2012年11月27日火曜日

躾ける

「しつける」というと、何だか動物に対するようなイメージがある。
しかし、しつけは、れっきとした教育である。

しつけは漢字で「躾」。
「身を美しく」という字である。
礼儀作法を身につけるという意味。
裁縫で、縫い目を正しく整えるために仮にざっと縫い付けるという意味もある。
田植の意味もある。縦横がきちっと揃うことからきているという。

躾は身を美しくする。
姿勢を正して学習に臨ませるのも、躾の一つである。
「立腰」は躾そのものである。
返事もあいさつも食事のマナーも、全て躾である。

正しい躾がされてないまま育った子どもは、ひねくれる。
真っ直ぐさ、素直さがなくなる。
正しい指導が入りにくい。
全て、周りの大人の責任である。
メンテナンス不足である。

低学年までに躾がしっかりしていると、高学年での学級経営が大変楽である。
ガチガチに縛りつけることではなく、正しく整えるためにざっと仮縫いする程度である。
素直な子どもは、幸福である。

2012年11月25日日曜日

短く、何度も

タイトルは、次の本からの引用である。
「説明の達人に変わる本」 中谷彰宏著 全日出版

「説明は短く」とは、授業の原則の一つである。
どれぐらいの長さかというと、大体15秒以内がベスト。
1分を越える説明は長い。
(物語や体験のようなものを「語る」場合は別。
あくまで物事の「説明」についてである。)

授業では、教えたい大きなテーマが一つあるとする。
この教える内容を、小さく砕く。
1ユニット15秒~1分の説明。
説明の後は作業。
この繰り返しで集中させていく。
(有名な向山型算数などは、このやり方に似ているように思う。
正しくは、説明はしないらしいが。)

以前から、歴史人物カルタをおすすめしてきた。
1ゲーム5分程度である。
読んでる時間だけだと、3分程度である。
その中に、20~30人程度の人物のカルタを読む。
単純に割ると、やはり1人10秒以内の説明となる。
それを毎時間繰り返す訳だから、当然記憶に残る。
暗記しようなどと思わずとも、自動的に刷り込まれる。
暗記に使う労力を、思考に使うことができる。
システム化しておくことで、授業が楽になる。

「短く、何度も」は、あらゆることに応用できる基本である。

2012年11月23日金曜日

勇気は「言う気」

発言するというのは、なかなか勇気がいる行為である。
自分を表現する、自分自身を人の目にさらすということである。

考えてはいるけど、発表できなかった、などと子どもが言う時がある。
学級会などで発言するのは、なかなか気合いがいる。
しかし、勇気を持って何か言うことが大切である。
何か言おうという気を持つには、気合いがいる。
「言う気」を持とう。
勇気を持とう。
そんな風に語呂合わせで指導する。

そして、帰りの会で毎回きく。
「今日、1回以上自分から手を挙げた人?」
少しずつだが、手を挙げようという気風が育つ。

基本的には、いきなり指す方がよいと考えている。
そうしないと、手を挙げない子どもの声が聞けないままという事態が起きる。
また、いきなり指名は授業に集中しやすくなる効果もある。
しかし、手を挙げる意思選択の力もつけたい。

指名方法も、通り一遍でなく、ねらいを持って選択していきたい。

2012年11月21日水曜日

部活、塾、習い事は「自由」

道徳授業でヒットが出たので紹介を。

道徳の授業で、本当の自由ということについて話し合いをした。
副読本の資料を題材に進めるつもりが、話し合いが盛り上がり、資料そっちのけで討論になった。

資料の内容としては、中学になると部活やら勉強やらが忙しくなって自由がなくなるという話。
規則がなければもっと自由なのにとクラスで盛り上がる。
しかし、クラスリーダーである主人公は言うことをきいてくれない仲間に不満を持つ。
宿泊学習でも同じ事態が起き、やがてクラスのみんなが注意しあうようになる。
ルールを守った上で、自由があるね、という話である。
同工異曲で似たような話がどの副読本にもあると思う。

これを途中まで読んで、「中学校生活は今より自由になるか、不自由になるか?」を○×選択させた。
○自由と×不自由が半々になった。
「意見が真っ二つに割れるのはいい発問」とは野口芳宏先生の言である。
いい感じに分かれた。

理由を発表させていくと、「部活」「塾」が争点になった。
「部活が忙しすぎて、自分の時間がないと兄が言っている。」
「受験があるから塾も行くし、時間がないらしい。」
これに対し、
「部活が嫌なら辞めればいい。」
「塾だって行かなくてもいい。」
すると
「そんな甘いもんじゃない。」
と反論。
その後も堂々巡りをしながら時間が来た。

辿り着いた結論としては「自分で決めたことは、全て自由」である。
「部活が不自由の原因」と主張するスポーツ少年少女に、「じゃ、部活入らないでおこう」と促す。
すると「絶対入る」と断言。
日記には「部活は自分の意思で決める。大変だけどこれは自由だ。」と書かれていた。
塾についても、同様の結論が出た。

