2017年9月18日月曜日

敬老の日は、あっていい日

祝日ということで、特別に連日投稿。

敬老の日である。
その意義は言わずもがな。

しかし、この敬老の日に対しても、様々な意見がある。
平たく言うと
「本来、いつでも敬するべきであり、この日だけ敬って祝ってはい終わりというのはけしからん」
というものである。

なるほど、一理ある。
確かにその通りである。
しかし、私はやはり意義があると思っている。

当たり前のものというのは、気付く機会がないと有難みがわからないのである。
空気の有難みに気付くのは、汚れた空気の中で暮らす時や、水中に潜っている時ぐらいである。
例えば毎日食事を作ってくれる相手への有難みは、意外と気付けない。
日常すぎて、感謝する機会がないからである。
病気をして倒れると気付く。
つまり、有難みに気付くための一つには、不足の状況がある。

もう一つは、言われて気付くというもの。
不足する前に、失う前に気付いた方がいい。
「いつまでもあると思うな親と金」という言葉があるが、全くその通りである。
子どもが可愛い時期だってそうである。
あっという間に巣立っていく。

私は今年祖母を亡くし、自分の祖父母というものが完全にこの世からいなくなってしまった。
もっと会っておけば良かった、というのは、後の祭りである。

もし今日、「いつもありがとう」が言える相手がいるなら、それは幸せなことである。
自分の祖父母でなくても、近所の方でもいい。
何なら、心の中で思うだけでもいいと思う。
これらの理由から「敬老の日に、意義はある」と思う次第である。

2017年9月17日日曜日

「気になる子」は、やっぱり神様

ある学校でインクルーシブ教育をテーマに話をさせていただいた。
教育委員会よりインクルーシブ教育の研究指定を受けているとのことである。
もう、職員室の前を通るだけで、職場の雰囲気がいいのがわかる学校である。

「気になる子を伸ばす指導」という演題であった。
私の講座内容の中心となる考えは「気になる子こそ、神様」である。
ちなみに、この本の中で私の書いた章と同じタイトルである。
https://www.amazon.co.jp/dp/4181856119

現に、私が色々な場でお話ができるのは、歴代の子どもたちのお陰である。
その中でも、「気になる子」が教えてくれたことは数知れない。
(その学びを支えてくれたのは、その周囲のもっと数多くの子どもたちである。感謝しきれない。)
今回もチャンスもいただけた。
「気になる子」は、やっぱり神様だったというのが実感である。

私は、経験知で話す。
散々悪戦苦闘させてもらったお陰で「気になる子」の話はネタが尽きない。
(そんな配置をしてくれた歴代の校長先生方にも感謝である。)
元ネタがバリエーション豊富にたくさんあるから、アイデアもいくらでも生まれる。

創造性とは、表現そのものである。
創造性とは、勉強するものではなく、実践するものである。
だから、たくさん辛い思いをして苦しみ泣いた経験のある人の方が、この面は強い。
最低限の知識を勉強したら、創造性を発揮するべくあとは実践あるのみである。

一方で、この「最低限の知識」の大切さも強調したい。
知識があると、見え方が変わる。
「観」が変わるということである。
捉え方が変わるということである。
例えば、電車内で突然意味不明の言葉を叫ぶ人がいたとする。
普通にみれば「変な奴がいる」「怖い」となる。
何かしらの知識がある人なら「ああ、今フラッシュバックしたのかな」「何か思い出したのだろうな」と思う。
教室にいる「気になる子」も、知識がないと「ただのわがまま」「手のかかる子」で片付けられてしまう。

今回の講座では、前半に理論と私の実践例を紹介し、後半にワークをしてもらった。
前半の知識をもとに、後半やってみるという流れで、私はこの形をよくとる。
講座が終わった後に「(夏休みだから)明日子どもがいないのが残念でならない。」
という感想を述べていただいた。
「学ぶ」ということに真剣に向き合っているからこそ出るコメントである。
「学即実践」である。

講師をさせていただいたお陰で、誰より私自身が学べた。
今回学んだことを早く実践したくてたまらない気持ちになった。

2017年9月15日金曜日

一斉指導は時代遅れ?

最近、原稿でも講演でも、インクルーシブ教育に関わる依頼が多い。
現代のニーズがそこにあることが読み取れる。
多様な子どもにどう関わるか。
体育でも「共生」の大切さが強調されており、パラリンピックへの啓蒙意識も強い。

さて、「インクルーシブ教育」も「共生」も理想はいいのだが、現実はなかなか厳しい。
学力の面でいうと、学習指導要領には最低基準が示されており、そこへの全員到達が望まれる。
そうなると、かなり進んだ子どもへも、到底届かなそうな状態の子どもへも、その中間含めすべてへの対応を望まれる。
一人一人に完全個別指導することができれば可能だが、現実的ではない。
結局、一斉指導をどうするかという原点に行き着く。

昨今、一斉指導を否定する言がちらほら聞かれるが、これを鵜呑みにすると危ない。
そもそも授業とは、一斉指導である。
複数の相手に一人の教員が指導するのだから、一斉指導以外にない。
(制度自体が変われば話は別である。)
インクルーシブ教育における個別指導だって、個別の合理的配慮はしても、一斉指導の中での話である。
有識者が言っているのも、一斉指導の単なる否定ではなく、その真意は黙って座って聞かせる授業に限界があるということである。
(ちなみに、有識者側もそれを教えるために黙って座って聞かせていることが多い。)

怖いのは、横文字教育用語や「一斉指導否定」などを、前衛的だと思って、若者が感化されすぎることである。
一斉指導が当たり前にできない教師では話にならない。
インクルーシブ教育どうこうの前に、特に問題なく学習できる子どもたちを荒らさないことである。
そういう諸々ができた上で、理想の話に近付く、というのがステップである。

今の時代は、ここが厳しい。
いきなり難しい状況に放り込まれて、さあ努力と工夫でがんばれ、という感じがある。
まずは、マニュアル的ノウハウが必要である。
マニュアル否定は、マニュアルを越えた時にすればよい。
最初からゼロベースのオリジナルのやり方では、非効率すぎる。
大学の実習時代に最低限教えておきたいところである。

まずは、一斉指導。
ここの大切さを、今一度強調したい。

2017年9月13日水曜日

音読を考える

木更津技法研での野口芳宏先生からの学び。
音読をどう評価するか、というのはなかなか難しい。

音読は、あくまで現象。
そして音読は一つの技法、技能である。
読解力と関連づけたいところだが、実際は音読の現象からその力を評価するのは難しい。
内容がよくわかっていなくても、上手い子どもはいる。
内容がよくわかっていても、読むのはあまり上手くない子どももいる。
それが現実である。

では、授業における音読の意味、形成学力は何なのか、と全体へ尋ねてみた。
一番は、間違いの発見だろうということで、意見が一致した。
わかっているつもりが、声に出して読むことで、初めてわかっていないことに気付く。
不備・不足・不十分に気付けるのである。
あとは、量。
やはり、何はともあれ、量を積むことは大切である。

ここに関連して「素読」の大切さについても述べられた。
教科書のない時代などは、写すことと素読だけで学習が成立していた。
それぐらい、時代を越えて根源的に大切な学習である。
声に出して読むことで、身体に染みこませることにも意味がある。
齋藤孝氏の「声に出して読みたい日本語」が大ヒットしたのも、そういう原点回帰といえる。

また、一方で高学年における「黙読」の大切さについても述べられた。
低学年の教材などは、短いのでそれほどの負担感もなく何度も読める。
しかし、高学年は、長い教材文も多い。
やはり、量が不足しているという。
「黙読」も大切にしてもっともっと読ませたい。

結局、読む力というのは、一朝一夕、うまい方法で身につくものではないらしい。
現代は何でも効率化が重視されるが、一見非効率な量の積み重ねは、何にもまして学習の基本である。

2017年9月11日月曜日

学習指導要領は「たたき台」

今年の3月に学習指導要領が公示されてから、教育界の動きは大きく変わった。
そもそも、学習指導要領とは何なのか。
文部科学省のH.P.には次のように解説されている。
============
(引用開始)
学習指導要領とは何か?

 全国のどの地域で教育を受けても、一定の水準の教育を受けられるようにするため、文部科学省では、学校教育法等に基づき、各学校で教育課程(カリキュラム)を編成する際の基準を定めています。これを「学習指導要領」といいます。

「学習指導要領」では、小学校、中学校、高等学校等ごとに、それぞれの教科等の目標や大まかな教育内容を定めています。また、これとは別に、学校教育法施行規則で、例えば小・中学校の教科等の年間の標準授業時数等が定められています。
 各学校では、この「学習指導要領」や年間の標準授業時数等を踏まえ、地域や学校の実態に応じて、教育課程(カリキュラム)を編成しています。
(引用終了)
===========

国として、一定の教育水準を保つためのものである。
つまり、あくまで土台、たたき台である。
だから「地域や学校の実態に応じて、教育課程を編成」とある。

つまり、あくまで基準であり、すべてこの通りにやれというものではない。
マニュアルはあくまでマニュアルであり、応用されるべきものである。
たとえ何かのバイトであっても、マニュアル通り一辺倒の対応にはならないはずである。

時にマニュアルから大きく外れても良いが、目的を見失ってはいけない。
例えば一般企業であれば「顧客満足」と「長期的利益」の双方は落とせない。
学校であれば、子どもの「学校が楽しいこと」と「長期的な成長」である。
それを最低限保証するためのものである。

学習指導要領にこう書いてあるからそうするという思考は、危険である。
それは「先生がこう言ったから」と言うことを鵜呑みにして聞く子どもと同じ。
ロボットみたいな人間に教えられたら、ロボットみたいな子どもに育つのは必然である。
そんな姿勢で「主体的・対話的で深い学びを」などとは、口が裂けても言えない。
アクティブ・ラーニングの視点は、むしろ、教える側の心構えである。

「偉い人」がそういうからするのか。
それも同じこと。
自分の頭で考えていないことこの上ない。
先頭に立っている人間がもし間違えていたら、全員アウトである。
(無責任で依存的な人ほど、その人が失敗した時に手の平を返したように文句を言う傾向があるのも見逃せないポイントである。)

結局、最終的に頼れるのは自分自身だけである。
失敗しても成功しても、自分が決めたことなら納得がいく。
「文科省がこう言ったから」と過去の施策を批判するのは誰でもできる。
「学校がこうだから」「校長が、教頭が」「学年が」「子どもが」。
誰かのせいにさえすれば、言い訳は無限にできる。

自分の責任においてなら、一切の言い訳はきかない。
「自分がこう決めたから、こうした。」
といえば、自分で自分の人生を背負える。

学習指導要領は、あくまで土台、たたき台。
それをどう実践して形にするかは、すべて自分の創意工夫。

すべては私の責任。
そう言い切れるように、自分の実践をしていきたい。

2017年9月10日日曜日

議論より対話

今日は教育のネタというより、雑感、エッセイ。

最近、記事を書く度に、色々な場で反応が得られるようになってきた。
本メルマガの記事でも「まぐまぐニュース」に取り上げられると、他のサイトで転載される。
私に全く興味のない人の目に触れ、様々な意見がコメントされる訳である。

特にプレジデントオンラインの記事は、ヤフーニュースに転載されやすいので、コメント数が多い。
肯定的なものから否定的なものまで、あらゆる意見が出る。
作者は完全にそっちのけで、議論が盛り上がっている。
話題の提供ができたという点で、そこは意味があると捉えている。

ちなみに、それらの議論に対し、作者は首を突っ込まないに限る。
子どものことで夫婦げんかしている状況とほぼ同じである。
下手に介入すると
「あんたは関係ないから引っ込んでなさい!」
となって、その内
「大体あんたがね・・・!」
と巻き込まれること必至である。

私は、争い事全般が嫌いである。
スポーツやゲームなどの、ルールに基づいた正々堂々とした勝負ならばいい。
勝ったら嬉しいし負けたら悔しいが、それも爽やかである。
それは、正義や主張を通すための無益な争い事とは区別する。

争い事や喧嘩は、ルールがない上に、双方が無駄に傷つくから嫌なのである。
生産性がないともいえる。
不条理に傷つけられて黙っているほど、皆お人好しではない。
腹の底に溜まった怒りは、数倍、数十倍に膨れあがる。
非生産的というより、むしろ反生産的である。
人を馬鹿にしたり傷つけたりしたら、それが必ず自分に返ってくる。
その個人の権益争いが最悪に発展した形が、国家間の戦争である。
人に喧嘩を売る時は、それぐらい考えるべきである。

対話する力が求めらているが、それが議論で主張する力と混同されている感が否めない。
本来求められていることの中心は「人の話を聞く力」である。
共感しながら話す力である。
「自分の主張をしゃべりまくって相手を説き伏せる力」ではない。
それはアメリカの大統領選挙で勝つような力であり、一部には必要だが、そういう子どもを多く育てたい訳ではないだろう。
ある議論に勝った時、人生レベルで見た時に、多くは「実質的に負け」なのである。

どうせなら議論ではなく、対話をしよう。
私は、色々な意見があって然るべきという立場である。
教育実践一つとっても、様々な主張があっていい。
どれかが絶対的に正しいということは、ないと考える。
(絶対は絶対にないという矛盾を主張している点が悩ましくはある。)

これからも、様々な立場の方と対話するために、堂々と自分の意見を発信していきたい。

2017年9月8日金曜日

子どもの「量」を阻むもの

前号の「質か量か」の話の続き。
質と同様、量は大切ということについて、自分の大失敗談を交えてお伝えする。

うまくいくまでの、試行錯誤。
子どもがそれをやり続けられる鍵は何か。
一つに、親や教師は、それを見守る余裕があるかどうかである。
余計な手出し口出しはせずに、励まし見守ってあげられるかどうかである。

この「余計な手出し口だし」が、厄介である。
親や教師の側は、自分ができたり、「正解」の理論がわかったりしているだけに、やきもきする。
「何でこんなことができないの?」と、疑問と同時にその不甲斐なさに苛立ってきてしまう。
この態度こそが、子どもが自由に試行錯誤しながら挑戦する最大の障壁になる。

わかっていても、やってしまうものである。
私は以前に担任していた子どもへの体育の指導で、深く深く反省し、後悔していることがある。
その当時、器械運動が苦手な子どもに、できるようにさせてあげたいという純粋な願いで、様々な方法を試した。
しかし、思うような成果が一向に上がらない。
その時、ぽそっと
「これもダメか・・・」
とつぶやいてしまったのである。
それが、子どもに聞こえてしまったのである。

これは、大失敗の極み。
苦手なことも前向きに努力し、我慢するその子どもは、直接私には言わなかった。
後日、面談の際に、親御さんに言われて知ったのである。
言った本人は全く気付いていないが、言われた方は深く傷ついている。
最悪である。
救われる唯一の点は、親御さんが私に伝えてくれたことである。
これは決して「クレーム」ではない。
適切な言葉を選ぶとすれば、「願い」である。
我が子の気持ちをわかって欲しいという願い。
担任の教師によりよく変わって欲しいという願いである。
伝えることで、角が立つかもしれないことを、言ってくれたのである。
深く反省し、謝罪し、改善して感謝するしかない。

何が言いたいかというと、教える側の強すぎる願いは、時に子どもの「量」を阻むということである。
うまくいくはずという思い込みが、最大の障壁になるということである。
親や教師の心ない一言が、子どものやる気を大きく挫くということである。

指導の知識をもった上で、手出し口出しは最小限に。
しかし、最後は子どもの可能性を信じる思いを腹の底にもつこと。

結局、子どもに量を積ませる指導の肝は、教師のエゴを捨て去った上での我慢強さと、思いやりがすべてである。

2017年9月6日水曜日

質か量か

前号の続き。
技能不足をルールに逃げてはいけないという話に関連して。
先日、船橋でのサークル「スイッチオン」で話した内容である。

実際、成果が上がらない時、「やり方」に原因があることは多い。
漢字練習しかり。
水泳指導しかり。
やり方は大切である。

一方で、やり方以前に、量に問題があることも多い。
正しいやり方を知っていればすぐに成果が上がるはずという思い込みである。
とんとんと上手くやれてきた人が壁に当たると弱いというのは、この点にもある。
やり方さえ上手ければすぐにできるというものもあるが、そうでないものもある。

わかりやすい例で言うと、水泳である。
「畳の上の水練」という諺がある通り、どんなに理論がわかっていても、実際泳がないことには始まらない。
理論の上でどうすれば泳げるか完璧にわかっていても、そのままプールに入っていきなり泳げるはずがない。
時に水を飲んだり鼻に水が入って痛い思いもしながら、段々に上手くなる。

そのためには、量である。
正しいやり方を知った上で、やはりまずは量。
たとえ非論理的な方法であっても、量は何かを残す。
どんなに質の高い方法であっても、量がなければ机上の空論にすぎない。
十分な経験や量があればこそ、理論も生きるというものである。

そして量をこなすには、数え切れない失敗体験が必要である。
うまくいかないからやらない。
その考え方では、量を積めないからうまくいかないという悪循環である。

とにかく、量を積ませる。
これができると、少なくとも子どもに力は確実につく。
ただやらせ方によっては嫌いになって長期的にみて逆効果になるので、そこが難しいところである。
(小中学校の大会でとんでもない新記録を出して、その後二度とその競技をやらないというパターンは結構多い。)

逆に言えば、進んで量を積もうとさえ思わせるようならば、それは指導として成立しているといえる。

量か質か。
この問いの答えは、二者択一ではない。
質と量は、車の両輪である。
どちらもないと成り立たない。
今回、様々な指導を通して、痛感した学びである。

2017年9月4日月曜日

技能は「次」を見通して確実に指導する

公開研究会での気付き。

公開研究会で行ったネット型ゲームで、技能が問題の一つになった。
ゲームを通して技能を徐々に身に付けさせればよい、という考えで行った。
実際は、技能が身につかないまま、ルール変更で対応してしまったのである。
具体的にいうと、バレーボールでいうレシーブの動きにいかず、終始キャッチにはしった。
「キャッチばかりでは面白くないからはじくようにしよう」という方向にもっていきたかったが、いかなかった訳である。

代わりに、落とさないでつなぐにはどうするかということにばかり目がいってしまった。
「ボールを落とさない」ということを、自分たちのメリットとしか捉えなかった訳である。
自分たちがボールを落としにくいルールということは、相手にとっても落としにくく、得点しにくいということに気付かなかった。

つまり、できあがっているスポーツにとってのルールや技能というのは、相当に妥当性があるということである。
やたらにいじると、問題が起きる。
簡易化されたゲームを楽しめればよい、という視点に立脚していたが、やはり問題があることに気付いた。
協議会でも出たが、次の活動への見通しやつながりが大切なのである。
それが、生涯スポーツにつながるのである。

仮説が打ち砕かれるのも、チャレンジした結果であり、成果である。
安全地帯に安住していては、この発見はない。
この成果を次に生かしたい。
協議会や批評箋で意見をくださった方々に深く御礼申し上げたい。

2017年9月2日土曜日

捨てれば、得られる

先週、新刊が出た。

『「あれもこれもできない!」から…「捨てる」仕事術』
https://www.amazon.co.jp/dp/4181713350
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5

タイトルからして、そのまま仕事術の本である。
よく「いつ書いてるの?」と聞かれるが、その答えもここにある。
自分が一番好きな時間に書いている。

とにかく今の時代、新しく求められることが多すぎる。
しかも、求める方は増やす一方で減らす発想がない。
何も捨てずに全てまともに受けていれば、当然パンクする。

クローゼットと同じである。
古い洋服やいらなくなった服まで大事にとっておく必要はない。
新しい服を着たいなら、古くて使わない服をさっさと捨てることである。
その際、最も強敵なのが「これ、高かったのよね」という服と、「思い出」のある服。
要は、時間と労力を費やしてきたことと、義理関係である。
気に入っていないけど、理由があって捨てられないというものもある。

必要な理由も、不要な理由も、いくらでも述べられる。
様々ある中で、最も大切な資源は何か。
それは「時間」。
これに尽きる。
時間とは、命そのもの。
もし時間が無限に与えられたなら、無限にすべてをこなすことができる。
クラスのあの子がどんなに勉強が遅れても、準備が気の遠くなるほど遅くても、ひたすら待てる。
しかし、現実に時間は有限。
お母さんの口癖ナンバーワンは「早くしなさい!」というのも、なるほど納得。
幼稚園バスも小学校の始業も電車の発車時刻も、一人一人への合理的配慮をもって待ってはくれないのである。

だから、我が人生において本当に大切なもの以外は、捨てる必要があるというのが本論である。
捨てることは手段。
目的は、得ること。
何を。
教師人生における、一人の人間としての人生における、本当に欲しいものをである。

吐けば、吸える。
水泳指導の基本である。
吸うために、しっかり吐くこと。
得るために、しっかり捨てること。

このロジックが何となくわかったという方は、何となく買ってみてはいかがというのが、最重要で伝えたいことである。

2017年8月30日水曜日

自分の一部を提供する

ここ最近「平和」について書いてきた。
そこに関連して、宮沢賢治の次の言葉を残している。
「世界全体が幸福にならないうちは 個人の幸福はあり得ない」
個人の真の幸福を考えるなら、世界全体の幸福を考えないと成り立たないということである。
「世界」の解釈をどこまで広げるかで、誰にでも当てはまる法則となる。

学級経営をする際も、この考え方は基本である。
身近な誰かの抱える苦しみに共感できない以上、真に幸せなクラスにはなり得ない。
一人でも陰湿ないじめで苦しんでいる状態だと、学級の何もかもがうまくいかないのは周知の事実である。
一人を救うことが、結局全体を救うことにつながるというのが、学級経営の真理の一つである。

それは、周りのために、自分の財産や、命である時間の一部を提供することになる。
理不尽な要求や、労力を被ることへ「忍耐」する必要も出る。
「自分自身の幸せ」を全く度外視してまで実行するというのは、無理が生じる。
だから以前に紹介した「できる時に、できる人が、できることをする。」
という福島のボランティアセンターの精神は、現実的である。

今、世界情勢は逆の方向に動いている。
私利私欲のために、他の人々の幸福を犠牲にしようという動きである。
宮沢賢治の理想とする世界全体の幸福は、どんどん遠ざかるばかりである。

