教育の成立条件は「信・敬・慕」。
師の野口芳宏先生の言葉であり、この言葉だけは、どの年の教育実習生にも常に伝えている。
(引用文献:野口芳宏(2010).利他の教育実践哲学 ─魂の教師塾─ 小学館 pp.73-78.
https://www.shogakukan.co.jp/books/09837391 )
この本はここ十数年の私にとっての座右の書であり、自分の教育実践の中核となっている。
さて、この中の「信」について取り上げる。
ここで述べるのは、師の野口先生のものではなく、あくまで私自身の教育実践からの考察である。
「信」は、信用と信頼である。
ここでさらりと並べて書いたが、「信用」と「信頼」を明確に区別して考えることが大切である。
似た言葉の相違を考える際には、それを用いた熟語を考えたり、どのような場面で使われたりするかを考えるとよい。
片方でしか使えないという場面をいくつか比較すれば、意味の違いが明確になる。
「信用」を考える。
信用取引、信用金庫、信用組合など。
お金や契約が絡むものが多い。
英訳はクレジットカードの「credit」であり、この言葉には「単位」という意味もある。
きちんと規定の課題をこなせばcreditが出るし、そうでなければ出ない。
「信頼」を考える。
信頼関係、信頼感、自己信頼。
感情が絡むものが多い。
英訳は「trust」で、この語源は真実や真理の「truth」と同じである。
これだけでも、明確に違いがわかる。
信用とは、言うなれば契約関係である。
一方で信頼とは、無条件に真に相手を信じきることである。
信用というのは、常に条件付きである。
いつも何かをしているから、あるいは何かができるから、信用できる。
あるいは、過去に何かをしたから、あるいはできなかったから、信用できない。
約束したら、相手にその遂行能力があるだろうという期待が信用である。
信用は「裏切らない」「契約を履行する」というのが前提である。
シビアであるが、社会での関係は基本的にこれである。
例えば、Amazonや楽天などで気軽に買い物をする。
これは、頼んだ商品が確実に届くという「信用」があるからこそである。
(しょっちゅう届かないとかいうことがあれば、確実に使わなくなる。)
基本的に信用で商売は成り立つため、会社などは「信用第一」とよく言われる。
また、信用は契約・取引関係のため、裏切ると致命傷になる。
そのため、特に不祥事への対応などはここの分水嶺になる。
つまり信用とは、主体と客体の両者の行為によって成り立つものである。
ただ、信用を積み上げていくと、やがてそれが信頼に変わることがある。
馴染のお客様とお店との関係などは、信頼関係である。
例えば今は飲食店等は経営がきついが、何があっても応援して足を運んでくれるお客様は、信用ではなく、信頼に基づく行為である。
私の好きな松下幸之助氏の幼少期のエピソードに、松下氏が初めて自転車を売った話がある。
小僧時代に泣きながら奔走して初めて契約をとったお得意先から「気に入った。永久にお前から買ってやる」と言われたそうである。
これなどは、理屈もなにもなく、信用ではない無条件の信頼関係である。
どちらが社会的に獲得し難いかも明確で、圧倒的に、信頼である。
信頼の場合は無条件なので、見返りを一切期待していない。
相手がどう出ようが、それを信じているのである。
つまり信頼とは、完全に主体的な行為である。
一方で、信頼はある特定の関係において、無条件に与えられるものでもある。
例えば、親子関係である。
子どもを信頼している親がいる。
それは、我が子が優秀だからとか、何かの賞をとったからとかではない。
ただ信頼しているのである。
周りに何を言われようと、いじめられようと(あるいはいじめる側に回ってしまおうとも)、失敗しようとも
「あなたを信じているよ。味方だよ。」
というのが、親子の信頼関係である。
あまり考えたくはないが、例え成人した我が子が罪に問われて投獄されても、信じて待っているのが親である。
この場合の信頼の「信じている」こととは
「あなたは、今は辛いだろうけど、きっと大丈夫。必ずよくなる。」
という無条件の肯定である。
拙著『切り返しの技術』でも紹介している「信じているよ。」は、この信頼に基づく切り返しワードである。
(松尾英明(2016).ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術 明治図書 PP.38-39.
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-190712-9 )
説明だけで長くなりすぎた。
教育実践云々については、次号に続く。
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