2017年9月10日日曜日

議論より対話

今日は教育のネタというより、雑感、エッセイ。

最近、記事を書く度に、色々な場で反応が得られるようになってきた。
本メルマガの記事でも「まぐまぐニュース」に取り上げられると、他のサイトで転載される。
私に全く興味のない人の目に触れ、様々な意見がコメントされる訳である。

特にプレジデントオンラインの記事は、ヤフーニュースに転載されやすいので、コメント数が多い。
肯定的なものから否定的なものまで、あらゆる意見が出る。
作者は完全にそっちのけで、議論が盛り上がっている。
話題の提供ができたという点で、そこは意味があると捉えている。

ちなみに、それらの議論に対し、作者は首を突っ込まないに限る。
子どものことで夫婦げんかしている状況とほぼ同じである。
下手に介入すると
「あんたは関係ないから引っ込んでなさい!」
となって、その内
「大体あんたがね・・・!」
と巻き込まれること必至である。

私は、争い事全般が嫌いである。
スポーツやゲームなどの、ルールに基づいた正々堂々とした勝負ならばいい。
勝ったら嬉しいし負けたら悔しいが、それも爽やかである。
それは、正義や主張を通すための無益な争い事とは区別する。

争い事や喧嘩は、ルールがない上に、双方が無駄に傷つくから嫌なのである。
生産性がないともいえる。
不条理に傷つけられて黙っているほど、皆お人好しではない。
腹の底に溜まった怒りは、数倍、数十倍に膨れあがる。
非生産的というより、むしろ反生産的である。
人を馬鹿にしたり傷つけたりしたら、それが必ず自分に返ってくる。
その個人の権益争いが最悪に発展した形が、国家間の戦争である。
人に喧嘩を売る時は、それぐらい考えるべきである。

対話する力が求めらているが、それが議論で主張する力と混同されている感が否めない。
本来求められていることの中心は「人の話を聞く力」である。
共感しながら話す力である。
「自分の主張をしゃべりまくって相手を説き伏せる力」ではない。
それはアメリカの大統領選挙で勝つような力であり、一部には必要だが、そういう子どもを多く育てたい訳ではないだろう。
ある議論に勝った時、人生レベルで見た時に、多くは「実質的に負け」なのである。

どうせなら議論ではなく、対話をしよう。
私は、色々な意見があって然るべきという立場である。
教育実践一つとっても、様々な主張があっていい。
どれかが絶対的に正しいということは、ないと考える。
(絶対は絶対にないという矛盾を主張している点が悩ましくはある。)

これからも、様々な立場の方と対話するために、堂々と自分の意見を発信していきたい。

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