2017年8月26日土曜日

「こだわり」を捨てる

新刊『捨てる!仕事術』の紹介。
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5
https://www.amazon.co.jp/dp/4181713350

本日より店頭に並ぶ予定である。
この本のテーマは見ての通り「捨てる」こと。

何のために捨てるのか?
大切なことをするためである。

何を捨てるのか?
不要なものにつながる習慣、思い込み、こだわりである。

「こだわり」は「拘り」と漢字で書かれることが少ない。
現代では肯定的な意味で使われることが多くなり、それも誤用ではなくなった。
しかし、漢字で書くと、本来の意味がわかりやすい。

「拘泥」という熟語もあるように、どうでもいいことにやたらに時間をかけることである。
時間が有限という前提に立つ場合、不要な「こだわり」は捨てる必要がある。

例えば、通知表へのこだわりについて書いた項目がある。
以下、本文から一部を引用する。
=============
(引用開始)
結論から言うと、通知表作成、特に所見欄にやたらな時間をかけてはいけません。
指導案と同じで、何のために書くか、読み手のニーズは何かが大切です。

小学校の場合ですが、通知表の主な目的は、保護者に学習状況を把握してもらって今後について考えてもらうことと、
子どものモチベーションアップです。
例え「ここができていない」を伝えるとしても、そこから上げるために伝えます。
相手に「最後通告」をするためのものでありません。
そこで、「読み手がどこを見るか」が大切なのですが、ダントツの一番は「評定」欄です。
(中略)
しかし、成績処理に時間をかけすぎる人の中には、この力の入れどころを間違えている人もいます。
生活や学習について記述する「所見」欄に命をかけてしまうのです。
もっというと、評定しない「外国語」や「総合的な学習の時間」の記述に命をかけます。
そこは、やったことの事実が素直に書いてあればそれでいいのです。
そこに関して熱く伝えたいことがあるなら、通知表以外の場で十分です。
(引用終了)
============

通知表作成は、教師の仕事の中で「大変」と言われるものの一つである。
がんばった分だけ子どもに返るかというと、そうでもない。
これにもやはり、コツがある。
ひたすら自分の経験則でいくより、コツを習った方が成長が早い。

そのコツを、どう見極めて、どうやってやるかである。
その具体的な方法や考え方が書いてある。
ぜひ一度、書店で手にとってみて欲しい。
教師だけでなく、多くの人の働き方や生き方を見直すための一助になるのではないかと思う。

2017年8月24日木曜日

戦争と罪のない子どもたち

先週は北朝鮮がグアム沖にミサイルを撃つと宣言し、世界中が戦々恐々とした。
騒がれたXデーは保留となったが、全く安心できない。
それにしても、この日に、しかも広島の上空を通過させるとの宣言。
挑発的とか無礼とか非常識とかのレベルではない。
国際紛争において、正義や善悪、良心の類は全く通らないらしい。

そんな「暴君」でも、日本の隣国である。
ニュースを見ながら息子に「北朝鮮とだって、本当は仲良くできた方がいいんだよ」と話した。
「何で?」と聞かれた。
この「暴君」に対し、当然の疑問である。

そもそも、ミサイルを撃つぞと脅している「北朝鮮」とは誰なのか。
北朝鮮の国民の総意か。
そんな訳はない。
報道を見る限りだと、北朝鮮の国民は戦争賛美の「危ない人達」に見える。
しかし、以前お伝えした通り、「情報」とは「情の入った報せ」である。
(ブログ教師の寺子屋「風評被害と情報」
参照URL http://hide-m-hyde.blogspot.jp/2011/05/blog-post_03.html
報道が、真実の姿を映し出しているとはいえない。

北朝鮮にだって、子どもたちや、我が子を愛する母親たちがいるのである。
そこにいるのは、我々と全く同じ人間である。
戦争をしたいなんて思う訳がない。
核爆弾を落として大量の人を殺したいなんて思う訳がない。
我が子と同じような幼い子どもたちが死ぬことを望むはずがない。
ただ、それを態度や口に出して言ってはいけない国策のもとに暮らしているだけである。
その辛さは、戦時に負け続けて強烈に統制されていた当時の日本国民と、きっと同じではないか。
与謝野晶子のように「戦争反対」と堂々と叫びたい考えの人たちが、たくさんいるはずである。

日本も北朝鮮もアメリカも、多くの国民の願いは「幸せ」である。
これ以外ない。
それは、世界中のどの子どもたちとも同じ願いである。

だから、我が子にも「〇〇人は〇〇」という偏った考えはもって欲しくない。
どの国の人だって、あくまで同じ願いをもった一人の人間なのである。
様々な国の人と協力して働くのが当たり前のこれからの時代、誰に対しても、同じ一人の人間として見るようになって欲しい。

私にも、海外の国々に関わる友人や知人、教え子たちがいる。
実際にどの国に行った時だって、それぞれ親切にしてくれた人がたくさんいた。
それを考える時、とてもではないが、その国の悪口を言ったり争ったりする気にはなれない。
一人一人を見れば、間違いなく同じ幸せを願う人間同士である。

その戦争は、本当は誰が望んでいるのか。
国の施策と、国民の真の願いは分けて考える必要がある。
いつでも、搾取されるのは国民。
とりわけ弱い立場の人間、すべての子どもたちである。

どんな理由であれ、戦争で人を殺したり、それをネタに憎んだり脅したりしていいことにはならない。
その国にも、罪のない子どもがいる。
過去や現在に負の歴史がある国の子どもでも、その子ども自身に罪はない。
子どもに歴史や国際理解を教える時には、そのことを忘れないよう伝えたい。

2017年8月22日火曜日

採用試験の重要性

つい先日、千葉県の教員採用試験の二次選考があった。
この採用試験というのは、学校現場にとって非常に重要な意味をもつ。

以前も書いた気がするが、記事を探しても見当たらないので再度書く。
ずっと前に「東京教師塾」で、塾頭の原田隆史先生に次のような話を伺った。
(記憶を辿っているので、あやふやな面もあるがご容赦いただきたい。)

どの県のどの学校でも、多忙の原因の上位に「人が足りない」という声が上がる。
そこで、ある県では対策として費用を投じ、教員を大量に採用して少人数学級を実現したそうである。
これで担任の数も増え、教員の多忙化にも歯止めがかかるはず。

実際には、何が起きたか。
以前よりも学級崩壊が多発し、多忙化に余計に拍車がかかったという。
(予防に対し治療は10倍以上の労力を要する。)

原因の一つに、大量採用によって急に門戸が開きすぎたことが考えられるという。
要は、今までなら採用しなかった人材をも、数が足りないのでとにかく採用することになる。
そうすれば、本来なら教師の仕事への志がそんなに高くない人や、現段階では採用に適さない人材も含まれることになる。
(人材としては適しているのに試験に弱いという人も中にはいると思うので、その面ではプラスのチャンスでもある。)
経験のない新規採用者が多いということも考えられるが、新規採用者の質も問われる形となった。

要は学級担任を考える場合、量も必要だが、やはり質なのである。
試験内容を吟味し、適した人材を厳選することが大切なのである。
(ただ現実問題、そう悠長なことも言ってられない現状はある。)

この場合の必要な「質」とは、格段晴らしい実践をする人のことではない。
教育実習生の段階から言えることだが、情熱があって一生懸命で、何とかかんとかやってくれそうな人物である。
そこさえ落とさなければ、現場としての最低基準は満たされる。

そう考えると、採用担当者というのは、非常に大切である。
膨大な数の人を相手しているのだから、選別の目も鋭い。
面接を受ける際は、誤魔化さず、どうせ見抜かれていると腹を括ることである。
(だからこそ、服装のような全員が当たり前のところで無駄に印象を落とさないことが大切である。)

採用された後は採用試験とは無縁のようだが、実は大いに関係がある。
我々の未来の仲間を採用するにあたり、果たしてどんな選別がなされているのか。
採用試験に関心をもつことには意味があると思う。

2017年8月18日金曜日

「LOVEさえなければ、PEACE」を考える

メルマガで長崎原爆忌の翌日に書き、まぐまぐニュースで取り上げられた記事。
http://www.mag2.com/p/news/260236

戦時中を思えば、今は空襲や飢餓を恐れないで生きられる分、平和である。
原爆忌は、慰霊とともに、今自分がこうして生きていること自体に感謝する機会になる。

ただ一見「平和」とはいえ、現代も静かな戦争が繰り広げられている。
国家間で武力を用いて権益争いをしている状態を「戦争」という。
先日記事にした「核兵器禁止条約」の参加国間の温度差などは、それを象徴する出来事である。

戦争の難しいところは、突き詰めると個人の「愛」に端を発する点である。
以前にも紹介したタモリさんの言葉だが
「LOVEさえなければ、PEACE」。
何かを愛する、守るという感情がなければ、争いは起きず、自然「平和」の状態になる。
愛し守る対象さえなければ、何を奪われても何の感情も湧かないのだから、当然である。

先の戦争への解釈としても、個人単位で考えれば、それぞれ自分の大切な何かを守るために、両国の人間は動いた。
例えば特攻は、自分の命を優先順位の二番手以降にしないと成り立たない。
その時の優先順位の一番目は、自分の命を越える何か、守る対象である。

しかし、「愛」によれば相手の命を奪っていいかという問題は全く別である。
「愛」と「平和」によって爆撃をしたのだ、と言われても、命を奪われた側が納得いくはずがない。
愛する者を守るためだ
戦争を終わらせるためだ
単なる実験だった
どの理由だろうが、愛する者を無情にも奪われたという本質から見れば同じことである。
「致し方なかった」理由を並べて正当化を試みても、やはりその個人の恨みは消えない。
結局、戦争は両者の(特に個人である一般市民の)恨みしか残さない。
一般生活レベルで言うと、何をどう言おうが、他人のものを奪ったりいじめたりしていい理由にはならないのと同じである。

戦争と平和について考えることは、学校教育で何を教えるかを考える上でも、大いに関係がある。
世界共通の教育テーマである。

2017年8月16日水曜日

戦争に「justice」はあっても「正義」はない

終戦記念日に関連して、最近、読んだ本から考えたこと。
次の本を読んだ。

『しない生活』幻冬舎新書 小池龍之介 著
http://www.gentosha.co.jp/book/b7753.html

自分の次の新著(https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5)のテーマが「捨てる」なので、こういったテーマの本には関心がある。
この本の中で、次の文が心のフックにひっかかった。
==============
(引用開始)
つまり、ものごとは、公平に、釣り合いが取れてなきゃ気が済まない、という強迫観念がつきまとっているのです。
この強迫観念につけられた名前こそまさに「正義(justice)感」という煩悩に他なりません。
(引用終了)
==============

人間というものは、「不公平」や「不平等」が気持ち悪くて仕方無いということである。
しかし、実際の世の中は不平等だし不公平だというのが現実である。
個人レベルでの不平等も、世界レベルで大きく見てバランスがとれている状態といえる。
私の尊敬する野口芳宏先生も
「安心・安定・秩序・格差。」と仰っている。
安易な平等主義は、むしろ危険であるという。
(こういうことを言うと「平等主義」という「常識」に叩かれるから普通言わないのだが、それを言い切るのがすごい。)

「justice」の語幹「just」は天秤の釣り合いを示す。
前にも紹介したことがあるが、タロットカードのNo.11「justice」の絵柄は、天秤と剣を持った「裁判の女神」の姿である。
裁判とは、物事を測る天秤が「正義」の水平を示すようバランスをとる行為に他ならない。
つまり、罪の深い者に「正義の剣」で罰を与え、他方に利益をもたらすことで、両者のバランスをとろうとするものである。
難しいのは、その「正義の剣」を誰がふるうかという点である。
歴史上では、「正義の剣」を持つものは、常に強者、勝者である。

日本は、降伏宣言を1945年8月15日にした。
しかし、当時の敗戦国に「正義」の権利はない。
ロシアが「そんなの知らない」といえば、ロシアの「正義」が通る。
北方領土問題の解決の難しさは、「正義」の所在の違いである。

今、「正義の剣」は、どの国が握っているのか。
言わずもがな、アメリカ合衆国に他ならない。
世界中のどの国も、アメリカを無視しての国政は有り得ない。
日本にとっても、アメリカの「核の傘」の恩恵は無視できないし、下手に沖縄から米軍を撤退させられない。
自衛隊の米軍への後方支援としての「人道支援」とは何なのかという、安保問題の難しさもある。
結局、日本はアメリカの「正義の剣」によって、「平和」のバランスをとっているのが実情である。

つまり「平和に向けた正義の戦い」というのは、世界レベルの視点からいうと、有り得ない。
ある特定の国の視点でしかない。

そもそも英語の「justice」と日本語の正義という言葉はイコールではない。
日本語の「正義」には「人間行為の正しさ」という意味がある。
戦争に「justice」はあっても「正義」はない。
文化の違いである。

終戦記念日は、日本という国の在り方について考える機会にしたい。

2017年8月14日月曜日

お茶でもすすめればいいっちゃが

6月29日に他界した祖母の話。

私の祖母は、生涯笑顔とユーモアの人だった。
そして、自分にできることをして生きることを何よりも大切にしていた。

20年ほど前に祖父がなくなった後にも、しばらく山の中で一人で暮らしていた。
運動不足を防ぐべく、NHKで放映されている朝のラジオ体操をテレビのお姉さんと一緒にやっていた。
「毎朝やるっちゃが。これがいいとよ。」と笑顔で言っていた。

足腰を悪くしてから、動き回れなくなった後は、とにかくよく手を動かしていた。
私の「やる気スイッチ押してみよう!」が枕元にあり、それを読んで、視写をしていた時期もあった。
頭の体操になるそうである。

人が尋ねてきては、必ず笑わせて帰す。
サービス精神が旺盛なのである。

山奥で一人で暮らす祖母を心配して、
「強盗とか悪い奴が来たらどうするとか。」
と尋ねると、
「お茶でもすすめればいいっちゃが。」
と答えたという。
本当にやるかどうかは別として、祖母らしい切り返しである。

人生ではあらゆる「非常事態」が起きるが、どう対応するかで全て決まる。
あらゆる出来事をユーモアで見る人にとっては、困った出来事を「そう来たか」と面白がる。
すべてに感謝する人もいるし、天に唾する人もいる。

生き方を考えさせてくれた祖母に、改めて感謝したい。

2017年8月12日土曜日

図と地の反転

私は大学時代に教育心理学を専攻していたこともあり、心理学が好きである。
その中の「ゲシュタルト心理学」に「図と地」という知覚に関する面白い考え方がある。
簡単に言うと、図とは、対象物そのものとして知覚されるもの。
地とは、「下地」という言葉にあるように、いわゆる背景のようなもので、知覚されない部分である。

よく知られている例でいうと、白黒の「くびれた壺」の絵である。
黒地の真ん中に白い壺の絵が見える。
しかし見方を変えてみると、「向かい合っている人の顔」に見えるという、あれである。
他にも、例えば次のような絵である。
http://livedoor.blogimg.jp/humon007/imgs/e/8/e8064f53.png
見えただろうか。
この画像の正解は、まさに意識しないと見えないものの一つである。
図と地を反転させると、見えるものが一変するということである。

通常、人間は面積が大きい部分を「地」、小さい部分を「図」と捉えやすい。
つまり、小さい部分の方に着目してしまうという、厄介な心理が人間にはある。
真っ白な布に小さな染みが一点あると、そちらが気になって仕方がないのと同じである。
小さいこと、細かいこと、些細なことに囚われやすいということである。
親が子どもを叱りたくなるのも、この心理である。
我が子が元気であることの有り難さなど、病気になるまで完全に吹っ飛んでしまう。

学級でも、この心理の罠に陥りやすい。
目の前の子どもたちの、些細な「望ましくない点」を「図」としてとらえ、目がいってしまうのである。
もっと大きな面積を占める「地」の方に目をやると、見え方が変わる。
そもそも、今日も元気に学校に来ているということ自体、かなり大きなことである。
あんなつまらない授業をしたのに、あんなひどい叱り方をしたのに、今日も来ているあの子。
にこにこして「先生」と呼ばれること。
この「地」の部分を見ると、畏れるべきことである。
こういう「当たり前」をただの「地」としてみるか、非常に大きな「図」として見るかである。

地と図。
人間は些細なことに着目しやすい。
大きな大事なことを見落としやすい。
家族や職場などの人間関係。
もっと身近だと、自分自身である。
「生きているだけで丸儲け」とは、至言である。

暑いとか文句言ってないで、今日も生きていることに感謝したい。

2017年8月10日木曜日

「自分に厳しく」もほどほどに

「自分に厳しい」というのは、一般的に良いことと捉えられている。
しかし、自分に厳しく他人に優しい、というのは、理想的だがなかなか難しい。
自分に厳しくしていると、どうしても他人が許せなくなってしまう。

わかりやすい例だと、授業。
一生懸命に用意をするのはいい。
しかし、こちらの努力に対し、子どもがノってくるかは、別問題である。
子どもの側からすれば、こちらの努力など、知ったことではない。
ノってくるかどうかは、それが単に子どもにとって面白いかどうかだけである。

努力するほど、往々にしてここを勘違いしてしまう。
努力量と成果は、すぐに直結するとは限らないというのが真実である。
努力が担保してくれるのは、自分が納得することまでである。
自分に厳しくしても、他人に厳しくしていい免罪符にはならないということである。

この時期、湿気と暑さがものすごい。
あまりに自分に厳しくしていると、疲れる。
急激な気温の変化は、体に負担をかける。
この時期、肉体的にも精神的にもだるいのは、あなたがだらしないので決してなく、正常なのである。

肉体が無理をしているのに精神で統御するのは、修行僧でもない限り難しい。
倒れたら元も子もない。
また、自分に厳しくしていると、往々にして他人にも厳しく接してしまうものである。

かの文豪ゲーテも
「人間の最大の罪は不機嫌である。」
と言っている。
疲れていてもいいが、不機嫌なのは、大罪なのである。

こういう時期は無理をせず、「そんなもんだ」とゆるゆる自分の機嫌をとってやっていきたい。

2017年8月8日火曜日

笑って終わる人生

今年の6月、祖母が亡くなった。
97歳の大往生。
「亡くなった」よりも、「生ききった」という言葉がぴったりである。

私の好きな言葉の一つに、次のものがある。
ネイティブアメリカンの言葉だという。

あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。
だからあなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生をおくりなさい

祖母の葬儀は、終始和やかだった。
私を含めて孫が10人、ひ孫が24人もいるのである。
みんな、お別れの時は泣きに泣いたが、その分、本当に笑顔と思い出話が咲き誇る葬儀だった。

祖母は亡くなる前の日、心配して駆けつけた父にジョークを言って笑わせていたという。
「まだ大丈夫」と思わせて、すっと逝ってしまった。
祖母自身、最後まで笑っていたのである。

どう生きるか。
それは結局、どう死ぬかである。

祖母のように、自分が笑って周りが泣いてくれる生き方をしたい。

2017年8月6日日曜日

原爆記念日 核兵器禁止条約を考える

今日は広島の原爆の日である。
3日後の8月9日は長崎。
そして8月15日が終戦記念日である。

核兵器禁止条約が今年の7月7日に国連により採択された。
一見すると、核兵器根絶にとって大きな一歩に見える。
しかし、ここには主要な核保有国が参加していない。
そして何より、日本が参加していない。

これは、非常に奇異な決定のように見える。
しかし、当たり前だが、日本は核の撤廃について相当な関心がある。
さんざん考えた上での政治的判断である。

次の記事は参考になる。
『核兵器禁止条約、日本はなぜ反対したのか』2016.12.5 ヤフーニュース
https://news.yahoo.co.jp/feature/452

世界中の問題が、複雑に絡み合っている。
誰にも解けないパズルである。
この問題が解決する日はくるのか。

この問題の解決策を自分の力で考え出すのは、恐らく不可能である。
我々にできることは、関心をもつこと。
東日本大震災等も含め、負の記念日のもつ意味は、そこである。

2017年8月4日金曜日

聖戦は危険

子どもに、何かしら指摘をする。
説教をする。
明らかに、子どもの行為が良くない。
だから、正々堂々と叱る。

「明らかに」なので、迷いなく注意できる。
しかし、その自信の度合いが高い時ほど、要注意である。
正義、正当だと信じている時ほど、危ない。
大抵、子どもに対して自信をもって指摘をしていることが、自分の問題である。

そうでないことなら、控えめになる。
「まあ、そんな言っても私もできていないのだけれど」と付け加えながら話すのとでは、全く違う。

国際間の紛争を見てもわかる。
宗教や思想による争いは、両者一本も譲らない。
両者にとって我こそが正義の「聖戦」である。
明後日は原爆の日だが、原爆問題も互いの正義の二項対立では解決しない。

話を戻す。
子どもに「だらしない」とか「どうしてそんなことが」「信じられない」などと思ったら、自分のこと。
我が身を振り返るチャンスである。

2017年8月2日水曜日

課題は成果

公開研究会での学び。

学習指導要領の解説が公示された。
各教科とも、変更点がはっきりと示されている。
中でも、教科横断的な学びは強調されているものの一つである。
「カリキュラムマネジメント」が求められている。
算数と体育、音楽と体育など、教科間にまたがる横の学びを計画していくことが求められる。

それは一方で、教科の特性をよりはっきりさせることにもつながる。
算数でしか学べないことは何なのか。
体育ならではの学びは何なのか。

例えば、当たり前のことだが、体育では運動機能の向上が大切である。
広義の意味での「体力」が向上するはずである。
筋力の発達だけでなく、柔軟性や巧緻性等の発達を促す役割がある。
ずっと動かず座学のみの体育などありえない。

だからこそ、体育の授業では、何を身に付けさせたいのかをはっきりする必要がある。
私は「みんなが楽しめるゲームをしよう」というテーマを本時の設定として、ネット型ゲームの授業を行った。
そうすると、ルールや作戦に意識が向き、言語活動の時間が増える。
それ自体は悪いことではないのだが、それによって運動量が減ることは問題がある。

講師の高田先生からは、
「発言量は後半になるほど増えていくのが理想」
「動きながらの言語活動がより大切」ということを教えていただいた。

つまり、話し合いがどんどん活発になっていくということ。
みんなで円になって話し合うだけでなく、運動をしながらその場での発言が増えていくこと。
そういう授業をイメージして作っていけば、より良くなるはずである。

