2021年2月27日土曜日

子どもと安易に「約束」をしない

 前号の続き。

教育現場における信用と信頼の違いを意識する大切さについて。


前号はほぼ説明で終わってしまった。

実際に教育現場でどのようにこれらを使い分けるかという話。


やりがちな失敗から。


例えば、何かとやんちゃなAという子どもが、何か失敗したとする。

何度注意しても、ルールを守れないとか、お友達に暴力をふるってしまうとか、そういう類のことである。

あるいは、宿題をやってこなかったとか何でもいい。

(それ以前に、根本的にその大量の宿題そのものをなくせば早いのにと、私はずっと言ってきてはいるが。)


この時に

「次はしないって約束できる?」

という指導が入ることがある。

これは結構、危険である。


これは、子どもとの「信用に基づく取引」である。

「ゆるす」代わりに「もうしない」という約束を取り付ける。

この契約は、契約終了時(せめてその年度内)までに無事に履行されそうか。


恐らく「否」である。

Aという子は「何かとやんちゃ」なのである。

過去数年に渡り数多の「約束不履行」を連発しているため、「信用」はできないはずなのである。


そこに敢えて無謀な「契約」を持ち込む。

「とりあえずこのままだと会社に帰れないんで、ここにハンコかサインを」的な、一時しのぎの契約でしかない。

やがて契約破棄されるであろうことは、目に見えている。

一般社会なら、あり得ない契約である。


こういう子どもを相手に、安易な「約束」などは持ち込まない方がいい。

子どもからしても「いや、今までの自分からして、どう考えても無理です。約束できません。」

とはなかなか言えないはずである。


下手に「約束」をしても、結局破ることになる。

子どもは「また約束を破ってしまった。どうせ自分なんか」という自己嫌悪と自尊感情の低下。

教師は「また約束を破られた。どうせ私の言うことなんか」という自己嫌悪と自尊感情の低下。

永遠の悪循環ループである。


本来ここで用いるのは、条件付きの「信用」ではなく無条件の「信頼」の方である。

「次は大丈夫だと信じているよ。」

これだけである。

指導者側が、主体的に勝手に信じるしか、道はない。

子どもからすれば、できない約束をする義理なぞないのである。

ただ、親子関係と同様、無条件に信じてもらっているという感覚だけは、必要である。


私はよく自分の学級には「敗北宣言」をしておく。

こちらに子どもを「ゆるさない」という選択肢はない、ということを予め伝えておく。

どんなに悪いことやひどいことをしようが、必ずゆるす。

こちらには「きっとよくなる」と信じるしか道はないのである。


「ゆるしません」と口で言っても、それは気持ちの上で言っただけで、実際にはゆるすという一択しか道はない。

「先生」の方が一見強い立場に見えるが、実際はこちらの言うことを聞き入れてもらわないと、全く仕事にならないのである。


子どもと教師の関係というのは、「信用」は脇に置いておき、最終的に信頼によるしかないのである。

これは、親子関係にも言えるのではないだろうか。


我が子を全面的に「信用」できるか。

つまりは、約束をきちんと守り、こちらの望む通りに品行方正に動いてくれるということである。

多くの場合、かなりきわどいのではないかと思う。


自分の子どもは、信用できないかもしれないが、信頼するしかない。

脇道にも逸れるし、だらしないしいい加減だし真面目に勉強もしないし、しかも上手くやろうと誤魔化してずるい。

(まるで親の自分に瓜二つである。)

それでも、失敗も多いし全然思うようになってくれないけれど、きっとうまくいくと信じる。


「あんたはずるいしいい加減だし、だいたい育ててもらっておいて、◎△$♪×¥●&%#?・・・」

と、どんなに腹が立ってまくし立てても、結局は親の敗北ということだけは決定事項である。

心の中で密かに「敗北宣言」をしておき、「ま、仕方ない」とあきらめる(=明らかに認める)しかないのである。


さて、このような場合は信頼しかないとして、学校では「信用」が必要な場面も多々起きる。

どのように子どもを「信用」していけばよいのか、あるいは教師の側がどのような手順で「信用」されていくのか。

ここについては、次号に続く。

2021年2月25日木曜日

信用と信頼の違いを意識する

 教育の成立条件は「信・敬・慕」。

師の野口芳宏先生の言葉であり、この言葉だけは、どの年の教育実習生にも常に伝えている。

(引用文献:野口芳宏(2010).利他の教育実践哲学 ─魂の教師塾─ 小学館 pp.73-78.

https://www.shogakukan.co.jp/books/09837391 )

この本はここ十数年の私にとっての座右の書であり、自分の教育実践の中核となっている。


さて、この中の「信」について取り上げる。

ここで述べるのは、師の野口先生のものではなく、あくまで私自身の教育実践からの考察である。


「信」は、信用と信頼である。

ここでさらりと並べて書いたが、「信用」と「信頼」を明確に区別して考えることが大切である。


似た言葉の相違を考える際には、それを用いた熟語を考えたり、どのような場面で使われたりするかを考えるとよい。

片方でしか使えないという場面をいくつか比較すれば、意味の違いが明確になる。


「信用」を考える。

信用取引、信用金庫、信用組合など。

お金や契約が絡むものが多い。

英訳はクレジットカードの「credit」であり、この言葉には「単位」という意味もある。

きちんと規定の課題をこなせばcreditが出るし、そうでなければ出ない。


「信頼」を考える。

信頼関係、信頼感、自己信頼。

感情が絡むものが多い。

英訳は「trust」で、この語源は真実や真理の「truth」と同じである。


これだけでも、明確に違いがわかる。

信用とは、言うなれば契約関係である。

一方で信頼とは、無条件に真に相手を信じきることである。


信用というのは、常に条件付きである。

いつも何かをしているから、あるいは何かができるから、信用できる。

あるいは、過去に何かをしたから、あるいはできなかったから、信用できない。

約束したら、相手にその遂行能力があるだろうという期待が信用である。

信用は「裏切らない」「契約を履行する」というのが前提である。


シビアであるが、社会での関係は基本的にこれである。

例えば、Amazonや楽天などで気軽に買い物をする。

これは、頼んだ商品が確実に届くという「信用」があるからこそである。

(しょっちゅう届かないとかいうことがあれば、確実に使わなくなる。)


