2022年7月30日土曜日

学校の「これって必要?」を考える

今回のタイトルは、「学級づくり修養会HOPE」で話し合った今月のテーマ。


学校には、不要なものが多すぎる。

これは、自然なことである。


学校の業務を、机の引き出しの中の物に譬えて考える。

放っておけば、余計なものがどんどん増える。

配られたプリント類。

ちょっとしまっておいただけのはずの、ごみの類。

ある時期にはよく使っていたが、もうずっと使っていないものもある。

(高学年の子どもの机の中には、低学年の時からずっと使っていないクレヨンやカスタネットが入っていることが結構ある。)


何が必要か。

物の並びを整える「整頓」ではない。

そんなことをしても、物が空間に占める割合に変化はない。

必要なのは、物を捨てる「整理」の方である。


学校には、過去に降り積もった業務が多すぎるのである。

もうとっくに不要な昭和時代に使っていたものまで、堂々と居座って空間を占めている。

(これは、体育倉庫や教材室にある物などと同じである。)


必要なことは、業務を効率よくこなすことではない。

業務の必要性自体に疑いの目を向けて、見直して捨てていくことである。


「学級づくり修養会HOPE」では、ざっとあげても次のような業務が話題に出た。


○保護者等が関連するもの

・アンケートの類(しかも過剰サービスを助長する内容)

・保護者参加行事のリハーサルと過剰な保護者向け演出

・過剰な卒業式練習(式典の主役は誰?)

・通知表の所見

・持ち帰り忘れの物への対応や家庭への荷物届け


○ルールに関するもの

・「階段2段飛ばし禁止」や中学の「靴とソックスは白のみ」のような謎ルール

・何でも学年で「揃える」

 例:学級通信は学年全員出すor誰も出さないかのどちらか縛り

   掲示物

・髪型や服装への規制

・シャープペンシル禁止

・上履きは必ずバレーシューズ

・必ず体操服の裾をしまう(短い丈のものでも)

・水泳の○○禁止(ラッシュガード、ゴーグル、派手な?水着、日焼け止め)

・清掃時の赤白帽着用(毎日使用なので1週間洗わない子が多数で、夏場は特に不衛生)


○学習活動に関するもの

・宿題(家で泣きながらやっている子どもがいる)

・朝の歌

・大量のプリント学習


○時間外勤務やプラスアルファで行うもの

・登校指導

・朝練(陸上、運動会、合唱、その他部活動等)

・職員朝礼

・親睦会


○新しく降りてきたものや提出に関するもの

・キャリアパスポート

・ICT機器関連のチェックリスト

・コロナ感染関連のチェックリストと各種報告

・週案


○時代の流れに逆行しているものと思われるもの

・大量の紙の印刷物(職員会議や各種資料)

 &綴じ込み作業(職員全員で密集して作業。感染症対策って何?)

・プールと水泳指導(プールの水質維持と指導の安全面確保の困難。失敗すると体育主任が賠償責任の例も。)

・宿泊行事(アレルギー等の個人疾患や宗教等に対する各種個別対応の困難)

・土曜授業



今羅列したものは、全員が「不要」と言った訳ではない。

20人ほどの参加メンバー個々の意見である。

一つ一つについて話し合ってみると、多くに「それはあった方がいい」という逆サイドの意見が出る。

物事は必ず裏表の両面セットであり、個々の価値観が違うという前提を考えれば、当然である。


大切なのは、これらを議論の俎上に載せることである。

そうすると、自分とは全く異なる価値観の存在を学べて、視野が広がる。

道徳の授業と同じである。


7月22日に発刊となった『不親切教師のススメ』では、これら諸問題に対し、真向から意見を述べている。


例えば、先の「上履き」や「服装」等に関しては、次のように書いている。

本文の中の第27項「標準服」の合理的配慮(P.97~99)より一部抜粋して引用する。


========================

(引用開始)

