2014年1月30日木曜日

サンタクロースっているんでしょうか?

メルマガ上では旬の時期に紹介した、本来はクリスマス前におすすめの資料の紹介を。
来年度に使うのもいいし、今からでも悪くないと思う。

「サンタクロースっているんでしょうか?」偕成社

力のある道徳資料である。
あまりごちゃごちゃやらないで、とにかく読む。
10分程度なので、読み聞かせでもいい。

児童書のロングセラーなので、地域の図書館に行けば確実に置いてある。

高学年になると、見えないものをなかなか信用しなくなる。
宇宙が想像できないのと同様、見えないからない、見たことがないからない、とはいえない。
そういうことを考えさせるのにもいい資料である。

2014年1月28日火曜日

書き物は誰かを救う

今回のタイトルも、先日紹介した地元有名校長先生から教わった言葉。

書き物として残す。
そうすると、誰かが読む。
誰かにとっては、役に立たない場合もある。
でも誰かにとっては、役に立つ場合もある。

書き物に残すことで、世代を越えて伝えられることもある。

自分なぞの書いたレポートだって、結構活用してくれている人がいる。
有り難いことである。

書き物は誰かを救う。
たった一人でも、誰かのためになれたら、幸せなことである。

2014年1月26日日曜日

「魔女の宅急便」 キキの魔法

前号の話の続き。
「自分の得意を100%提供する」ことに関連しての話。

角野栄子さん。
「魔女の宅急便」を書いた作家さんである。
「PHP2013年12月号 No.787」に特集で記事が載っていた。
記事の中で、こんな話が載っていた。

「魔女の宅急便」の主人公のキキ。
彼女は、魔女でありながら、「空を飛ぶ」以外の魔法は一切使えない。
それ以外はごく普通の女の子である。
「空を飛ぶ」が唯一の特技である。
それは「バイオリンが弾ける」「絵が上手」というのと同じである。
得意なたった一つのこと、それが全ての人に与えられた「魔法」であるという。
それを頼りに生きていく。
その力しかないからこそ、それを信じ、大切に使っていく。

そういう話が書いてあった。

これを読んで、やはり「得意の提供」だと感じた。
たった一つでもいい。
そこだけは、人の役に立てる。
それが、自信になる。

この「魔法」は、早くに見つけられる人もいれば、見つかるのが遅い人もいるという。
角野さんは、35歳で作家デビューしたのが、その時だったという。

自分自身、どんな「魔法」が提供できるのか、未だ見つからず模索している。
見つかっている気もするし、そうでない気もする。
持ってない気もするし、何かある気もする。

PHPの特集のタイトルは「心がぶれない生き方」。
私はぶれまくっていて、とても心に響いたので、紹介した。

2014年1月24日金曜日

人は支えて、支えられて生きる

学級の係を減らして、気付いた人が進んでやることになっている。
配り物や窓の開閉、黒板をきれいにしたり、ちょっとした手伝いをするなど、様々である。
(黒板に自分で書いた文字は、自分できれいにした方が良いと思っているが、
進んでやってくれる子どもがいるので、有り難く思って敢えて任せている。)

そうすると、とてもよく気付いて動く子どもと、そうでない子どもに分かれる。
係から自主的な動きへの移行期として、この事態は不可避である。
当然、よく気付く子どもから不満とも疑問ともとれる言葉が出る。
「先生、これでいいのですか」と。
よくぞ言ってくれた、という感じである。

そこで、こんな話をした。
「人という字は、二つの棒が支え合ってできている。」
金八先生の有名な話である。
本物の「人」の字の語源とは違うが、本物よりわかりやすくて納得がいく。
そもそもこの話を考えたのは、新渡戸稲造だという。
さすがの偉人である。

ところで、その解釈でいくと、右側の棒が支え役である。
左側は、完全に寄りかかっている。
何だか、不公平ではないか。

そうではない。
右側の棒も、左側の棒がないと倒れてしまう。
力を発揮する対象がいてこそ、自分も立てる。
つまり、得意分野では大いに力を発揮すれば良い。
一方、苦手な分野では、助けてもらえば良い。

この役割は、常に変化する。
算数が得意な人は、算数で周りに力を提供すれば良い。
サッカーが得意な人は、サッカーの時に。
音楽が得意な人は、音楽の時に。
私は何も得意なことがないという人は、手伝いでも何でもやれることはある。

いつも明るく楽しい話を周りに提供できる人がいる。
話すのが苦手な人は、そういう人を羨ましく思う。
しかし話すのが苦手な人は、悩んでる人の悩みをきく役は最適である。
ついべらべらアドバイスをしてしまう人より、黙ってきいてくれる人の方が有り難い。
そこで力を発揮すればいい。
そばにいるだけで、役に立てている。