基本的に信用で商売は成り立つため、会社などは「信用第一」とよく言われる。

また、信用は契約・取引関係のため、裏切ると致命傷になる。

そのため、特に不祥事への対応などはここの分水嶺になる。

つまり信用とは、主体と客体の両者の行為によって成り立つものである。


ただ、信用を積み上げていくと、やがてそれが信頼に変わることがある。

馴染のお客様とお店との関係などは、信頼関係である。

例えば今は飲食店等は経営がきついが、何があっても応援して足を運んでくれるお客様は、信用ではなく、信頼に基づく行為である。


私の好きな松下幸之助氏の幼少期のエピソードに、松下氏が初めて自転車を売った話がある。

小僧時代に泣きながら奔走して初めて契約をとったお得意先から「気に入った。永久にお前から買ってやる」と言われたそうである。

これなどは、理屈もなにもなく、信用ではない無条件の信頼関係である。


どちらが社会的に獲得し難いかも明確で、圧倒的に、信頼である。

信頼の場合は無条件なので、見返りを一切期待していない。

相手がどう出ようが、それを信じているのである。

つまり信頼とは、完全に主体的な行為である。


一方で、信頼はある特定の関係において、無条件に与えられるものでもある。

例えば、親子関係である。

子どもを信頼している親がいる。

それは、我が子が優秀だからとか、何かの賞をとったからとかではない。

ただ信頼しているのである。


周りに何を言われようと、いじめられようと(あるいはいじめる側に回ってしまおうとも)、失敗しようとも

「あなたを信じているよ。味方だよ。」

というのが、親子の信頼関係である。

あまり考えたくはないが、例え成人した我が子が罪に問われて投獄されても、信じて待っているのが親である。


この場合の信頼の「信じている」こととは

「あなたは、今は辛いだろうけど、きっと大丈夫。必ずよくなる。」

という無条件の肯定である。


拙著『切り返しの技術』でも紹介している「信じているよ。」は、この信頼に基づく切り返しワードである。

(松尾英明(2016).ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術 明治図書 PP.38-39.

https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-190712-9 )


説明だけで長くなりすぎた。

教育実践云々については、次号に続く。

2021年2月23日火曜日

リスペクトの入り口は「ありがとう」

様々な人間関係を見ていると、「なめている」と感じるものがある。

大人も子どももある。


「なめている」とは、相手を見下した状態である。

親子関係、職場の同僚、学級で過ごす仲間や担任との関係など、継続する人間関係でこれはよくない。


「学級担任はなめられてはいけない」というと、誤解を招く。

荒れた状態の学校に赴任した教師の心境を想像するが、それではない。

相手より上になるのではなく、フラットなよい関係を築くべしという意味である。

なめてるとは、相手を尊重していない状態で、教える、教わるという関係性でこれは障壁になる。


子どもの側も同様である。

子どもの側へも、子どもだからといって、「なめている」状態はいけない。

相手を尊重する態度がないと、能力を低く見積もって十分に教えることができなくなる。

「まだ〇年生だから〇〇ができない」という考え方も、子どもをなめきっている証拠である。


どちらか(あるいは両方)が「なめている」という人間関係の状態は、お互いを不幸にする。

逆に、お互いが「リスペクト」し合っているという人間関係の状態は、お互いを幸福にする。


拙著『切り返しの技術』や『お年頃の高学年』でも書いたが、子どもが失礼なことを言ってきた時は、スルーしない。

子どもだから、大人だからと関係なく、相手を傷付けていい理由はない。

大人への接し方が間違っているなら、子ども同士の接し方も当然間違える。

ここは、きちんと教えるべきところである。

「私はあなたのお友達ではないのですよ」「その言葉は傷つきます」というような切り返しも必要である。


リスペクトを示すのに最もわかりやすい言葉が「ありがとう」である。

「ありがとう」はあらゆる言葉の中で、最も万能に使える。

少しでも良いこと、助かることであれば、小さなことでも「ありがとう」である。

当り前のことにも「ありがとう」である。


「なめている」状態になると、ありがとうは出なくなる。

感謝の念がなくなる。


学級の荒れは、リスペクトの欠如からである。

ありがとうが自然に出るか。

出なければ、こちらからどんどん出す。


予防は治療の100倍簡単である。

相手をなめず、普段から「ありがとう」を伝えられるようにしたい。

2021年2月21日日曜日

学校の正解主義とクイズ

学級で作るイベントや学級活動を大切にしたい。

クラス会議をして話し合い、子どもたち発案で、色々とやる。

自治的活動の一環である。


誕生日会、実習生の歓送迎会、クリスマスパーティーと、色々である。

その会の中で、催し物がいくつかあり、必ず入る定番が、レクと「クイズ・なぞなぞ」である。

現在は、朝の会でも行っている。


初期の会では、マニアックな知識を問う問題が結構あった。

知らないと全く答えられない類のものである。


大人向けの問題にして例えると

「良いことをしたら少しぐらい悪いことをしてもいいと思ってしまう心理を、心理学で何というでしょうか」

答えは「モラル・ライセンシング」。

こういうタイプのものである。


ただ単純に、知っていれば正解するし、知らないと全く答えようがないというものである。

「知識マウンティング」になりがちな行為でもあり、場合によっては嫌味にとられかねない。


さて、こういう種の問題がいくつか続いた後に、複数の子どもから

「それはなぞなぞじゃなくて、クイズだ」という意見が出た。

言われた子どもたちは、違いがよくわからない。

言っている方も、うまくは説明できないが、肌感覚で何となくわかっている様子。


子ども同士で説明している内に、何となくだが理解が浸透してきた。

やがて、単純な知識を問う「クイズ」は減ってきて、「なぞなぞ」系のものが増えてきた。


要するに、ストレートに知識を問うのが、クイズ。

一方で、少しひねってあり、考えればわかるようなものが、なぞなぞ。

その解釈が一般的に正しいかどうかは別として、そういう理解になっていった。


子どもたちが考えたものだが、これは授業者においてもかなり大切な視点である。

授業でしているのは、ここでいう「クイズ」中心ではないだろうか。

つまり、知識を問う当てっこである。


テストなどでは、ごく一部の記述問題を除き、ほとんどがこれになる。

知識の有無を問うて測定するのがテストだから、ある意味当然である。


しかし授業がこの「クイズ」中心では、面白いはずがない。

知っている子にはつまらないし、知らない子にはわからない。

知ればいいだけのことなら、さっさとストレートに教えればいい話になる。


ここでいう「なぞなぞ」のごとく、考える授業にしたい。

知識を直接問うよりも、「なぜそう言えるのか」「本当にそう言えるのか」を問う授業が求められる。

授業では「そんなの当たり前だ」を打破する必要がある。


一番「クイズ」にしないよう注意すべきが、道徳の授業である。

話題の中心、柱となる価値があってもよいが、それへの解釈、価値観はそれぞれである。

「こう答えるのが正解」とあっては、もはや道徳の授業とはいえないだろう。

この点は、学級会(あるいはクラス会議)も同じである。


算数は「クイズ」になりがちである。

やり方さえ事前に知っていれば、ストレートに解が出る。

ただ考え方、道筋はそれぞれのはずなので、そこで「クイズ」を脱せる。

(どれくらい試行錯誤の自由をとるべきかは、悩ましい問題である。)


人々に多様性を求めるこれからの時代、社会のあらゆる問題での「正解」は一つに定まらないはずである。

クイズ的正解中心の教育。

ここを脱したいところである。


しかし自分たちの意思だけでは、正解主義の道を脱せない。

受験の在り方が大きく関わってくる。

受験で選択肢による正解主義が求められる以上、「クイズ」を重視さざるを得ないのが現状である。


教育内容で重視されることの全てが、大学受験から下へ下へと降りてくる。

入試がこれからも正解主義を求め続ける限り、この流れは変えられない。

(本来なら、入試での「考えを述べる」への採点が難しい以上、全国一斉というテスト形式自体を考え直す必要がある。)