高田先生は講評の冒頭に「課題は成果」というお話をされた。
授業をやって課題が出るのは、その授業の「成果」という意味である。
つまり、課題が見つかったということ自体が次につながる成果ということ。
その考えに至れば、授業では挑戦すること全てに価値が見出せる。
壁に当たることを怖れず、常に挑戦を続けたい。

2017年7月31日月曜日

授業者が一番得をする理由

アインシュタインの名言。
「問題を生み出した時と同じ考え方では、
その問題を解決することはできない。」

全くその通りである。

公開研究会で授業を行った。
自分としては問題意識をもって臨んだ。
子どもが自ら運動の楽しさを追求していく体育学習はどうあるべきか。
その方策として「サンドイッチ型学習」を用いた授業展開を行った。

「はじめにバレーボールありき」という従来の発想でなく、自分たちでルールから作っていきたいという思いである。
ルールが、ゲームを楽しむために存在するということを発見的に学んで欲しかったのである。

しかし、どんなにがんばっても、参観者の視点の方が鋭い。
それは、問題を外から客観的に分析できるからである。
その人の置かれている環境から見られるからである。
どうがんばっても、授業者は参観者の数の分の視点を、すべて想像して見ることはできない。
だから「授業をやった人が一番得する」のである。
有難い限りである。

頂いた視点をもとに、今日から新たな考え方で問題解決に当たっていきたい。

2017年7月29日土曜日

大丈夫な私

少し前の話になるが、自分自身への気付き。

以前、6年生を送る会で、「送る側」の5年生が劇をした。
この5年生は、4年生の時に私が担任していた子どもたちである。
私を含めた6年生の全担任の役があり、台詞や動きがそれぞれの特徴を捉えていて面白かった。

ちなみに私を演じた子どもの台詞は両腕の力こぶを作るポーズで「大丈夫、大丈夫!」である。
そう、全く根拠のない「大丈夫」。
無駄にポジティブ。
冬はまだしも、夏場はちょっと暑苦しい。
イメージが、「とにかく、大丈夫」なのである。

何度も言っているが、学校には、色々なタイプの教師がいた方がいい。
私のようにポジタイプの教師は、子どもからすると、励ましてくれる分にはいいが、時に心配でもある。
また、校外学習の下見のような場合は、注意深く心配性の人がいた方がいい。
トイレの心配や交通安全、緊急事態への配慮は、「もしも」「万が一」「最悪の事態」を豊かに想像できる人の方が向いている。
私のように「大丈夫、大丈夫!」といって準備を怠ると、大丈夫ではない事態になる。
何事も、多様性とバランスである。

話を元に戻す。
今の教育を続けていると、将来的に、子どもにどんな演技をされるか。
自分を理解する上で、一つ有効な視点である。

2017年7月27日木曜日

スペースを埋めない

7月29日、高校サッカーインターハイが開催される。
私も高校時代、燃えていたので、どこか出るのかとかは気になる。

さて、サッカーでは、ポジショニングが大切である。
それぞれの選手がその瞬間にどこにいるか、ということが次のプレーを左右する。

ポジショニングの上で大切なことの一つが「味方のスペースを埋めない」ということである。
味方の誰かがそこに突っ立っていると、他の仲間がそのスペースに走り込めない。
逆に、自分が埋めているスペースは、自分で責任をもつ必要が出る。

原則として、フォワードは味方のディフェンスラインまで下がる必要はない。
時に下がってもいいが、全力で元のポジションに戻る必要が出るので、やたらに下がると貴重な体力の浪費につながる。
自分が無理に下がってボールを奪い取るより、ディフェンスという本来のポジションの仲間を信頼して任せる。
自分は「得点を取る」というフォワードの本来の役割を果たすこと。
それがチームに貢献することになる。

このポジショニングの考え方は、仕事の上でも大切である。
誰かが埋めているスペースには、入れない。
その分、自分のスペースの仕事は自分で責任をもつ。
時に自分のポジションにカバーに入ってもらうことがある。
逆もある。
それが役割を越えたチームプレーである。
あくまで、自分のスペースは自分で確保した上での話である。

学級に当てはめてみる。
教師は、大人なので、動ける範囲が広い。
そして基本的には「プレーヤー」ではなく、「監督」のポジションである。
しかし、試合中なのにフィールドに出てしまって、自分でゴールまで決めてしまうことがある。
その時、選手も観客も「どっちらけ」である。

クラス会議をやると、このさじ加減が難しい。
今は監督して出るところなのか、プレーヤー(子ども)が悪戦苦闘しているのを見守るところなのか。
自分が出たら早いのだが、それは下手すると本来子どもが走り込めるはずのスペースを埋めることになる。

何でもやってあげる一見「親切」な先生は、この辺りが落とし穴である。
子どものプレースペースを埋めていないか。
時々自分のポジショニングを確認できる視点をもちたい。

2017年7月25日火曜日

子どもの眼・子どもの心

夏の読書に、次の本を紹介する。

『一年一組せんせいあのね―詩とカメラの学級ドキュメント』
鹿島 和夫 編 フォア文庫
https://www.amazon.co.jp/dp/4652039077

35年以上前の本だが、今の教育で欠けている視点が手に入る良書である。
まっすぐな子どもの視点が本当に素敵な詩集である。

========
でんでんむし
    やまとなおみ

でんでんむしが
あめにむかって
のぼっていきました


せんせい
  いいお つた

わたしのせんせいは
てつぼうを
10かいさせます
せんせいは
いっかいもやりません
========

一年生でも、色々考えているものである。
そして、35年以上前でも、今でも、子どもは子どもで変わらない。
変わっているとしたら、それは社会全体を含めた教育の影響である。

前半は子どもの詩、後半は灰谷健次郎氏との対談が載せられている。
その中で、灰谷氏が厳しい指摘をしている。
=========
(引用開始)
子どもの優しさっていうものが通らない社会、
子どもの楽天性が通らない社会を、
われわれが作ったんだということ。
そのためにほんとうに優しい子どもが苦しんでいるんだということを、
ぼくたちは本気で考えなくちゃいけないんじゃないか。
(引用終了)
===========
35年たった今でも、言えそうな言葉である。
「ほんとうに優しい子ども」が、辛酸をなめさせれらる。
子どもらしいがゆえに、苦しんでいる子どもがいる。

純粋に児童詩集としてみても楽しめる。
その一方で、何かと考えさせられる、おすすめの本である。

2017年7月23日日曜日

『おじいちゃんのノート』

司書の方からおすすめしていただいた本。

『おじいちゃんのノート』
中村輝雄著 セブン&アイ出発

世界初の水平開きノートの開発ストーリーである。
次の言葉がささった。

(引用開始)
仕事ってのはな、どんだけ頭下げたって、もらえないこともあるんだ。
いや、それがあたりまえなんだ。
だから、たとえ名刺一枚だろうと、いただいた仕事はありがたいと思わなくちゃいけない。
それをお前、100枚ぽっちだなんて言ったら、バチが当たるよ。
(引用終了)

100枚というのは、著者の父親がずっと懇意にしている方の名刺の注文のことである。
相手が大会社か個人か、大きな仕事か小さな仕事かということではない。
どんな仕事も有り難く感謝して受けるということである。
特に、順境の時ほど、忘れがちなことである。

そろそろ教員採用試験の時期である。
思えば、この仕事がしたくて試験を受けてまでなった仕事である。
目の前に仕事があること、やるべきことが与えられていることに、改めて感謝の念を思い起こしたい。

2017年7月21日金曜日

オレオレ病

作家であり心理学者でもある、早稲田大学名誉教授の加藤諦三先生の言葉。
================
他人のために何かをしてあげれば、
大抵の自分の悩みはたちどころに消える。
================
大学生の頃、教育心理学を専攻していたこともあり、加藤諦三先生の著書はかなりたくさん読んでいる。
読むと視点が変わり、心が落ち着く本が多く、おすすめである。

冒頭に紹介したこの言葉は、ボランティアにも当てはまる。
悩んでいる人ほど、ボランティアは効果てきめんである。
被災地に行けば、自分の悩みがいかに小さいか思い知らされる。
そういう意味でも「被災地に学ぶ会」なのである。

学級でも当てはまる。
大抵、小さなことで怒ったり悩んだりする子どもは、自分のことばかり考えている。
すべてが「自分が自分が」なので、自分を尊重してくれないことに腹を立てたり落ち込んだりする。
これを「オレオレ病」という。
私のオリジナル言葉にしたかったが、残念ながら何十年前から使われている用語である。

これが大人だと、周りから「めんどくさい人」扱いとなる。
会社とそのメンバーは、自分を中心に存在してはくれない。
自分が、会社とそのメンバーのために存在するのである。
それが嫌なら、大人なんだから自分が変わるかその会社を辞めるしかない。

例えば、テストの点を周りと比べて一喜一憂しているようではダメである。
それは、自分のことを自分でやったかどうかだけ。
テストの点が100点だろうが0点だろうが、周りへの貢献度はない。
あくまで、自分にとっての価値である。
喜びも悔しさも自分の中でかみしめれば良い。

授業中に、仲間に教えてあげたり補助してあげたりしたなら別。
これは、周りへの貢献度がある。
周りへの価値がある。
称賛される行為である。

社会に出た時、自分のことが自分でできるというのは、最低要件である。
社会で、会社で重宝されるのは、周りへの貢献度の高い人である。

子どもを、どういう大人に育てたいのか。
そう考えると、清掃指導一つとっても、教育観が出る。

それには、大人の側が「観を磨く」のがより大切である。
あらゆるボランティアへの参加は、それを考える良い機会になる。

2017年7月19日水曜日

被災地と一言でいっても

被災地からの学びの続き。

東北の各地は「被災地」と一言では括れない多様さがある。
津波の直接的被害を受けた方々と、福島の原発問題に絡む被害を受けた方々は、苦しみの種類が別である。

例えば、本メルマガ読者の方に教えていただいた次の本には、岩手の方々の苦しみが綴られている。

教育を紡ぐ――大槌町 震災から新たな学校創造への歩み https://www.amazon.co.jp/dp/475033975X/ref=cm_sw_r_cp_apap_67kmghxDBaBwF

途中が苦しすぎてなかなか読み進められないが、読むだけでもこの苦しみは想像を絶することが感じられる。
人の生死が直接的に関わる。
生きていること自体がいかに恵まれているかも、思い知らせてくれる。

一方で、福島の放射線による避難区域の人々の苦しみはまた違う。
生きているし、土地もそこにあるが、帰れない。
不当な扱いを受けることもある。
生きている上での苦しみである。
震災後の自殺率が一番高いのが、福島だという。
自然というより、人的被害が大きい。

いずれの地域も、物心両面でのケア、支援が必要なのは同様である。
しかし、そのアプローチや支援の仕方は、かなり異なる。

肉体労働だけで助かる人もいる。
肉体労働では助けにならない人もいる。
今回の「被災地に学ぶ会」の参加者の中には、教育面で被災地の子どもへの支援をしている人もいた。
お金で支援してくれている人もいた。

できる時に、できる人が、できることをする。
今、ここ、自分ができることは何か。
やれることは、やっていきたい。

2017年7月17日月曜日

日本の誇る「福島」周辺の土地の美しさ

福島を「被災地」という面だけ切り取って思ってみると、痛々しい。
しかし、純粋に一つの場として見た時、とても素敵な場所である。

「被災地に学ぶ会」では、作業を開始する前に、必ず全員で黙祷を捧げる。
その時、聞こえてくるのは、風の音、川の音、ウグイスの鳴き声である。
山々に響き渡る、美しい音や声である。

見回すと、空も緑も山々も本当に美しい。
相馬小高神社へ向かう道を自転車で走れば、川がらきらと光を照り返して流れている。
神社の木も大変に立派で、神々しさが感じられる。
ここの神社では、毎年7月下旬(2017年は7月29日~31日)に「相馬野馬追(そうまのまおい)」という、馬で馬を追う伝統行事が行われる。
中日の30日には、大迫力の甲冑を着た騎馬武者たちのレースが見られるという。
平将門の時代から、1000年の歴史を誇る、「相馬」の地の名に相応しい行事である。
相馬復活に向けた原動力として、盛会になることを願っている。

思えば、「被災地」となるまでは、元々美しい土地として誇っていた場所である。
桃の産地としても有名で、わざわざ福島産を選んで買っていたぐらいである。
すぐ南の県の茨城県水戸市にも、日本三大庭園である偕楽園がある。
北には、牡蠣の産地として有名な三陸海岸もある。
あの海岸線沿いの土地は、元々がどれも美しい土地なのである。

今、被災地に足りないのは、若いエネルギーである。
若いエネルギーが注がれれば、元の美しさを取り戻せる。
高齢の方々だけでは、成り立たない。
ただでさえ限界集落が多い中、正直厳しい面があるとは思うが、若者が土地に根付く環境が必要である。
そのために、福島だけでなく岩手や宮城などでも、NPO法人を立ち上げている人たちがいる。
復興に向けた動きは、確実に進んでいると感じた。

歩み始めたことと、ボランティアが必要なことは、同義である。
ボランティアセンターや各NPO法人など、金銭面での支援も大歓迎だという。
できる人ができる時にできることをする。

「自分」の範囲はどこまでか。
家族までだろうか。
同学年の同僚までだろうか。
職場全体までだろうか。
町か。
県か。
「関東」というような地域か。
日本か。
一番大きいと「世界」か。
どれにしても「自分」が所属しているのだから、無理なく、何かやれることをやれたらいいと思う。

2020年の東京オリンピック開催時に、福島を訪れる外国の方もいるのではないかと思う。
世界に「おもてなし」の国として認識された日本の美しさを誇るためにも、被災地への支援は続けていきたい。

2017年7月16日日曜日

みんなでやれば、できる。

前回の続き。

今回も鍵山秀三郎先生ご提供の美味しいお弁当をいただき、午後の作業へ。
次は、田んぼの側溝掘り&草刈りである。
現地に行ってみると、完全に埋まっていて、どこが側溝なのかさっぱりわからない状態。
数十mということだが、水が流れないで溜まっているために土地も沼のようになっており、作業は難しそうである。
加えて、震災前からある長い小屋が邪魔で、人が入っての作業スペースの確保も困難。
機械ではできず、人の手を借りてしかできない仕事である。

とにかく、探しながら掘ってみることにした。
この泥が、思いの外、重い。
本来流れるはずの水をたっぷり含んでいる。
そのせいで足場が悪い上に、植物の根がばっちり絡んで、スコップが入らない&持ち上がらない。
とにかく腰が痛い。
土手を押さえていたはずのネットも倒れて絡んでいる。
おまけに、濁った水を含んだ、独特の臭いがあり、三重苦、四重苦である。
一緒にやっていた会の主催者の村田先生も「これは、今回少しでも進めて、次の団体にリレーかな・・・」とのこと。
私もひいひい言いながら作業を進めつつ、「これは、今日中には終わらんな・・・」と半ば諦めかけていた。
しかし、「とにかく、今、できることをする」と念じつつ、ひたすら続けた。

すると、ちょうど「これは無理だぁ~」とかぶつくさ言いかけてきた時に、依頼主の方が様子を見にきてくださった。
今日ボランティアに入ってもらえると思っていなかったらしく、急いで駆けつけてくれたようである。
俄然、やる気が出る。
みんなでがんがん進めていったら、何か終わりそうな雰囲気が出てきた。
両側から掘り進めてきた側溝の道が、合流するのが見えてきた。
そして、道がつながった。
水が「ザア~~~」と音を立てて流れる。
みんな、満面の笑みである。
依頼主の方も、とても喜んだ表情を見せてくださった。

依頼主さんの感謝の言葉とともに、差し入れの飲み物をいただく。
とにかく道をつなげたくて、ひたすら作業をしていたため、喉がカラカラである。
(というより、手も顔も泥まみれで、作業途中で飲めない状態だった。)
葡萄ジュースを選んで、真っ青な空を仰いで一気に飲んだ。
最高にうまい。
耳を澄ますと、水の流れる音が聞こえる。
やった甲斐があるというものである。

今回、一番の学んだこと。
それは、無理だと思う状況、先が見えない状況でも、「みんなで力を合わせると、できる」ということ。
その「みんな」が集まるには、核となる部分に正しい志があること。
たった一人の正しい行為には、自然と多くの「フォロワー」がつく。

無理だとか言ってる暇があったら、体を動かして、少しでも前に進めること。
できた時の達成感は、次へのエネルギーになる。
まだまだあるが、そんなことを感じた次第である。

結局、人様のためにやっていたはずのことが、すべて自分のためになる。
前回述べたように、人間の遺伝子は利他的で利己的、利己的で利他的である。

主催者の村田先生は、小さく会を立ち上げて、結果的に数百人もの仲間を巻き込んできた。
被災地の方だけでなく、助ける側にとっても、生きる希望になっている。
影響の輪で言えば、数千人規模である。
そして、帰りのバスの中で、仲間と今日のことについて語り合う姿が、本当に嬉しそうである。
利他的な行為が、結局自分自身にも返っている。

被災地の復興は、先が見えない。
しかし、見えなくても多くの人の手で少しずつ進めれば、確実に見える時が来る。
私の大好きな、上杉鷹山の次の言葉で今号を締める。
「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」
「被災地に学ぶ会」で自分ができることは本当に少ないが、この会がある限り、これからもここで学び続けたい。

2017年7月15日土曜日

ボランティアも、明るくやる

「まぐまぐニュース」で三回に渡って紹介された記事を掲載する。
http://www.mag2.com/p/news/251994

「被災地に学ぶ会」に参加してきた。
今回も、学んだことは広げるという会の使命のもと、レポートする。
レポートなのでいつものメルマガに比べやや長いがご容赦いただきたい。

今回も、場所は南相馬。
2ヶ月前は、一部地域に避難勧告が解除されたばかりの頃で、まだ戻ってきている人は少なかった。
その頃に比べて、全体的に良くなってきている印象である。
崩れていた建物がきれいに直されていたり、すれ違う車が増えたり、住民の方々の姿もちらほら見えたりした。

ここがポイントなのだが
「じゃあ、良くなってきたらからボランティアはもう大丈夫ね」
となりがちだが、これが真逆である。
住民が戻り始めたということは、「人手がより必要」ということである。
つまり、助けて欲しい人が増えたということである。

事実、ボランティアセンターへの依頼は、増えることはあっても減ることがないという。
ボランティアセンターは基本的に無償のため、依頼が増えれば触れるほど経営が大変である。
そこに加えて、被災地へのボランティアの数はここ最近ますます減っているという。
需要が増えてきているのに供給が追いつかないのである。
「できる時に できる人が できることをする」
が合い言葉なので、少しの気持ちがおありの方は、一度でいいから被災地に足を運んでいただきたい。

ボランティアの実務の内容は多岐にわたる。
個人宅のことが多いが、神社やお寺といった文化財に関わることもある。
引っ越しの手伝いや敷地整理が多い。
以前から何度かレポートしているが、敷地の「竹」をどうにかしてくれというのはすごく多くて、かつ手強い。

どれも、大型の機械ではできず、行政からは支援がもらえず、ボランティアに頼るしかない仕事ばかりである。
特別な技術者のいる団体には、大きな木を切る依頼がくることもある。
今回我々の団体は大学生が過半数で、他団体に比べてかなりパワーのある集団となっていた。

今回は午前と午後で2件の依頼をこなし、草刈りと側溝の泥のかき出しをしてきた。

まず1件目は個人宅の草刈り。
夏らしく、草が伸び放題で足下が全く見えず、密林状態である。
かなりの広さがある上、大きな石やブロック、井戸のようなものの後や切り株などが多数あり、機械を使って草刈りをするには危険である。
各々が草刈り機をもち、慎重にやっていった。
(こういう時、学校の教職員は強い。
 学校での夏の奉仕作業といえば、草刈り機。
 手慣れたものである。)

広い土地だったが、15人で協力したらあっという間に終わった。
掘り返した木の根元から生きたセミの幼虫が見つかり、妙にはしゃいでしまう40前のおっさんの私。
(この子、出てきた時に切り株じゃどっちにしろ残念だったろうなぁ)
と思いつつ、土の中に返した。

大学生&中学生のペアは、手強い木の根を引っこ抜こうと、ひたすらがんばっていた。
周りの大学生たちも加わり「おおきなかぶ」状態。
十数分の格闘の末、やっと引っこ抜けて、大歓声&記念撮影。
妙な連帯感である。
「被災地のボランティア」だからといって、必ずしも悲壮感を漂わせながらやる必要はない。
少しでも明るく、楽しみを見つけながらやって、続けていけることの方が大切である。
(無論、被災地の皆様への配慮は大切である。前向きにやるということである。)

2017年7月13日木曜日

利他の遺伝子をオンにする

先月もまた「被災地に学ぶ会」に参加させていただいた。
今回も福島県の南相馬市である。

遺伝子工学の第一人者である、筑波大学名誉教授の村上和雄には
「人間には、利他の遺伝子がある」という。
人間の細胞そのものが、相互共存しようとする遺伝子によって成立している。
一方で、遺伝子は利己的でもあるという。
利己的で利他的。
一見、相反する要素をバランス良く備えているという。

ボランティア活動とは、「やらせていただく」ものである。
人様のために自分の力を少しでも提供させていただく。
最初は「やってあげる」つもりでも、自然と抱く感覚である。

大きな団体でも、最近被災地支援を打ち切ったという話をきく。
主な理由は「もう十分に復興した」という誤解である。
大きな誤解である。
まだ全く復興に至っていない。
荒れ果てて、人が帰って来られない状況なのである。
ひどいところは、手つかずである。

また、どんなにやっても終わらない、本当に自分が役立っているのか疑問になる、というのもあるかもしれない。
ボランティアの活動は、あまりにも地味で地道である。
「牛歩」「泥臭い」という言葉がぴったりである。
何なら、出先で怒られることもある。
割に合わないと思う人がいるのも、至極当然である。

それでも、やれることを少しずつ積み重ねていくしかない。
終わりが見えなくても、立ち止まっていたら、いつまでも辿り着かないと思う。
そして一人の一歩より、多くの人の一歩の方がいい。

だまされたと思って、一度参加して欲しいと願う次第である。
人間には利他の遺伝子があるのだから、確実に何か得るものがある。
結局は自分のためだと思って参加してもらっても構わないと思う。

