2013年12月30日月曜日

落差を問う 失敗の具体例

落差を問うことを軽んじた失敗の具体例を挙げる。

2学期、社会科のテストをした。
「終戦記念日」が何月何日などは、当たり前の知識だと思っていた。
しかし、これが大失敗だった。

よく考えれば、6年生は初めて歴史を学ぶ段階の子どもたちである。
終戦記念日を気にして毎年過ごしている訳がない。
「8月15日に玉音放送が流れ、戦争の終わりが国民に告げられた」
ここを読んでも書いても教えても、実はわかっていなかった。

大体「8月15日という日は覚えるべき」ということだって普通は考えない。
自分で調べさせて、なぜこのタイミングなのか、広島、長崎との関連等、諸々問うて初めて頭に入る。
当然、テストの段階では多くの子どもの頭の中から抜け落ちていた。
教師と子どもの落差を無視した報いである。

落差を常に意識する。
授業においての基本的かつ重要な構えである。

2013年12月28日土曜日

落差を問う

発問とは何か。

野口芳宏先生は、発問とは「落差を問う」ものであるという。
発問で問うべきは、落差である。
ここでいう落差とは、子どもの「不備・不足・不十分」のことである。
(逆に言えば、落差の生じないものは問う必要がない。)

子どもの理解度には落差があり、それを問うことで顕在化させる、という面がある。
理解の浅い状態の子どもを、発問でひっぱり上げる。
「わからない」が「わかる」になる。
向上的変容である。

もう一つ、「教師と子どもの落差」があるから問う、という面もある。
教師の側は「これぐらいわかっているだろう」と思う。
しかし問うてみると、これが意外と子どもの側はわかっていない。
発問でそれを確かめることができる。

長くなったので、次号に続く。
次号は落差を軽んじた失敗例を挙げる。

2013年12月26日木曜日

やる気を高める授業とは?

先日、上越教育大学の赤坂真二先生の講座で、次の発問があった。

「やる気を高める授業とは?」

これについて、参加者同士で説明し合う。
みなさんなら、どのように答えるだろうか。
考えてから読み進めていただくと、何かと深まると思う。
(ちなみにこの講座の参加者同士のききかたのルールが面白い。
「あなた、○○について詳しいとお聞きしましたが」と必ず前フリを付けて相手に尋ねる。
これも対話を弾ませる手法の一つだという。)

私は隣の方々に、次のように説明した。
1 目的意識(なぜ、何の為にやるのか)
2 見通し(やり方、目標)
3 安全・安心
授業にこの3要素があると、子どものやる気が高まると考えた。

この後、赤坂先生の考えが示された。
1 価値付け(なぜ学ぶのか、どんないいことがあるのか)
2 期待(成功への見通し)

大体近いような解釈であった。
やはり、なぜやっているのかわからない活動では、やる気が出ない。
「何の為に」が教育活動全般の基本である。
そしてこれは、教える側と教わる側にギャップが生じていることが多い。
時に伝えてわからせること、気付かせていくことが肝要である。

2013年12月24日火曜日

8の字跳び 大縄 必勝法レポート

クリスマスイブ。
明日は、サンタクロースが世界中の子どもにプレゼントを配る。
残念ながら、大人はいただけない。
クリスマスプレゼントほどの価値はないが、レポートプレゼントについて。

冬休みになると、8の字と大縄の記事に大量にアクセスが集まる。
多分、3学期に縄跳び大会がある学校が多いのだと思う。
調べてみたら、8の字跳びの1つの記事だけで15000ページビュー。
相当需要があると思われる。

もう少し調べてみると、ほとんどが「技術」についての記事に集中している。
てっとり早く上達させたいのは痛いほどわかる。
しかしながら、本当の意味で勝つためには、技術ではない。
マインドというか、精神面の方が大きいのである。
学級経営そのものである。
そちらをもっと伝えたい。
レポートには、技術を含めて全てまとめてある。

残念ながら、現任校では以前のように8の字と大縄に取り組んでいない。
なので、最新レポート、というのは存在しない。
ただ、毎回ブログ記事にアクセスするなら、まとまったものの方が見やすいと思う。
プリントして持ち歩けばよい。
(自分のものながら、私はそうやって活用していた。読み返すとはっと気付く。)

元々、自分自身取り組み方がわからず、人にきいて回っていた。
試行錯誤で、やり方を身に付けていった。
子どもと一緒に、相当大変な思いもした。
だから、これからやる人には、なるべく楽しく前向きに取り組んで欲しい。
そのために以前作ったレポートがあるので、それをなるべく多くの人にお渡ししたい。
23年度に大縄のセミナーで使った資料も付け加えて、配付する。
以前配った時には、「校内大会で優勝できた」など相当いい反響がいくつもあった。
必ず役に立つと思う。

ブログ上へのメールアドレスの公開は、迷惑メールも来るので避けたい。
メルマガ登録者なら、問題のある業者などはこないので、私も安全である。
そういう面からも、メルマガ読者だけにプレゼントしている。
登録してレポートをもらって、すぐに解除しても全く構わない。
(むしろ、無駄だと判断したものは読まない方がよいと思う。時間がもったいない。)