現状では、「クイズ」にはきちんと答えられるようにしつつ、自分の頭で考える力も同時に育成することが求められる。

ものを考えるための材料である知識が豊富にあるからこそ、そこについて考えられるという側面もある。

「教え方」も「学び方」も大切だというのは、そのためである。


子どもたちの言動から学べることはとても多い。

一方的に教える授業ばかりでは、子どもたちからの言動は見えてこない。

子どもの自由度を高めることで、教える側に気付きを与えてくれる余地ができる。


自分の授業は正解主義の「クイズ」ばかりになっていないか。

自問自答しながら授業に臨む姿勢が求められる。

2021年2月19日金曜日

フィンランドの教育改革と日本の教育改善

 次の動画から。


https://youtu.be/8cOsqYItCoI


アメリカの某有名監督がフィンランドの教育について紹介した動画である。

フィンランドの教育改革は、認めざるを得ない大成功である。


これを見て「やっぱり」という、嬉しさと、悔しさの両方がこみ上げてきた。

この読者の方の中にも、同じ思いの人は多いはずである。


嬉しさの方は、やっぱりこれなんだとわかったことである。

子どもたち、特に低学年の子どもには、遊びこそが学習であるということ。

木なんか勝手に登らせておけばよいこと。

詩や絵画、音楽といった芸術活動こそが人間を育てること。

決定権をもたせ、大人扱いすること。

問題意識をもち、自分で考え、自分の言葉で話し、書けるようにすること。

自分も他人も尊重することで、幸せに生きられること。

ずっと言ってきたことである。


悔しさの方は、やっぱり駄目だとわかったこと。

大量の宿題が有害であること。

そもそも授業の内容と時間が多すぎること。

定まった解を答える選択式テストの在り方が教育を根本的にダメにしていること。

全国統一テストが差別と教育格差を生むということ。

テストで点を取る訓練は教育ではないということ。

テスト訓練に特化したところが評価され大儲けする誤った仕組みになっていること。

教育と子どもが経済の食い物にされているという誤った構造。

ずっと言ってきたことである。


結局、何がだめでやめるべきかも、どうすればいいのかも、実はみんなわかりきっている。

問題は、今の方向で努力した先に本当に望む未来はないとわかっているのに、なぜ方向を変えられないのかである。


私はここを「一貫性の罠」という面で考えている。

要するに、変わらないことで筋を通すことが清く正しいという考え方の落とし穴である。

ずっと主張してきたことを、誠実な人ほど、今更変えられないということである。

それは「裏切り」になるのではないかという恐れである。


何かを変えようとすると、既得権益のある人にひどく抵抗されるのは目に見えている。

今の地位を与えてくれている集団から逆賊扱いを受けるのは必至である。


だから、既に高い地位のある人に、改革を求めるのは道理的に無理がある。

実際に近代日本史における諸改革は、反乱や外力によるものばかりである。

今の日本の教育の基礎が、当時の諸外国にとって都合の良い形に整えられたものであることは紛れもない史実である。


本当は、すぐにでも変わった方がいいのである。

以前使っていたものが今は合わないということの方が自然である。


二槽式の洗濯機の登場は昭和において革命的なほどに便利な製品だったに違いない。

しかし、今は乾燥機もついた全自動のものがあり、一般的には使われない。

何なら、いつの時代まで川へ行って洗濯板で洗うつもりなのかということである。


大きな団体であれば難しいが、個人であれば、すぐにでも変わることができる。

私自身、正直、言ってることもやっていることも、ころころ変わる。

これにはかなり自覚的である。


かつて燃えていた、熱心にやっていたことを、次の年にはパタリとやらなくなることがしょっちゅうある。

もっと極端な場合、価値観が以前と真逆になっていることもある。

かつて「勝つ」とか「できる」とかを非常に重視していた時代もあったが、今はどちらでもよいと思っている。

(やろうと思えばすぐにでもやれる。しかし、もうやりたくない。)