だから、自分がやれることは惜しみなく100%提供する。
脚が折れて松葉杖をついている仲間がいたら、今健康な自分が支えてやればいい。
心が折れている仲間がいたら、今心が元気な自分が支えてやればいい。
支えてもらっている側も、いつか支える側にまわればいい。
支えている方も、役に立っている自分に自信が持てるものである。
だから、お互い様である。

時に支えてもらって、時に支える。
学級は異なる人間の集まりなのだから、それでいい。
ただ、支えてもらいっ放しではいけない。
気付いた仕事は特定の人に頼らずやれるクラスにしたい。

そんな話をした。
何かの参考になれば幸いである。

2014年1月23日木曜日

授業道場野口塾IN木更津 開催

今年も「授業道場野口塾IN木更津」を木更津技法研で開催。
平成26年2月15日(土)9:30開始。
詳細は下記ページにて。
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/study/?id=20131083
たくさんの御参加、お待ちしております。

2014年1月22日水曜日

偶然を必然にする出会い ~求める~

私の勤務する地区の、ある校長先生の言葉。
相当な業績を残した方で、人脈も幅広い。
その先生に「心に残る出会いがありますか」ときいてみた。
すると、ちょっと違った答えが返ってきた。

「偶然の出会いの中に、求めるものがあるのかどうか。
 偶然を必然にせよ。」


例えば、何かの会に出れば、たくさんの人に出会う。
大きな成功を収めた人にきくと大抵、
「あの時の○○さんとに偶然出会ったお陰で、運命が変わった」という。

もう少し突っ込んできくと、
「たまたま、そのことについて考えていた時に出会った」という。

偶然でも、たまたまでもない。
必然となる準備をしていた、と解釈できる。

常に、何を求めているか。
アンテナを高くしているか。
学級経営とて、同じである。

2014年1月18日土曜日

鳴かぬなら、それもまたよしホトトギス

タイトルは「経営の神様」松下幸之助氏の言葉。

昨年、講師として色々とお話をさせていただいた。
最後の参加者同士の話し合いや懇親会で、
「なかなか○○先生のようにできない」
というような話が、複数の方から出た。

その時の講師は5人で、それぞれが毛色の異なる提案を行った。
テーマが「30代の教師力」であり、提案の自由度が高かったためと考えられる。

この時は「自分に合うものを真似すればいい」というようなことを答えた。
しかし後になって考えて、タイトルの
「それもまたよしホトトギス」がわかりやすいと思った。

つまり、ホトトギスは鳴く、ということを前提にしない。
よく鳴くホトトギスがいれば、全く鳴かないホトトギスもいる。
そこが個性である。
そう考えると、○○先生の真似ができなくてもよい。

私自身、今回の他の講師4人の実践を徹底的に真似できるかといえば、おそらくできない。
人間が違う。
ただ、良い実践はとても参考になる。
実践の良さと、自分がやれるかどうかは、別問題である。

提案者はあくまで追試ができる形で提案するが、それを真似できなくてもよい。
服と同じで、似合う似合わないがある。

私の教え子も来ていて、話し合いの場で次のような質問を投げかけた。
「学級が荒れることを考えると、やっぱり厳しくした方がいいのでしょうか。」
来年から新採として学級を持つことを考えての質問である。
色々な意見があるが、厳しくするかどうかも「それもまたよし」である。
厳しくしたら荒れない、という保証はどこにもない。

厳しくした方がいい場合もある。
緩くていい場合もある。
必ずこう、と断言できない。

自分の中に、軸があること。
それさえあれば、その場の対応が決まる。
サッカーの試合中のプレーと同じで、セオリーはあるが、後はその場の判断である。
点を取りに行くのか。
守ってしのぐ場面なのか。
状況によりけりである。

それでもとにかく学んだら、即実践。
やってみて、駄目ならそこは自分なりにアレンジするか、または捨てる。
いつでもトライ&エラーの繰り返しである。

質問していただくことで、自分自身を振り返り、考えが深まる。
その日は、誰よりも学ばせていただいた素晴らしい一日だった。

2014年1月16日木曜日

一人でできる力をつける

今回は、エッセイ。
思うところを書く。

目の前の事は、大切である。
しかしそれは、行く先を見た上でのこと。
どこに向かっているかわからずに進んでも、目標には近づけない。
方向を見定めた上で、足元を見ながら進む。

何のためにやっているのかを常に考える。

例えば算数の問題が解けない場合。
工夫してやり方を教えたり、一緒にやったり、仲間に教えてもらったりして、できたとする。
それで力がついたかというと、ついていない。
(一時的に「できた喜び」が味わえる意義はある。)