先の体操服でもそうだが、この「標準」という発想は何かと応用が利く。

あくまで標準であって、これを本人が気に入れば使えばいいし、他の選択肢を選ぶ個人の自由もあり、

多様性を認める今の時代に大変合っているといえる。

また、全て完全に自由というのも、逆に不自由を感じるものである。

その点、「標準」が設定されているというのは、選ぶのが大変だと思っている人にとっては、とても助かる選択肢の一つとなる。


例えば、上履きもその一つである。

学校の上履きといえば、恐らく多くの人が共通のものを思い浮かべる。

あれは一般的には「バレーシューズ」という名称で販売されている種類の靴である。

学校指定の場合もあるが、昨今はこれもあくまで「標準」として設定し、他の選択肢をもたせている学校もある。


足の発達という観点からすると、靴底が薄くフラットなバレーシューズは、実はあまり優れた履物とは言えない。

ただ、安価であるという点と、蒸れにくいという点においての利点もある。

現在はベルトで調節ができるタイプのものや、靴底が足の形に沿ったアーチになっているものも出てきており、

子どもの足の発達への関心が高い保護者などはそのようなものを選びたいと思っている場合も多々ある。

やはりこれも標準を定めた上で個々に選択できる方が合理的だろう。


学校におけるあらゆる服装に「標準」を取り入れてみることで、逆にそれ以外の選択も取りやすくなる。

逆転の発想だが、多様性を認めていこうというこれからの時代において、有用な考え方である。

(引用終了 メルマガ用に一部改行)

==============================


ここに書いてあることは「標準(スタンダード)」の推奨である。

「標準」はあくまで「標準」であり、これに縛りつけるものではない。

迷子を防ぐという観点から基準点となるものを示しているだけで「標準」から外れても構わないのである。


HOPEでの話合いでも、ある事柄に対し

「市で統一して欲しい」

という意見と

「市で統一されているからきつい」

という真逆の意見が出た。


つまりは、市で基準を示してくれないと、最初の判断に困るという意見。

もう一方は、他と同じを求められても厳しいという学校の意見。

要は、実態の異なる学校に同じ一律の対応だから厳しいのであって、基準だけ示してくれればいい。

あとは、学校裁量である。


これが、本書の随所で示している「標準(スタンダード)」という提案である。

学校の業務の基本を「標準(スタンダード)」という発想で見直し、必要か不要かを選択できるようにしたい。

2022年7月24日日曜日

不親切教師のススメ

 「まず、根本、本質、原点を問う。」

師の野口芳宏先生の言である。


今ある常識にとらわれず、かつその常識が現存する妥当性を検討する。

自分の好みで何でもかんでも反対すればいいという単純なものではない。

時を経てなお残る風習・習慣というのには、何かしらの理由がある。

それを踏まえた上で、常識を問い、アップデートしようという姿勢が必要である。


そんな思いを込めて、新たに一冊の本を書いた。


『不親切教師のススメ』 さくら社刊


目次を羅列する。

ここを読むだけでも、教育観を磨くことにつながるはずである。


一、「楽しい授業」をやめる

──親切・丁寧・サービス満点をやめて、学力向上

1 サービス満点の「楽しい授業」を捨てる

2 やってる感で○つけをしない

3 不親切こそ学力を向上させる

4 寄り添い過ぎれば「つきまとい」

5 学習を我慢させない

6 「漢字が書けないと将来困る」のウソ

7 読めない漢字もばんばん板書

8 「○○ができない」で困るのは誰か

9 「できる」以外の目標を


二、習字の掲示をやめる

──教室環境をこねくりまわさない

10 教師が作る美しく整った教室掲示

11 同じ字を並べて掲示する意味は?

12 「私の選んだ字」で個の掲示

14 個人別クリアファイル掲示物

15 教室のモノの配置

16 教室に「子どもだけの空間」を


三、「してあげる」をしない

──担任がすべてを請け負わない

17 名前シール貼りの親切

18 「主体性をもたせる」?