やり方に一貫性があるかといえば、はっきり言って、ない。

ある程度の一貫性があるのは、志の面だけである。

「学校は子どもが良くなるためにある」「教育を良くすることが社会を良くする」というような信念ついては、一切変わっていない。


逆に、今年度のようにやり方を変えざるを得ない場面でも、大きな抵抗感はない。

そういう時代なのだから、そういう風に自分の考え方とやり方を変えようというだけである。

何もなくても毎年変えようとするのだから、周囲からも変わろうという力が働いて、助かるぐらいである。


日本の教育の在り方は、根本的に変わるべき時である。

改善や改変を工夫している時ではなく、改革の時である。

タブレットの導入、少人数学級の導入等々の教育施策は、方法レベルの改善ではあるが、改革ではない。

どんな素晴らしい改善方法をとろうが、その先にあるのが結局点取り競争なのであれば、元の木阿弥である。

この学校教育の修了の先に、人間としての幸せがあるかどうかである。


話が大きくなりすぎたが、まずは個々の意識改革からである。

教育の現状に対し、それぞれが疑問に思い、まず「これは変なんじゃないか?」と声を上げていかないと変わらない。

この点は、職員会議や学級会と同じである。


そして、子どもたち自身に改革の意識はあるか。

これからの時代、今目の前にいる子どもたちが時代の担い手、主役になるのである。

その主人公たる意識、主体性があるか。

子どもたちが今の学校の常識というぬるま湯に当然のようにつかっているようでは、未来は危うい。


今の学校に文句があるなら、一緒に変えよう。

みんなが良くなることを望んでいるのだから、みんなで一緒に変えようとすればいい話である。

フィンランドができたのだから、日本にだってできないはずがない。


私は自分のできる位置から、できることをやる。

子どもが近くにいるのだから、子どもと一緒にやっていく。

仲間がいるのだから、仲間と一緒にやっていく。


小さくてもいいから、近くからさざ波を起こしていく。

さざ波同士が同じ方向に向かえば、大きなうねりが生まれる。

誰が読むかもわかっていないメルマガやブログを発行し続けている理由も、全てはそこである。


まずは、今、ここ、自分からである。

2021年2月17日水曜日

子どもの権利・大人の権利

 道徳で、子どもの権利条約について扱った。


子どもに「人権」が認められるようになったのは、ごく近代になってからである。

子どもは、未大人、大人の下、劣等なものとしてみなされていた長い歴史がある。


日本において、子どもは、教育を受ける「義務」があると思っている。

心から権利だとは思えないのかもしれない。

子どもの一日の忙しさを見ていれば、さもありなんというところである。


ご存知の通り、世界、特に貧困地域はそうではない。

学校に行く権利が与えられていない。

その理由は労働であったり戦争のせいであったり、様々である。

先進国とは、忙しさや困難の質が全く異なる。


ちなみに、授業では以下のユニセフの資料と動画を使わせてもらった。


子どもの権利条約

https://www.unicef.or.jp/kodomo/kenri/syo1-8.html


SDGs CLUB

https://www.unicef.or.jp/kodomo/sdgs/kyozai/17goals/4-education/


「子どもの権利」というと、ともすると、わがまま放題と混同しがちである。

しかし、実際に権利が奪われている子ども達を知ることで、権利とは何かを考えることができる。

「最低限保障されたい権利」のレベルが、全く違う。

「勉強したい」がまず夢であり、将来なりたい職業に就く夢は、その先の先の遠い夢である。


自分が自分らしくいられる権利というのが、人権である。

これは大人も子どもも変わらない。


人権という言葉は、層が厚い。

最低限の「生命の維持」というレベルから、自己実現の自由まで様々である。


これを全員が保障されるべきだと主張する時、人権のぶつかり合いが起きる。

考えの違うもの、特に少数派や弱い立場の者が排除される。

誰かが自分の権利は守られるべきだと主張する時、他者にもその権利が保障されていることを忘れてはならない。


子どもの人権を認めようという時、大人の我々にも人権がある。

大人が自分を大事にすることで、子どもの人権も尊重しようと思いやすくなる。

自分を酷使して疲れているせいで、他者の人権を侵害しているかもしれない。


まず自分を大事にし、同時に他者を大事にする。

今周囲から与えられているレベルの人権でも、意識すれば、感謝できる面がかなりあるかもしれない。

2021年2月15日月曜日

詩の鑑賞授業の「自由」を考える

前号と関連した記事。

今回は、国語の授業についてである。

授業でスルーしてはいけない部分、スルーすべき部分を考える。


国語は算数に比べて、指導が苦手という人が多い。

算数のように、各単元において何を教えたらいいかが明確でないからである。


その最たるものが、詩や物語を扱った授業である。

道徳と混同してしまうと、訳がわからなくなる。


詩や物語の鑑賞自体に、正解不正解はない。

鑑賞とは作品を味わうことだからである。

どう感じるかは個人に委ねられている。


しかしながら、妥当であるか否かという問題はある。

テストで「正解」とできる部分は確実に存在する。

例えば、季節。

イナゴと実った稲穂が出てくる詩を読んで「これは冬の詩だ」といえば、誤読である。

それは鑑賞の自由のはき違えである。


大人気絵本作家のヨシタケシンスケさんの絵本の中に

「自分の作った粘土作品を、先生が全然違う動物だと思って声をかける」

というシーンがある。

(ヨシタケシンスケ著 『つまんない つまんない』白泉社

https://www.hakusensha.co.jp/books/9784592762102 )


これである。

作者の意図と全く違うように鑑賞者がとらえる。

作者としては心外である。

ただ、それがあまりに誤解されやすいように作られているなら、それはしかたない。

しかし、教科書に載るような作品はそれなりのものなのだから、鑑賞にもある程度の妥当性があるはずである。


この辺りの線引きというか、鑑賞の自由と妥当性は分けて考える必要がある。

作品鑑賞が自由だとはいえ「どう読んでもOK」では、学力がつかない。

それは、趣味で勝手に詩を読んでいるのと同じで、国語の授業ではない。


算数なら「7×3=27だと思ったんだ?音が似ているし、いいかもね」とは絶対にならない。

明確に間違いである。

ここをスルーする人はいない。


具体例を挙げる。

次の短歌である。


しらしらと氷かがやき千鳥なく

釧路の海の冬の月かな


石川啄木

(出典:新しい国語 五 東京書籍)


まず、感じたことを自由に発表する。

これ自体は国語の授業というより、単なる鑑賞である。

そうすると「月が出ているから夜」という意見が出る。

これは高確率で出る。


実際に「これは朝か夜か」と問えば、過半数が夜と答える。


ここからが「国語の授業」である。

つまり、印象や感想をきくのではなく、言葉を根拠に意見を求める。


印象の強い「かがやき」に注目が集まる。

太陽の光でかがやいているのだ、月の光でかがやいているのだ、という二つが出る。

この意見は、埒が明かない。

どちらもあり得るからである。


「千鳥なく」にも注目が集まる。

百人一首に


淡路島かよふ千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めぬ 須磨の関守


がある。

これを見ると、確かに夜に鳴いてる。

実際、千鳥が夜に鳴くというパターンが和歌には多い。

よって「夜だ」と主張する子どもが出てきた。(これはなかなか鋭い意見だった。)


「夜」に意見が傾く。


しかしこれだけで早合点してはいけない。

千鳥の鳴く時間帯は、特に決まっていないのである。

この鳥は、いつの時間帯でも鳴く。


ここから先は、指導者側が研究しておく話になるのだが、実はこの歌は、そもそも季節がちぐはぐである。

千鳥は、渡り鳥である。

寒さの厳しい釧路に来るのは、3月から4月であるという。

つまり、その視点から言えば、季節は春である。


???

もうこの時点で訳がわからなくなる。


もう少し調べていくと、この歌は後につくり直された句だと分かる。

原型は


しらしらと氷かがやき千鳥なく

釧路の海も思出にあり


だという。

(参考:関西詩吟文化協会H.P.

http://www.kangin.or.jp/learning/text/poetry/s_D1_15.html )


つまり、後で「冬の月」を追加してしまったので、季節が混じってしまったのである。

純粋な叙景句としては、これは問題があるといえる。


つまり、ここの「朝か夜か」問題は、最終的に鑑賞者の自由になる。

しかし、鑑賞の際に確定する要素だけは落とさず指導するということだけである。


(ちなみに作品の背景を調べるという場合、これは純粋な鑑賞とは異なる姿勢である。

例えるなら美術館で作品札の解説を熱心に読んでから作品を見るようなものである。

教える側がこれをやりすぎると、先入観に囚われるので要注意である。)


「何でもOK」ではない。

しかしながら「全てに正解がある」訳でもない。

詩の作品鑑賞には、特にそのような面が強い。

(美術作品の中には、完全に個人の自由な鑑賞を求めるようなものもある。

有名なマルセル・デュシャンの「泉」などはその典型である。)


