2013年5月30日木曜日

指導したら必ず評価

指導と評価の一体化が大切と、よく言われる。
何だか難しい理論のように思える。
要は、教えたことは必ず評価をする、ということであると自分は解している。

絵の描き方を教える。
その通りにやろうとしていたら誉める。
間違っていたらまた教える。
それで、できたらまた誉める。

掃除をやらずにさぼっていたので指導する。
一緒にやる。
やったら誉める。
さらに良いやり方を教える。
できたらまた誉める。

教科書を読む時、句読点で区切ることを教える。
飛ばしたら指導する。
本当にできない子どももいるので、一緒によんでやる。
やろうとしたら誉める。
できたらまた誉める。

教師は「指導」は得意だが、「評価」は苦手である。
指導は無意識にできても、評価は意識的にしないとできない。
指導して評価がないのを「やらせっぱなし」という。

また、できたら誉めるのは勿論だが、教えたことに従った、つまり、やったら誉めるのも大切である。
やったこととできたことは違う。
できてなくても、やろうとした行為自体を評価する。
関心・意欲・態度面の評価と、技能面の評価は別である。
(従わないけどできる、ということもある。これをどう評価するかは、状況による。)

指導とは子どもの「不備・不足・不十分」をつき、理想の状態にひっぱり上げる行為。
(私の言葉ではなく、野口芳宏先生の言である。)
言うことをきいて努力してそこまで向上したら、誉めてもらいたいのが人間である。
それが、次もまた先生の言うことをきこうという気持ち、やる気、素直さにつながる。

4月、子どもは特によくそこを見ている。
言われたことをやったら、誉めてくれる先生なのか、何も言わないのか。
叱った場合は、特に意識して誉める必要が出る。
叱るけど直しても誉めないから言うことをきかなくなる、というのがよくはまってしまうパターンである。

指導以上に、評価は意識して行いたい。

2013年5月28日火曜日

今年のクラスは良いクラス?悪いクラス?

新しいクラスになり、子どもも教師も期待に胸をふくらませて始まる新学期。
いいクラスにしたいと、誰もが願う。
こんな話をした。

「アラビアに伝わるお話です。
ある若者が、自分の住むべき町を探して旅をしていました。
町の老人にたずねました。
『ご老人。この町は住みよい町かな?』
『お前の以前住んでた町はどうだった?』
『最低だ。周りの人は意地悪ばかりで、住みにくいことこの上ない。』
『この町の人は、意地悪ばかりで、住みにくいことこの上ないよ。』
若者は、他の町を目指して去っていきました。

もう一人、別の若者が来て、全く同じことを老人にききました。
『ご老人。この町は住みよい町かな?』
『お前の以前住んでた町はどうだった?』
『素晴らしかった。周りの人は親切な人ばかりで、できるならもう一度住みたいぐらいだ。』
『この町の人は、親切な人ばかりで、素晴らしい町だよ。』
若者は、この町に住むことにしました。

老人は、なぜ別々の答えを言ったのでしょうか?
それは、この町が良いか悪いかは、住む人の心次第だと知っていたからです。
クラスも同じです。
良いクラスにしたいと思っている人?(挙手)
そうですね。
先生も、絶対良いクラスになると思っていますよ。」

新しい職場に異動した人も多いと思う。
やはりそこが良いか悪いかも、本人次第。
「住めば都」という言葉もある。
子どもも教師も前向きな考えを持ちたい。

2013年5月25日土曜日

早く終わったらどうするか

すごく基本的なことを一つ。

1時間の授業が、思ったより早く終わることがある。
あと5分残った、という状況。
スムーズに進んだ証拠である。

どうするか。

つい、少し先に進もうとか復習しようとか欲が出てしまうかもしれない。

基本、休み時間にしてしまうのが良いと思う。
ただし、必ず一言付け加える。
「思ったより、早く終わりましたね。
みんなが協力して、一生懸命やったからこその結果です。
休み時間にします。
ただし、他のクラスはまだ授業中です。
教室から出るのは、時間になってからにします。」

一生懸命やると、良いことがあるという動機付けになる。
次のやる気に影響する。
逆に、教師の都合でいつも休み時間を削るまで延ばしていると、逆の動機付けになる。

ただご褒美を与えるのではなく、なぜそういう良い結果になったのか、意識をさせたい。

2013年5月23日木曜日

子どものおかげで

始業式から最初の1週間は大変である。
子どもが来る前の1週間とは全く違った大変さである。
大変であるが、何といっても「黄金」の期間であるから、充実している。

やはり、子どもがいてこその学校である。
以前紹介した金大竜先生の著書の中に、次のようなことが書かれている。
(金先生のお父上の言葉とのこと。)
「子どもがいるから教師なんだよ。
子どもがいなかったら、ただの教え好きで終わってしまう。
つまり、子どものおかげで夢を追える。
子どものおかげで生活ができる。
子どもに手を合わせて生きていかないとな」
(「クラスがうまくいく魔法の習慣」金大竜著 学陽書房 より引用)