19 「休み時間を削って授業」は権利侵害

20 あえて一緒に遊ばない

21 休み時間は「みんな」で「ドッジボール」

22 「一人ぼっち」の子ども

23 百点満点をほめるより

24 勉強しなさいと言う代わりに


四、「揃える」をやめる

──時代おくれの根性論排除

25 真夏も真冬も体操服は同じ

26 体操服指定縛り

27 「標準服」の合理的配慮

28 「揃えない」ことで自由になれる


五、「きちんと座りましょう」のナンセンス

──個性や発達の違いを理解する

29 「座りなさい」より「歩いてもいいんだよ」

30 「乱暴な子」と言われてしまう子ども

31 発言できなくても構わない

32 「喋らない子」はよく聞いてくれる子

33 「背の順」は身体的特徴による差別の誇示

34 髪型・服装指導問題 その1

35 髪型・服装指導問題 その2

36 左利き用文房具

37 給食は「完食」が目的じゃない

38 「苦手なもの」はあっていい


六、かわいい子には……

──「危ないからやらせない」が将来一番危ない

39 子どもの危険対処能力

40 学校は「安全第一」

41 鬼ごっこは「自己責任」

42 子ども同士のけんか

43 破る者がいる前提のルール


七、子どもの家庭を覗かない

──それこそ余計なお世話であると知る

44 家庭にも不親切教育をすすめよう

45 親切な教師は、毎日宿題を出す

46 宿題を出すのならば

47 「母の日」「父の日」はスルー

48 「早寝早起き朝ごはん」ができない家庭

49 感謝の手紙を「書かされる」違和感



目次を読んでみて、もし「ん?」と思う引っかかりがあったら、そこを読むべしというサインである。

引っかかりがあるということは、自分の中の常識を揺るがされているということに他ならない。

あるいは、立場上、本当はそうしたいのにできていないという現状があるはずである。


これまで、ずっと伝えねばと思ってきたことを書いた、入魂の作である。

教育の現状、ある程度の経験年数と場数、かつ自分の立場とのバランス等考慮し、世に出す最高のタイミングだったと思う。

(経験や立場が上になりすぎると、ある面で表現の自由が縛られる。)

