2017年9月24日日曜日

一律の宿題は、いらない

宿題の話。

例えば夏休み、学校では、どれぐらいの宿題が出た(または出した)だろうか。
教師の側からすれば「山ほど出した」という人は少ないと思う。
なぜなら「山ほど」かどうかは、受け手が感じることだからである。
「子どもの負担を考えて、少なめにしました」という人でも、相当多く出していると思っていい。

私がやむを得ず宿題を出す時に一番考えるのは、「負担感」である。
同一の分量を出しても、負担感は子どもによって全く違う。
だから、基本的に宿題の分量は全員一律にはしないように心がける。
漢字の宿題一つとったって、ある子には1分足らずで済むものが、ある子には2時間かかるということもざらである。
「そんな大げさな」と思った人は、ちょっと危ない。
たくさんのご家庭で普通に起きている現象である。
問題が表面化しないのは、期日までに親が協力してなんとか形にして仕上げてくるからである。
受け取る側は、普通にやってきたということで、また普通に宿題として出す。
この繰り返しである。

多くの慎ましいご家庭の方々は、面談等では教師に本音の意見を言えないのである。
「こんなことを言って、モンスターペアレントとか思われたらどうしよう」と悩んでいるのである。
もっと言うと「そんな時間をかけているのが悪い」と言われたらぐうの音も出ないと思っているのである。
子どもの能力や性質の問題を指摘されたら、反論できない。(場合によっては怒り出すしかない。)
教師の側は「人質をとられてる」ぐらい言いにくい立場の相手だと思われていると考えると、ちょうどよい。

さて、世の宿題の内容をきくと、この辺りの感覚を教師の側がしっかりともっているかは疑問である。
夏休みの宿題を見ても、一般的に結構な量が出ているようである。
ただこの辺りは、地域社会が求めるコンクールの関係とか色々あるので、学校裁量ではどうにもならない面があるのも否めない。

私個人としては、夏休みは、思い切り遊ぶべき時だと思っている。
だって、夏「休み」だから。
齋藤一人さんの言葉だが「宿題は残業」である。
休みの日に強制的に課すのだから、間違いなく残業である。
ノー残業デーを推進している大人が子どもに残業を推奨しているともいえる。
(将来の残業と持ち帰り仕事に対する耐性を鍛えているという明確なねらいがあるなら話は別である。)

夏休みの宿題は、いらないのではないか。
生活習慣の形成だとかうんたらかんたら理由は色々つけられる。
こういうことを言うと一部の人に嫌われるが、言う。
実は、大人たちが、ただ「安心したい」だけではないか。

もう一度言う。
夏休みの宿題は、大人が安心したいだけではないのか。

夏休みの宿題をやらなかった人たちは将来ダメになりましたという事実でもあるのだろうか。
ただでさえ塾だ習い事だ何だと忙しい昨今の小学生に、これ以上の課題を与えるメリットは何なのか。
生きる力って何だ。
残業に耐える力?
我慢強さが鍛えられる?
それは、他でできるのではないか。

小学生の頃、「なつやすみの友」という名の友人と常に向き合っていた。
「お前、いつかやるから、待っとけ」と、8月31日まで放置していた友を懐かしく思う。
今思えば、あれは、完全に「なつやすみの敵」であった。
言葉は表面をコーティングするから恐ろしい。

「一行日記」とかも、考えものである。
日記どころか、90%の子どもは、どこかでまとめ書きの「月記」になる。
(しかも親に怒られて手伝われながらするのも、世の常である。)
10%のきちんと書く子どもにとっては、そもそも無用の長物である。

ねらいと手立ての不明確な一律の宿題は、いらない。
夏休みなどは完全に「自由課題」のみにしてしまえばいいと思う今日この頃である。

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