よければ、サイト上部のまぐまぐページからメルマガ登録をして、
2日に1回届くメルマガの下部にあるメールアドレスにメールを送って欲しい。
タイトルに「8の字・大縄レポート希望」と書いてくれるとわかりやすい。
たくさんの方の手に渡れば、幸いである。

できれば、コピーして同僚にも教えてあげて欲しい。
ライバルがレベルアップすると、自分の学級もレベルアップする。
そして、教えた方が得することが多い。
嘘みたいだが、紛れもない事実である。

自分が与えられるものは、惜しみなくどんどん与える。
クリスマスに学ぶべきは、サンタクロースの精神である。

2013年12月23日月曜日

誉める=価値の方向付け

前号の続き。
恐怖アピールを止めて、プライドを根付かせる動機付けについて考える。
掃除における次の3つの状態を例に考える。

A:先生が見ている時だけやる、という状態
B:誰が見ていようがいまいが、掃除はやる、という状態
C:きれいになっても、更にできることを自分で探してやるという状態

AからC、どれも動機付けがポイントである。
動機付けは、報酬により決まる。
千葉の戸田正敏先生の言葉を借りると、次のような表現になる。
「誉める=価値の方向付け」

何を誉めるかによって、価値の方向、つまり動機付けが決まるということ。
やたらめったら誉めるということは、価値の方向が定まらないと言える。
誉めるべきを誉める、ということが大切である。

Aの状態にするには、やっていない子どもに着目して叱り、やっている子どもを無視すること。
その場限りに取り繕ってやっている子どもには着目し「がんばってるね」と誉めること。
教師が一緒に掃除をしないのもポイントである。
一緒に掃除をしていると、本当に一生懸命やったかどうか、判別できる目がついてしまうからである。

Bの状態にするには、教師も一緒に掃除をする。
そしてやっている子どもに「きれいにすると気持ちがいいね」と笑顔で声かけをすること。
笑顔も声かけも「報酬」の一つである。
さらに、教室の隅や物をどかして掃除するなどの、汚い部分に着目する視点を持たせること。
きれいが良い、という意識を持たせることがポイントである。
ちなみにここでやっていない子どもに対しては、基本的に指導する必要はない。
叱ることで、ある種「サボると注目してもらえる」という報酬になりかねない。
Bの状態は「人に見られているかはどうでもいい」レベルであるから、基本的に叱る必要はなくなる。
冷たい視線を送る程度で放置し、やったら軽くほほえみかけるぐらいで良い。
見られることは目的化していないので、時に見回りにほとんどいけなかった、ということがあっても大丈夫である。

Cの状態にするには、そういう子どもをまず一人見つけてその場で誉め、全体の前でも取り上げて誉めること。
できればこの人選は、普段他の行動では目立たない子どもがベスト。
いわゆる「あまり目立ちたがらないけどきちんとしている」と周りが認めている子どもがいい。
本当に真面目な子どもである。
そこにスポットライトを当てて、思い切り誉める。
ああいう行動が「かっこいい」のだと価値を方向付け、プライドを持たせる。
掃除以外の時間でも、他人の為に無償でやっている行動をめざとく見つけて誉める。
教室の中にもそういう場(罠)をしかける。
変な話、紙くずを一つ床に放置しておき、拾う子どもがいるか何気なく見ておき、いたらすかさず誉める。
(あえて落とさなくても、整理整頓が苦手な子どもの机の周りに多分落ちている。)
とにかく「世のため・人のため」がかっこいいという価値付けをするのがポイントである。

掃除を例に説明をしたが、あらゆる指導の場面に応用できる。
誉める方向に人は伸びる。
「誉める=価値の方向付け」とは、至言である。

2013年12月21日土曜日

プライドを根付かせる

恐怖アピールは即効性があるが、根本的な解決になりにくい。
やる(やらない)理由が消極的(マイナス)であり、「やる気」の逆に位置するからである。

以前紹介した北海道の中学校教師の堀裕嗣先生は、この辺りを次のように表現していた。
「厳しく言ってやらせるよりも、プライドを根付かせていく。
プライドが子どもを高める。」

つまり、やる(やらない)理由を積極的(プラス)に位置付ける。
プライドがあるから、やる(やらない)という状態にする。

これは、あらゆる行動に関係する。

例として「掃除をやる」という状態を考える。
「掃除をしない」という状態は脱して、「やる」という前提で考える。
なぜ掃除をやるのか。

A:先生が見ている時だけやる、という状態
これは「先生に怒られない(誉められる)」ことが動機付けになっている。
やる理由が「先生」である。
つまり、その先生がいない状態になれば、やらない。
きれいか汚いかということは、どうでもいい状態である。
そこにプライドは無い。