子どものおかげで、仕事が成り立つ。
子どもが半分いなくなったら、我々も半分不要になって、クビである。

手のかかる子どももいる。
しかし、クラス全員が完璧で、教える必要のない人間なら、やはり教師は不要物である。
クラス全員が授業前に既に完璧に授業内容を理解できている状況なら、授業の必要がなくなる。
そう考えれば、勉強が苦手な子ども、手のかかる子どもは、教師にとって最高にありがたい存在である。

「人格の完成を目指す」が教育の目的である。
教える相手のみならず、教える側にもいえることであるように思う。

2013年5月21日火曜日

人は見ているもののようになる

1学期の始め、持ち物を整理整頓させる。
最初なのに、いきなり道具箱が乱れていることも多い。
筆箱の中身も同様である。
不要なものは持ち帰らせる。

「人は見ているもののようになる」という。
環境を整えることは、自分を整えることにつながる。
生活時間等にも当てはまることである。

併せて、「荷物がしたことも自分の責任」という言葉も教えたい。
邪魔な荷物は周りの人にも迷惑である。
それに誰かが足をひっかけて転んだら、持ち主にも責任が発生する。
やたらに散らかす子どもはここで正しておく。

最初が肝心、である。

2013年5月19日日曜日

「楽しい授業」で何を狙う

楽しい授業のネタは、たくさんあった方がよい。
特に授業開きで、楽しい授業をし、興味・関心を持たせたい。

「一発ネタ」でもいいのだが、大切なのは、そこで何を教えるかであると思う。
たとえば、体育で鬼ごっこをやる時。
ただ体を動かすだけなら、休み時間でもよい。
体育の時間で大切なのは、安全であることや仲間と協力することなどたくさんある。
技能を身に付ける過程で、他の様々な力を身に付けさせる。
中でも道徳は、学校教育活動全体を通して身に付けるものである。

体育の授業で、毎年必ず「馬鬼」をやる。
何のことはない、よくある復活できる鬼ごっこである。
つかまったら馬跳びの「馬」になる。
跳んでもらえたら復活。
ここでは、「協力」が大きなテーマになる。
それも、男女関係なくできる協力である。
男女は水と油みたいなところがあり、これは、意図的にやらないとできない。
遊んでいるようで、そこは指導者側がおさえておく。
そうすると、指導言が変わってくる。

その「楽しい授業」で、何の力を身に付けさせたいのか。
せっかくの宝物を、有効に活用したい。

2013年5月17日金曜日

まずは安全・安心な教室を

(メルマガ上では4月の頭に出した記事である。)
学級経営において、優先すべきことについて。

心がけることは、山ほどあるので、その中の特に大切な一つだけ。
繰り返しになるが、「安全・安心な教室宣言」である。
特に、前年度崩壊した経験があったり、いじめられた経験のある子どもにとっては最重要である。

絶対に、命をかけて全員を守るということ。
いじめにも全力で対処し、解決するということ。
これだけは、鉄則として宣言し、実行する。
その上での、規律、楽しさである。

ルールを話すのも特技やマジックを披露するのも大切だが、その上である。
何はなくとも、まず「安全・安心」、そこだけはおさえたい。

2013年5月15日水曜日

習慣化のコツ

新年度も1ヶ月が過ぎ、新しいクラスで新しい実践をしていることと思う。
春休み中やG.W.中にたくさん本を読んだり研修会等に行った人は、尚更である。

できれば、その実践を習慣化したい。
(三日坊主でも、やらないよりましだが。)
習慣化するには、コツがある。

古い習慣を捨てることである。

生活を考えるとわかりやすい。
例えば、早起きの習慣を身につけたいなら、夜遅くまでテレビを見る習慣を捨てる必要がある。

新しい実践をする時にも同様で、それをやるのに捨てねばならない習慣がある。
「出せば入る」の原則で、やめれば始められる。

何をやるかを考える時、同時に、何をやめるか、も考える必要がある。

2013年5月13日月曜日

「○○君は先生のお気に入り」に要注意

問題行動を起こす子どもがいる。
なぜ問題行動を起こすかというと、それをやると注目されるから、という面が強い。
負の関わり方ではあるが、確実に教師の関心を引く。
うまくいけば、全ての関心も教師も「独り占め」である。
その間、他の子どもとの関わりは断絶される。

教師としては、よかれと思ってやっている。
問題行動のある子どもを正すことが、他の子どものためにもなる。
そう信じてやっているが、他の子どもからは
「(よく叱られている)○○君は、先生のお気に入り」
と思われていることがある。