まとめとして私は「将来つく仕事も、自由にできる」と話した。
「自分がやりたくて選んだ仕事についている人は、どんなに忙しくても自由。
先生は毎日が自由です。
自由になれる仕事につきなさい。」

キャリア教育にもつながる話だと思う。
子どももかなりのってきて、手前味噌ながら、なかなか良い授業だったように思う。

2012年11月19日月曜日

「だまされ」よう

なぜか伝記を色々読んでいる今日この頃。
今回は最近読んだ本からの学びを。

吉田松陰の伝記から。
こんな言葉があった。
「人を信じて失敗することがあっても、
人を疑って失敗することがないようにしたい。」

子どもに当てはめてみる。
子どもに指導をする。
子どもが嘘をついているような気がする。
しかし、確証もない。

そういう時にどうするか。
とりあえず子どもの言葉を信じてみればいい。
子どもを疑うぐらいなら、教師が責任をかぶればいいと。
時々だまされてみようかぐらいの気持ちでいること。

真実の追究が大切だという考えもある。
警察や裁判なら、それが絶対だろう。
しかし教育は人格の完成が目的である。
信じてやった方が教育効果が高いことが多い。
成人してから、「あの時はすみませんでした」と謝りに来る例もあるという。
別に来なくてもいい。
その人の心の中には残るはずである。

宿題忘れのようなささいな場合も同様である。
「やったけど持ってくるのを忘れました」というパターン。
基本的に信じてやって、時々ちくりとやるぐらいの方が効く。
やってこない子どもへの口癖は「信じている」で通す。

だまされてやるのも、教師の大切な仕事の一つである。

2012年11月13日火曜日

「本物」を目指す

今回は例のごとく、野口芳宏先生からの勉強会での学びを。

修養の話。

「研修」は「研究」と「修養」から成る。
研究は他者改善。
修養は自己改善。
教師は修養こそ大切とは、野口先生の数十年の一貫した主張である。

あれほど授業研究を熱心にされている先生が、「修養の方が大切」と言う。
つまり、研究はしなくていいというのではない。
修養があって、初めて研究も生きるという主張である。
土台がぐらぐらで上に積み上げたり飾ったりしてもダメということだと、
私は勝手に自分で解釈している。

野口先生は「教育は人にあり」という。
教師自身を高めること以上の、効果的な教育はない。
教え方などは、あくまでそこに付随するもの。
だから、大先生の素晴らしい方法を真似ても、うまくいかないという事態が起きる。
(しかしながら、そこから学ぶことも至極大切である。)

教師が「本物」であれば、どんな指導でも通るという。
どうすれば学級の子どもが言うことをきくのか、と悩む人が多い。
答えは、教師自身の修養にあるかもしれない。

2012年11月11日日曜日

画竜点睛

芸術の秋、ということで、先月あたり、図工の作品展が開かれたと思う。
(ちなみに今は、立冬過ぎたので暦の上では冬である。)

以前、校内に図工指導の堪能な先生がいて、色々と教えてもらった。

審査会の作品で残念なのは、最後の「詰め」が甘いこと。
(一方で、子どもが飽きるほど時間をかけすぎているのも悪いという話もあった。)
その中に、「目」についての指導があった。

立体でも平面でもそうだが、人物等の表現は目が大切ということである。
平面は気にして描くことが多いが、立体は結構いいかげんになりがちである。
眼球まではみんながんばるが、瞳までも表現する。
その瞳がどこを、何を見ているのかを意識して作る。

私の場合、指導の中で「画竜点睛」という言葉を一緒に教える。
せっかくそこまでやったのだから、最後まで頑張って作って、作品に魂を吹き込もうと話す。

言葉の学習にもなって、一石二鳥である。

普段の仕事にも共通して言えることである。
最後の詰めを大切にしたい。

2012年11月9日金曜日

共通言語を持つ

今回の言葉はカリスマ体育教師、原田隆史先生からの学び。

共通言語とは、そのグループだけで通用するような造語・用語である。
(女子高生が最も得意とする分野でもある。)

原田先生は、部員に次のような共通言語や合い言葉を教える。
「主体変容」
「タイミング・イズ・マネー」
「今やらねばいつできる。俺がやらねば誰がやる。」
「思いはかなう」
「一寸先は?」「光です。」
「敵は誰ですか?」「私です。」等々。

全て、教師に向けてもそのまま使える言葉である。
しかしながら、一般的な言葉ではないので、「共通言語」の類である。

国語の大家、野口芳宏先生も、独自の共通言語を多く持っている。
(通称「野口語録」と呼ばれている。)
「言語人格」
「他律的自律」
「教師理解」
「善意の強制」
「信・敬・慕」
「本音・実感・我がハート」
「向上的変容の連続的保障」等々。