どこをスルーして、どこをリアクションしていくか。

教える側の見識が強く問われる部分である。

2021年2月14日日曜日

登場人物の気持ちに「正解」があるか

 先月、国語の授業中にした話。


国語のテストではよく

「この時、主人公の○○はどのような気持ちだったでしょうか。」

という問題が出る。


この問題自体には、本来「正解」はない。

登場人物の「正解」たる気持ちなど、わかるわけがない。

できることとしたら、出題者が用意した選択肢の中から「妥当」と思われるものを選ぶことだけである。

あるいは、記述中から気持ちを推察できる箇所を抜き出すだけである。


これは実際に作家の方が述べていることでもある。

国語の有名な教材となったその作品のテストと模範解答を見て「私はこんなこと一切考えてません」とのこと。

作者はあくまでその作品の登場人物の生みの親であり、作品中の登場人物そのものではない。

その生みだした人でさえ、その登場人物の気持ちはわからないという。

まして赤の他人がわかろうはずはないのである。


これは、ひねくれて言っている訳ではない。

「正解存在主義」への警笛である。

このトレーニングを繰り返す内に、物事には必ず誰かが用意した正解があるという前提をもつ。


ただし、この種のテストは、論理性を鍛えるのには役立つ。

例えば「目にいっぱいに涙を浮かべて」という記述が直前にあった場合、感情の揺れを考えるのが論理的な回答である。

「清々しい朝の空気を胸いっぱいに吸い込み」とあれば、前向きになっていると考えるのが論理的な回答である。

要は、テストでは文章中の記述を根拠とした論理的な思考力を問うているに過ぎない。

登場人物の気持ちを論理的に推察せよという問題である。


ただこれが、実際の人間を相手にした時に、それがそのまま適用できる訳ではない。

話している最中に相手が目に涙を浮かべていても、それは感情が揺れているからとは限らない。

単にあくびをしたという生理的現象によるものかもしれない。

花粉症などのアレルギー性によるものかもしれない。

あるいは、「あなたの話を真剣に聞いてます」というための演技かもしれない。

そんなこと、本人しかわからない。


人間の感情表現は、とてつもなく複雑である。

「嬉しい」と言ったから喜んでいるのだ、という単純なものではない。

相手を慮って、苦手なものを「好き」と言うときもある。

「大嫌い」が本当は大好きの意味の時もある。

どんな言葉をかけてもむっつり黙っている人が心から喜んでいる時もある。

怒鳴っているのと泣いているのは表現の違いだけで気持ちは同根であり、それが何を示すのかはわからない。

気持ちに対してできるのはあくまで「推察」であり、本当の気持ちは、本人しかわからないものである。


実際の人生には、用意された正解はない。

「みんなが納得する論理的に妥当な解」なら説明がつきやすいというだけの話である。

大学入学共通テストも、「きっちり説明のつく解」を厳選したもののはずである。

このテストが誰かの作った妥当な解を推察するものである以上、小学校教育もこれに準じるものにならざるを得ない。


そうなると、国語の授業で教えるべきは、感情論ではなく、あくまで論理性である。

文学作品などでは、本人なりの感情的な作品鑑賞の余地を残す。

論理的に解釈するにしても、どう受け止めるかは、本人次第というところである。

どんなに名作であっても、その人に「刺さる」かどうかは、本人次第である。


国語の授業で子どもに「正解」を聞かれて悩む人が多いときくので、書いた。

2021年2月11日木曜日

自国への誇りの意識について考える

 建国記念の日である。

神武天皇の即位に関連して、令和の即位礼正殿の儀に際して感じた時の気付きを書く。


自国の天皇(王)が即位する。

国を挙げて全員でお祝いする。

私も日本国民として、令和の平和と安寧を願い、お祝いした。

右とか左とか主義主張とかどうこう全く関係なく、至極当然のことである。


これは、当たり前だが総理大臣の交替や政権交代、他国の大統領交替とは意味が全く違う。

政党には主義主張があるので、対立も当然起きる。

だから、誰かが当選したら、必ず誰かががっかりしている。


政権交代となれば、国民の中でも、立候補者達と同様の反応が起きる。

利害関係がとてつもなく強いからである。

国によっては、テロ行為やクーデターが起きているところもある。

実際、ミャンマーなどは、今大変なことになっている。


天皇は政治的に中立であり、交替しても国民の中にこのような対立が起きることはない。

自分の国を大事に思うこと、平和と安寧を願いお祝いすることは、国民として至極当然のことである。


しかしである。


そういう、当たり前のことを、何か言いにくい風潮がある。

これは、特に私たち周辺の年代や、その上の年代にはさらに根強い。

多感な学齢期に、日の丸問題やら何やらで大人が揉めている混沌の間で育ったからである。


今の若者の意識はどうか。

18歳から24歳までの青年を対象とした「世界青年意識調査」というものがある。

(参考URL 世界青年意識調査 第2部 調査の結果)

https://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu/worldyouth8/html/2-5-1.html


平成19年度調べによると、「自国人であることに誇りをもっている」に「はい」と回答した割合が8割を超えている。

その4年前が7割だったことからすると、かなりの割合で増加しているといえる。

今から10年以上前ということを考えると、今の30代の人たちの意識である。


今の20代は、更にこの割合が高まっていると予想される。

世界に出ようという今の若い人たちの方が、日本という国に対する誇りがあると推測されるということである。

これは好ましいことである。


考えるべきは、なぜ「自国を大切にしましょう」というような当たり前のことを言うのに抵抗感が出るのかである。

年中クーデターが起きているような不安定な国ならまだしも、国家として国民への安全を担保しようという努力が見られる国である。


これは先にも述べた通り、やはり、歴史的に見て、政治的な絡みがあったからだと推測される。

自国への誇りを失うような風土が、他国からの外圧と介入により戦略的に作り上げられてきた。

年号も変わった今、もう抜け出していい時期である。


少し古い本からだが、私の好きな「自由人」高橋歩氏の本の中から引用する。

自信とプライドをもって世界中を放浪していた著者。

しかし「自分の国への誇り」だけはどの国の同世代にも「負けた!」と思ったとのことである。


===============

(引用開始)

やっぱり、オレは日本人なんだし、「日本的なもの」を知って、愛

して、誇りを持つことは、人間として自然だと思う。

「自分の国の歴史や現実」についての話を「堅い話」とチャカしたり、

「愛国心」みたいなものを「右翼」とか言って変にタブーにするのは、

逆に不自然な気がしてきている。

(引用終了)