「被災地に学ぶ会」の村田先生は、震災の年からこの活動を続けている。
「そして今後10年は続けるつもり」という。
参加チャンスはまだいくらでもある。
興味がおありの方は、いつでもご連絡いただきたい。

2017年7月11日火曜日

相手によって対応を変える

一般に「差別」はよくないと言われる。
人種差別しかり、男女差別しかり。
不当な差別はいけない。

しかし、これを拡大解釈して、何でも同じように扱うこと、と捉えると間違える。
誰に対しても、何に対しても同じ対応でいいはずがない。
以前にもこの例を出したが、すべてに金槌ではダメなのである。
(アブラハム・マズローの言葉「ハンマーを持つ人には、すべてが釘に見える。」)
釘を叩くには金槌、太鼓を叩くにはばち、肩を叩くには手である。
全部金槌でいかれたら、とんでもないことになる。

幼い子どもとそうでない相手と対応が同じはずがない。
そして何よりも優先されるのは、個人差への対応である。

同じように伝えても、伝わり方は千差万別である。
だから「言ったでしょ」は通用しない。
(この言葉は、何でもてきぱきやる人に多い言葉である。)
言われた側からすれば「あんたが勝手に言っただけ」である。
言えばわかるなら苦労はない。
言ってわかる子どもは、聴覚情報優位の子どもだけで、全体の3割程度である。
視覚優位の子どもが最も多く、書いた方がわかる子どもの方が多い。
身体感覚優位の子どもは、見せたり聞かせたりするより、やらせた方がわかるということもある。
相手によって、対応は変えるべきである。
金槌の話と同じである。

一方で、相手によって変えない点が一点だけある。
人格の尊重である。
幼子でも人格は尊重すべき。
その点において、子どもより大人の方が上ということはない。
上司より部下の方が上ということもない。
この点を履き違えると、尊大になり、あらゆる人に嫌われることとなる。

時々、友達口調の店員さんやセールスマンがいたりするが、これも場合によって正解だし、場合によっては間違いである。
初見のお客さんに対し「いいっすよね?」は、ない。
子ども時代から「平等」「自由」の名のもと、言葉づかいを正されなかった教育の結果かもしれない。
そう考えると、公的な場で大人に対する言葉遣いを教えるのは、親と学校の両者の責任である。

総じて「素晴らしい」と言われる人たちは腰が低い。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の句の通りである。

その方法は、目の前の子どもに適合しているのか。
常に自問するようにしたい。

2017年7月9日日曜日

結果を価値付ける

休日ということでやや長文。
運動会が終わった時に書いた記事。

陸上等の大会関係でも毎回同じようなことを言うが、結果の取り扱いが重要である。
特に、勝った場合(望む結果が得られた場合)こそ要注意。
結果の価値付けに失敗すると、傲慢になったり「ロス」状態になったりする。

結果への価値付けは、日常の授業や生活からして行う。
例えば、テストで100点をとったとする。
100点であることを褒める。
すると、100点そのものに価値を見出す。
積み重なると、100点以外に価値はないと思うようになる。
結果、100点でない時に無駄に嘆いたり、他者に対し下に見たりするようになる。
100点をとらないとダメな子だと思われるという変なプレッシャーを抱くこともある。
100点を取るために、カンニング等の不正すら用いるようになる。
競争心が良くない方向にはたらく。

100点をとったら、その過程を褒める、というより、認める。
とりあえず「おめでとう」を言ったら、その後の過程を価値付ける。
「普段からよく練習したからだね。」
「〇〇さんがよく教えてくれて、それを素直に受けた結果が出たね。」
「前回の反省を生かしたからだね。」
何でもいいが、とにかく結果でなく、過程に価値付けをする。
そうすると、100点でなくても成長につなげられる。

例えば、多数が立候補して何とか応援団やリレーの選手に選ばれたとする。
良かったね、おめでとうで済まさない。
なったからには、教えるべきは、責任感と感謝である。
人に教える立場になる以上、相手の数倍がんばる責任が課される。
その場合、普段どんなにだらだらだろうが、それは許されない。
一緒にがんばる仲間や、ついてきてくれるみんなへの感謝も忘れさせない。
選ばれたという結果以上に、選ばれてからの方が大変なのだと自覚させる。
「勝てば官軍」のような態度を諭していく。

結果への価値付けは、技術である。
知らないとできない。
人間は、野放図の、自然のままでは、望ましい方向に行かない。
(または、望ましくないように方向づけられている可能性がある。)

小さい頃は、「あんよが上手」で構わない。
子どもにとって、できるようになること以上に、それを見てくれているということ自体が喜びである。
しかし、「〇〇ができるからすごい」をいつまでも続けていると、そういう価値観を植え付けることになる。
できるからすごいのではなく、子どものがんばりそのもの、存在、行為そのものを普段から認める。
だからこそ、結果がうまくいったら「おめでとう」だし、うまくいかなくても「がんばったね」といえる。

この「できる」「成功する」への親の盲目的価値付けは、我が子が幼い頃から見てとれる。
我が子がなかなか歩くようにならなくて、または喋るようにならなくて、不安になる親は多い。
(気持ちは痛いほどわかる。何か実は問題を抱えているのではないかと、不安になる。)
逆に、少し早く何かができる我が子に、得意になる親も多い。
ただ両者とも、比較対象は「他人」である。
その子自身ではない。
大体、多様なはずの人間が、みんな一律に同じように成長したら気持ち悪い。
兄弟すら全く異なる成長曲線を描く。
しかし、頭ではわかっていても、比べてしまうのが親心である。

そんな時でも、我が子のがんばりを見てとれるか。
遅いなりにがんばる我が子を、認めるのは忍耐がいる。
「認」=「言」を「忍」ぶことである。
つい望む結果を求めてしまう我が口を、どう使うかである。

学級担任でも同様。
つい結果の方を望んでしまう。
しかも、多様な目の前の一人一人に、一律な結果を。
教育内容の達成目標があるからとはいえ、同じアプローチで同じ結果を求められるはずがない。
運動会の競技一つとったって、苦手な子どももその子なりにがんばっているのである。
どんな結果でも、認めてあげたい。

登山は、登る時ではなく、下りる時に事故が起きるという。
良い結果が出た時こそ、取り扱いに注意する。
望む結果に至らなかった時こそ、成長の糧にする。

結果への望ましい価値付けは、大人が子どもにしてあげられる最高のプレゼントである。

2017年7月7日金曜日

七夕と助けて力

七夕と学級経営に関連する話。

「助けて力」ということをずっと前に書いた。
(ブログ記事参照 http://hide-m-hyde.blogspot.jp/2015/12/blog-post_27.html)

願いを口に出せるというのは大切な力である。
「助けて」と周りに伝える力があれば、大抵の問題は解決する。
もっと具体的に「〇〇を助けて欲しい」と言えたら、完璧である。

例えば、授業。
わからない、できないと言った時に、これが言えるかどうか。
教える側としても最も難しいのが、子どもが一体何によって困っているのか見極めるところである。

例えば、いじめ問題。
何が原因で、誰がやっていて、どんな助けを求めているかわかれば、大抵解決する。
やられている本人が我慢して周りに言えないことで、悩みがより深くなる。
真面目な子どもほど「自分が悪いのかも」「迷惑や心配をかけてはいけない」と自分を責めて「助けて」と言えない。

日常的に、迷惑や心配など、どんどんかければいいと教える必要がある。
「お互い様」の精神を、授業でも生活でも当たり前にしていく必要がある。

何かを始めるにも、資金集めにクラウドファンディングが当たり前の時代。
「助けて」といえば、助けてくれる人は世界中にいる。
そういうことを、もっともっと教えていく必要がある。

七夕は、天に願いを書く。
神頼みのようでいて、ちゃんと周りの人が読んでいる。
その願いを知った周りの人が、応援してくれる可能性が高まる。

お願いをする力、助けて力を高める意味でも、願いを紙に書くことは大切である。

2017年7月5日水曜日

バカになれるか

今年度も、応援団の指導担当をした。
(指導したといっても、9割方見ていただけである。)
団長が中心となってまとめて、頼もしい限りである。

団長の子どもが、メンバーにどう応援をやるか教えている場面。
応援団が教えても、他の子どもがなかなか「ノって」くれないという悩みがある。
それに対し、次の言葉を黒板に書いて教えていた。

「バカになる」

どういうことか。

以下、少し長いが、過去の記事の引用。
=================
(引用開始)
「指導とは、ちょっとの無理をさせ続けること。」
例の如く、野口芳宏先生の言葉である。
指導とは、まさにここにあると思う。
現状維持は楽。
負荷をかけ続けて少し無理させるから伸びる。

極端なことを言うと、普通にできることは指導する意味がない。
わざわざ導かなくてもできる。
下のレベルだけに合わせると、ほとんどの子どもにとって意味のない指導になる。
「底上げ」というのなら、底の上にある全部を上げないといけない。
上のレベルを基本にして、下まで含めて全体を引っ張り上げるのが指導である。

例えば、日直のスピーチ。
自分の普段通りのしゃべり方で話していては、よく聞こえない。
教室で全体に向かって話すのだから、無理が必要である。
(野口氏はこれを「公的話法」という言葉で教えている。)
「不自然でよい」のである。
自然ではいけない。
無理をするから、伸びるのである。

応援での声がよく出ない子どもは、無理できてないのである。
普通に出そうとしている。
応援などは「パフォーマンス」なのだから、演技が必要だ。
これは意外と難しい。
教師が前に立ってオーバーに演技することで、殻が破れることもある。
相手に少し無理を強いるのだから、教師はその倍は無理をする。

応援係はここが最重要になる。
全校の前で手本として立つのだから、恥ずかしがったりしていてはアウト。
応援団長が自ら「バカ」になって大げさにパフォーマンスをする必要がある。
山口の福山憲市先生の言葉だが「バカ」が大切である。
「バカ」の読み方は「馬力(ばりき)」であり、「心力」である。(「バ」の字を崩して「心」に変化させる。)
エネルギーと心がないとできない。
これを、団長ができるようになるために、先に教師が応援係への指導でやる。
教師が「バカ」になって、まず応援係にエネルギーを入れる。
応援係全員がこの「バカ」になれれば、ものすごい力を発揮する。

自分のキャラとかはあるが、そこは置いておく。
それは「自然」であるが、殻を破れない。
まずは、教師が無理をしてでもバカになる。
自分が無理をしてから、初めて子どもにも無理を求めることができる。
指導全般の鉄則である。

(引用終了)
=========================
こういうことを、今年度もちょろっと教えた気がする。
すると、本当に賢い子どもは、教えをあっという間に使いこなしてしまう。
「バカ」を演じられるのは、賢い証拠である。
明石家さんまのような人気お笑い芸人など、その顕著な例であると思う。
サービス精神は、相手の気持ちを読み取る知性があるからこそ発揮できるのである。

バカになる。
良い言葉と悪い言葉というのは存在しない。
そこに、どんな解釈がなされるかである。

自分自身も、思いっきりバカをやれる知性をもちたい。

2017年7月4日火曜日

大縄の回し方は「知っている」かどうか

中学校の運動会を見にいくと、例年、どこに行っても「大縄」(30人程度の一斉跳び)をやっているところが多い。
団結がポイントになる、一斉にできるなど、種目として適当なのだろう。

だからこそ、回し方が結構気になる。
どうしても、振り回す形になっている。
それが、大縄の「常識」になっているからである。
相当やりこんだ経験がある人でないと、多分知らない。
当たり前で、中学校が多忙なこの時期に、大縄にそれほど打ち込む環境はない。
引いて張る「びゅんびゅんごまの原理」を用いれば、より楽になる。
多分、中学生なら、一回教えるだけで使いこなすはずである。
現に、私の友人は、その方法を知って生徒に伝え、短期間で記録を大幅に伸ばしたようである。
別に記録が伸びようが伸びまいがどっちでもいいのだが、単純に、楽に連続で跳べた方が楽しいと思う。

ちなみに昨年度、縦割りの交流集会で、合同で大縄レクをやったことがあった。
事前指導なし、1回こっきりのレクである。
そこで、あまりにすぐ引っかかるので、回し手の子どもをちょこっと指導してみた。
途端に、きれいに回すようになった。
やはり、導入の指導はあった方がよいと思った。
(本当は、他の子どもにも教えたかったが、出しゃばるのもと思い、遠慮してしまった次第である。)

単に、知っているかどうかである。
知識や技術は積み上げなのだから、ある程度知っておくことは価値がある。
もしこれから運動会で「大縄」か「8の字」がある方がいたら、レポートを一読しておいて欲しいと思う。

2017年7月3日月曜日

競争と応援団の話。
運動会の時期に書いた記事。

応援団の本質は、あくまで、周りを輝かせようと努力すること。
それが、結果的に自分の輝きになる。

どこの国の諺だか忘れたが
「花を相手に手渡す時、必ず自分の手にも香りが残る」というような内容のものがある。
人にいいことをしてあげようとすると、どうやっても自分に返ってきてしまう。
恐ろしいことに、逆も真である。
人を出し抜こうとすれば、必ず他人に出し抜かれる。
悪口を言えば、悪口を言われる。
当たり前である。

応援係は、何をすべきか。
どうすればみんながもっと元気に楽しくやれるか考えること。
指導者の側なら、どうすれば目の前の子どもがもっと元気に楽しくやれるか考えること。
自分のことばかりを考えていては、うまくいかないのは当たり前である。

自分たちで応援を作らせるためには、ある程度心構えだけ教えたら、後は任せる。
指導者は、つい細かく口出ししたくなるが、基本はこらえる。
子どもの成長が第一の場である。

応援団指導の「根本・本質・原点」を、日常でも忘れないようにしたい。

2017年6月30日金曜日

実質的に勝つ

運動会の時期に書いた記事。

運動会では、表現などの一部を除き、競争がつきものである。
応援合戦や綱引き、リレー、学年団体種目などは、チームでやるものなので、指導者の側も熱が入る。

この時期になると、この「競争」の使い方、捉え方が大切であると切に思う。
6年前にメルマガに書いた記事だが、以下引用する。
=============
(引用開始)
大縄などの大会が校内であると、隣のクラスの記録が気になり出す。
まあ、大抵は「一番になりたい。勝っていたい。」と思っている。
それ自体は悪くないのだが、相手の記録が伸びることに恐怖心を抱くのは問題である。
それは、つまり暗に「自分達はそこまで伸びない」と自己暗示をかけていることになる。

逆の発想でいく。
つまり、周りのクラスに、もっともっと強くなって欲しいと願うのである。
心から願うのがポイントだ。
そうすれば、自分達もそれ以上になれる。
目指す頂が高くなるのである。
他のクラスで自分達以上の記録が出たと聞いたら、素直に喜ぶ。
達成しているクラスがあるので、現実的である。
自分達にもできるというイメージを持ちやすくなる。
自分達が突破したら、それを周りに伝える。
すると、周りがさらに強くなる。
正のスパイラルができあがる。
ちなみに本校では、週に1回全クラスの最高記録を放送することで、これを行っている。

大縄、8の字跳びの目的は何か。
クラスの団結を深め、より良い人間、より強い人間に育てることである。
隣のクラスの子どもまで良くなったら、一石二鳥ではないか。
人の成功を、心から喜ぼう。
(引用終了)
==============
今でもこの考え方は変わらない。
自分がもっているのは学級の子どもだが、所属はその学校である。
学校全体の子どもが良くなった方がいい。
当たり前である。
私は、できれば、学校だけでなく、全国の子どものためになれたらいいと思ってるので、このメルマガを発行したり、本を書いたりしている。
ブログ上で「大縄・8の字レポート」を配付したのも、そのためである。
(ちなみに今でも同じもので良ければ配付している。希望者はメールでご連絡いただきたい。
活用していただけた方が多数いて、嬉しい限りである。)

「勝ちにいくことに価値がある」とは、他の誰でもなく、私の言葉である。
これは「勝つことに価値がある」という言葉とは大違い。
それなら、どんな過程を経てどんな手段を使っても、勝てばいいということになってしまう。

甲子園のように、勝つことで選手も指導者の側も将来が開ける場なら、まだ話はわかる。
どんな辛い思いをしても勝ちたいと願うだろう。
また、オリンピックのような大舞台の話を持ち出す人もいるが、これも全く別。
それは、勝負の重みも目的も全く違う場である。
国の経済や威信も絡む。
そこで作戦や練習方法をばらして負けてしまっては、話にならない。
「勝つ」こと自体に大きな価値がある場である以上、やむを得ない。

ただ少なくとも、運動会や地域の縄跳び大会は、そんな場ではない。
目的は、あくまで「子どもを育てる」場である。
競争を通して、子ども同士が伸びることが大切である。
隣のクラスが失敗したり悩んでるのを見て「しめしめ」と思わせるようでは、真逆の教育である。
隣のクラスが強くなったのを見て「すごい!うちも負けてられない!」と燃えるのが正しい競争の利用である。

だから編み出した必勝法は、公開してしまう方がいい。
これについて、大反対する人がいるのも知っていて、敢えて言う。
そういう考え方の人は、けちくさいと思う。
度量が狭いなと思う。
技術は、共有されるからこそ技術の価値が出るものなのである。
それで特許を取りたいのでなければ、さっさとオープンにしてしまえばいい。

私自身、ここで失敗することを何度も経験している。
何かちょっと見栄を張って勝ちたい時は大抵、結果的に大負けするのである。
しかも負けた後の、後味も悪い。
最悪である。

必勝法をきちんと公開すると、子どもがオープンになる。
「隣が高まるから自分達ももっと高まる」というマインドが前提である。
一番いい状態だと、子どもが隣のクラスの友達を見て、その友達にアドバイスをするようになる。
同様に隣のクラスに教えてもらったり真似したりして、更にレベルアップする。
そうなると、本番も正々堂々と清々しく勝負できる。
そして、逆説的だが、結果的にこれを多く出せたチームが勝つことが多い。
必勝法をより多く編み出したチームが、やはりそれを使いこなせるのである。
さらに、伝える過程で、自分たちの不備にも気付くのである。
算数を友達に教える時と同じである。
要は、運動会だけでなく、日常の授業がすべてということである。

勝負の相手は、常に自分。
そのために、周りにも一緒に強くなってもらう。
強くなろうとしないと、その過程すらも起きない。
それが「勝ちにいくことに価値がある」という言葉の本質である。
あくまで「私」に勝ちにいくのである。
あらゆる場面で応用の利く考え方であると思い、紹介してみた。

2017年6月28日水曜日

子どもは真似の天才

いつも気になっていることについて。

最近、朝もテレビを見なくなった。
理由は、ネットと違い、テレビは情報を選択できないためである。
見たくない、聞きたくない情報が入るからである。

朝のニュースは、家族全員が見ることになる。
子どもも見る。
ニュースを知ること自体はいい。
ただ、見ない方がいいニュースの割合が多すぎる。

何かというと、殺人等の各種重犯罪や、凄惨な事故である。
社会を知る手段はあってもいいが、割合の問題である。
爽やかなニュースを流してくれればいいが、テレビは視聴率が命。
そうなると、スキャンダラスなものがいいということになる。
子どももが朝一起きてリビングで最初に触れる情報が殺人や放火では悲しい。

子どもは、見たままを学習する。
「真似の天才」なのである。
そこへの善悪や評価は関係ない。
(大人も同じだが、子どもの吸収率の方が高い。)
心理学でも「観察学習」というのがあり、脳は判断なしに、そのまま真似た行動をすることがわかっている。
繰り返し見るテレビ番組の影響力は、絶大である。
見る番組によっては、そこでプラス行動を学習する面もある。

日常の学級経営においてもいえる。
直して欲しい行動や叱責を繰り返し伝えると、その行動そのものを学習することになる。
逆に、望ましい行動や褒めることを繰り返し伝えても、同様の効果が得られる。
叱責に意味があるのは、特にそれを悪いことと自覚していない時である。
だから、叱るより褒める割合の方が10倍ぐらい多い方がいい。
(特に子育ての場面においては、現実的にはそうも言ってられないのが事実ではある。
 親子のバトルは果てしない。)

わざわざ悪い行為を繰り返し伝えない。
良いところをもっと指摘する。
子ども同士の関係にはもちろん、大人にもいえることである。

2017年6月26日月曜日

教育力のある子ども集団を育てる

5月に他県の教育委員会に招かれて行った、研修講座で話した内容。

学級における2対6対2の話をした。
問題行動や遅れの目立つ2割にひっぱられないこと。
自主的に動く2割の行動には特に着目して広めること。
6割がどちらに動くかで決まるということ。
結果的に、困難の多い2割も救われるということ。

かなり基本的なことだが、失敗の大半はこの対応にある。
特に5月から6月は、子どもも問題行動を起こしやすい。
大人も子どもも疲れる時期なのだから、自然なことである。

親は、我が子がどうかということに最も着目する。
当然である。

担任は、クラスの子ども全員、一人一人がどうかということに着目する。
一人でも問題を抱えている子がいれば気になるし、全体としても気になる。

その辺りの意識の差をもつこと。
親が我が子を中心に見てくれと要求するのは、ある意味当然である。
その願いをまずは受け止める。

その子だけをかまっていれば、当然他の子やその親から見てくれと要求がくる。
だから、全体を見る目が必要で、一人で学級を抱え込まない事が大切である。
周りの助けを得る。
何より、子どもの助けを得る。
手のかかるところにばかり着目していると、そこを落とす。

教育力のある子ども集団を育てる。
そのためには、きちんとやる子を落とさない。
基本的なことだが、大切なことなので、改めて書いてみた。

2017年6月18日日曜日

公開研究会 文科省の先生の話が聞けるチャンス

公開研究会の案内。
http://www.el.chiba-u.jp/kenkyu.html

以前にも紹介したが、私は、次の金曜日に4年生の「ネット型ゲーム」の授業展開を公開する。
ネットをはさんでボールをやりとりし、相手陣にボールを落としたら得点というシンプルなルール。
これだけのルールでかなりバレーボールに近付くとは思うが、そこからは工夫次第。
どんな作戦やルールを子どもたちがつくりながら展開がしていくかを見ていただきたい。

同日には2年生の表現リズム遊びも展開される。
ちなみに千葉市は、表現運動を長く研究している地域である。
千葉市から着任した同僚の授業展開なので、こちらもご覧いただきたい。