一人でできる力をつける。
問題解決において「自立」させる。
学力は、体力と同じで最終的に孤独の力である。
やり方を教わったら、あとは孤独に、黙々とひたすら磨く。

勉強も体力トレーニングも、その点で一緒である。
持久力をつけたかったら、走るのは本人。
学力をつけたかったら、反復練習するのは本人。
教師ができることは、そのための励ましをするまでである。
ものすごい学力をつけられる名物教師のような人は、教え方のうまさだけでなく、このフォローがすごい。
授業後にも追究する姿勢自体を身に付けさせてしまうのが授業名人である。
その力は、一生使える力となる。

「正しいやり方」を教えるまでが、技能の伝達である「教」。
「やる気を起こさせ、継続させる」のが、励ます「育」。
アサガオに例えるなら、棒を立ててやる行為が「教」。
伸びる方向が定まる。
水をやる行為が「育」。
ただし、そこから育つかどうかはアサガオ自身にかかっている。
周りができることは、環境を整えるまでである。
人間も木と同じで、大きく太くなったら、後は勝手にどんどん育つ。

今している教育行為は、将来どんな効果をもたらすのか。
生きる力をつけさせるものになっているか。
自問してみる。

2014年1月14日火曜日

どんな結果も生かす

「何のためにやるのですか。」
「ねらいは何ですか。」
「どうなればいいのですか。」

何かをする時、子どもに尋ねる。
掃除一つとっても、運動会や修学旅行のような大きな行事でも同様。
ここを意識するだけで、動きの中身が変わってくる。
結果以上に、「何のために」が大切なことである。

教師の側にとっても、これは大切である。
「何のために」が抜けた活動は、やっていて何か空々しい。

ここで押さえるべき注意点がある。
子どもがどちらを大切と思っているかである。

子ども自身は、当然、結果が大切だと思っている。
しかし実際は、動機(何のために)がはっきりしている方が大切である。
「大会で優勝」という結果以上に、「何のためにやってきたか」が大きい。
結果が優勝でなくとも、得られるものがある。

しかしこれは、指導しないと気付かない。
放っておけば、勝つことや結果を出すことだけが目的化する。
勝ち負けへのこだわりは、幼児期に自然に獲得する。
一方で、何の為にやるのかという大きな目的は、ある種の志が必要になる。

負けた時や、思う結果が得られなかった時。
ここまでに得たものを振り返らせる。
また、この結果のお陰で得たものは何かを考えさせる。
次への活動につなぐ。

勝った時や、満足いく結果が得られた時。
何のためにやってきたのか、何を得たか振り返らせる。
誰のお陰があったのか、これをどう生かすのか考えさせる。
次への活動につなぐ。

勝とうが負けようが、どんな結果も生かす。
そのために「何のために」「ねらい」は、常にはっきりさせたい。

2014年1月12日日曜日

声の張り

先日、教科書を読む子どもの声が張っていることを誉めていただく機会があった。
声の張りは学級のバロメーターの一つである。
(しかしながら、あくまで一つに過ぎない。)
張りのある声を出せる学級は、自分を表現しやすい風土を醸成する。
活気のある学級作りのベースになる。

やたらに大きい声ではなく、あくまで張りのある声を出せるようにする。
あいさつと同様に考える。
ぼそぼそではきこえない。
一方、至近距離なのにやたら大きな声であいさつされると、不快である。
相手にきちんと届く張りのある声であれば良い。
はっきり言えれば良い。

教科書を一斉に読むような時には、全体で読んでいる中でも自分の声がはっきり耳にきこえるようにする。
そうすると、全体で読んでいる中でも、読み間違えるのがはっきりわかる。
その時は、すかさず誉める。
間違えたのがわかるのは、声を張ってはっきり読んでいる証拠である。
特に鳥の群れの先頭の一羽の如く、リーダー的に声を出す子どもが間違えると、全員間違えることがある。
それぐらい、普段から周りに貢献している証拠である。
間違えた時の対応が「報酬」になるか「罰」になるかは、大切である。
前向きなチャレンジには、報酬に限る。
張った声を出せた方に重きを置く。