公立校から少し離れていた立場の、あのタイミングでなければ、これほど赤裸々には書くのはためらったかもしれない。


言いたいことを言うのではなく、言うべきことを言う。

書きたいことを書くのではなく、書くべきことを書く。


書いていて時に身がすくむ思いもしたが、「書かずばやまじ」の思いで書き上げた。

是非とも手に取って読んでいただきたい、入魂の一作である。

2022年7月23日土曜日

字面に振り回されない学級づくり

子どもが主役のクラスづくり。

私も大賛成の方向である。


しかしながら、それが勝手に実現するならこんなに楽なことはない。

実際それは、教師が主体で全部引っ張っていく場合よりも、遥かに手間も指導技術もいる。

そして子どもが主役であっても、指揮者であるプロデューサーや監督がいなくては映画も舞台も成立しない。


近年、この手の方向の書籍はよく売れているようである。

多くの人にとって、子どもが主体的に動く学級の方がいいに決まっている。

誰だって、できればあれこれと手出し口出しをしたくないはずである。

個の多様性を求める時代のニーズに合っているのである。


ただし学級づくりには、段階がある。

書籍でもセミナーでも公開授業をした時などでも、何度も紹介している、次の「学級の成長段階」である。


第1段階 学級開き

第2段階 一斉指導

第3段階 ペア・グループ活動

第4段階 自治的活動


(引用元 

『スペシャリスト直伝! 学級を最高のチームにする極意』赤坂真二著 明治図書p.25


目指すは第4段階の「自治的活動」である。

この段階では、教師は活動する子どもの背後に隠れ、本当に必要な時以外には出てこない。

いわゆる「教師がいなくても大丈夫な学級」である。


学級開きから、ここを常に目指すというのが大切である。

楽しいことをするのも自己開示するのも、全てこの「自治的活動」という段階への目的達成のための手段である。

子どもが楽しんだからいい、仲良くなれたからいいというのとは、全く違う。


一方で、いきなり自治的活動の段階を求めるのも違う。

段階に合った方法や手段、道具というものがある。

鉄棒初心者にいきなりオリンピック選手のやる技に挑戦させようというようなものである。

全くできないか、無理してやれば大怪我である。


だから、最初の「学級開き」の段階では、とにかくこの場が安全だとわかるようにする。

安心をつくる。

縦糸(教師との信頼関係)の構築に努める。

ここに尽きる。


次は、「一斉指導」の段階である。

いきなり個々が好き勝手にやっていては、根本の安全と安心が脅かされる。

まずは基本的なことを一斉指導できき、できるようにするという段階を踏む。

全体として基本的な知識と技能を身に付ける段階である。


3番目にやっと「ペア・グループ活動」が中心となる段階である。

横糸(子ども同士の信頼関係)を強くしていく段階であり、これまで以上に思考力・判断力・表現力が求められる段階である。

「中心となる」というのは、この段階においても一斉指導はするし、安全・安心を築くための活動もするからである。

もちろん「学級開き」の段階でも、ペア・グループ活動を取り入れることはある。

まだ成熟していない段階であっても、イベントとして、自由に取り組むような自治的活動に挑戦することもある。

あくまで、各段階における中心的活動だということである。


第4段階にいけば、一斉指導の機会はぐっと減る。

イベントの企画や運営も自分たちで実行委員を立ち上げて実施する。

安全・安心を確保するための問題解決も基本的に自分たちで行う。

どうにもならない時には、やっと教師の出番である。


だから決して、教師は「本当にいなくていい」ということにはならない。

完全に離れるのではなく、「自分たちでできる!」を遠目に見守る段階である。

本当に完全に離れるのは、3月末の別れの時である。

敢えて望まずともその時は訪れる。

子育てにおける親子の関係と同じである。


「子どもが主役」「教師がいなくてもいい」というのは、そのような状態を指す。

字面ばかりを追うと、単なる放任の無責任と勘違いされる可能性があるが、そうではない。

子どもの自立を促すという強い責任感と高い指導力、うまくいかないことへの忍耐力をもって取り組む必要のある方針である。


字面で善し悪しを判断しない。

全ての教育手法や方針は、使い手次第である。

2022年7月16日土曜日

したいよりもされたくない優先

 前回、権利も恩恵に変えられる、という話を書いた。

これに関連して、権利についての考え方。


学級では、子どもに権利の在り方を教える必要がある。

権利の誤った主張が、様々なトラブルを引き起こすからである。


全ての人に自由に生きる権利があると憲法でも定められている。

法的に定めらている基本的人権である。

この「法的に定められている」というのが一つのポイントである。


生まれながらの権利とは言うが、実はそれを保障してくれる社会が前提になくては成り立たない。

つまり、当たり前のようで、実は「有難い」ことである。

社会によって規定されている以上、社会の規定したルールが作用する場の上でのみ、その権利は保障される。

(武力による占領下のような、社会が正常に機能しない異常事態においては無効となる。)


全ての人にこの権利が保障されている。

ここで矛盾が起きる。

したいという人の自由と、それをされたくないという人の自由のぶつかり合いである。


社会のわかりやすい例で言うと、恋愛関係や婚姻関係である。

あなたと付き合いたいという人がいて、あなたはその人と付き合いたくないとする。

変な言い方だが、受け身の形で書くと「私はあなたに付き合われたくない」という状態である。

どちらの権利が優先されるかは、明白である。

されたくないという拒否権の方が優先される。


つまり、自分の権利(したい)は他人の権利(されたくない)を侵害しない範囲において有効なのである。

「自分がしたい」よりも、「人がされたくない」が優先されるのが、社会である。

交通ルールなども基本設計はこれである。

スピードを出したい自分の身勝手な自由の権利よりも、スピードを出されたくない歩行者や他の車の安全の権利が優先される。


子どもに伝えるとしたら、違う例で伝える必要がある。

授業中に大声で騒ぎたいという子どもと、静かに授業を受けたいという子どもがいる。

どちらの権利が優先されるかと問いかける。


これはすぐにわかるが、静かに受けたい子どもの権利が優先である。

大声で騒ぐことは、周囲の他者への「攻撃行為」である。

音というのは聞きたくない人の耳にも入ってしまうため、無差別な暴力行為になり得る。

また、授業全体の進行を妨げる行為でもあるため、全体の利益を損なう行為ともいえる。


したいよりもされたくない優先。

これを理解するだけでも、学級で起きるトラブルのかなりの部分がカバーされるのではないかと思われる。

2022年7月9日土曜日

権利も恩恵に変えられる

「恩恵は権利に変わる」ということを常々伝えてきた。

参考:「教師の寺子屋」2016.12.20記事

https://hide-m-hyde.blogspot.com/2016/12/blog-post_20.html


思い返せば東日本大震災の折、あらゆる当たり前の有難さが身に染みた。

震災直後「白米と牛乳」という給食が出た時、そこには有難さしかなかった。

あの当時、おかずがどうこうなどという不平不満が出ようはずもないのである。

そしてあれ以来、食事ができるということの有難さを考えて、食事を味わうことが多くなった。


つまり、権利も恩恵に変えられる。

当たり前の権利だと思い込んでいたことも、振り返ることで恩恵であると捉え直すことができる。


そのきっかけは「不足」である。

不足を感じる状態にならない限り、当たり前だと思い込んでいるものの有難さにはなかなか気付けない。

どんな御馳走も満腹状態ではおいしく食べられないというのと同じである。

泳いでいる時のように、空気を自由に吸えない状況になって、初めて空気の存在や有難さがわかる。


一方で、恩恵としての有難さを感じるためにわざわざ不足の状態になる必要はない。

その真実さえ知っていれば、恩恵と感じられるということもある。

例えば世界の貧困地域の子どものクリスマスの願いが「学校に行けますように」だと知る。

そのことで、日本にいながら学校に行くことの意義を考えられる子どももいる。

(「も」いる、というのがポイントで、感じられない人には一切感じられない。)