特に、クラスの中間層の子どもには注意が必要である。
問題行動を起こす子どもや、学力面で手のかかる子どもとは、関わりが多くなりやすい。
また、様々な面での能力が特に優れ、活躍が多い子どもも、関わりやすい。
中間層には、目が行き届きにくい。

何でも大体2:6:2に分けられる。
中間の6が上位群と下位群のどちらに引っ張られるかで、全体の質が決まる。

学級では、つい「目立つ」子どもに目が行きがちである。
負の行動へ関わりすぎると、その行動を強化することにもなりかねない。
まずは全体のことを考えて、何がいいのか、正しい選択をしたい。

2013年5月11日土曜日

子ども同士の聴く力をつける

聴く力をつけるという話の続き。
今回のテーマは「子ども同士の聴く力をつける」。
子ども同士をつなぐ、という意味でも、大変重要なテーマだと思う。

具体的な方法や実践は、今日的なテーマなので、附属小学校等はじめ、たくさんある。
実際に自分がやってきて、実感として効果があると思うものを一つ紹介する。

よくやるのが「班内シェア」。
原田隆史先生の教師塾で、自分が生徒として体験して、すごくいいと思って取り入れた。

ある事柄について、自分の意見を言わせる。
ただし、ノートに書く→隣同士→班→全体発表とつなぐ。
ノートに書くという行為は、いわば個人内発表(自分の考えの具体的発露)である。
テーマとしてきちんと考えさせたい場合にだけ書かせる。
全体発表は、ハードルが高く、時間もかかるので、必要ない場合はやらない。
かわりに、隣同士や少人数グループでの発表経験をなるべく数多く踏む。
もう、5分から10分に1回ぐらいの頻度で、短く何度もやる。
教師側のフレーズはシンプルに「はい、これについて班内シェア」だけでいい。

「『話す』じゃなくて『聴く』がテーマじゃないの?」と思った方もいるかもしれない。
「話す」と「聴く」は、セットである。(そして、聴く方が重要。)
自分も話す機会があるからこそ、相手の話も聴こうという気になる面がある。
講義などでも、質問しようと思っていると、聴ける情報量が大幅に増える。
テストがあるからこそ、一生懸命聴くという面がある。
よりよく聴くためには、力試しというか、自己表現というか、アウトプットの場面を想定するのが有効である。

話す前提を持って聴く、という姿勢をここで作る。
自分の話を聴いてもらうには、自分も一生懸命人の話を聴く必要があると学べる。
また、聴いてもらうことで、逆に聴き方も学べる。
どういう聴き方をされると嬉しいか、または嫌かということがわかる。
自分が話すことで、話し方以上に聴き方が学べる。
4人での班内発表であれば、1回の話す機会に3回の聴く機会ができる。
話す力もさることながら、聴く力がつき、子ども同士のつながりも深まる。
そもそも「良い聴き手が良い話し手を作る」のであるから、話す力も聴く力にかかっていると言ってよい。

また、「フリートーク」もおすすめである。
帰りの会や学級会などで設定する。
「3分間」など時間を決めて、近くの人とテーマについて自由に意見交換する。
言うなれば、公的なおしゃべりタイムである。
普通の休み時間のおしゃべりと違う点は、気の合う仲間同士に限定されないこと。
人間関係作りと自己開示が主たる目的なので、テーマはくだらないことでもいい。
「最近感動したこと」といったものから「好きなアニメ」でも何でもいい。
ルールはただ一つ、肯定的に聴き、否定しないこと。
「それ、面白いね!」「いいね!」などと敢えて反応フレーズを固定しておくのも、慣れない内は有効である。

子ども同士をつなげる「聴く力」は、自由な風土のクラス作りにも必須である。

2013年5月8日水曜日

親と教師、両方の話を聴く子どもに育てる

「聴く力」シリーズの続き。
聴く力、というか姿勢を、保護者と連携してつけることについて述べる。

4月、最初の保護者会。(大体、授業参観後である。)
保護者の方々にお願いすることがある。
以前紹介したが、「先生の言うことをききなさい」と家庭で言うようお願いする。
当然、こちらは「家の人の言うことをききなさい」と指導することも約束し、実行し続ける。
どちらか一方の言うことを守ると、両方の言うことをきくことになる。
家庭と学校、そして何より子どもにとって有益である。

双方の意見が割れると子どもが混乱するので、そういう場合は直接担任に言って欲しいと伝える。
学習用具の使い方や宿題についてなど、家庭の方針と合わないことも多いからである。
子どもが学校の文句を家庭で言って、それに保護者が同意すると、最悪である。
それ以外のあらゆる指導も通らなくなる。
つまり、「聴かない」「素直でない」状態になる。
素直でなくなるから、曲がる。
真っ直ぐ伸びなくなる。
成長の機会を逃す。
学校生活の大半を一緒に過ごす担任の先生の言うことを聴けない状態は、子どもにとって大変な不幸である。
(これが担任でなく親や習い事の先生、コーチ等の場合も、同様である。)