そして、今回お伝えしたいのが、午後の「教育フェア」。
選択式だが、ぜひとも体育に来ていただきたい。
2020年パラリンピックの種目である「シッティングバレー」を体験していただく。
1980年より正式に認定されている種目だが、意外と一般に知られていない。
障害の有無に関わらず楽しめる、ユニバーサルデザインな種目である。
運動が苦手という人ももちろん大丈夫。
勝負の分かれ目は「作戦」と「チームプレー」。
ぜひ一緒に「アクティブ・ラーニング」の授業を体験していただきたい。

なお、一日を通して、文科省の高田彬成先生にご指導をいただける。
高田先生は「体育科教育」等の体育専門雑誌執筆を始め、数々の場で講演もしている体育界の「オピニオンリーダー」である。
現在の体育科教育の第一人者といえる。
なぜそんなビッグネームを本校体育科のためだけに呼べたかというと、それはいわゆる「縁」と「運」である。
人が人を呼び、繋がる。
私は、ご存知の通り運がいいので、「運」ばれてきた縁で繋がれた訳である。

次期学習指導要領のことについても質問できる大チャンスである。
授業後の分科会はもちろん、教育フェア1のシッティングバレーの後でもご講義をいただく。
ちなみに、教育フェア1がジャージ着用なので、そのままの恰好で参加していだたいてOKである。
文科省の有名な先生の話を、実技を交えて聞けるまたとないチャンスである。
(そして、シッティングバレー自体が、単純に楽しい。)

6月23日(金)は「本校児童のために、文科省の先生へ次期学習指導要領の体育を学びに出かけます」で決まりである。
学校にとっても、必要な学びのはずである。
特に体育主任なら、尚更言いやすい。
年休よりも、「出張」で堂々と来て頂きたい。

また、2日目は体育の授業が1本と、全体講演もある。
こちらは、5年の「バスケットボール」の授業展開である。
私の同僚が尊敬してやまない、印西市の鈴木弘之先生が講師である。
私も初めてお話が聞けるので、この日も楽しみである。

なお、2日間にわたり、体育館前では明治図書や各出版社のブースが出店される。
私の著書もあるので、まだの方はお手にとっていただきたい。

皆様と直接お話する機会がもてれば幸いである。

2017年6月16日金曜日

クレームは、願い

先月、厚木市教育委員会にお呼ばれして、講座をもたせていただいた。
その内容から。

「学級経営」と「切り返しの技術」をテーマにお話をさせていただいてきた。

色々話したが、切り返しワードの要点は一つで、

お互いの願いを近づけること
である。

例えば「クレーム」は「文句」ではなく、「願い」そのものである。
そのままネガティブに受け止めると、自己防衛と弁護に走りたくなる。
願いなのだから、まずは受け止めて、こちらの願いも伝える。
この願いをます受け止める、という過程が、言うは易く行うは難しのポイントである。

2017年6月14日水曜日

「これやっときゃ大丈夫」は、ない

だいぶ長い間ひっぱっているが、小学館セミナーでの学び。
いいものは広めるべきなのでシェア。

メイン講師の一人、菊池省三先生の言葉。

「これやっときゃ大丈夫」は、ない。

それがもしあるなら、戦後何十年でとっくに発見されているはず、ということである。

菊池省三先生といえば「ほめ言葉のシャワー」が有名だが、その人が言うのだから、説得力がある。
(私も同じことを何度も言っているが、やはりそこは実践の長さと深さの差である。説得力が違う。)
自身の実践が広まってくるほど、誠実さをもって強調したくなる言葉であると思う。

うまくいっている人の話だとか、著名な先生の言うことだと、鵜呑みにしすぎてしまうことがある。
「鵜呑み」とは読んで字の如く、鵜がするように対象を噛まずに丸呑みすること。
「よく理解せずに受け入れること」の比喩である。

何度も言っているが、「ほめ言葉のシャワー」は、すごい。
ただし、菊池実践は、相当に深い。
そこだけ真似しても、全く形にならない。
「ほめ言葉のシャワー」が菊池実践のシンボルとして広まっているだけである。
本当にやるなら「菊池道場」等に入るなり、菊池実践の本を何十冊も読んだりセミナーに出かけたりして、深める必要がある。

学級経営において、「鉄板」の手など、ない。
千手観音よろしく、多くの手をもつことである。
千手観音が多くの手をもつのは、どのような生命をも漏らさず救済しようとすることからであるという。
こちらは神様ではないので、すべてを救うことは難しいかもしれないが、最低でも学級の子どもの人数分の手は必要になる。

だから「これやっときゃ」がない以上、たくさんの手法を学んでもつしかない。
「意図的な経験」を意識して何十年もやっている、本物のベテラン教員の方が、若手より対応の幅が広い理由である。
時代が激変しようがそうでなかろうが、教える立場にある以上、一生学び続けるしかない。
私の尊敬する野口芳宏先生は齢八十を越え、未だ学び続けている。
だからこそ、多くの人の尊敬を集め、教えをこう人が絶えないのだと思う。

「これやっときゃ大丈夫」は、ない。
人前に立つときは、緊張感をもって準備をし、その上で楽観的に目の前の事に当たりたい。

2017年6月12日月曜日

自分の周りにいる人こそ自分自身

以前紹介した『人生はあるあるである』からの気付き。

この本に「自分の周りにいる人こそ自分自身」という小タイトルの話がある。
給料が安いとか上司が悪いとか、不満を言う人はどの社会にもいる。
しかし、これは当然だという。
例えば、相手から雑な扱いを受けた時。
「自分はいい加減な対応でいいと思われている。」と考える。
つまり、もっと頑張らねばならない。

相手の対応の悪さで怒っている若手には
「お前がナメられてんねんで」
と教えてあげるという。

私も共著『やる気スイッチ押してみよう!』の中で、
「苦手な相手は鏡」ということを書いている。
全く同じことである。

相手に、不平・不満を抱いたら、自分が至らないということ。
子どもにダメなところがあったら、自分をふり返ること。
だらしなさに腹が立つようなら、自分の中にもそれがある証拠である。
もっと努力すればいいのにと思ったら、自分はどうかと考えること。

相手を批判するのは簡単。
しかし、批判して人を指さす時、「人差し指」は文字通り相手をさしているが、小指と中指と薬指は、自分を指さしている。
批判している相手の三倍は自分のことである。
何か言いたくなったら、ぐっと我が身をふり返るようにしたい。

2017年6月11日日曜日

公開研究会ご案内
今日は本校の公開研究会の案内。

6月23日(金)・24日(土) 
千葉大学教育学部附属小学校 第50回公開研究会
http://www.el.chiba-u.jp/kenkyu.html

私は1日目に4年生の「ネット型ゲーム」の授業展開をする。
午後には、教育フェアで「アクティブ・ラーニングの体育」をテーマに実技研&理論研修の予定である。
この日の講師は文部科学省スポーツ庁で体育の教科調査官をされている、高田彬成先生をお迎えする。
授業研と協議会だけでなく、教育フェアまですべてご協力頂く予定である。
特に午後の教育フェアは、体育の初心者はもちろん、新学習指導要領における体育を学びたい方すべてにおすすめである。
私の授業以上に、そちらへのご参加を強くおすすめしたい。

一応自分の授業の宣伝も。
全体の研究テーマ「学びを楽しむ授業」を受け、体育部の研究テーマは
「自ら運動の楽しさを追求していく体育学習 ~サンドイッチ型を通して~」
http://www.el.chiba-u.jp/index_taiiku.html
今回は「ネットボール」という名称で、ネット型ゲームを「つくる」という趣旨で授業展開する。
バレーボールに似た動きになってくると思うが、ルールは全く違うものになる予定である。
誰もが楽しめる「共生」を意識した体育の授業展開を考えている。

以上、ご案内まで。

2017年6月10日土曜日

鯉幟のように

こどもの日に書いた記事。
(うっかり、季節柄のものなのに、アップし忘れていた。)

祝日法には次のように規定されている。
「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」

母への感謝も内容の一つである。
なぜか。
簡単に言うと、母こそ子が存在するルーツだからである。
子どもの成長を願い祝うということは、そのまま母親の存在の肯定につながる。
あまり認知されていないが、この祝日に「母に感謝する」の部分を入れたことは、特筆すべきことである。
(父は残念ながら入っていないが、子どもにとって母親の存在は特別である。
 その点において父は母に完全コールド負けである。)

ところで、こどもの日に関連することといったら何か。
列挙すると
1鎧兜・五月人形
2鯉のぼり
3菖蒲湯
4ちまき
5柏餅

ここに込められた願いを考えると、次のように分類できる。

1、2、3,4は子どもの成長を願うものである。
5だけは、親のため。
柏の葉は新芽が育つまで落ちないために、子が育つまで親が生きながらえるという意味がある。
親が生きることが、子の成長に間接的につながるという考えである。

他の視点で分類する。
2の鯉幟だけが異質である。
どういう視点か、少し考えてみて欲しい。

私の尊敬する野口芳宏先生の言葉に、次のものがある。
「子供には、支援よりもむしろ鍛えを。」

つまり鎧冑も五月人形も菖蒲湯もちまきも柏餅も「子どもを守る」という支援・厄除けの視点である。
鯉幟だけが「逆境を乗り越え逞しく生きよ」という鍛錬の視点である。

子どもは、守られるべき存在である。
一方で、子どもは、自立に向けて成長すべき存在でもある。

以前、オンライン記事で書いたが、鍛える視点、叱る視点を欠落させないことである。
(参考『子どもを「大切に大切に」しながらダメにする親』プレジデントオンライン
http://president.jp/articles/-/17690?page=4)

学級経営においても、この基本は外さない。
勉強ができないで困っていたら、教えてあげればいい。
でも、教えた後は、自分で解けるように見守る段階が必要である。
たとえ子ども同士で教え合わせる時にも、この視点をもたせる。
親切な子どもほど、相手が自力でやろうという段階でもまだ手出しや口出しをしてしまう。
教師でも同様である。

子どもを、何かができない存在として見ない。
子どもは、何かができるようになる存在である。
だから、鍛える。

鯉幟は、激流を昇って鍛えられることで龍になる。
子どもも、いつまでも子どもではない。
必要な部分は守りながらも鍛えて鍛えて、逞しく育てたい。

2017年6月8日木曜日

所属にプライドをもつ

私は「ビジネス発想源」という人気メルマガを読んでいる。
だから、そこでおすすめされている書籍は、結構即買いしている。
今回ネタにする本も、そこで紹介された本である。

『人生はあるあるである』
レイザーラモンRG 小学館よしもと新書
https://www.amazon.co.jp/dp/4098235048

次の一文に、心がひかれた。
===============
(引用開始)
ただ、一生懸命に働いたのは店長に気に入らたいからじゃない。
僕は自分の所属している団体がダサいと思われたくなかったのだ。
そして店長が嫌だからといって、ダラダラ接客するということは、その店にいる自分がダサいということだと思っていた。
(引用終了)
=================

全く同感である。
一生懸命働かないのは、ダサいのである。
自分の所属団体がダサいと思われるのは、プライドが許さない。
今までも、そう思ってきた。
「この学校に入れたい」「この学校に異動したい」
そう思われる学校にするために貢献したいと、どの職場にいる時も強く願ってきた。

幸いにも、最近ちょくちょく「附属小学校に異動したい」という声をきく。
その声を県内、県外の職員へ広げることが、一つの目標である。
教育実習の学生に「この学校でいつか働きたい」と思わせることが目標である。
私がかつて、指導教員の先生に抱いた憧れを、下の代にも伝えたいのである。

所属にプライドをもつ。
それは、一番小さな団体は家族であるし、さらに小さくすると自分自身である。
大きくすれば、学校、、地域、県、関東、そして何より、日本国である。

所属へのプライドをもって、仕事にあたりたい。

2017年6月6日火曜日

だらだらを勉強させない

小学館セミナーでの学びシェアの続き。

陰山英男先生の言葉。
「だらだらを勉強させない」
どういうことか。

私のメモだが、次のような話をされていた。
「だらだら分数の勉強をしているのは、分数の勉強をしているんじゃない。
だらだらの勉強をしているんだ。」

以前紹介したことのある、野口先生の「教材内容と教科内容と教育内容の違い」の考え方に近い。
つまり、分数の計算の学習自体は、教科としての内容。
しかし、だらだら勉強をしているのは、「だらだら」の勉強なのである。
「だらだらやる」という学習となる。
「24時間道徳」と同じ考え方である。

同じことが、仕事にもいえる。
今日出勤するのは、何のためなのか。
労働対価としての給与をもらうためなのか。
一日を過ごしてゴールデンウィークに近付くための、単なる忍耐の時間なのか。
社会に出て自分を役立て、人に喜んでもらうためなのか。
目的意識の違いで、得られるものは全く変わる。
(ちなみに、どんな働き方をしようが前2つは手に入る。)

話を戻して、子どもにマイナスの学習をさせない。
ただ教科内容を教えれば良いというものではない。
学生時代、こちらが聞いていようがいまいが、ひたすら喋るだけの授業を受けたことがあると思う。
歴史の時間なのに「内職」として英語の学習をしていたり、ひどいと弁当を食べていても黙認されていることもある。
これは「授業を聞かないで自分勝手にしてもよい」
「自分の受験に関係のない学習は無意味」
という学習をさせていることになる。

子どもに何を学習させているのか。
教科内容だけでなく、教育内容にまで目を向けるようにしたい。

2017年6月4日日曜日

学級経営に上下なし

私の同僚に口が悪いのが何人かいる。
(先に言っておくと、割と仲良しである。)
『切り返しの技術』を読んで、こんなことを言われた。
http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/500322/ref=pd_zg_hrsr_b_1_5_last

「お前の本、いいこと書いてるな。
そんなに学級経営うまくねーのに!」

腹立たしいことこの上ないが、まさにその通りで、ぐうの音も出ない。
そう、勘違いされることがあるが、そんなに何でも楽勝でうまくいっている訳ではない。
常に試行錯誤しながら、目の前の子どもたちと真剣勝負の日々である。
喜怒哀楽がもろに出るし、昨日はすごく喜んでると思ったら今日は落ち込んでいる。
だから、この同僚の言うことは、(半分残念ながら)本当である。

ただ、私は実感をもって言えるのだが、みんなそうではないかと思う。
本を何十冊も書いているとかいうと、神様のような学級経営を想像する。
「毎日、みんなきらきらとした笑顔で、先生も輝きながらいきいきと、・・・」
私は、そういう風に思っていた。
今は、「そんな訳ない」と思う。

世の中には色々な学級経営方針や手法がある。
その中には「褒める」を中心にしたものもあれば「叱る」を中心にしたものもある。
「一斉指導」の実践が多い人もいれば「個別指導」の実践が目立つ人もいる。
しかしどの人だって褒めるのと並行して叱っているし、叱るだけでなく褒めている。
一斉指導をしながら個別指導をしている。
苦しみながらも喜びを見出している。
だから何度も言っているが「これをやっているだけで万事うまくいく」というのは、ない。

学級で相手するのは、プログラム通りのロボットではなく、個々の人間である。
個性的すぎる。
本で書かれることは、その中に「これは共通して言えることが多い」という程度のことである。
そこを手法として紹介しているにすぎない。

話を戻すと、だから私も学級経営がうまいなどと口が裂けても言えないのである。
大失敗もたくさんしている。
逆にいえば、大失敗という資産がたくさんある。
だからこそ、人様に色々なことが紹介できるのである。
「ピンチはチャンス」の経験があるし、「どうにもうまくいかない目の前の子どもが、神様」という実感がある。

うまくいったと思おうが思うまいが、どちらも見方でしかない。
学級経営に上下はなく、みんな常に「それはそれでよし」なのである。
そうでないと、全国のすべての子どもたちに申し訳ないことになる。
とにかく、目の前の状況を楽しむこと。
そのために、「切り返しの技術」は必ず役立つ。
学級経営は下手くそかもしれないが、間違いなくいい本であるので、自信をもって多くの人におすすめしたい。

2017年6月2日金曜日

5月から6月に大変なのは、普通。


どの学級でも、何かと落ち着かなくなる時期である。
最初の三日間、一週間、一ヶ月というのは、一つの勝負どころでもあり、区切りでもあり、崩れ時にもなる。

この時期は、最初のルールが乱れてきたり、何かうまくいかない感じになる。
それが普通と思っているか、自分だけの異常事態と捉えるかで、大分違う。
エネルギー満タンで、自信とやる気に満ち溢れている人なら、後者の捉えでも構わない。ガンガン進んでほしい。
大部分の方は、ちょっと疲れていると思うので、それが普通なんだという捉えの方が、健全である。

普通だから何もしなくていい訳ではない。
ピンチな感じの今こそ、改善のチャンスである。
勉強にも今まで以上に身が入る。
教育雑誌一つを読んでも、普段なら読みとばすような記事が引っかかるはずである。
アンテナが高くなるとか、フックがあるとかいう状態になる。

また、たまたま自分のクラスが安定しているという場合もある。
この場合は、危機感がない分、実はより危険なので、とりあえず総点検した方がよい。
うまくいってると、他の苦しんでいる担任にアドバイスをしたくなるが、まあやめた方がよいというのが本音である。
実は、安定していると思っている本人が一番危ない。
更に、安全地帯からのアドバイスは、相手が落ち込むか腹が立つかのどちらかである。
「わかるよ。大変だよね…」と共感してくれた方がありがたいし、真実である。

いずれにしろ、この期間にすべきことは、休養よりも勉強というのが専ら持論である。
今必要なのは、回復することなのか、先に備えて磨いておくことなのか。
自分にとって必要な行動を選択してとるようにしたい。

2017年5月31日水曜日

外面を整える

若手の方向けの話。
この時期、ベテランの方は大体やっていることを一つ。

5月も終わろうという頃、学級開き当初とは様子が変わっているはずである。
平たく言うと、あらゆることが少しずつ弛む時期である。
慣れてくれば、弛む。
当然である。

では、具体的にどうするか。
環境から変える。
外からアプローチする。
実際は弛みは内面に起きているのだが、内面に働きかけるのは外面である。

つまりは、モノである。
例えば今年度の学級では
「物の扱いは人の扱い」
という言葉を定着させている。
物の扱いが乱雑ということは、人の扱いが乱雑ということ。
教室が落ち着かないのは、物の扱いが落ち着かないからである。

チェックする点はたくさんある。
目に見えるところだと、棚の上。
床。
椅子。
靴箱。
雨の日なら、傘立て。
公共、共同の場で、人様の迷惑になるような物の置き方をしていないかである。

また、見えないところも大切である。
個々のロッカーの中や机の引き出しは、個々の心のゆとりにつながる。
定期的に整える。

試しに、何も指導しないで下校させた後、靴箱と教室の椅子を見てみるといい。
落ち着かない子は、十中八九上靴と椅子がきちんとしわまれていない。
心が、外面に出ているのである。

そう考えれば、アプローチは単純である。
それらを整えさせること。
これに尽きる。
内面は変えられないのだから、外面を変えさせる。
これは指導の領域である。
教室が乱れていたら、子どものせいではなく教師の指導不足である。

弛みを感じたら、環境を整える。
学級経営の基本的手法である。

2017年5月29日月曜日

落ちてたらまた拾うだけ

千葉大学に勤める職員の方の言葉。
3月いっぱいで、大学内の職員の方々が多く入れ替わった。
大学では様々な仕事があるが、清掃を中心に仕事をしてくれる方もいる。

休み明けは、カラスがゴミ箱を漁って散らかすため、ものすごく汚くなる。
大学のゴミ箱は、学生だけでなく、土日に通る他の人々も捨てるため、ゴミ箱があふれかえる。
カラスにとっては、最高の餌場である。

以前、あまりにひどい惨状なので、取材をして教材化した。
(詳細は『教育技術』誌の道徳の授業に掲載されたので省略。)
子どもにも現状を知って欲しいと思ったからである。
自分たちの通学路がきれいなのは、自然で当たり前のことではないと知って欲しかったからである。

毎朝清掃をしてくれるその方に、インタビューをした。
「毎日こんなに散らかされて、大変じゃないですか?」
すると、笑顔でこう答えられた。

「落ちてたら、また拾うだけですよ。
それが仕事ですから。」

ガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。
その姿勢に、頭を下げるしかなかった。
仕事に対してグチを言っている場合ではない。
それが仕事である。
以前「仕事の9割は忍耐」という言葉を紹介したが、あれに通ずる。
完全に「参りました」という感じである。

この方も、3月にご退職をされた。
私が「おはようございます。」と挨拶をすると
「松尾先生。私、今月いっぱいで退職いたします。ありがとうございました。」
と、一度しか紹介していない私の名前を呼んで、丁寧に挨拶をしてくれた。

やはり、一つの事を徹底する人は、他もできているのである。
一事が万事。
凡事徹底。

周りの人から学べることは、本当に大きい。
常に感謝を忘れずに過ごしたい。

2017年5月27日土曜日

無条件に存在を認める

プレジデントオンラインの次の記事が再注目されている。
『できる親がしている、上の子と下の子の格差をなくす方法』
http://president.jp/articles/-/20850

以下、一部引用する。
==========
(引用開始)
そのためには、日常の声かけが命です。
親から子供への声かけ。これが重要です。

例えば、子供がまだ小さい時、描いた絵を見せにきたら、「○○を描いたのね」「素敵」「楽しいね」など、肯定的なイメージがする声かけをしたのではないでしょうか。
この場合は「上手ね」もありで、これは評価というより事実認識です。
(絵の出来栄えは問わず、『上手ね』ということ)
子供が描いた絵はすべて「上手」なのです。

小学生・中学生に対しては、この声かけを少し応用すればいいのです。

子供のしたこと、作ったもの、できたこと、またはできなかったことも含めて、ひとつずつを認めていくことです。
受け止めるのです。
すると、家庭内で評価や比較をされないと認識した子供の心は、安心し安定します。
子供のすることを何でも「良い」とすることではありません。
それは評価です。
あくまで、認識を促します。
(引用終了)
======================
この記事の内容は、学級経営においてもかなり大切である。
どういうことか。