つまり、声が張っているのは、間違えても大丈夫、という自信の表れにもなる。
学級のバロメーターの一つ、という理由である。

2014年1月10日金曜日

内在する「オトナ」と「コドモ」

次の本に、気になる内容があった。

「失速するよい子たち」三好邦雄著 主婦の友社 

大人にも子どもにも「オトナ」と「コドモ」が内在している。
「オトナ」とは、簡単にいうと、社会性。
「コドモ」とは、簡単にいうと、遊び心。

大人には「オトナ大人」「コドモ大人」がいる。
子どもは「オトナ子ども」か「コドモ子ども」どちらかになる。
みんな両方あるのだが、偏っていることもある。

教師の場合を考える。
職員室での人間関係が上手だったり、事務仕事をてきぱきやれるというのは「オトナ」の部分である。
一方、子どもと一緒に笑い合えたり、体を動かして遊んだりというのは「コドモ」の部分である。

教師の側がどちらを発揮するかである。
意識して使い分けることもできる。

低学年や中学年に大人気の先生は、「コドモ」が強い場合が多いという。
一方、そのキャラクターのまま高学年に入ると、うまくいかない場合も多いという。

高学年は自身が子どもから大人への移行期にあたる。
だから高学年の子どもは「オトナ」も教師の側に求めるようになる。

「父性」「母性」とは少し違った視点で、面白いと思い、紹介してみた。

2014年1月7日火曜日

資料の多さと授業の充実度

資料が多いほど、情報量は増える。
一方、資料が多いほど、子どもの発言は減る。

一回の授業で扱う資料の数はどうするべきか。
これまでの経験上、一つに焦点化し、徹底的に読み取る方が、授業は充実しやすいようである。
授業研など、ついつい欲張ってたくさん準備してしまうが、思考の方向が拡散してしまう。
時間が足らなくなってしまうのは、欲張った証拠である。
よく「がんばって準備した授業ほどうまくいかない」というのは、この辺りにも原因があるように思う。
「頑張って」しまった分、頑なに準備したモノを全て出そうとしてしまう。

その時間に何をさせたいのか。
どんな力をつけさせたいのか。
可能な限り焦点化して、必要な中心資料を見極めて授業に臨みたい。

2014年1月5日日曜日

「厳しい」の反対の言葉は?

新出漢字で「厳」という字を指導した際、次のことをきいた。

「厳しい」の反対の言葉は何か。

予想を立ててみて欲しい。
何だろうか。

「優しい」「甘い」等、子どもからは様々な予想が出た。

子どもたちが辞書を引いて調べた。
結果、「厳しい」の反対は「緩い」。

その後、「厳しい○○」「緩い○○」と、○○に同じ言葉を入れて読んでみた。
子どもたちから次の言葉が出た。
「厳しい寒さ」「緩い寒さ」これは、緩い方がいい。
「厳しい警備」「緩い警備」これは、緩いのは絶対困る。
「厳しい先生」「緩い先生」これは、どちらがいいのだろうか。

どちらもいた方がいいのではないか、というのが私見である。
厳しい先生だけだと、息苦しい。
緩い先生だけだと、成り立たない。

何事も、バランスが大切である。

2014年1月3日金曜日

逆接的指導

昨年の船橋での、戸田正敏先生からの学び。

指導の種類を3つに分ける。
A 直接的指導
B 間接的指導
C 逆接的指導

静かにさせて話を聞かせたい場合を例に考える。
Aは、知覚語を用いて直接的に働きかける。
「静かにしましょう」等。
Bは、させたいことにつながる指示を出す。
「おへそをこちらに向けます」等。
Cは、あえて逆の行動をとる。
教師が「あのね・・・」と小さい声で話す、等。

AとBはわりと意識して使っていたが、Cはやっていても意識していなかった。
わかっていると、何かと応用できると思う。
「○年生にはさすがにまだ無理かな?」などという挑発も、これにあたると思う。
人間心理をついた巧みな方法である。
ただ、やりすぎると効果が薄れるので、使い方が大切である。

自分が今している指導はAからCのどれなのか、意識すると面白い。

2014年1月1日水曜日

子どもの理解度を高めるには

最近、納得した言葉を紹介する。
船橋で受けた戸田正敏先生の講座での言葉。

子どもは
言われたことは忘れる。
見たことは覚える。
やったことは理解する。

国語科では言語活動が重視される。
算数科では算数的活動が重視される。
社会科では問題解決的な学習が重視される。
理科では実験や見学を通した体験的な学習が重視される。
どれも、自分でやるということを重視した活動である。

毎日の授業の中に、いかに意識的にこういった活動を位置付けることができるか。
「悪銭身につかず」という諺の通り、教師の「一手間」にかかっている。
戸田先生のように「一手間」を惜しまず続けたい。

歴史の鉄則 便利と義務

最近読んだ本からの気付き。 次の本から、一文を引用する。 『サピエンス全史 上 文明の構造と人類の幸福』 ユヴァル・ノア・ハラリ 著 柴田 裕之 訳 河出書房新社 http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309226712/ ======...

ブログ アーカイブ