だから、そういう場合は、親と担任で直接相談し、方向を揃える。
基本的に、担任が家庭に合わせる方が良い。
担任は毎年変わるので方針も変わるが、家庭の方針は一生もの。
そこを譲らないで、関係を壊してまで守る価値があるか、ということである。

身体に関わる部分を考えるとわかりやすい。
心臓病を抱えて運動制限がある子どもに、無理矢理マラソン練習をさせる人はいない。
みんなでやっていようが、それは特例を出す。
他の子ども達には、簡単に説明してあげれば大抵わかる。
その程度でクラスが崩れてしまうようなら、他の部分に問題があるかもしれない。

保護者との連携ほど、教育効果の高い手段はない。
学級経営が本当に上手な先生は、保護者との関係作りがとても上手い。
保護者が「先生の言うことなら」と言ってくれたら、もうそこの子どもとの関係は安定するしか道がない。
たとえ学級が崩れたとしても、保護者との関係は絶対崩さないぐらいの気配りが必要である。

2013年5月5日日曜日

教師の話を「聴く」力をつける

前回の続き、「聴く力をつける」をテーマに考える。

テストで測れる「話す・聞く」の力は、かなり狭義の意味である。
単純な音声を聞き取る力に加え、語彙力(言語)、メモ力(書く)、テスト読解力(読む)なども総合的に必要である。
よって、ここではテストで測れる「聞く」の力は考えない。
コミュニケーション能力としての「聴く力」を考える。

誰の話を「聴く」か。
担任の先生。
他のクラスの先生。
仲の良い友達。
クラスの仲間。
親兄弟や祖父母などの家族。
地域の方々。

全ての人の話を聴けるようになれば最高である。
しかしまずは、学校で、担任としてできることから手を付ける。

まずは、先生の話を「聴ける」ようになることである。
聴くというのは、躾の一つである。

担任して3日以内に、聴き方を指導する。
「姿勢を正して聴く(立腰)」
「耳と目と心で聴く」
「話している人の方にへそを向ける」
「うなずく(関心を行動で示す)」
「静かに聴く(途中で口を挟まない)」等々。

口でも伝えるが、こうせざるを得ない状況や、得するようにしていくのも大切である。

「百人一首」は、いい教材になる。
静かにして読み手の声に集中しないと、勝負にならない。
併せて礼儀も指導できる。

聴く価値のある話をする、というのも大切である。
聴かないと損をする、というぐらいの話ができれば、勝手に聴くかもしれない。
聴く価値のない話ばかりしていると、当然、聴かなくなる。
短く、簡潔に話す。
話す力がより必要なのは、どちらかというと子どもよりも教師の側である。
(聴く力も同様である。)

まずは教師の話を聴けるようにして、子ども同士に広げていく。
教師の話もまともに聴けないクラスでは、子どもに聴く力をつけるのは難しい。

次回、子ども同士の話を聴く力をつけることについて考える。

2013年5月3日金曜日

大切なのは「話す」か「聞く」か

コミュニケーション能力の育成は、ここ数年の重点課題として挙げられている。
学習指導要領上でも重要であると明記されている。
国語科の中では「A話すこと・聞くこと」が「A」とあるように、トップにきている。

では、この「話す」「聞く」は、どちらがより大切なのか。

表記を見ると、「話す」が前に来ている。
つまり、やはり「話す」方を重視しているようである。
(例えば企業が合併する時、二つのどちらの名前が前に来るかは、重要な要素である。)

世間一般、教室一般はどうなのか。
「発表ができない」「表現力を育てよう」と、やはり「話す」重視である。
「日本人は自己主張が足りない」というアジアや欧米諸国の批判からも明かである。
確かに、外交の場面では、自己主張が命である。
弱腰では困る。

しかし、こと教室においては、その理論がそのまま当てはまるのか。

ここ数週間、色々な教育実践家の先生の講義を受けた。
共通する主張は「聞く力が優先」である。

ある先生は「口が二つで耳一つ」は「化け物教育」であると揶揄されていた。
ある先生は「学級作りで最初に指導すべきは、話の聴き方」と主張されていた。
講演会だろうが食事会だろうが、話す人より聞く人の方が数多く必要である。

「聴」という字は「耳」「目」「心」が合わさった字である。
相手に全ての関心を向けている状態である。
即ち、相手に対して「受容」の姿勢がとれている状態である。

昨今の様々な問題は、この「聴く」「受容」ができないことから起きているように思う。
素直に聴く相手に、それ以上の過剰な指導が入る余地はない。
大人も同様である。

聴く力をどうつけるか、これから考えていく。
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