つまり、学級において、無条件にその子の存在を認めるということである。
何ができるからいいとか、何ができないからダメとかそういう評価対象ではない。
そこにいることそのものが素敵という見方である。
(これは、担任した子どもが不登校になってしまった経験がある人なら、特に実感をもってわかると思う。)

評価の場はあっていい。
競争にだってその価値はある
しかし、それはあくまで、健全な自尊感情を育てた上での話である。

各ご家庭の宝である子どもを預からせてもらう以上、毎日子どもと出会えることを喜べる感性だけはもっていたい。

2017年5月25日木曜日

改めて「縦糸横糸理論」を見直す

ここ数年で読者の数も増えたので、この時期に必要な考え方の修正再録記事。

野中信行先生という、崩壊した学校を建て直すプロ教師の話である。
学級経営がうまくいかず崩壊するという現象が、ベテラン教師に多く起きているという。
ここ十数年の話である。
この学級崩壊の原因が、「縦糸と横糸」のバランスにあるという。

縦糸とは縦の関係である。
「返事」「挨拶」「言葉遣い」「ルール」等の規律面を指す。(上下関係)

横糸とは横の関係である。
「一緒に遊ぶ」「誉める」「励ます」「笑い合う」「子ども同士で学び合う」等の、
伸びやかな雰囲気を作る要素を指す。(横ならびの関係)

新任教師が失敗するのは、どちらが不足しているからか。
ちょっと考えてみて欲しい。
すぐわかると思うが、「縦糸不足」である。
寄ってきてくれる子ども達がかわいくて、仲良くなり「いい先生」を目指しすぎ、規律がなくなる。
このパターンは、数十年前から続く学級崩壊ゴールデンパターンである。

子どもと仲良くなること自体は良いことだが、教師にとって仕事の目的ではない。
理想的な教育に至るための、一つの手段である。
野口芳宏先生の提唱する教育の成立条件「信・敬・慕」の中の一つでしかない。
信頼と尊敬という、縦糸の要素が強いものも同時に備えていく必要がある。

逆にベテラン教師は、縦糸を強く張りすぎようとするせいによる学級崩壊を起こしているという。
TOSS代表向山洋一氏はこれを「新型学級崩壊」と名付けたと、産経新聞上で発表していた。
「新型」とはいうが、もう十数年以上前から起きている現象である。
規律ばかりを強め、関係をもてずに、子どもが反発していく。
何をいっても反抗的になる。
こういうパターンに陥る。

大変わかりやすい理論である。
自分の新しく持つ学級をどうしていきたいのか。
縦糸と横糸のバランスで考えてみるといいかもしれない。
拙著『ピンチがチャンスになる切り返しの技術』にも、この辺りの理論は応用されている。
ぜひ参考にしていただきたい。

2017年5月23日火曜日

子どもは「リレー」で育てる

こちらもメルマガ上で一月前に書いた記事。
(タイムリーに情報を得たい方は、右のボックスからメルマガ登録を。
 このブログは、過去記事のキーワード検索に便利。
 私自身も、そうやって利用している。
 そういう利用の仕方が特におすすめである。)

4月も中旬となり、学級の方の様子が変わり始めるころである。

学級の様子はどうだろうか。
落ち着いているとか言うことを聞かないとか色々ある。
どうであっても、次のような考え方で見る。

良いと思える点は、ほぼ100%、前担任をはじめとした、これまでの方々の教育のお陰である。
良くない、うまくいかないと思える点は、自分の責任の可能性がある。
(可能性があるだけで、全てそういう訳ではないが、自分の責任と思う方が主体的に対策がとれる。)

つまり、リレーのバトンパスと同じである。
回ってきた時に、たまたま勝ってる位置かもしれないし、しんどい位置にいるかもしれない。
そこをキープできるか、または挽回できるかどうかは、自分次第である。

4月の時点では、多くの子どもが「前の担任」のやり方を引きずっている。
もっときついことに「前の先生の方がいい」と思っている可能性が高い。
しかし、これは逆の立場になって考えれば、至極当然、ありがたいことである。

4月になって、昨年度に担任した学級の子どもたちのことを、どうでもいいと思っているだろうか。
そんなはずはない。
もし新しい学級担任の先生に「先生のクラスにいた〇〇さん、いいですね!」と褒められたら、何か嬉しいはずである。
逆にもしいきなり荒れていたりしたら、かなり責任を感じるはずである。
つまり、4月はまだ「前担任」が色濃く出て当然の時期である。

4月の内は、まだ学級担任になりたてで、お互いに「様子見」の時期なのである。
「我がクラス」という感じにはほど遠い。
責任はもたなくてはいけないが、自分の思う通りになんていかなくて当然である。

こちらの側も、何とか新しい子どもから「担任」と思ってもらえるようにしていきたいと願っている。
共に明るい未来をつくっていきたいと願っている。
これには当然、時間と手間がかかる。
愛情をもって、辛い思いもしながら、お互いに少しずつわかりあっていくしかない。
しかも、前の担任もひっくるめてである。
前の担任のことを尊重できないようでは、わかりあえる関係には至らないだろう。
子どもがかつて一緒に過ごしてきた人たちを尊重するのは当然である。

4月の新学級担任は、そういう状態である。
だから、何でもうまくいくはずがない。
でも、「言うことをきかないといけないな」と子どもも少し譲歩してくれる時期でもある。
ある意味、千載一遇のチャンスである。

うまくいかなくて当たり前。
でも、うまくいくように努力をする。
もしうまくいかなくて悩んでいる人がいたら、それで大丈夫だと言ってあげたい。

2017年5月21日日曜日

子どもの顔が上がる理由 上がらない理由

メルマガ上で、桜の時期に書いた記事。

一昨日は天気もよく、金曜の夜ということで夜桜を楽しむ花見が各所で行われた。
私は川沿いの桜並木を通勤路にしているため、この時期の通勤はとても楽しみである。

この時期、通勤路では、みんな上を見ていて、表情も穏やかである。
言わずもがな、桜が咲いているからである。
桜の花は高い位置で咲くため、自然と顔が上がる。
人間は、顔が上がると、表情が明るくなる。
名曲「上を向いて歩こう」は「Sukiyaki」の名で世界にまで広がる大ヒットをしたが、上を向けば自然に元気が出る。
(ちなみに、通勤電車の中では、大抵がどんよりした表情である。
 一部例外もいる。
 おしゃべりが止まらない女子高生である。
 ちょっとうるさく感じる時もあるが、あのエネルギーは見習うべきものがある。)

歌を歌う時も、目線を下げることはしない。
指揮者は、高い位置にいるため、顔と視線は上向きになる。
やはり、どこを見るかが大切である。

桜の花は、自然と人の顔を上げさせる。
強制ではなく、見たくて上がる。
理想的である。

だから、授業中に子どもの顔が上がらなかったら、教師の話し方や表情にも問題があるのかもしれない。
または自分が教科書をじっと見ているせいかもしれない。

例えばセミナーをする時、私は意図的に資料を配らないことが多い。
資料があると、参加者は手元の資料に目線がいって、話が伝わりにくいし、私自身が話しにくいからである。

人は、見たいものを見る。
だから、見たくなるようなものを前にもってくる。
顔を上げて見たくなるようなものをもってくること。
桜を見ての気付きである。

2017年5月19日金曜日

教科書とテストの縛り

小学館記念セミナーでの学び。
陰山英男先生から
「学校現場を縛っているのは教科書とテスト」という話があった。

教科書はガイドとして有効である。
しかし「教科書を教える」のは違うというのはよく言われることである。
使用義務があることと、隅から隅まで同じ力をかけてやることは別物である。

テストも現場を疲弊させる原点の一つである。
40人いる学級のワークテスト一回にかかる採点の時間はかなりのものである。
(だから、ついためてしまう教員が多いのも頷ける。)
各教科にあるため、それが月に何枚もある。
当然疲れる。

しかし、テストなどは、自分たちで採択したものである。
自分たちで自分たちの首を絞めているともいえる。
特に国語などはそうだが、すべてのテストを同じように実施しないと成績がつけられないかというと、そんなこともない。
「説明責任」のための資料が欲しいという面が結構ある。
やり方次第である。

教科書もテストも、無闇やたらに真面目に取り組むだけでは、当然疲れる。
あくまで目的達成のために「使う」という発想が必要である。

アクティブラーニングの用語に象徴されるように、学び方の転換が求められている。
それなのに、その効果を測定するためのテストが旧態依然なのはなぜなのか。
テストの実施方法や採点方法についても、そろそろ再考の時期である。

2017年5月17日水曜日

先約優先

4月、どの職場も歓送迎会やらお花見やらのお付き合いが多い。
予定が埋まる。
そんな中で大切な考え方について、ある記事で紹介されていた。
「そうじの力」というニュースレターにあった次の言葉。

それは「先約優先」である。

以下、引用する。
==================
(引用開始)
私も時々、約束の日程の直前になって、先方から
「小早さん、悪いけど大事な用事が入っちゃったので、日程を変更してもらえませんか?」
という依頼を受けることがあります。

その時、私は心の中で密かに思うのです。
「おいおい、私との約束は『大事』じゃないのかい?」と。

事の大小は、こちらが勝手に決めているだけで、相手にとってはすべて大事なことなのです。
(中略)
無条件で先に交わした約束を優先することが大切なのです。
(引用終了)
===================
相手によって態度を変えない。

私たちは、いつもお世話になっている相手だったり、「地位の高い」相手だったりすると、つい「重要な用事」と捉えてしまう。
何かを「重要」とすることは、それ以外を「重要でない」と規定することにもつながる。
(ちなみに、自分に危害を加える相手とそれ以外の相手を並列に扱うべきということでは決してない。)

これは、子どもたちの人間関係にもいえる。
よく席替えや班決めで「好きな人同士」という言葉をきくが、この言葉は危ないと思っている。
この場合の「好きな人」というのは、いわずもがな恋愛感情ではなく、「仲良し」という意味である。
つまり、席替えのような場面において、仲間に対し「好きな人」と「それ以外の人」ということを規定することになる。
「協力できる」「仲良く」というようなことを目指すのであれば、完全にアウトである。

先約優先。
それは、人を人として大切にするということと同義である。

2017年5月14日日曜日

母の有り難さ

母の日の記事の再アップ。

母の日。
「子どもの日」と名称が似ているが、子どもの健やかな成長を願う日であるのとは訳が違う。
あくまで「母への感謝」を具体的に伝える日である。
(父の日も同様なのだが、かなしいかな、後付けの感は否めない。)

母親がしていることは、母親的には「当たり前」のことである。
しかしこれはあくまで「お世話」の行為の主体者である母親の感じ方である。
お世話されている側が「当たり前」になってはいけない。
しかし、空気と同様、ふんだんにありすぎるものに対しては、当たり前すぎて感謝の気持ちを持ちにくい。
例えば水泳をすると、普段全く意識しない空気(に含まれる酸素)が有難いものになる。
「有ることが難しい」環境を体験して初めて「有難い」ことに気付く。
本当は有難いのに当たり前すぎるものに対しては「気付く」ためのきっかけが必要である。

以前にも何度も紹介しているが、「当たり前の有り難さ」について考える時、震災の時の給食を思い出す。
普段当たり前のように食べて、余るから残している給食が、急に少量の質素なものになる。
いつもよりずっと質素な白飯とおかず一品の献立が、本当に有難く感じられる。
当然、残飯など全くない。
食料の調達が、たくさんの人の手によってやっと成り立っている事実にも思いが至る。
自分が、いかに恵まれた環境で、たくさんの人々に支えられていたかにも気付く。

そんな訳で、母の日は感謝を伝える日であると同時に、感謝に気付く日でもある。
家族内で多分最も重労働をこなしている母親の姿に思いを馳せる日である。
見回せば、あらゆることの感謝に気付く種がいっぱいある。
「当たり前」の「有り難み」を感じられるようにしたい。

2017年5月13日土曜日

本を出したいあなたへ

小学館の学びをシェアしようという最中だが、その前に、今伝えたいことを。
本が売れ行き好調で、かつ春の教育書フェアの最中なので、本の出版に関する話。
(ちなみに今回の記事は、「まぐまぐニュース」でも取り上げられたので一応リンクを貼っておく。http://www.mag2.com/p/news/245231

これまで様々な出版社の方々と話をした。
出版社は、本や雑誌の原稿を書ける人を常に探している。
枠はあるが、それを書ける人がいないというのが出版社の現状である。
つまり、市場にチャンスはいくらでもある。
問題は、書けるかどうかである。

教師の仲間にも、本を書きたいという人は多い。
しかし「もう書いたのある?」と聞くと、9割強の人は「それはまだ」という。
私のように「普通のレベルの人」ならば、それじゃダメなのである。
いつか書きたいのではなく、今何か書いておかないとチャンスは掴めない。
稀に才能に溢れた人がいて、待っていても「書きませんか」と声がかかる人がいる。
非常に優れた実践家であり、周りが放っておかない人である。
自分がそれに当てはまるなら、待っていても大丈夫である。
しかし、そうでないなら、予め書いておくことである。
これが第一のポイント。

そして、今回はここが一番伝えたいことなのだが、最初に書いたものを誰に見せるかが最重要である。
これは、絶対に肯定的な人がいい。
私の場合、現さくら社の社長、横山験也先生だった。
「とにかく書いたのを持ってきなさい」と言われ、持ち込んだ。
この先生にはその前にも「チャンスがあったらまず手を挙げろ」といったことも教わっており、私の人生に大変な影響を与えた人物である。
(そもそもを辿ると、師匠の野口芳宏先生からのつながりである。)
残念ながら諸々の事情から、この後さくら社からは出版できなかったのだが、励まされ、色々手配してくれた。
そして、ある出版社の編集者の方から痛烈な批判を受け、根本的に書き直すに至る。
私の最初の原稿は、お蔵入りである。
しかし、これが土台になっている以上、無駄にはならなかったといえる。

この順番が大切である。
最初に肯定的に見てくれる人がいて、これを認めてくれる。
やがて、的確にダメなところを批判してくれる人に当たり、直すに至る。
この順番が逆だと、最初に挫けて終わってしまう。
やはり、まずは自信が満たされるところからスタートし、厳しい世界で戦うようになるというのが定石である。

だから、最初に見せるべきは、肯定的な人。
批判的な人に見せるのは、いずれ必要なのだが、後回しにした方がいい。
そうしないと、自分の中の「アーティスト」が挫かれることになる。

以前からのメルマガ読書の方々はご存知の通り、この後私の道を切り開いてくれたのは、親友の飯村友和氏である。
私のブログ記事を読んで、肯定的に受け止めてくれ、「一緒に本を書こう」と誘っていただいた。
それが私の初の共著による単行本『やる気スイッチ』として世に出た。
https://www.amazon.co.jp/dp/4181646149
夢を応援してくれる人に当たるためにも、その人に出会う前の段階は自分で済ませておくことである。

とにかく書く。
それを信頼できる肯定的な人に見てもらう。
このステップがコツである。

そして、「いつかとお化けは見たことない」のだから、今動くこと。
そのために、新年度からの実践を記録しておくこと。
「いつか自分の本を書きたい」と思っている人へ、ちょっとだけ前を歩いている私からのアドバイスである。

2017年5月11日木曜日

基礎学力がストレスを下げる

小学館のセミナーでの学びシェア。
100号ぐらい書けそうな内容だったので、本当に厳選してお伝えする。

今回は、陰山英男先生からの学び。
陰山先生とは、以前野口先生のお宅で酒席をご一緒させてもらって以来である。

懇親会への移動中にもマンツーマンで色々と興味深い話を聞けた。
次の言葉。

「基礎学力は子どもたちの学校でのストレスを大幅に下げる」

聞き覚えなので正確ではないが、そんな意味合いの言葉だったと思う。
なるほど納得である。

徹底反復研究会というものがあるぐらい、陰山先生は基礎学力を大切にする。
ある荒れた学区の学校が、基礎学力の徹底で激変したという。

そう、基礎学力があるというのは、学校でのストレスのかなりをなくす。
例えば「授業についていけない」というのは、不登校の原因のかなりの部分を占める。
ここが解消されるだけで、不登校そのものがかなり解消されるということが結果として出ている。

そう考えると、やはり学力の保証は大切である。
授業力を磨くことは教師にとって必要条件といえる。
授業研のような場でマニアックな授業をすることではなく、基礎学力をしっかりとつけることである。

「漢字テストで100点」自体に大した価値がある訳ではない。
漢字が書けなくても今の時代はやっていける。
しかし、漢字テストで100点を取るということは、他の様々な付加価値を生む。
100点を取るまでの過程にも価値がある。
計算も同様である。
「四則演算はパソコンがあれば大丈夫」というのは真実である。
しかし、計算ができることの真の価値はそこではない。

やはり、基礎学力の保証。
これは、教科書を隅から隅までやるということでは決してない。
基礎学力の保証は、学級経営において最低限欲しいラインである。

2017年5月9日火曜日

被災地に学ぶ

3月の「被災地に学ぶ会」に参加させてもらってきた。
「学んだことを広げる」という使命により、学ばせていただいた内容を一部シェアする。

今回の場所は福島県南相馬市である。
前回参加の時と同じく、避難勧告が解除されて帰ってきた方の、個人宅の竹の伐採と敷地整理。 
黙祷をした後、チェーンソーを使って、竹をどんどん切っていく。
チェーンソーも注意だが竹自身も鋭利なため、手袋をして手を切らないように注意しながら作業を進めていく。

竹はしぶとい。
切った後の切り株部分も鋭い上に抜けない。
農家の知人の方が「竹は放っておくと厄介だから、タケノコどんどん獲ってって。」と言っていたのがよくわかる。

逆に考えると、竹の生命力があれば、どんな状況からでも復活できる。
竹は、ぐんぐん伸びる。
切っても切っても、見えない地下でしっかりと根を張っている。
切りながら大変だと思う一方、生命の力強さも感じる。

そして、この竹林整理は、一日十数人の人手ではとても処理しきれない。
よってボランティア活動は、リレー形式になる。
一つの場に対しても、前の団体が切った竹を、次の団体が処理する。
次の人が運びやすいように、紐で縛る。
最終処理しやすいように、竹の長さを揃えて整えておいておく。
リレーなのである。

以前宮城県で行った、海岸での遺品発掘作業も同様。
他団体とのリレーで、1か所ずつ潰していく。
「ここは掘り終わった」という場所を増やしていく。
気が遠くなるほど少しずつしか進まない作業だが、人手と時間さえあれば、いつか辿り着く。

正直、やり始める時は、「こんなにあるの!?」とちょっとがっくりくる。
一個人のお宅でこの量があるのに、ボランティア待ちのお宅がまだまだ山ほど控えているのである。
(そして、「復興した」という誤解によって年々ボランティアは減り続け、現地は常に人手不足である。)
しかし、やり進める内に、竹が積み上がり、きれいになっていくのを見ると、達成感がある。
仲間内の連帯感も生まれる。

お昼のお弁当は、主催者の方が現地のお弁当屋さんに注文してくれている。
主催者の方とお弁当屋さんは毎度の注文で顔見知りであり、作業現場まで届けてくださる。
お弁当屋さんも、避難して戻ってきた被災者の一人である。
お弁当を食べる前に、この方のお話をいただく。
津波はとても波には見えず、巨大な真っ黒い壁が迫ってくる感じだったという。
津波は土などを巻き上げて進むため、真っ黒だという。
実際の被災者の方の話は、真実味がある。

お話の後、地べたに円座して有難くお弁当をいただく。
全国チェーン店のお弁当のはずが、特別に美味しく感じる。
(ちなみに、このお弁当は、「日本を美しくする会」相談役の鍵山秀三郎様からのご提供である。)

もう一品、「からし菜」をいただく。
こちらは、依頼主の方が、我々の作業中に庭から摘んで、茹でて作ってくださったものである。
これも大変美味である。
ちょっとした心遣いが嬉しい。

お昼の後は作業再開。
黙々と進める。
きれいに切り分けられ、累々と積み上がった竹は、壮観である。

一人で、一回でできる量は、本当に少ない。
しかし、それが積み重なり、何十人、何百人、何千人、何万人となれば、話は別である。
リレーのように長く長く続けていけば、話は別である。

主催者の方は、埼玉県の高校の先生である。
震災の後、何かしたくてとにかく現地に向かったという。
そして、被災地の被害を目の当たりにし、「これは仲間がいないとどうにもならない」と思ったという。
その後、仲間を集めて足を運ぶこと数十回。
教え子も参加し、高校生だけでも延べ数百人は参加したという。
その中の三人が今回も参加していた。
「先生に出会って人生が変わった」という。
教育の究極は、感化・影響。
まさに教育者である。

現地でも学べたが、参加者からも学べた。
現地でどんどん動く他の参加者の背を見て、自分の力のなさも痛感した。
しかし「ハチドリのひとしずく」のように、小さくてもやれることをやるしかない。

メルマガを用いて発信できるのが、私の唯一の強みである。
お陰で、メルマガの中の一人の同志が参加してくれた。
これを読んで、何かしようと思ってくれる人がまた一人でも増えていってくれたらこの上なくうれしい。

ちなみに、次回は
6月3日(土)
開催である。
興味のある方は、ご連絡をいただきたい。

2017年5月7日日曜日

実践をふり返る重要性

昨年度末、拡大サークルを実施した。
そこで「今年度をふり返って」ということで、色々1年間をふり返ってみた。

新たに始めたことと同じぐらい、やめてみたこともあった。
失敗も多かったが、失敗したことでわかったこともたくさんあった。

例えば、学級通信。
やめてみた。
1年間出さなかったのは、15年目にして初めてである。
結果はどうだったか。
手間がなくなった分、得るものも減った。
保護者に、学級の様子を理解してもらいにくい。
保護者や子どもに、自分の考えを整理して伝える場がない。
しかし、だからといって学級経営が成り立たなかったというと、そういうこともない。
結論。
私の学級経営には、学級通信が必要である。
結構大変な分、リターンが大きい。
よって、4月からの学級ではまた学級通信を発行している。

こういうことは、いちいちふり返ってみないと流れてしまう。
だから、ふり返りには意味がある。
今回、私は幸いにもサークルという場が与えられ、「他律」によってこの活動ができた。
家にノートに書き出すだけでもいい。
この1年をふり返ることで、次年度の輝きが変わってくる。

