今日は教育のネタというより、雑感、エッセイ。
最近、記事を書く度に、色々な場で反応が得られるようになってきた。
本メルマガの記事でも「まぐまぐニュース」に取り上げられると、他のサイトで転載される。
私に全く興味のない人の目に触れ、様々な意見がコメントされる訳である。
特にプレジデントオンラインの記事は、ヤフーニュースに転載されやすいので、コメント数が多い。
肯定的なものから否定的なものまで、あらゆる意見が出る。
作者は完全にそっちのけで、議論が盛り上がっている。
話題の提供ができたという点で、そこは意味があると捉えている。
ちなみに、それらの議論に対し、作者は首を突っ込まないに限る。
子どものことで夫婦げんかしている状況とほぼ同じである。
下手に介入すると
「あんたは関係ないから引っ込んでなさい!」
となって、その内
「大体あんたがね・・・!」
と巻き込まれること必至である。
私は、争い事全般が嫌いである。
スポーツやゲームなどの、ルールに基づいた正々堂々とした勝負ならばいい。
勝ったら嬉しいし負けたら悔しいが、それも爽やかである。
それは、正義や主張を通すための無益な争い事とは区別する。
争い事や喧嘩は、ルールがない上に、双方が無駄に傷つくから嫌なのである。
生産性がないともいえる。
不条理に傷つけられて黙っているほど、皆お人好しではない。
腹の底に溜まった怒りは、数倍、数十倍に膨れあがる。
非生産的というより、むしろ反生産的である。
人を馬鹿にしたり傷つけたりしたら、それが必ず自分に返ってくる。
その個人の権益争いが最悪に発展した形が、国家間の戦争である。
人に喧嘩を売る時は、それぐらい考えるべきである。
対話する力が求めらているが、それが議論で主張する力と混同されている感が否めない。
本来求められていることの中心は「人の話を聞く力」である。
共感しながら話す力である。
「自分の主張をしゃべりまくって相手を説き伏せる力」ではない。
それはアメリカの大統領選挙で勝つような力であり、一部には必要だが、そういう子どもを多く育てたい訳ではないだろう。
ある議論に勝った時、人生レベルで見た時に、多くは「実質的に負け」なのである。
どうせなら議論ではなく、対話をしよう。
私は、色々な意見があって然るべきという立場である。
教育実践一つとっても、様々な主張があっていい。
どれかが絶対的に正しいということは、ないと考える。
(絶対は絶対にないという矛盾を主張している点が悩ましくはある。)
これからも、様々な立場の方と対話するために、堂々と自分の意見を発信していきたい。
2017年9月10日日曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
0 件のコメント:
コメントを投稿