===============

(引用:高橋歩(2001)『LOVE&FREE ~世界の路上に落ちていた言葉~』 サンクチュアリ出版


世界を股にかける「自由人」だからこそ「自国への誇り」なのである。

自国への誇りをもつということは、自国のみを尊重し利益を貪ろうとする狭窄的視野とは真逆である。


この辺りの意識については、学習指導要領にも定められている通り、学校教育が責任をもって担う分野である。

ここから、建て直しである。


他国を尊重する態度は、自国を尊重することと根は同じである。

自分を大切にする気持ちをもつ。

すると、自分と同じように、周りの人も、それぞれの「自分」が大切な存在であることに気付く。

自国への誇りなくして、他国への尊重も世界の平和も考えられない。


令和になって新たな国民の祝日として迎える天皇誕生日も含め、2月は自国について考えるよい機会である。

2021年2月9日火曜日

放っておくという気づかい

 学級経営の話であり、人付き合いや仕事全全般における話。


タイトルは、次の本の中からとったものである。

『ディズニーと三越で学んできた日本人にしかできない「気づかい」の習慣 』

上田比呂志著 クロスメディアパブリッシング



2011年刊行の本だが、内容は時代を越えて普遍的に通用することばかりである。


この中に「高級旅館のつかず離れずの距離感」というものが紹介されている。

来て欲しい時以外には来ない、手を出して欲しい時以外には手を出さない。

無関心なのではなく、気づかっているからこそ、放っておく。

この絶妙なバランス感覚が大切なのだという。


これは学級経営に応用できる。

例えば、子どもたちが係活動や当番活動をしている時。

基本的には、手出しをしない方がいい。

多少失敗しそうでも、本人と周囲に危険が及ばない限りは、あえて放っておく。

学級担任のこの姿勢が、主体的な子どもを育成するためには必須である。


授業でも同じである。

課題を提示する。

子どもがそれに一生懸命に取り組む。

その間、余計な手出し口出しは控える。


その代わり「助けて欲しい人は呼んでください。私は暇しているので」と伝えておく。

自分から「助けを求める力」をここで養う。

「助けて力」は決して受動的なのではなく、この意味で主体的だともいえる。


仕事でも同じである。

仕事をふる。

余計な手出し口出しはしない。

ただし、本当に無関心ではいけない。

あくまで見守って、進捗の状況は確認する。

仕事はふって終わりではなく、ふった仕事が無事完了するのを見届けて終わりである。


だから仕事は、人にふる方が逆に面倒なことも多い。

慣れていない相手であれば、要領も当然悪いし、失敗もする。

しかし、それによって、仕事をふられた人が成長する。


放っておくという気づかいで、遠目に見守る。

アドバイスを求められたら、そこはふった側が答えたり教えたりする義務がある。

自分でやったら早いかもしれないが、それではいつまでも自分でやることになる。


仕事をふるというのは、子どもに対してもいえる。

何でもお世話して先回りしてやってあげてしまうというのは、特に低学年の学級担任が陥りがちな失敗である。


1年生だからといって、なめてはいけない。

何でもやらせてみたら、相当できる。

何と言っても、幼稚園時代には元「最年長」だったのである。

幼稚園の先生は、園児にかなりの責任と裁量権を与えて負荷をかけ、鍛えてきたのである。

入学したての頃はまだしも、もうそんなに優遇してあげなくて大丈夫である。


やらせないと、いつまでもできない。

だから任せる。

任せると、手出し口出しをしたくなる。

しかし、敢えてしない。

これが、上等な放っておくという気づかいである。


何でも抱え込んでしまう人や、気づかいが過ぎる人もいるかと思い、書いた。

2021年2月7日日曜日

報われない真面目

 前号で、当事者意識をもつことの大切さを書いた。

大切さを説いたので、そのアンチ面も示す。

正負の法則で、真逆の価値も見方もある。


昨年末、クリスマス前の時期に出た次のニュースである。


「公立校教員の精神疾患休職が過去最多 業務の増加、複雑化が一因か」産経ニュース


「先生の仕事を楽しくする」というのは、自分のメルマガや著書のテーマの柱である。

いかにして多忙極まる学校の先生の負担感を減らしつつ、いきいきと元気に働けるようになるか。

教育実習生を教える立場からも、ここは重要テーマである。

研究論文もここをテーマにしており、長らくの関心事の中心である。


しかしながら、実情は相当しんどい。

今更ここで言うまでもなく、ご存知の通り、真面目な人が倒れる。

「熱心な先生」「授業が面白い先生」「評判の先生」が、ある日パタリと倒れることも少なくない。

これは言い換えれば、当事者意識の強い人でもある。

自分には関係ないと思えて適当にやっていれば、少なくとも精神的に追い込まれることはないからである。


「努力は報われる」という言葉があるが、これは惜しい。

「報われる努力がある」という方が正確である。

これは同時に「報われない努力もある」ということを示している。


全部真面目にやっていると、結果的には、だめなのである。

ニュースのタイトルにもある「業務の増加、複雑化」。

これは数多くの現場の事実とデータが示す紛れもない真実である。

全てに当事者意識をもってやっていたら、倒れること必至である。


それぞれ事情があるので一概には言えないが、それを兎にも角にも一概に表現するのがこちらの使命である。


一つ間違いなく言えることは、悩んでいるのは、既に一生懸命真面目にやっている証拠である。

そして不都合な真実を述べると、学校現場というのは、真面目な人の真面目さが報われる世界ではない。

(憶測でしかないが、政治の世界などもそうなのかもしれない。他のあらゆる仕事がそうかもしれない。)


真面目とは別の要素の「うまさ」「要領」「根回し」が確実に必要になる世界である。

どんなに一生懸命やろうが「もっとうまくやれ」の世界である。

直球で真面目で純真で責任感が強い人ほど、どこかで干されて吊し上げられて十字架にかけられる運命にある。


しかしながら、急に性格を変えるなどできない。

それこそ「自分らしく」の多様性の尊重である。

それでは、根が真面目な人は、一体どうすればいいのか。


まず、自分が真面目に頑張っていることを、誰でもなく自分自身が認めてあげることである。

周りがきちんと見ていてくれる、というような不毛な期待は一切しない。

自分自身だけしか見ていないのだから、せめて自分だけは自分の努力やひたむきさを100%認めてあげることである。


真面目な人は、周りがやりたがらない「損」な役回りやしんどいことを、陰で努力し支えていることが多い。

(これも憶測だが、警察官や自衛官の方々の仕事など、これが多いのではないかと思う。)

残念ながら、周りからはその苦労がほとんど見えない。

それどころか「真面目で融通が利かない」「厳しすぎる」と陰で罵られ、嫌われることも少なくない。

当然、これが積もり積もれば、肉体的にも精神的にも追い詰められ、病気になる訳である。


ちなみに学校の場合なら、確実に見てくれている人が、いるにはいる。

子どもたちである。

特に一部の子どもは、苦労している先生のことをとてもよく見て知っており、心の中で応援してくれている。

そこに附随して、その子どもの保護者も心から応援してくれていることが多い。

毎日長時間接する子どもたちには、どの先生が一生懸命に自分たちのことを考えてくれているかを見極める審美眼がある。

ただ子どもは立場上、表立って声を上げて応援できない可能性が高いので、ここは心の拠り所にするにとどめる。


結局、真面目な人は、真面目にやるしかない。

手を抜けとか見逃せ、というのが、本質的に苦手で苦痛なのだから仕方ない。


ただそれも自分で認めた上で、うまさが必要だと感じたら、少し使えばよいし、手抜きしたくなったらその時は手抜きをすればよい。

ご家庭のキッチンでは「簡単♪手抜き料理」は称賛の対象である。

どちらにせよ、他人のために自分が不幸になる必要はない。

誰しも、不幸になるために生まれてきたのではないのである。


私には、真面目な先生にもいい加減な先生(失礼)にも、尊敬する人たちがいる。

どんなタイプの人も、一緒に働く仲間として、学校の先生として、確実に必要な存在である。

だからそのままでいいので、真面目タイプは、とにかく自分を責めないことである。

(基本がいい加減タイプの人には、そのままで大丈夫なので、アドバイスはない。)