ゴールデンウィークで1ヶ月をふり返り、再整理したい。

2017年5月5日金曜日

「プリ〇ュアカレーが食べたい」子どもの心理

子どもの日ということで、子どもにちなんだ緩い話。

カップ麺。
レトルトカレー。
マック。

何かというと、「子どもが好きな食事」御三家である。
どれも、インスタントでファストである。

何度か紹介したかもしれないが、私の好きな話。
授業参観での作文発表の一場面。
「僕のお母さんは、料理が上手です。
 一番好きなのは、納豆ごはんです。」
最高である。

子どもは意外と、「愛情のこもった手料理」を有難がらない傾向がある。
普段きちんとしたものを食べているからこそ、という面もあるかもしれない。
例えば私の幼なじみのI君は、小学生の頃、レトルトカレーを食べたことがなかった。
なので、彼の誕生日プレゼントに、インスタントの激辛カレーをプレゼントしてあげた。
彼の親がどんな反応をしたかはわからないが、今になって悪いことをしたと反省しきりである。

別の話。
私の知り合いの母子の話で、夕飯で娘(3歳)にカレーを作って出した時のこと。
食卓にはつくものの、なかなか食べない。
おもむろに席を立ち、食品棚からインスタントカレー(「プリ〇ュアカレー」)を取り出して一言。

「こっちがいい。」

母ブチ切れ。
どの家も、「そんなもん」である。

ただ面白い話で終わらせないで、考察してみる。
要は、子どもの「好き」に振り回されすぎないということ。
子どもの「好き」が「良い」とは限らないということである。
時に我慢をさせたり、好まないがやらせる必要もあるのではないかと思った次第である。

2017年5月3日水曜日

1年間でどれだけリスクをとったか

ある保育園の、卒園式での話。

卒園式は2部に分かれており、第1部が卒業証書授与などのいわゆる卒業式。
第2部がユニークで、学習発表などを行う。

この中では、竹馬、鉄棒、跳び箱、リズム体操などが行われた。
どれも、全然できない状態からスタートしたことを知っているため、当日の保護者の驚きは大きい。
竹馬では、自分の背丈より高い位置にステップがあるものに乗ってどんどん進んで行く。
跳び箱では、小学校用の跳び箱で3~8段の中から、自分が克服した段数を跳ぶ。

高い竹馬に乗れること、高い跳び箱を跳べること自体に価値がある訳ではない。
自分にとって「高いもの」を越えようと挑戦して克服したことに価値がある。
だから、絶対的に見て高さや段数がどうだろうが構わない。
子どもたちは、自分にとっての「壁」を克服した経験をもつ。
大きな壁を先生や仲間に助けながら克服していく経験をもつ。
「下から見たら果てしなく高いようで、登ってみたらそうでもなかった」ということも知る。
よく「体育で逆上がりができることの価値は何なのか」と問われるが、その答えの中の一つがここにあるように思う。

ここに挑戦することは、先生たちにとっても、かなりのリスクである。
途中でケガをすることもあるし、卒業式本番で失敗するかもしれない。
練習中には嫌がったり挫けたりする子どもたちを、文字通り叱咤激励しながら成長させていく。
褒めてニコニコしているだけでは済まされない辛さがある。
それでも、敢えてリスクをとってくる。
きらきら輝く子どもたちの姿から、その苦労と感動が透けて見える。
結果、会場には何ともいえない感動が生まれる。

人間、楽なことでは感動も成長もしないのである。
困難が読み取れるからこそ、心を動かすものがある。
リスクに対する正当なリターンである。

1年が終わるが、どれぐらいリスクをとって、挑戦してきたか。
1年をふり返る時、その充実度を決めるのは、ここにあるかもしれない。

2017年5月1日月曜日

子どもは自力で伸びる

卒業式の辺りで書いた記事。

毎年この時期に考えることが、この一年で何の力がついたのかということ。

単発では色々なことをしてきているが、どれだけ残っているかを考える。
誰がもっても、とにかく一年は終わるのだから、自分がもった意味を結構考える。

中には「先生のお陰で…」と有難い言葉をくれる子どもや、保護者の方々もいないわけではない。
しかし、どう考えても、本人の自力で伸びたとしか思えない。
少し肥料や水を与えたかもしれないが、伸びたとしたら本人の自力である。

そう考えると、教師のできることは、限られてくる。
教えるとは言うが、相手が習っても、学ぶかどうかは、本人次第である。

私は毎日日記を書かせるようにしてきたが、これは幾ばくか意味があったように思う。
気付きは、自分の中から生まれるものだからである。
万能の手段ではなく、効果の薄い子もいる。
書かない子どもに何とか書かせる試行錯誤も価値はあるが、別の分野に力を入れた方がよい。
結局、自力だからである。
種が違うと、育て方は違う。
当たり前の話である。

私も「お陰」ぐらいに力は添えたが、伸びたのは自力。
つい忘れてしまいがちな自分への備忘録である。

2017年4月25日火曜日

耳に心地よい言葉こそ要注意

教育の分野では、何か動きがある度に耳に心地よい言葉が席巻する。
「アクティブ・ラーニング」などもその例の一つで、もう「アクティブ」という語感だけでもイケイケなノリである。
「生きる力を育む」も同様。
口にするのは簡単だが、実際何をするかというと、ものすごく頭も使うし、大変である。

子ども主体。
対話的で深い学び。
「ゆとり教育」などは、今でこそ批判の対象だが、これも本来は耳に心地よい言葉である。
それで、その言葉のまま素直に受け止めたら、何が起こるか。
「子どもが何でも自分の意見を言える自由な教室」に、何が起きたか。
言葉の一つ一つを吟味せずに表面的に扱うと、とんでもないしっぺ返しを食う。

要するに、耳に心地よい言葉に振り回されると、ろくでもない目に遭うということ。
「巧言令色仁鮮し」とは有名な孔子の言葉だが、そんな昔から言われ続けていることである。

言葉自体が悪いのではない。
むしろ、必要なことを端的に言い表している。
しかし、ダメな道徳の授業と同じで、いいこと言えばいいってもんじゃないのである。
行動、内実が大切である。
言葉は使いようで、君子が用いれば人々を正しい方向に導くが、詐欺師に使われたら、悪い方に転げ落ちる。

耳に心地よい言葉だと思ったら要注意。
何事もにも通じる考え方であると思う。

2017年4月23日日曜日

お腹がいっぱいでも夕飯の献立を考える

外食して、ランチをお腹いっぱい食べる。
その後は帰って昼寝、といきたいところだが、台所を守っている者は違う。
お腹いっぱいの状態で、家族の夕飯の献立を考えて、買い物に行くのである。
その際に聞かれる
「今日の夕飯何がいい?」
という母親(または妻)の質問に辟易した世界中の子どもや旦那の数は、はかり知れない。

何が違うかというと、責任感である。
台所を守る者は、単に食べたら終わりの「消費者」と違い、「生産者」としての責任と見通しがある。
面倒でもここでやっとかないと、後々困ると知っている。
頭が下がる思いだが、当の「消費者」本人たちはお腹いっぱいなので、正直「今は面倒」としか思えないのが本音である。
「消費者」にとって、自分事になっているのは、「お腹が空いた時」だけなのである。

この心理の原理、復興支援に対しても似た部分がある。
震災当時、多くの人が関心をもった。
特に6年前、東北や関東近辺の人間にとって、震災は「明日は我が身」の緊急事態の自分事であった。
だから、復興支援にも協力したし、自分の身の回りを次なる震災に備えて整えたりもした。
九州は遠いから安全と思っていた矢先に、今度は熊本だった。
我々は、日本に住んでいる以上、常に同じ問題を共有し続けているといえる。
過ぎ去っても、いつかまた必ずどこかにやって来る。
歴史がそれを証明している。

しかし、喉元すぎれば何とやらで、マスコミやメディアも、時が経つと大きくは取り上げなくなる。
そうすると自然、「復興が進んだ」「もう大丈夫」と錯覚する。
支援が減る。
事実、震災へのボランティアの人数も支援金額も、年々下がってきている。
震災への自身の備えも甘くなる。
要は、お腹が満たされているから、先々必ず起こるであろう問題のことを考えなくなる。

福島原発をはじめとする震災の問題が数多く残っている以上、東京オリンピックだって安泰とはいえない。
世界に誇る日本にしていくためには、ここを無視できない。

私が大好きな、東北出身の児童文学作家、宮沢賢治の言葉。

「世界全体が幸福にならないうちは 個人の幸福はあり得ない」

私は、この言葉の「世界」とは自分の知覚(近く)の世界を指すと解釈している。
つまり、家族や学級のような小・中集団から、地域、日本、世界という大きな単位まで、知ることのできる社会的な集団すべてを指す。
少なくとも、目の前の人と言い争っている内は、世界中の戦争もなくならないし、平和も幸せもないと思っている。
被災地は、自分の属す日本という国の一部である。
体のどこか一部がひどく痛むのだから、そこを無視しては本当に健康とはいえない。

一人の人間にできることはごく限られている。
そのごく限られたことをそれぞれが果たしていくことしかできないが、それが集まることでとてつもなく大きな力になる。
長期的な視点をもって、今必要な行動をしていきたい。

2017年4月21日金曜日

学級懇談会で話す内容

4月、学級懇談会があるので、修正しての再録記事。

懇談会で、毎年お願いすることがある。
「先生の言うことをきくように。」と、子どもに伝えてくださいという内容である。
苦笑される前提で話す。
一方で、自分の方からも「お家の方に感謝し、言うことをよくきくように。」と常々話すことも伝える。
2つで1セットなのである。

どういうことか。

つまり、このようにすれば、子どもは安定するのである。
大好きな自分の親が、先生の言うことをきけという。
その先生は、親の言うことをきけという。
何も矛盾が起こらない。
感謝の気持ちを持つので、子どもが素直になる。
子どもにとって、どちらの教えも、すいすい入る。
三者全員にとって幸せである。

逆を考える。
一方のみが他方のいうことを「きかないでいい」という。
矛盾が起きる。
子どもはどちらにも動けない。
子どもが悩む。
結果、全員不幸である。

もっとひどい場合を考える。
親は先生をけなす。
先生も親をけなす。
子どもは、「自分の周りにはろくな大人がいない」と認識し、不遜な態度をとるようになる。
お望み通り、子どもは両者の教え全てに反対の行為をとり、どんどん悪くなる。
学校に来る度に、悪くなっていくという最悪の結果である。
だから保護者には
「不満や疑問は子どもに言わず、直接私にお願いします。」
と伝える。
(引用:拙著『ピンチがチャンスになる切り返しの技術』
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-190712-9

これを、「ねじのモデル」で考えて伝える。
大きなねじの絵を描く。
ねじは、子どもそのものである。
大きなねじを、親と教師、二人で両側から回すことをイメージする。
両者が同じ方向に力を加えれば、ねじはどんどん回って移動する。
正の方向なら上向き、負の方向なら下向きである。
また、両者が真逆の方向に力を加える場合、ねじは動かない。
加えて、ねじ自体が傷む上、力を加えている側も疲弊する。

ここで絶対間違えてはならないのは、子どもにとって親と担任の力は並列ではないという点である。
一生の責任を持って過ごす親の方が、断然上である。
担任は、期間限定である。(だからこそ、新鮮でいうことをきくというのも一面にはある。)
だから、親が言う方が先である。

担任と保護者、両者の共通の願いは、子どものよりよい成長である。
つまり、担任と保護者団は、「こどもの成長」という共通の目的を持った一つのチームなのである。
懇談会ではその辺りの認識について再確認し、共に一年を過ごすという意思、そして志を伝えたい。

2017年4月20日木曜日

「荒れるクラス荒れないクラス」

最近、ヤフーニュースでよく記事を取り上げられている。
割と反響があったのが次の記事。

「荒れるクラス荒れないクラス」鍵は保護者だった
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170409-00021825-president-life&p=1

毎度ご多分に漏れず、キャッチーで刺激的なタイトルになっているのはご容赦願いたい。
ネット記事の宿命である。
(ちなみに今回も私がつけたものではない。)

極論、クラスは、保護者で決まる。
保護者が温かい目で見守ってくれて、「先生の話をよく聞く」と教え諭してくれているからこそ、何とか成り立っている。
決して、我々教員個人の実力ではない。
(もしそこに自信がおありなら、どんな子どもたち相手でも一人で楽勝のはずである。)

いつもながら、大切なのは互いを尊重し、感謝する心である。
ありきたりなようで、これ以外にない。
必殺技を求める前に、ここが抜け落ちてないか、再確認が必要である。

2017年4月18日火曜日

何はともあれまずゲーム

明治図書オンラインでの連載『学級づくりにいかす!体育授業 』で次の記事がアップされた。

第10回 ゴール型ゲーム(アルティメット)
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/pe4class/

私の尊敬する先生の一人である、有田和正先生は
「スイカは一番甘いところから食べる。」という考えで授業を組んでいたという。
そう、最初に興味をもつ前の段階で我慢をさせる必要はない。
好きになって夢中になってから、我慢してでも上達したいと思うようになればいい。

得手不得手の分かれる体育の授業では、特に大事にしたい視点である。

2017年4月16日日曜日

東大生の6割が「小学生時代にスイミング教室」

プレジデントオンラインの、次の記事に目がとまった。

「水泳で本当に頭が良くなるのか?」東大生の6割が「小学生時代にスイミング教室」(文:大塚常好)
http://president.jp/articles/-/21527

読み進めると、なるほどなるほど、面白い。
水泳に空間認知能力を養う機能があるというのも、興味深い。

しかし、一番納得したのは、最後のくだり。
========================
(引用開始)
東大生は小学生時代に学習塾の「公文」に通っている率も高いとの報告もある。
また、複数の習い事(勉強系含む)をしたほうが頭のいい子が育つという専門家もいる。

結局のところ、言えるのは東大への切り札的習い事はわからないということ。
よって、あれもこれもやらせようと親が欲張ってもしかたがないということ。
子供本人が楽しめて達成感や自己肯定感を味わえるような習い事をするのが一番ということなのだろう。
(引用終了)
=========================

そう。
「〇〇をすれば××」と安易に考えたくなるのは、人の性である。
そんな単純なことはない。
様々な要素が複雑に絡み合ってできている。
その中で「この要素は関係あるかも?」程度である。

教育実践も同様。
〇〇の手法を取り入れたから、アクティブ・ラーニング。
そんな訳ない。
そんな単純だったら、全国どの教室でも大成功である。

相手が人間である以上、一つの手法が万能ということは有り得ない。
毎回が手探りの試行錯誤である。
その中で、どうやら効く相手の割合が比較的高そう、というのが「有効な手法」である。
(拙著『切り返しの技術』の各手法も、その点はご多分に漏れない。)

はさみは割と万能で便利だが、すべてのものを「切る」のに適している訳ではない。
包丁の方がいい場合もあれば、チェーンソーがいい場合もある。
包丁で紙を切るのは、容易ではない。
チェーンソーで料理をしたら、間違いなく散々な結果である。
どの道具がいいという問題ではない。
使い型と、使う対象次第である。

特に、人間は権威のある人の意見に盲目的に従うのが本能的にプログラムされているため、注意が必要である。
有名人が「ある実践が有効」だと言っても、自分自身で試して判断する必要がある。
また、効果の程も、表面的でないか、自己満足に陥ってないか、吟味する必要がある。

良い方法を求めつつも、その是非は自分で判断するようにしたい。

2017年4月14日金曜日

学級懇談会で伝えること

4月、学級懇談会があるので、修正しての再録記事。

懇談会で、毎年お願いすることがある。
「先生の言うことをきくように。」と、子どもに伝えてくださいという内容である。
苦笑される前提で話す。
一方で、自分の方からも「お家の方に感謝し、言うことをよくきくように。」と常々話すことも伝える。
2つで1セットなのである。

どういうことか。

つまり、このようにすれば、子どもは安定するのである。
大好きな自分の親が、先生の言うことをきけという。
その先生は、親の言うことをきけという。
何も矛盾が起こらない。
感謝の気持ちを持つので、子どもが素直になる。
子どもにとって、どちらの教えも、すいすい入る。
三者全員にとって幸せである。

逆を考える。
一方のみが他方のいうことを「きかないでいい」という。
矛盾が起きる。
子どもはどちらにも動けない。
子どもが悩む。
結果、全員不幸である。

もっとひどい場合を考える。
親は先生をけなす。
先生も親をけなす。
子どもは、「自分の周りにはろくな大人がいない」と認識し、不遜な態度をとるようになる。
お望み通り、子どもは両者の教え全てに反対の行為をとり、どんどん悪くなる。
学校に来る度に、悪くなっていくという最悪の結果である。
だから保護者には
「不満や疑問は子どもに言わず、直接私にお願いします。」
と伝える。
(引用:拙著『切り返しの技術』より。
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-190712-9

これを、「ねじのモデル」で考えて伝える。(私のオリジナルたとえ話である。)
大きなねじの絵を描く。
ねじは、子どもそのものである。
大きなねじを、親と教師、二人で両側から回すことをイメージする。
両者が同じ方向に力を加えれば、ねじはどんどん回って移動する。
正の方向なら上向き、負の方向なら下向きである。
また、両者が真逆の方向に力を加える場合、ねじは動かない。
加えて、ねじ自体が傷む上、力を加えている側も疲弊する。

ここで絶対間違えてはならないのは、子どもにとって親と担任の力は並列ではないという点である。
一生の責任を持って過ごす親の方が、断然上である。
担任は、期間限定である。(だからこそ、新鮮でいうことをきくというのも一面にはある。)
だから、親が言う方が先である。

担任と保護者、両者の共通の願いは、子どものよりよい成長である。
つまり、担任と保護者団は、「こどもの成長」という共通の目的を持った一つのチームなのである。
懇談会ではその辺りの認識について再確認し、共に一年を過ごすという意思、そして志を伝えたい。

2017年4月12日水曜日

働き方改革以前に

働き方改革。
仲間のフェイスブックのシェアで、次の記事を読んだ。

東洋経済オンライン「公立小中学校の教員はブラック勤務が前提?!」
http://toyokeizai.net/articles/-/160897

教員は、諸々の理由から、改革の対象から外れるという。
その発想自体がもはやアウトだと思うのは、私だけではないはずである。

記事にもあるが、残業を減らすだけでは何の解決にもならない。
ノー残業デーを無理矢理実施したところで、業務量は減らないからである。
一方で残業量が多い教員ほど生活満足度が低い傾向にあるというのも、着目すべき点である。

現場の教員が本来的ではないと思う業務の調査も興味深い。
1位 学校徴収金未納者への対応(小学校85.2%、中学校84.6%)
2位 国や教育委員会からの調査・アンケート対応(小学校63.3%、中学校66.4%)
3位 地域との連携に関する業務(小学校57.2%、中学校55.9%)
4位 児童・生徒、保護者アンケートの実施(小学校50.2%、中学校54.2%)
部活動指導もこれらに続く上位である。(小学校42.2%、中学校43.3%)。
やはり、部活動は半数近くが「本来的でない」と感じているようである。
(逆の見方をすれば、部活動が本業と捉える人も半数。)
「あるある」な結果である。

ただ3位の地域連携については、私自身は反対の立場である。
地域連携なくして、今後の学校教育は有り得ない。
ただでさえ閉じてて「ガラパゴス」みたいに言われているのに、開かない理由はない。
地域や企業との連携なくして、今後の学校教育の発展は難しいと考える。

そもそも、1位のお金を教員が扱う業務が多いのも、ここが原因である。
外部の企業やプロの人材を取り入れれば済む話である。
予算がないというが、そういった能力の低い者(私のこと)にやらせる方がコストがかかる。
その道のプロがやったら正確かつ迅速である。

こういうことを書くと、「子どもに関することは何でもやるのが教員だ」という意見が出る。
それなら、じゃあ給食も教員が作れと言う論理だって通る。
フィンランドの教育がもてはやされたが、あの国は完全分業制である。
フィンランドの教員は、極端な話、授業しかしないという。
そして社会的地位が非常に高い。
専門性が高いのだから、尊敬されて当然である。

逆に日本のように、一人の人間に複数の業務をさせていたら、どれも中途半端になるに決まっている。
それでもなぜ世界で「日本の教員は優秀」と言われるかといえば、単に我慢強いからである。
無茶苦茶な要望でも何とかこなそうとする、学校教育に適応した努力家タイプが日本の教員になるからである。

働き方そのものが問題の根本ではない。
法レベルでの業務内容そのものの見直し。
外部人材の活用。
この辺りに着手しないと、働き方改革は難しそうというのが私見である。

2017年4月10日月曜日

車内で化粧は可か不可か

先日、セミナーの冒頭で話した、公衆道徳の話。

車内で化粧。
どう思うか。
可か不可かを挙手でたずねてみた。

結果、可とする人はごく少数で、多くは不可ということだった。
なかなか厳しい意見である。

私はといえば、「どちらでもいい」、つまり、可である。
周りの人が不快に思う状況ならよろしくはない。
ただ、周りの人がどう思うかは、こちらには決められないのである。

私自身には、目の前の女性は見ず知らずの人だし、むこうにとっても確実に「どうでもいい存在」である。
(そうでなければ目の前で白目の「貞子」状態になりながらマスカラを付けないはずである。
 ホラーも、見ようによってはエンターテイメント。)
救いが必要な状態でもないなら、知らない相手がどうあってもいい。
気にせず手元の本を読むに限る。

これは、私にとって最近変わったことなのである。
目の前の相手を評価することが減った。
以前は、公衆道徳に反すると思える人を注意したくなった。
しかし、どちらかというと、直接困っている人がいないことは、放置するようになった。
(そうは言えども、ポイ捨てとかは、やはり気になる。拾う人のことを考えてしまう。)
道徳は、大人に教えるのが非常に難しいことである。

宗教が行き渡っている国は、それが道徳の役割を果たす。
そうでない日本のような国は、どうするのか。
やはり、必要なことは子どもの内にある程度教える必要があると思う。
自ら考える道徳を目指すも、考えるための材料は必要である。

2017年4月8日土曜日

9割は忍耐

ある企業で活躍する方から教わった言葉。
「仕事の9割は、忍耐。」
すごい言葉である。

一見、仕事に対して夢も希望もないような言葉に見えるが、それは違う。
かなり前向きな考え方である。
仮に、仕事の9割は忍耐だと認識する。
だとすれば、我慢することが、普通に思えてくる。
疲れを感じても「これも仕事の内」。
怒りを感じても「これも仕事の内」と思える。
そうすると、ふっと力が抜ける感覚がある。

