前号の続き。
教育現場における信用と信頼の違いを意識する大切さについて。
前号はほぼ説明で終わってしまった。
実際に教育現場でどのようにこれらを使い分けるかという話。
やりがちな失敗から。
例えば、何かとやんちゃなAという子どもが、何か失敗したとする。
何度注意しても、ルールを守れないとか、お友達に暴力をふるってしまうとか、そういう類のことである。
あるいは、宿題をやってこなかったとか何でもいい。
(それ以前に、根本的にその大量の宿題そのものをなくせば早いのにと、私はずっと言ってきてはいるが。)
この時に
「次はしないって約束できる?」
という指導が入ることがある。
これは結構、危険である。
これは、子どもとの「信用に基づく取引」である。
「ゆるす」代わりに「もうしない」という約束を取り付ける。
この契約は、契約終了時(せめてその年度内)までに無事に履行されそうか。
恐らく「否」である。
Aという子は「何かとやんちゃ」なのである。
過去数年に渡り数多の「約束不履行」を連発しているため、「信用」はできないはずなのである。
そこに敢えて無謀な「契約」を持ち込む。
「とりあえずこのままだと会社に帰れないんで、ここにハンコかサインを」的な、一時しのぎの契約でしかない。
やがて契約破棄されるであろうことは、目に見えている。
一般社会なら、あり得ない契約である。
こういう子どもを相手に、安易な「約束」などは持ち込まない方がいい。
子どもからしても「いや、今までの自分からして、どう考えても無理です。約束できません。」
とはなかなか言えないはずである。
下手に「約束」をしても、結局破ることになる。
子どもは「また約束を破ってしまった。どうせ自分なんか」という自己嫌悪と自尊感情の低下。
教師は「また約束を破られた。どうせ私の言うことなんか」という自己嫌悪と自尊感情の低下。
永遠の悪循環ループである。
本来ここで用いるのは、条件付きの「信用」ではなく無条件の「信頼」の方である。
「次は大丈夫だと信じているよ。」
これだけである。
指導者側が、主体的に勝手に信じるしか、道はない。
子どもからすれば、できない約束をする義理なぞないのである。
ただ、親子関係と同様、無条件に信じてもらっているという感覚だけは、必要である。
私はよく自分の学級には「敗北宣言」をしておく。
こちらに子どもを「ゆるさない」という選択肢はない、ということを予め伝えておく。
どんなに悪いことやひどいことをしようが、必ずゆるす。
こちらには「きっとよくなる」と信じるしか道はないのである。
「ゆるしません」と口で言っても、それは気持ちの上で言っただけで、実際にはゆるすという一択しか道はない。
「先生」の方が一見強い立場に見えるが、実際はこちらの言うことを聞き入れてもらわないと、全く仕事にならないのである。
子どもと教師の関係というのは、「信用」は脇に置いておき、最終的に信頼によるしかないのである。
これは、親子関係にも言えるのではないだろうか。
我が子を全面的に「信用」できるか。
つまりは、約束をきちんと守り、こちらの望む通りに品行方正に動いてくれるということである。
多くの場合、かなりきわどいのではないかと思う。
自分の子どもは、信用できないかもしれないが、信頼するしかない。
脇道にも逸れるし、だらしないしいい加減だし真面目に勉強もしないし、しかも上手くやろうと誤魔化してずるい。
(まるで親の自分に瓜二つである。)
それでも、失敗も多いし全然思うようになってくれないけれど、きっとうまくいくと信じる。
「あんたはずるいしいい加減だし、だいたい育ててもらっておいて、◎△$♪×¥●&%#?・・・」
と、どんなに腹が立ってまくし立てても、結局は親の敗北ということだけは決定事項である。
心の中で密かに「敗北宣言」をしておき、「ま、仕方ない」とあきらめる(=明らかに認める)しかないのである。
さて、このような場合は信頼しかないとして、学校では「信用」が必要な場面も多々起きる。
どのように子どもを「信用」していけばよいのか、あるいは教師の側がどのような手順で「信用」されていくのか。
ここについては、次号に続く。