ちょっとネガティブに聞こえるかもしれないが

「真面目は報われない」

と一度諦めて、いくつかやめてみること。

「いざとなったら休んでも辞めてもいい」と逃げ場を作ること。

そうすると、馬鹿らしくなって、一回やる気がなくなるとは思う。

しかしその後で、どこが力の入れどころかは、見えてくるかもしれない。


一番大切なことは、自分自身を大事にして、認めてあげることである。

そのためにも、一人でもいいから、無条件に自分を味方をしてくれる人がいないか、よくよく考えてみる。

そんな人が一人でもいたら、それは自分にとって、最高に大切にすべき人である。


当事者意識はプラス面の振れ幅が大きい分、マイナス面の振れ幅も大きいという前提のおさえが必要であると思い、書いた。

2021年2月5日金曜日

当事者意識をもって動く

 前号では「多様性を受けとめる教室」について書いた。


実際、子どもの多様性が教室で受けとめられているか。

そうでないとしたら、なぜなのか。


小学校の入学時点で考えてみる。

「小1プロブレム」と言われるように、小学校に適応できないということが問題になっている。


この「問題」は、子どもの問題なのか、学校側の問題なのかという視点である。

多様性を受けとめる教室の視点であれば、確実に学校の側の問題と捉えるべきである。

それが「当事者意識」というものである。


当事者意識がなければ、他者の解決すべき問題として扱うことになる。

小学校に適応できないのは子どもと保護者の問題であり、学校の問題ではなくなる。

その意識では当然、工夫をしなくなり、解決の道はなくなる。


「学校が悪い」と言う場合、今度は我々職員の側の当事者意識が問われる。

もし学校の責任だと考えた場合、自分は「当事者」ではなくなる。

ずっと上までいくと、文科省の責任だと考えた時、自分にできることがなくなる。

これが一番、楽である。


人間は基本的に楽をしたいから、楽な思考を選択してしまう。

周りが悪いから、仕方がないのだという考え方である。


これでいくと、「小1プロブレム」は「私には解決不可能」ということになり、被害者は子どもである。

当事者意識の欠落につながる。

この「当事者意識」という言葉自体に、自分が当事者ではないという暗黙の線を引いてしまうのが難しいところである。


真の当事者意識をもって考えた時、自分に何ができるかである。

多様性を受けとめる教室を作りたいなら、一年生が入ってくる時点で既に作っていないと難しい。

「自分は基本、高学年担任だから」と低学年の教室に無関心でいると、その子どもたちはあっという間に高学年になる。


1年生は、多様性を受けとめる素地をもっている。

色んなことを、あまり区別しない。

男女の意識も0ではないが、高学年に比べかなり希薄である。

多様性を受けとめる教室づくりのためには、この時期が最大のチャンスである。


問題の本質は、男女の意識差どうこうではない。

全てにおいて、一人ずつが違って当たり前という意識の醸成が目的である。


些細な「当たり前」への見直しが必要である。

男女で色分けされた引き出し。

黙って座ってお行儀よくひたすらきくという入学式(あるいは卒業式)の在り方。

背の順という並び方。

教室前方に向かって配置された机。(今は感染症対策で仕方ないが。)

男子のトイレだけが全て個室ではなく小便器が存在することの意義と弊害。

学校内のちょっとした段差の数々。

・・・・


一人一人が違うという観点から見ると、常識としての問題が、山のように見つかる。

どれもこれもオーダーメイドは無理かもしれない。

そうであるなら、全員にとって「これなら無理なく使える」というものに調整していく必要がある。

(トイレ問題など、男女共に全部個室にしてしまえば済む話である。

腹痛を無駄に我慢する全ての男子にとっても助かる。)

その上で、それでも対応が難しいものには、オーダーメイド対応である。


この問題を発見するには、こちらの常識的な視点では難しい。

子どもに教えてもらうことが一番である。

残念ながら、一年生は言語化があまり得意でない子どもが多い。

少し上の学年の子に「一年生の時、何が嫌だった?」「不便だった?」と聞くと、わかるものもある。


いずれにしろ、子どもがそれを言える環境にあるかどうかである。

これは、大人の側がそういう意見を自由に言える環境にないと難しい。

その環境づくりさえも、自分の「当事者意識」にかかっている。

正直なところ、そこに絶望している人も少なくないように思えるし、学校現場は、そういう現状である。


そうであるから、無理なく、小さく、できるところから。

1年間の終わり間際である今は、実は教室の仕組みを含めて色々と変えるチャンスである。

(変えてうまくいかなくても一度区切りがつく。)


当事者意識をもつためのスタートは、責任を重く感じることよりも、今小さなできることを始めることからかもしれない。

2021年2月3日水曜日

多様性を受けとめる教室とは

 タイトルは、先日発刊された「授業づくりネットワーク」誌No.37の特集からとった。

参考:学事出版H.P.↓

http://www.gakuji.co.jp/book/978-4-7619-2612-0.html


私も「多様性を前提とした学級経営とクラス会議の実践」というテーマで書かせていただいたものである。

私の書いたものは、クラス会議で意識している多様性の尊重と、クラス会議以前の実践である。

もし手に取る機会があれば、私の記事もお読みいただきたい。


本題に戻る。

年末最後のメルマガで「ジェンダーフリー」について書いた。

最近、LGBTQや学習障害、マイノリティなど、教室の中の多様性についてのテーマにふれることが多い。

これは偶然でも何でもなく、世界の掲げる重要テーマの一つだから、多く目にするのである。


さてこれは何年も前の話なのだが、学級で「ゲイ」であることをカミングアウトしている方にお話を伺う機会があった。

高学年の子どもたちは、その授業を真剣に聞いていた。

もちろん、真剣に話している人を前に茶化す子どもなどいない。

そして、感想を書いた。


「そういう考え方を始めて知った」

「偏見をもたないようにしたい」

「もし自分の友達にそういうことがあっても、今まで通りの友達としてやっていきたい」

といったものが多く出た。


その中に「やはりどうしても受けいれられない」と正直に書いた子どもがいた。

これは、当然である。

授業とは、相手に気を遣う場ではない。

新しいことを学ぶ、学習の場である。

講師の方も重々承知しているし、予想通りでもある。


そしてこの意見については「それでいい」とのこと。

全員が全員、ある一つの考え方を受け入れなくてもいい。

そういう意見を受け入れることも、受け入れないことも、その人の権利だということである。


これは多様性を考える上で、深い。

「受け入れないという人の意見を認めるのも、多様性の尊重」ということである。

言われてみると、まさにその通りである。


学校というのは、ここが尊重されない場である。

「やらない」「嫌い」「参加したくない」「行きたくない」に対して、基本的に受容しない。

何とか「そう言わないで。ね?」とやる気を起こさせようという場である。


「学習指導要領に全員への最低限の内容の定着を求められる学校という機関と教師」

「憲法に子どもに教育を受けさせる義務を負う親」の両者の宿命ともいえる。


しかし本来、多様性を尊重するということは、この「拒絶」へさえも受容が必要となってくる。

どうしても認められないものは、他人をむやみに傷つける行為だけである。

それ以外は、多様性を受けとめる教室であるならば、基本的に本人の意思が尊重されるべきである。


ただ現状の学校であれば「やる、やらない問題」については、基本的にがんばってやらせようとする方向にならざるを得ない。

集団教育の場だからである。

特定の教科の時間だけ嫌いだから参加しないことを良しとするとか、全時間を体育や図工にするとかの対応はできない。

ここは仕方ないとして、見直すべきは考え方や価値観の尊重の方である。


特に個人の嗜好性については、統制不可能である。

ここは、多様性を認めるところである。

本来、髪を伸ばそうが短くしようが、結ぼうがボウズにしようが、個人の好みであり、そこは他人には決められない。

ましてその人の恋愛対象が男性か女性かはたまた両方かなど、到底他人が決められる訳がない。


また、恋愛対象の性について尊重されても、相手が女性だったら(あるいは男性だったら)誰でもいいという訳でもない。

相手が男性か女性かどうかだけではなく、細かな個人の好みが完全に尊重される世界である。

例えば勇気をもって告白した相手にも、歓迎して受け入れる権利とともに、「ごめんなさい」を言う権利もある。

(これを理解できないとストーカーになる。)