仕事は楽なものだと思ってやれば、大変なことに不満を抱く。
だが、前提として「9割忍耐」と思っていれば「普通」のレベルが上がる。
かなり大変なことも「いや、それぐらいフツーでしょ(笑)」となる。

大変な職種の上位に来るのが、電話の苦情受付センターの仕事である。
まさに忍耐の塊のような仕事である。
この仕事に就くと、大抵の苦情を体験することになる。
すると外に出た時、ちょっとやそっとの言葉では動じなくなるという。
それはかなり幸せなことである。

学級担任の仕事も同様の面がある。
大変な思いをしたことのある人は、同様のレベルのことは「普通」に耐えられる。
他の人から見て「かなりきつい」ことでも、「朝飯前」ということがある。

私は以前ある本で「学級の気になるあの子は、神様」と書いたことがあるが、それは真実である。
手こずる子どもがいたら、神様からのお使いである。
レベルアップのための試練である。
事実、同僚のベテラン教師にとっては、何の苦にもならないかわいい子どもだからである。

「この子は大変な子(親)」と思ったら、自問するためのおまじないがある。
「日本一の先生が受け持っても、同じだよね。」
そんな訳ない。
日本一の人がもったら、適切な手立てを打って解決するに違いないのである。
責任を、自分に求めるしかない。
そこが、一番大変な忍耐ポイントであり、成長ポイントである。

仕事の9割は、忍耐。
そう思えば、1割の幸せが10倍に感じられるかもしれない。

2017年4月6日木曜日

4月から教室に入る前に読んでおいて欲しい本

我が子同様の拙著が売れ行き好調である。
『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』
http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/500322/ref=pd_zg_hrsr_b_1_5_last
発売1年以上が経過して、未だに学級経営部門で1位をとれるというのは、結構な好成績である。
インターネットのこの時代に世に出られて、本当にラッキー&幸せな子である。

この度、人事異動が発表された。
見ると、本当に新規採用者が多い。
つまり、学級経営に関わるあらゆる知識と技術を早急に」身に付けることが本当に重要になる。

大学側に、教員プロフェショナル育成のシステムが完成しているならいい。
勤務校内にきちんとした新人養成システムがあるならいい。
しかし、そんな現実を求めること自体が非現実的である。

担任になってからのOJTでは間に合わない。
そんな余裕はないのである。
「やっている中で徐々に学べる」とのんきに構えたいところだが、学級担任の仕事はマルチタスクである。
しかも、保護者と子どもからすれば新人だろうが10年目だろうが、学級担任であることは一緒である。
別に甘く見てもらえたりはしない。
竹刀ではなく、いきなりの真剣勝負である。

装備を調えておくべし。
費用対効果が一番高いのは、本である。
拙著『切り返しの技術』は、もちろん文句なしの自信をもってのおすすめである。
『授業の腕を上げる法則』『授業の話術を鍛える』のような、教師の授業技術を磨くための「古典」ともいえる本。
『クラスづくりの極意』のようなファシリテーション系の本。
似たタイトルだが『学級づくりの極意』のように、今の時代に必要な学級づくりの理論が学べる本。
絞りに絞って、4月までに読むとしたら、この辺りは即効性がある。

著者だけ順に見ても「向山洋一」「野口芳宏」の両者は、もはや別格。
「岩瀬直樹」「赤坂真二」の両者は、現場上がりの大人気大学教授。
絶対間違いない本である。

そんな中で、私は自分の本もかなり強くおすすめする。
なぜなら、それら「天上人」の方々とは違い、「普通の教員」の書いた本だからである。
多分、利用価値と使いやすさならNO.1である。(その分、深さは到底及ばないと思う。)

例えば、拙著の中で
「教師が答えられない質問をしてきたとき」という場面の切り返し事例が出ている。
この場面は、新採の教師、特に高学年担任なら確実に出くわす。

ここに対して、どう答えるか。
考えてみて欲しい。

本の中では
「すごい!君は天才だね。調べてきて!」
という万能切り返し例を紹介している。

これをそのまま暗記することに意味がある訳ではない。
大切なのは、その後に書いてある、切り返しの根底の考え方である。

例えばこの切り返しは「主体的・対話的で深い学び」と関連がある。
教師が答えを示すのではない。
子どもが主体的にもった疑問に対し、自らの力で探究させようという考えがある。
だから質問に対し、場合によっては知っていても答えない。
本当に調べてくるかどうか、言葉は悪いが「試す」のである。

学級担任には、こういう根底の「観」が必要な場面が波のように次々と押し寄せてくる。
観を磨いておくためにも、読んでおいて損はない。

もし、教え子や知り合いに新採の人がいたら、ぜひプレゼントの一冊に加えて欲しい。
その方の教師人生の大きな一助となることを保証する。

2017年4月3日月曜日

ピンチがチャンスになる技術があればこそ

拙著『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』が、発売1年を過ぎたが、未だ売れ行き好調、先月で7刷になった。
http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/500322/ref=pd_zg_hrsr_b_1_5_last

ところで、私の職場の同僚はこれを読んでいるか。
答えは、否。
色々な経緯で数人は読んでくれているかもしれないが、例外的なごく少数である。
薦めているか。
これも、否。
「良いと思うものは薦めろと言っているのはどこのどいつだ」と言われそうだが、理由がある。

まず第一に、薦める理由がない。
職場内に新任3年目まですら一人もおらず、結構な経験者揃いで、実際そんなにピンチにもなってない。
ピンチになっても切り抜ける術を、それぞれのたくさんの大変な経験から身に付けてきている。
(だからここにいるのだと思う。)

第二に、自分の書いた本を買ってくれと頼む理由がない。
必要だと感じた人、自ら買いたいと思ってくれた人が買ってくれればいいのである。
本は、それを読んでくれる人がいて、その人に役立たねば価値がない。
単なる恩情で買ったものは、読まれないこと必至である。
そんなところに嫁に出したら、大切な我が子(自分の本)が可哀相である。

そしてきっと敢えて買おうと思わない一番の理由。
それは、私が「フツー」だからである。
同僚として見た時、別段こいつから学べることはなさそうな感じである。
必殺技的な派手さもないし、帰るのも割と早くて一生懸命やっている感じもあんまりない。
素晴らしい人格者でもないし、忘れ物は多くて用事もろくに記憶できないし、小学校の教員のくせに字も信じられないほど下手だし、どう見てもダメな人である。
(書いてて凹んできたからこれぐらいにしておく。)

しかし、である。
そんな程度の人物が、なぜ何とかやっていけているのか。
その理由の一端が、この本に書かれている「切り返しの技術」である。

私はだらだら人間でダメダメだが、本は結構読む。
多分、読む人の中でもかなり読む方だと思う。
セミナー等にも割と積極的に参加する。(自分が話す機会も結構多いと思う。)
教育関連だけでなく、一般のものにも色々参加する。
経済関係のいわゆるカタいものから、心理学や成功哲学系からスピリチュアルなものまで、幅広く興味をもっている。
だから、広汎な知識がそこそこある。

そういった様々なエッセンスと現場の経験を用いて結晶化させたものが「切り返しの技術」である。
要は、本体のレベルは低いが、「強い装備」を身に付けていると思えばいい。
こんなダメな人でもやっていけるのだから、多くの人にとって役立つこと間違いなしである。

今年度から、教員の世界は新規採用者がさらに大量に増える。
どう考えても、大変である。
予め装備を調えておけば、「HP0」になって倒れる人が減るかもしれない。
ベテランの方にも参考にはなると思うが、若い人ほど読んで欲しいのである。
近くの若手に、贈り物としても使ってもらえたら、あの本にとっても著者としてもこの上なく幸いである。

自信をもって断言する。
私自身はダメだが、私の本は役立つ。
現に私を救ってくれている技術の数々なのだから、かなり自信がある。
だから、今少しでも困っている人、困りそうな人がいたら、読んでみて欲しいし、薦めて欲しい。

ピンチはチャンス。
ただしそれは、ピンチになる前に知っている人にとってのことである。

2017年4月1日土曜日

努力と根性は正しい方向に使う

前号、努力と根性押しの残業作戦ではダメということを書いた。

今号は、逆に「努力してがんばらないと、ダメ」ということについて。

努力は必要である。
そして努力は、正しい方向で行われることが大切。

正しくない方向に努力するのは、悪である。
何でもがんばれば善というものではない。
例えば「どうすれば嫌いな相手が苦しむか必死に考えて努力をしてます!」というのが悪なのは自明である。
そこまでひどくなくても「仕事が終わらないから毎日根性で残業する努力をしてます!」というのは実は同様である。

次の思考がダメパターン。
仕事が終わらない
→「もっと時間をかけよう」
→それでもまた終わらない
→「もっともっと時間をかけよう」
→またまた終わらない
→「何て自分はダメなんだ。もっとがんばらないと。」
→・・・

これは努力というより、無思考で工夫が無いだけである。
根性を出して努力するほど、害悪である。

こういう可哀相な悪循環にはまっている人がいると、周りの心ある人が声をかけてくる。
「こういう方法があるよ」
「こんな本を読んでみたら?」
「勉強会とかサークルとかに行くと変わるよ」

しかし、これらのアドバイスは、無思考状態の人には、無意味であるどころか、迷惑がられるだけである。
疲弊していて、とても仕事以外のことをする時間はないという認識である。
悪循環に完全にはまっているため、この認識から抜け出すことは容易ではない。

それでも、抜け出せる瞬間が訪れる。
一つは、倒れた時。
もう一つは、周りから「このままでは無理」と認識されて、仕事量を減らしてもらえる時。

後者ならまだ幸せである。
管理職や学年主任がよく見てくれている職場なら、この方法で救ってもらえる可能性が高い。
そこでできた余裕で、工夫をするために学ぼうとする新たな可能性が出る。
肉体的ならまだしも、精神的に倒れてしまっては、戻ることすら難しくなる。

努力は、正しい方向で行う。
一つは、内側への工夫。
担任なら、主に授業の工夫への努力と、子供理解への努力である。
授業がうまくいきだすと、疲れも減るし、子供との関係も良くなり、生徒指導の問題も減る。
残業しないで済む方法を工夫する努力も大切である。
その事務処理一つとっても、無駄はないか。
先輩教員に学べば、確実に自分より早く終わらせる方法を知っている。

もう一つは、外に出る努力。
学校の中だけでは学べないことが多い。
外に出て学ぶ機会をもつ努力は、必ずその人を救う。
この辺りについては少々気合いがいるが、粘り強く根性を出して断行する必要がある。

努力と根性は、必要。
ただし、それを正しい方向で使うことが肝要である。

2017年3月30日木曜日

教育現場の脱・ガラパゴス化

前回に関連いて、教員の働き方について。

年中無休で学校に通い、毎日夜遅くまで残業が当然という人もいる。
こういう人は異常にたくさん、難しい仕事をふっても文句を言わずがっちりこなしてくれるため、重宝されている場合が多い。
それで、定刻退勤する人を単純に労働時間で評価し、「やる気がない」と見なす現場も存在する。

子育て中の母親教員などは、まだ理解されやすい。(それでも、うるさい輩はいる。)
たとえ新規採用の若い人にだって、その人なりの事情があると思う。
何がその人のプライベートにあるのかなんて、全くわからない。
「若い内は残業してがんばるのが当然」という昭和な論理を平成の若者に当てはめてもだめである。
プライベートの世話をできない以上、時間外に何をするのかに口出しするのはマナー違反というより契約違反である。

そもそもその仕事量自体が多すぎないかという視点も必要である。
株式会社「ワークライフバランス」代表取締役社長の小室淑恵さんは、昨年3月の時点で
「3年で長時間労働をやめなければ日本は破綻する」
と提言している。

日本はバブル期の「人口ボーナス期」から、真逆の「人口オーナス期」に入っているということである。
男性が死ぬほど残業していれば企業の売り上げがぐんぐん伸びた時代は、はるか昔に終わった。
(「24時間戦えますか♪」は、あの時代を象徴する秀逸なキャッチフレーズである。)
「人口オーナス期」においては、介護等も絡み、短時間労働が主になる。
企業がこれから先、生き残るには、業務量自体を減らす以外ないということである。

ここに気付かないと、学校はかつてのケータイではないが「ガラパゴス化」の一途を辿ることになる。
一般企業と全く違う形態でこの先やっていけるはずがない。
ただでさえ学校の常識は非常識とか、遅れているとか言われているのに、これ以上時代に取り残される訳にはいかない。

日本の教員の働き方の常識は、世界の非常識であり、社会の非常識である。
まずこの認識に立つことが大前提。
何でも努力と根性で解決してしまう教員は、その論理を、きっと子供に対しても適用する。
「ガラパゴス教師」に教わる子供は、不幸である。

努力と根性は、いざという時の切り札として必要である。
言うなれば「ターボ」であり「必殺技」である。
しかし普段から切り札を出しっぱなしでは、やがて負けは必至。

まずこの認識に立ち、自分のできることを始めることが大切と思う次第である。

2017年3月28日火曜日

「土日の部活は常識」?

土日の部活動と教員の働き方の常識について。

プレジデントオンラインで次の記事がアップされた。
「土日の部活は常識」陰の推進者はあの人
http://president.jp/articles/-/21376

例の如く興味を引くために、やや刺激的なタイトルになっているのはご容赦いただきたい。
オンライン記事にとって、キャッチーなタイトルは命なのである。

「親技のカガク」という親対象の連載のため、保護者に部活動顧問への理解を求める内容になっている。
しかし土日部活動の是非を問うことの複雑さは、各顧問及び学校間の温度差が大きいことが強く関係している。
年中無休でも構わないぐらい情熱を注げる人もいる。
それはそれでいい。
むしろ、地域や学校によっては求められるところでもある。
ただ、そこをスタンダードにされると厳しいという本音をもつ人が結構な割合でいる、ということである。

この原理は、部活の顧問だけでなく、学級担任にもいえる。
次回はここに関連して、学級担任の働き方について考えていく。

2017年3月26日日曜日

なるほど力

金大竜先生からの学び。

ごんぎつねの模擬授業があった。
こんな授業はどうかという提案である。

懇親会の席で、この話になった。
「どうだった?」と聞かれたので、私見を伝えた。

なるほど、そうかー。
勉強不足やなぁー。

そんな反応である。

本人曰く、「勉強不足」なのだという。
どんなに勉強している人でも、勉強不足。
多分、一つ一つに理由をつけて、反論はできたはずである。

指摘に、反論しない。
受け止める力がある。
(なるほどと言うだけで流す人もいるかもしれない。)
一旦受容するというは大切な力である。

このメルマガで、野口芳宏先生のごんぎつねの授業の話を以前書いたことがある。
野口先生は子どもの解釈に「なるほど」と参った訳である。
それを向山洋一氏が見て、声をかけられ、野口先生は様々な場へ出ることになったというのである。

つまり、大きくなる人は、なるほど力。
自分が考え抜いて全力を尽くしたものを脇に置いても、なるほどという。
この力の有無が、明暗を分けると気付いた次第である。

2017年3月24日金曜日

「今日の学び」でメタ認知

2月に千葉で行ったサークルセミナーの講師、金大竜先生からの学び。

私は、毎日子どもに日記を書かせる。
初任の頃から十数年、形を変え続けてやっている実践である。
帰りの会前の3分間を使うことが多い。

テーマは大抵「今日の学び」である。
特に、気付きを書くことを求める。
気付きとは、習った内容ではなく、そこからの発見である。
学んだ内容を、客観的に見つめ直し、自分の中に落とし込む作業である。
メタ認知能力を磨くことをねらう。
「サッカーでシュートを決めて楽しかった」ではなく、「自分がシュートを決められたのは、〇〇さんのお陰」に気付くことである。
「自分が空きスペースに動くということは、仲間の空きスペースを作ることにもなる」ということに気付くことである。

これを、自分自身にも課す。
今日の気付きを、ノートに書く。
子どもへの気付き、自分の指導を、毎日ふり返る。
金先生は、これを続けているという。
私もやっていたのだが、最近は抜けていて、反省してやり直す決意をした次第である。

メタ認知能力を磨く。
そのためには、書く。
書いて書いて書きまくる。
子どもにも教師にも大切なことである。

2017年3月22日水曜日

知らないのは教える側の責任

教育者モラロジーと木更津野口塾での学び。

今年の建国記念の日は土曜日だった。
土曜祝日は、意識されにくいので流されがちである。

皇紀は西暦より660年長いので2677年。
建国2677年ということになる。
在位中は今上天皇という呼び方をして、現在は125代目。
在位中は平成天皇という呼び方はしない。

こういったことを私が知ったのは、教えてもらったからである。
大多数が知っている「常識」的知識ではない。
教えてもらわなければ、知りようがない。

しかし、日本国憲法公布や施行の日は、はっきり言える人が多い。

なぜか。
教えられたし、社会科のテストにも出るからである。
そういうものである。

知識に地位はない。
流行りのお笑いも世界情勢への知識も、知ってるか知らないかである。
直接何かで使う知識、利得のある知識は、周知される。
そうでない知識は、放置される。

要は、大切だけど直接使わないような知識は、教えてもらう他はない。
知らないことは罪ではない。
教えてないことに問題がある。

これからの学校教育では、家庭教育では、社会では、何を教えるのか。
ただ流れるままにしていては問題があると思った次第である。

2017年3月20日月曜日

ルールは5W1Hで考える

メルマガの方は1200号である。
思えば、よく続いている。
続いてる理由の一つが、前号でも話題にした「ルール」である。

私の師の野口芳宏先生の言葉の一つに「他律的自律」がある。
つまり、「2日に1回発行します」と宣言することで、自分に制限を課している。
相当にきつい時もあるが、設定したルールだからやらざるを得ない。

もしここに時間的ルールがなくて「自由」といわれたら、かなりランダム発行になる。
1日に3号出す日もあれば、1ヶ月出さない時もあるかもしれない。
不安定である。

時間の秩序が、安全をもたらす。
時間は、宇宙の法則に規定される。
1日24時間で地球が回ってくれるから、地球は等しく太陽の恩恵を受けることができる。
1年365日で太陽の周りを回ってくれるから、四季の恩恵を受けることができる。
これが不安定に回るようなら、あらゆることが立ち行かなくなる。
朝起きたら夜だったり、ずっと昼、ずっと夜。ずっと夏。ずっと冬。
生活が成り立たず、めちゃくちゃである。

時間のルールというのは、有効で意義のある制限の最たるものである。
話し合いを「〇分まで」と決めることで、話し合いの内容が変わる。
1分か3分かの違いは、たかだか2分だが、かなり大きい。

ルールを考える時の5大要素を考える。
1 時間
2 場
3 人
4 物
5 行動

要は「いつ・どこで・誰が・何を・どのようにどうする」である。
5W1Hである。
特に時間は、すべての人に分け与えられた平等なものであり、ルールの上でも尊重するようにしたい。

2017年3月18日土曜日

話し合いの自由と制限

前号の続き。
話し合いにおける危険とは何か。
それは「批判されること」である。
中には剛胆な人もいて、批判大好きという人もいるが、相当レアである。
普通の人、特に子供は、自分の意見を批難・批判されることは好まないことが多数である。
手を挙げて間違えたらどうしようというのも同じ理由である。
間違えると何か言われる風土がある=危険=不用意に発言しない という流れである。

では、自由な話し合いに安全を確保するにはどうするか。

まず、「制限があるからこその自由」という前提を考える。
一定の枠組みの中で、選択の自由が与えられている場合である。
スポーツ全般などはこれに属する。
サッカーで、どこにパスを出すかは自由だが、それはコート内であることや、手を使わないことなどの制限がある。
そして、殴ったり蹴ったりしてはいけないという安全面の制限がある。
制限があるからこそ、選択肢ができ、創造性を発揮できるという面がある。

そこで話し合いの自由と安全について考えた場合も、一定のルールが必要である。
様々な研修会に参加したり、実際に自分で授業をしたりすると、ルールの大切さがわかる。
ただ「話し合って」よりも、一定のルールがある方が話しやすいし、話が盛り上がる。

例えば、私が毎年受ける赤坂真二先生の講座では、
「〇〇について詳しいとお聞きしましたが」と前ふりをしてから、隣の人と話すように言われることが結構ある。
これは、半分冗談なのだが、そう言われると話さざるを得なくなる感じになり、話の促進に一定の効果がある。

他のルールもある。
「隣の人と」「後ろの人と」「男女で」「初めて会う人と」など、話す相手の指定。
「2人で」「3人組で」などと、人数の指定。
「最近感動したこと」「最近最も関心のある教育問題について」など、テーマの指定。

話し合い自体のルールも大切である。
例えば「相づちをうちながら」というのは、一般的なコミュニケーションスキルであり、肯定的スキルである。
しかし、この行為には、裏の面もある。
反応するということは、評価にもつながる。
すると、人によっては、話しにくいのである。

この真逆をいって「反応しない」「一切口をはさまない」「ひたすら聞く」というルールを設け、輪番で話す方法もある。
「制限時間1人1分」というように枠も決めておく。時間内は、その1人のみしか話す権利がない。
意外なことに、これは結構話しやすい。
途中で口を挟まれないので、話したいことをしっかり話せる。
どう感じようが評価による反応はないので、とりあえず話したいことを話せる。
時間も全員にきっかり与えられているので、不平等感がない。
「時間が余っても、何でもいいからしゃべる」ということで、とにかく時間を使い切らせる。
全員が終わった後でフリートークを入れれば、もっと話したい人がそこで話せる。
結果、全員が話して全員の意見を聞き、満足する訳である。

手法は様々であるが、特に初期の段階はいくつかの話し合いルールがあった方がうまくいく。
慣れてきて使いこなせるようになったら、枠を外していくという感じである。

今後、教育で「自由」を志向するからこそ、ルールにはよくよく気を配りたい。

敬老の日は、あっていい日

祝日ということで、特別に連日投稿。 敬老の日である。 その意義は言わずもがな。 しかし、この敬老の日に対しても、様々な意見がある。 平たく言うと 「本来、いつでも敬するべきであり、この日だけ敬って祝ってはい終わりというのはけしからん」 というものである。 なる...

ブログ アーカイブ