低学年には、この「恩恵が権利」という言葉だとやや伝わりにくい。

そこで

「してもらっていることは当たり前になる。

 当たり前の反対は有難い。」

という言葉にして教えてきた。

当たり前とは即ち権利意識である。


今ロシアとウクライナが戦争状態にあるせいで、平和を有難い恩恵と捉えやすくなっている。

世界的に見たら全く平和ではないのだが、それは今までの日本を見ても同じことである。

ここ数日の大きな地震は、福島をはじめとする東北地方が未だ被災地であることを改めて思い出させる。


日常生活の小さな規模で見ても、この恩恵と権利、あるいは有難さと当たり前の捉え方が大切となる。

相手からの恩恵を当たり前と捉えられるようになると、恩恵を与える側は、馬鹿馬鹿しい気持ちになってしまう。

親が子どもを養育するのは当たり前かもしれないが、子どもがそれを言い出したらどうか。

お互いの捉え直しが大切である。


子どもが毎日学校で学べるのは当たり前か。

子どもが毎日学校に来て自分の教えを真剣に受けることは当たり前か。

学校で毎日働けることは当たり前か。


当たり前だと思っていることは、ないと腹が立つ。

一方で、有難いことだと思っていることには、感謝しかない。


どちらを選ぶのが幸せか。

あらゆる権利も恩恵も、捉え方次第である。

2022年7月2日土曜日

GIGAスクール構想がちょっと嫌になってしまった先生へ

 一人一台端末が当たり前になり、学校の当たり前も変わった。

「GIGAスクール構想」の目指す全ての子どもに開かれた学びの世界がある、はずであった。


一応確認だが「GIGA」は「Global and Innovation Gateway for All」

=全ての児童・生徒のための世界につながる革新的な扉

の頭文字である。

「1ギガバイト」とかの意味のギガではない。

(それとかけているのだと思っているが、そのネーミングについての公式見解なし。)


次世代への理想を掲げたGIGAスクール構想だが、正直上手く機能していないという声が多く聞こえる。

新しいもの導入は、インフラ整備だけでもかなり大変なのである。

スキルは後回しでモノからの導入となると、多くの人の間で混乱が生じる。

ただでさえ新しいものに恐怖を感じやすい学校現場において、ある種の「嫌悪感」が生じてしまっている様相である。

しかし、ICTに関して遅れまくっていた学校が大きく前進したのだから、本来はいいことのはずなのである。

GIGAスクール構想が、一人一台端末が、ちょっと嫌になってしまった先生が、前向きになるための処方箋はないか。


今月出た拙著は、ここに答える内容となっている。

『1人1台端末で起こるクラスのICTトラブルへの予防と対応』


この本は、一人一台端末が本格始動された2021年、この問題への解決を図るべく書いたものである。

実践については自身の勤務校の他、「学級づくり修養会HOPE」の協力を得た。


ICTを無策でそのまま使えば、問題が起きることはわかりきっている。

学級経営と同じなのである。

まず予想できる事態への予防に全力を尽くす。

その上で、トラブルには適切に対処する。

ICTの本を装って具体的な解決策を示しつつ、内実は学級経営の本である。


ネットマナーや個人情報についてどう教えるか。

学校としての端末使用ルールは、本当に適性と言えるか、トラブルが起きたら担任次第になっていないか。

その使用方法については、本当に子どもが悪いのか、実は与え方やルールが悪いのか。

そもそもネット環境が悪い&リテラシーが低い状況で、端末をまずはどう扱うべきか。

この辺りのことについて、全国各地での具体例を挙げて示している。


ここ数号、態度について書いてきたが、態度以前の問題というものもある。

知らないことをできるはずがない。

端末使用など、まさにここである。

態度が悪いのではなく、そもそも根本的にわかっていないという前提が必要である。


あらゆることが重なる中、試行錯誤しながらリアルタイムで書いた。

現場の「今」の温度が伝わる本になったと思う。

ぜひご一読いただきたい一冊である。

  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング