『人生はあるあるである』からの気付き。

この本に「自分の周りにいる人こそ自分自身」という小タイトルの話がある。
給料が安いとか上司が悪いとか、不満を言う人はどの社会にもいる。
しかし、これは当然だという。
例えば、相手から雑な扱いを受けた時。
「自分はいい加減な対応でいいと思われている。」と考える。
つまり、もっと頑張らねばならない。

相手の対応の悪さで怒っている若手には
「お前がナメられてんねんで」
と教えてあげるという。

私も共著『やる気スイッチ押してみよう!』の中で、
「苦手な相手は鏡」ということを書いている。
全く同じことである。

相手に、不平・不満を抱いたら、自分が至らないということ。
子どもにダメなところがあったら、自分をふり返ること。
だらしなさに腹が立つようなら、自分の中にもそれがある証拠である。
もっと努力すればいいのにと思ったら、自分はどうかと考えること。

相手を批判するのは簡単。
しかし、批判して人を指さす時、「人差し指」は文字通り相手をさしているが、小指と中指と薬指は、自分を指さしている。
批判している相手の三倍は自分のことである。
何か言いたくなったら、ぐっと我が身をふり返るようにしたい。

2017年6月11日日曜日

公開研究会ご案内
今日は本校の公開研究会の案内。

6月23日(金)・24日(土) 
千葉大学教育学部附属小学校 第50回公開研究会
http://www.el.chiba-u.jp/kenkyu.html

私は1日目に4年生の「ネット型ゲーム」の授業展開をする。
午後には、教育フェアで「アクティブ・ラーニングの体育」をテーマに実技研&理論研修の予定である。
この日の講師は文部科学省スポーツ庁で体育の教科調査官をされている、高田彬成先生をお迎えする。
授業研と協議会だけでなく、教育フェアまですべてご協力頂く予定である。
特に午後の教育フェアは、体育の初心者はもちろん、新学習指導要領における体育を学びたい方すべてにおすすめである。
私の授業以上に、そちらへのご参加を強くおすすめしたい。

一応自分の授業の宣伝も。
全体の研究テーマ「学びを楽しむ授業」を受け、体育部の研究テーマは
「自ら運動の楽しさを追求していく体育学習 ~サンドイッチ型を通して~」
http://www.el.chiba-u.jp/index_taiiku.html
今回は「ネットボール」という名称で、ネット型ゲームを「つくる」という趣旨で授業展開する。
バレーボールに似た動きになってくると思うが、ルールは全く違うものになる予定である。
誰もが楽しめる「共生」を意識した体育の授業展開を考えている。

以上、ご案内まで。

2017年6月10日土曜日

鯉幟のように

こどもの日に書いた記事。
(うっかり、季節柄のものなのに、アップし忘れていた。)

祝日法には次のように規定されている。
「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」

母への感謝も内容の一つである。
なぜか。
簡単に言うと、母こそ子が存在するルーツだからである。
子どもの成長を願い祝うということは、そのまま母親の存在の肯定につながる。
あまり認知されていないが、この祝日に「母に感謝する」の部分を入れたことは、特筆すべきことである。
(父は残念ながら入っていないが、子どもにとって母親の存在は特別である。
 その点において父は母に完全コールド負けである。)

ところで、こどもの日に関連することといったら何か。
列挙すると
1鎧兜・五月人形
2鯉のぼり
3菖蒲湯
4ちまき
5柏餅

ここに込められた願いを考えると、次のように分類できる。

1、2、3,4は子どもの成長を願うものである。
5だけは、親のため。
柏の葉は新芽が育つまで落ちないために、子が育つまで親が生きながらえるという意味がある。
親が生きることが、子の成長に間接的につながるという考えである。

他の視点で分類する。
2の鯉幟だけが異質である。
どういう視点か、少し考えてみて欲しい。

私の尊敬する野口芳宏先生の言葉に、次のものがある。
「子供には、支援よりもむしろ鍛えを。」

つまり鎧冑も五月人形も菖蒲湯もちまきも柏餅も「子どもを守る」という支援・厄除けの視点である。
鯉幟だけが「逆境を乗り越え逞しく生きよ」という鍛錬の視点である。

子どもは、守られるべき存在である。
一方で、子どもは、自立に向けて成長すべき存在でもある。

以前、オンライン記事で書いたが、鍛える視点、叱る視点を欠落させないことである。
(参考『子どもを「大切に大切に」しながらダメにする親』プレジデントオンライン
http://president.jp/articles/-/17690?page=4)