すべては、本人以外、誰にも決められない心のはたらきである。


つまりは、旧価値観では、不自然なことを自然と思い込んでいたといえる。

みんな違っていて、当然だったのである。

それを「揃える」の一点張りで、個人の価値観まで揃えようとしまっていた。


そして話が戻るが「新しいその価値観が絶対に嫌」という人の意見も尊重するしかない。

特に戦前生まれの高齢の方に「男性に生まれた人が女の人の恰好をしてもいい時代だ」などということが到底受け入れられないのは当然である。

「男子たるもの・・・」と信じて育てられてきたからである。

それを急に180度変えろという方が、逆に統制的である。


それは例えるなら、敗戦直後の教育のようなものである。

ただでさえ周りの大人が急に言うことを変えて掌を返し、大人不信になったり嫌な思いをさせられたりした経験のある世代である。

老後の穏やかに暮らしたい時に、また周囲に価値観を振り回されたら堪らないだろう。


話を世間一般から教室に戻す。

多様性を受けいれる教室とはどうあるべきか。

教える側が、あらゆる価値観に全対応する構えが必要になる。


中には、どうしても受け入れ難い価値観もあるはずである。

そういう時こそ、辛抱強く対話していくしかない。

対立からは、憎しみ以外生まれない。

究極は、どちらの持っているものも、それぞれに「正解」なのだと理解するのがゴールである。


新しい時代の教育には、「観」の転換が最も大切だと考え、書いた。

2021年2月1日月曜日

ICT導入で得るものと捨てるもの

 前々号の変化への対応という話と関連。

学校教育でのICTの活用について。


勤務校では昨年からMicrosoft社の「teams」というソフトを活用している。

このソフト一つで、かなりの機能が備わっている。


まず、オンラインの学習の場として活用できる。

オンデマンドでも可能だし、各ご家庭でのリアルタイム授業もできる。


掲示板として使うこともできる。

学年便りでまとめて伝えるような連絡も、必要な時にその都度送ることができる。

学年からの手紙はほとんど配らず、連絡関係はほぼこれ一本である。


子ども個人とメッセージやデータ等のやりとりができる「プライベートチャネル」という使い方もできる。

私の学級では、総合的な学習の時間の発表資料をそこに保存して活用した。

子どもが自宅で作ったものを保存して、そのまま学校で使えるので便利である。


このプライベートチャネルは個人的な相談にも使えるし、日記としても活用できる可能性がある。

実は個人の連絡帳としての活用もできるが、現在は普通の紙の連絡帳を用いている。

前提としてプライベートチャネルが「子どもが活用するもの」だからである。


このプライベートチャネルは、個人面談にも活用している。

(この時は、結局保護者も活用していることになるが・・・)

感染症対策等で対面での面談が難しい時期には、特に助かる機能である。

現在の感染症の広がりを見ると、これからますますの活用が予想される。


他にもまだまだ活用できていない機能が多々ある。

現場の活用の声を受けてアップデートもされるため、今後はさらに活用の幅が広がっていくだろう。


こういった新しいツールが使えるようになるために、最も大切なことは何か。

それは、できなくても、とりあえずやってみることである。


英語が話せるようになるのには、話せなくても現地で生活するのが一番近道という話と多分同じである。

子どもが遊んでいる内にパソコンでも何でも使いこなすのと多分同じである。

私たち職員の間でも、会議等での活用、練習ももちろんしたが、別個に半分遊ぶ感覚でお喋りをしながら、使い方を覚えた。


さて、オンラインツールが学校に入ると、校務が楽になるか。

そんなお花畑なイメージはないと思うが、実際、単純に楽になる訳ではない。

単純に考えて、覚えることとやることが増えるからである。

校務としては、しばらく「重くなる」といってもいい。


では、ない方がいいかというと、これはあった方がよい。

先に例に挙げた通り、機能的にはかなり便利である。

つまりは、使い方次第である。


ただ、新しいものを古いものの上に単純に載せるだけだと、重くなるという話である。

新しいものを取り入れるなら、古いものは順次削除していく必要がある。

そうしないと、どんどんどんどん、永遠に重くなる一方だからである。

パソコンでも同種の新しいソフトをインストールする時、古いものはアンインストールするのが当たり前である。


例えるなら、新しい製品を買ったのに、古い製品も「まだ使えるから」「慣れてるから」と無理矢理使っているようなものである。

大抵の家庭において、洗濯機が二つも三つもあっても意味がないだろう。

全自動の乾燥機付き洗濯機を購入した時点で、これまで大活躍してきた二層式洗濯機は処分するはずである。

それを無理に両方使うとなると、逆に面倒である。


先の「teams」の活用例で考えてみる。


例えば、掲示板機能。

これは、やがて紙のお便りが不要になるということである。

ただし、全家庭が自由に見られるというインフラが揃うまでは、紙での連絡も合わせて行うことになる。

その間は、負担増である。


紙とオンライン掲示板とは、それぞれ長所と短所がある。


紙は、手元に残せる。

一方で、誤字脱字等、修正がきかないので、完璧に作る必要がある。

間違いがある場合は、全て回収して刷り直すことになる。


オンライン掲示板は、即時性が最大の強みである。

さらに、書きこんだ後でも、すぐに修正ができる。

一方で、そこを見る習慣がないと、情報がきちんと相手に伝わっていないことも多いという欠点がある。


教科書もデジタル化する。

まだ実際に使っていないので書けないが、これも予想できる長所と短所はある。

少なくとも、通信教材で用いられているタブレットを見ると、その場で教えてくれるのでとても便利そうである。

(そういう機能がどの教科書にも恐らく付くものと思われる。)


一方で、機械である以上、落下等による故障やデータ破損は免れない。

紙なら「汚れている」「落丁」程度で済むところが、そうはいかない。

その面の不具合は確実に出ることは容易に予想がつく。

それらのマイナス面も含みおきである。


いずれにしろ、使ってみないことには良さはわからない。

何でもやってみれば見えることがたくさんあるはずである。


そして、新しいことを取り入れるなら、やめる、捨てるものを選ぶことはもっと重要である。

ICTの導入が、子どもにとっても教える側にとっても、未来に希望がもてるものとなるよう活用していきたい。

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