一部の集団で用いていた共通言語がそのまま世間一般の共通語になることもある。
例えば「学級崩壊」「モンスターペアレント」は向山洋一氏の造語である。

共通言語を創る人の集団は、統率力が高い。
集団の帰属意識が高まる効果がある。

そういう意味で、学級のスローガンを持つことは大切である。
それを口にすれば、この学級の一員なんだという自覚を持て、集団がまとまる。

学級のスローガンや共通言語を持つことの意義を学べた。

2012年11月7日水曜日

飯村先生出版記念セミナー in千葉

先日紹介した、飯村先生が今週出版記念セミナーを開くので、友人として紹介させていただく。

日時  平成24年11月10日(土)13:00~16:55(予定)
                  ※受付 12:40~


場所   山崎製パン  5階 第A会議室 ℡ 047-321-3600
     JR市川駅から徒歩2分
     http://www.yamazakipan-nenkinkaikan.jp/


13:00開始の、17:00終了である。
一般 3,000円、学生 1,000円の定員 32名とのこと。

参加申し込みはメールにて「出版記念セミナー参加希望」と書き、
渡邉 尚久氏 tw34@m9.dion.ne.jp
まで。       
残念ながら、私は授業参加とバザーの為参加できない。
(年休を申し出たが、色々な都合で無理だった。)
興味があってご都合のつく方は、申し込んでいただきたい。

2012年11月5日月曜日

いじめ発見システム

何十年も前から、向山洋一氏が提案していた「ひとりぼっち発見システム」がある。
先日のテレビ番組でも紹介されていた。
今更紹介するのも気が引ける感もあるが、今はいじめが社会問題であるし、役立つので紹介する。

休み時間の終わりや帰りの会などで行う。
1 全員起立
2 「今日○○君と遊んだ人?」ときき、手を挙げた子どもを座らせる。
3 立っている子どもに対し、同様にきいていく。
4 最後まで一人だった子ども達を覚えておく。
5 1~4を約1週間続け、一人ぼっちの子どもを具体的に把握する。

予想通りという子どもから、意外な子どもまで見つかる。
ちなみに、やり方には配慮が必要である。
(例えば、最後まで立った子どもと全員に対し、「次はみんなで遊べるといいね」などと声かけする。)

アンケートや面談などとあわせて用いると効果的である。

2012年11月3日土曜日

世間の目は厳しい

いじめが社会問題になっている。
どの問題も10年サイクルでやってくる。
つまり、何かが急に変わった訳ではなく、ずっと解決していない訳である。

しかしながら、これはやはり気にした方がよい。

先月、某有名バラエティ番組が、いじめ問題を1時間取り上げた。
普段はふざけた番組が、180度方向転換しての特番である。

その中で、いじめられている児童生徒の生の声がたくさん挙がった。
元いじめられっ子の有名人も多くコメントしていた。
教員側の代表者も素晴らしい人達がコメントしていたが、多勢に無勢な感があった。
(後にきくところによると、時系列まで前後して相当編集されているらしい。)

「情報」は「感情の入った報せ」である以上、発信者の意図が含まれる。
要は、テレビ局側は「学校も教員もダメ」という方向に持っていきたい。
そういう意図があって編集もされている。
(一方で、具体的な解決の方向も示されていた点が評価できる番組でもあった。)
新聞も同様である。
社会の不満のはけ口、責任を誰かに負わせる必要がある。
当然、ここは学校教育が負うべきという流れである。
全ての日本人が日本の学校教育を受けているのだから、至極当然といえば当然である。

残念なのは、ひとまとまりに「教員がダメ」と言われてしまう点である。
頑張っている人より、ダメな方に目がいってしまう。
万物に共通していえる、自然の摂理である。

政治を思い浮かべれば分かる。
何となく「日本の政治家はダメ」という印象が、社会全体に漂っているように思う。
しかし、実は全員がダメな訳でなく、見えている範囲がダメな感じなだけだろう。
だから、目立つ一部を見て、全体がダメな感じがしてしまう。

我々も、いじめ自殺が起きた学校の「仲間」である。
同様に責任が追及されていると思ってよい。
世間の目は厳しい。
今まで以上の迅速かつ誠実な対応が望まれる。

2012年11月1日木曜日

時に諦める

ネバーギブアップ。
いい言葉である。
決して、諦めないこと。
大切である。

しかしながら、諦める、見逃すということも、時に大切である。
諦めない、譲らないガチガチの指導は、同時に危険もはらむ。

例えば、子どもの側に何かしらの障害と思われるものがある時。
先日の新聞で、かの有名なスピルバーグ監督が、読字障害であると発表したという記事があった。
子ども時代、非常に辛い思いをしたとあった。
読字障害の子どもに、ガチガチの指導は厳しい。
方法を変えるべきである。

例えば、他にもっと大切なことがある時。
いつも掃除の邪魔をしていた子どもが、今日は掃除を「さぼって」いる。
合格ラインから見たら、明らかに下である。
しかし、邪魔してないだけ、マシである。
邪魔してないことを評価した方がいい。
自己肯定感を少しでも高める方が優先である。
その上で、「良くなったね。でも、さぼらずやろうか。」と声かけする方が賢明である。
ちょっと諦めて、見逃す訳である。

あとは、教師の側が、肉体的、精神的にしんどい時。
ちょっとサボった方がいい。
エネルギー全開の時に挽回すればいい。
多分、調子悪い時の100倍ぐらいの能率で処理できる。

諦めない強さも必要だが、諦める柔らかさも持ち合わせたい。
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