学級経営においても、この基本は外さない。
勉強ができないで困っていたら、教えてあげればいい。
でも、教えた後は、自分で解けるように見守る段階が必要である。
たとえ子ども同士で教え合わせる時にも、この視点をもたせる。
親切な子どもほど、相手が自力でやろうという段階でもまだ手出しや口出しをしてしまう。
教師でも同様である。

子どもを、何かができない存在として見ない。
子どもは、何かができるようになる存在である。
だから、鍛える。

鯉幟は、激流を昇って鍛えられることで龍になる。
子どもも、いつまでも子どもではない。
必要な部分は守りながらも鍛えて鍛えて、逞しく育てたい。

2017年6月8日木曜日

所属にプライドをもつ

私は「ビジネス発想源」という人気メルマガを読んでいる。
だから、そこでおすすめされている書籍は、結構即買いしている。
今回ネタにする本も、そこで紹介された本である。

『人生はあるあるである』
レイザーラモンRG 小学館よしもと新書
https://www.amazon.co.jp/dp/4098235048

次の一文に、心がひかれた。
===============
(引用開始)
ただ、一生懸命に働いたのは店長に気に入らたいからじゃない。
僕は自分の所属している団体がダサいと思われたくなかったのだ。
そして店長が嫌だからといって、ダラダラ接客するということは、その店にいる自分がダサいということだと思っていた。
(引用終了)
=================

全く同感である。
一生懸命働かないのは、ダサいのである。
自分の所属団体がダサいと思われるのは、プライドが許さない。
今までも、そう思ってきた。
「この学校に入れたい」「この学校に異動したい」
そう思われる学校にするために貢献したいと、どの職場にいる時も強く願ってきた。

幸いにも、最近ちょくちょく「附属小学校に異動したい」という声をきく。
その声を県内、県外の職員へ広げることが、一つの目標である。
教育実習の学生に「この学校でいつか働きたい」と思わせることが目標である。
私がかつて、指導教員の先生に抱いた憧れを、下の代にも伝えたいのである。

所属にプライドをもつ。
それは、一番小さな団体は家族であるし、さらに小さくすると自分自身である。
大きくすれば、学校、、地域、県、関東、そして何より、日本国である。

所属へのプライドをもって、仕事にあたりたい。

2017年6月6日火曜日

だらだらを勉強させない

小学館セミナーでの学びシェアの続き。

陰山英男先生の言葉。
「だらだらを勉強させない」
どういうことか。

私のメモだが、次のような話をされていた。
「だらだら分数の勉強をしているのは、分数の勉強をしているんじゃない。
だらだらの勉強をしているんだ。」

以前紹介したことのある、野口先生の「教材内容と教科内容と教育内容の違い」の考え方に近い。
つまり、分数の計算の学習自体は、教科としての内容。
しかし、だらだら勉強をしているのは、「だらだら」の勉強なのである。
「だらだらやる」という学習となる。
「24時間道徳」と同じ考え方である。

同じことが、仕事にもいえる。
今日出勤するのは、何のためなのか。
労働対価としての給与をもらうためなのか。
一日を過ごしてゴールデンウィークに近付くための、単なる忍耐の時間なのか。
社会に出て自分を役立て、人に喜んでもらうためなのか。
目的意識の違いで、得られるものは全く変わる。
(ちなみに、どんな働き方をしようが前2つは手に入る。)

話を戻して、子どもにマイナスの学習をさせない。
ただ教科内容を教えれば良いというものではない。
学生時代、こちらが聞いていようがいまいが、ひたすら喋るだけの授業を受けたことがあると思う。
歴史の時間なのに「内職」として英語の学習をしていたり、ひどいと弁当を食べていても黙認されていることもある。
これは「授業を聞かないで自分勝手にしてもよい」
「自分の受験に関係のない学習は無意味」
という学習をさせていることになる。

子どもに何を学習させているのか。
教科内容だけでなく、教育内容にまで目を向けるようにしたい。

2017年6月4日日曜日

学級経営に上下なし

私の同僚に口が悪いのが何人かいる。
(先に言っておくと、割と仲良しである。)
『切り返しの技術』を読んで、こんなことを言われた。
http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/500322/ref=pd_zg_hrsr_b_1_5_last

「お前の本、いいこと書いてるな。
そんなに学級経営うまくねーのに!」

腹立たしいことこの上ないが、まさにその通りで、ぐうの音も出ない。
そう、勘違いされることがあるが、そんなに何でも楽勝でうまくいっている訳ではない。
常に試行錯誤しながら、目の前の子どもたちと真剣勝負の日々である。
喜怒哀楽がもろに出るし、昨日はすごく喜んでると思ったら今日は落ち込んでいる。
だから、この同僚の言うことは、(半分残念ながら)本当である。

ただ、私は実感をもって言えるのだが、みんなそうではないかと思う。
本を何十冊も書いているとかいうと、神様のような学級経営を想像する。
「毎日、みんなきらきらとした笑顔で、先生も輝きながらいきいきと、・・・」
私は、そういう風に思っていた。
今は、「そんな訳ない」と思う。

世の中には色々な学級経営方針や手法がある。
その中には「褒める」を中心にしたものもあれば「叱る」を中心にしたものもある。
「一斉指導」の実践が多い人もいれば「個別指導」の実践が目立つ人もいる。
しかしどの人だって褒めるのと並行して叱っているし、叱るだけでなく褒めている。
一斉指導をしながら個別指導をしている。
苦しみながらも喜びを見出している。
だから何度も言っているが「これをやっているだけで万事うまくいく」というのは、ない。

学級で相手するのは、プログラム通りのロボットではなく、個々の人間である。
個性的すぎる。
本で書かれることは、その中に「これは共通して言えることが多い」という程度のことである。
そこを手法として紹介しているにすぎない。

話を戻すと、だから私も学級経営がうまいなどと口が裂けても言えないのである。
大失敗もたくさんしている。
逆にいえば、大失敗という資産がたくさんある。
だからこそ、人様に色々なことが紹介できるのである。
「ピンチはチャンス」の経験があるし、「どうにもうまくいかない目の前の子どもが、神様」という実感がある。

うまくいったと思おうが思うまいが、どちらも見方でしかない。
学級経営に上下はなく、みんな常に「それはそれでよし」なのである。
そうでないと、全国のすべての子どもたちに申し訳ないことになる。
とにかく、目の前の状況を楽しむこと。
そのために、「切り返しの技術」は必ず役立つ。
学級経営は下手くそかもしれないが、間違いなくいい本であるので、自信をもって多くの人におすすめしたい。

2017年6月2日金曜日

5月から6月に大変なのは、普通。


どの学級でも、何かと落ち着かなくなる時期である。
最初の三日間、一週間、一ヶ月というのは、一つの勝負どころでもあり、区切りでもあり、崩れ時にもなる。

この時期は、最初のルールが乱れてきたり、何かうまくいかない感じになる。
それが普通と思っているか、自分だけの異常事態と捉えるかで、大分違う。
エネルギー満タンで、自信とやる気に満ち溢れている人なら、後者の捉えでも構わない。ガンガン進んでほしい。
大部分の方は、ちょっと疲れていると思うので、それが普通なんだという捉えの方が、健全である。

普通だから何もしなくていい訳ではない。
ピンチな感じの今こそ、改善のチャンスである。
勉強にも今まで以上に身が入る。
教育雑誌一つを読んでも、普段なら読みとばすような記事が引っかかるはずである。
アンテナが高くなるとか、フックがあるとかいう状態になる。

また、たまたま自分のクラスが安定しているという場合もある。
この場合は、危機感がない分、実はより危険なので、とりあえず総点検した方がよい。
うまくいってると、他の苦しんでいる担任にアドバイスをしたくなるが、まあやめた方がよいというのが本音である。
実は、安定していると思っている本人が一番危ない。
更に、安全地帯からのアドバイスは、相手が落ち込むか腹が立つかのどちらかである。
「わかるよ。大変だよね…」と共感してくれた方がありがたいし、真実である。

いずれにしろ、この期間にすべきことは、休養よりも勉強というのが専ら持論である。
今必要なのは、回復することなのか、先に備えて磨いておくことなのか。
自分にとって必要な行動を選択してとるようにしたい。

2017年5月31日水曜日

外面を整える

若手の方向けの話。
この時期、ベテランの方は大体やっていることを一つ。

5月も終わろうという頃、学級開き当初とは様子が変わっているはずである。
平たく言うと、あらゆることが少しずつ弛む時期である。
慣れてくれば、弛む。
当然である。

では、具体的にどうするか。
環境から変える。
外からアプローチする。
実際は弛みは内面に起きているのだが、内面に働きかけるのは外面である。

つまりは、モノである。
例えば今年度の学級では
「物の扱いは人の扱い」
という言葉を定着させている。
物の扱いが乱雑ということは、人の扱いが乱雑ということ。
教室が落ち着かないのは、物の扱いが落ち着かないからである。

チェックする点はたくさんある。
目に見えるところだと、棚の上。
床。
椅子。
靴箱。
雨の日なら、傘立て。
公共、共同の場で、人様の迷惑になるような物の置き方をしていないかである。

また、見えないところも大切である。
個々のロッカーの中や机の引き出しは、個々の心のゆとりにつながる。
定期的に整える。

試しに、何も指導しないで下校させた後、靴箱と教室の椅子を見てみるといい。
落ち着かない子は、十中八九上靴と椅子がきちんとしわまれていない。
心が、外面に出ているのである。

そう考えれば、アプローチは単純である。
それらを整えさせること。
これに尽きる。
内面は変えられないのだから、外面を変えさせる。
これは指導の領域である。
教室が乱れていたら、子どものせいではなく教師の指導不足である。

弛みを感じたら、環境を整える。
学級経営の基本的手法である。

2017年5月29日月曜日

落ちてたらまた拾うだけ

千葉大学に勤める職員の方の言葉。
3月いっぱいで、大学内の職員の方々が多く入れ替わった。
大学では様々な仕事があるが、清掃を中心に仕事をしてくれる方もいる。

休み明けは、カラスがゴミ箱を漁って散らかすため、ものすごく汚くなる。
大学のゴミ箱は、学生だけでなく、土日に通る他の人々も捨てるため、ゴミ箱があふれかえる。
カラスにとっては、最高の餌場である。

以前、あまりにひどい惨状なので、取材をして教材化した。
(詳細は『教育技術』誌の道徳の授業に掲載されたので省略。)
子どもにも現状を知って欲しいと思ったからである。
自分たちの通学路がきれいなのは、自然で当たり前のことではないと知って欲しかったからである。

毎朝清掃をしてくれるその方に、インタビューをした。
「毎日こんなに散らかされて、大変じゃないですか?」
すると、笑顔でこう答えられた。

「落ちてたら、また拾うだけですよ。
それが仕事ですから。」

ガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。
その姿勢に、頭を下げるしかなかった。
仕事に対してグチを言っている場合ではない。
それが仕事である。
以前「仕事の9割は忍耐」という言葉を紹介したが、あれに通ずる。
完全に「参りました」という感じである。

この方も、3月にご退職をされた。
私が「おはようございます。」と挨拶をすると
「松尾先生。私、今月いっぱいで退職いたします。ありがとうございました。」
と、一度しか紹介していない私の名前を呼んで、丁寧に挨拶をしてくれた。

やはり、一つの事を徹底する人は、他もできているのである。
一事が万事。
凡事徹底。

周りの人から学べることは、本当に大きい。
常に感謝を忘れずに過ごしたい。

歴史の鉄則 便利と義務

最近読んだ本からの気付き。 次の本から、一文を引用する。 『サピエンス全史 上 文明の構造と人類の幸福』 ユヴァル・ノア・ハラリ 著 柴田 裕之 訳 河出書房新社 http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309226712/ ======...

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