B:誰が見ていようがいまいが、掃除はやる、という状態
これは「きれいにすると気持ちがいい」「掃除は当然やるもの」ということが動機になっている。
歯磨きの習慣みたいなもので、きれいにしないと自分自身の気持ちが悪い状態である。
プライドというレベルではないが、マイナスの状態は避けたいという状態である。

C:きれいになっても、更にできることを自分で探してやるという状態
これは「人の役に立ちたい」という思いが動機付けになっている。
奉仕の精神であり、もはや誉められたり認められたりすることもどちらでもいい状態。
掃除の時間でなくてもきれいにしようとする状態である。
それをしている自分が好きで、プライドが持てている状態である。

AからC、どれも動機付けがポイントである。
どのように動機付けしていくのか、長くなるので次号で考えていく。

2013年12月19日木曜日

「恐怖アピール」を考える

子ども時代、「これぐらいできないと将来困るよ」と言われた経験がある人も多いと思う。
優しく言っているようで、やんわり脅している。
この手のアプローチを「恐怖アピール」という。

「○○しないと(すると)大変な目にあう」というタイプの手法である。
恐怖アピールは喫煙や飲酒、薬物乱用の防止など犯罪防止の指導でよく使われる。
命に関わる部分であり、ごく強い指導が必要な部分だからである。

昔からの言い伝えにも、恐怖アピールは多い。
「雷が鳴ると、へそを取られる」
「夜に爪を切ると、親の死に目に会えない」
「夜更かししてると、おばけが来る」

どれも、直接言うと次のようになる。
「お腹を冷やさないよう、温かくしなさい。」
「深爪しないよう、爪は明るい時に切りなさい。」
「夜更かしは身体に悪いから、早く寝なさい。」

昔からの言い伝えには、実はそういった思いやりや愛情の裏付けがある。
こちらは命には関わらないが、子どもに直接優しく言ってもきかないから、恐怖の形にしたものである。

しかし、その他一般の指導の場面でこれを使うのは考えものである。
「怖いからやる(やらない)」になっていないか。
「これぐらいできないと将来困る」、それは本当か。
できなくても大丈夫なことがかなりある。
あいさつ一つとっても、社会人は全員きちんとできるのかというと、自分自身を含め、かなり怪しいと思う。

嘘はいけない。
勉強などは「できた方がいい、楽しい」ぐらいの方が表現として適切でないかと思う。
そうしないと、子どもができない場合に無理に追い詰めることになる。
(自分の指導力がないのは、別問題である。謙虚に学び続ける必要がある。)

概念的な話になったので、次から具体的に考えていく。

2013年12月17日火曜日

ハイタッチで心を合わせる

大分前の話になるが、夏休み中、体育の研修会で良い話をきいた。
サッカーの国際女子主審を務めている方の話である。

様々な国の選手を見て、日本人の良さや弱点が見えるという。
礼儀正しさは良い点の代表格。
一方、感情コントロールが苦手なのが、特にU-15(15歳以下の選手)に特徴的だという。

その辺りをふまえ、子どもにぜひして欲しい指導とは何か。

「相手の目を見て握手ができる」

これだそうである。

日本人は、どうしても握手の習慣が少ない。
湿度の高い環境が、直接肌のふれる握手より、お辞儀の文化を発達させた面もある。
お辞儀も良い文化だが、身体的接触がない。
どうしても温度が伝わりにくい。

目を見ることも、握手をすることも、相手を尊重する行為である。
試合中のラフプレイや暴言も減る。

しかしながら、握手は結構レベルが高い。
そこで、もう少しやりやすいものとして「ハイタッチ」がある。
触れるのは「パチン」と一瞬だが、強さや高さで感情伝達ができる。
目を合わせる練習にもなる。

どうしても抵抗がある場合は、最初はE.T.みたいに指先でもよい。
スモールステップで、段々上げていく。
無理はしないことが大切である。

朝でも帰りでもいつでもいいので、こういう文化を作ることも教育効果があるように思う。

2013年12月15日日曜日

「頂きます」と「御馳走様」

前回の続き。

「食の教育は、感謝に始まり感謝に終わる。」
この言葉を聞いて、以下のようなことを考えた。

漢字に直すと「頂きます」「御馳走様」。
「頂く」は、頭上高くに位置させることで、神事に用いる言葉である。
命を取り入れる行為である。
「馳走」は、あれこれ走り回って世話をすること。
食材を育てるところから運搬、調理まで様々な人の手を渡って口に入る。
そこに「御」と「様」という敬意を示す言葉が付く。
とにかく、感謝に尽きるということである。

食育では、ここを落とさない。
例として、食べ物で遊ばない、粗末に扱わない、不平不満を言わない。
わかりやすく言うと、関わる人全てが見たり聞いたりして嫌な思いをするようなことを避ける。
御飯を残すのは仕方無いが、お椀に御飯粒がべったり残っているのは、指導すべき事柄である。
粗末に扱っているし、洗うのも大変である。

まだまだあるのだが、長くなったのでここまで。
こんなことを話し合ったということで、ご紹介した。

2013年12月13日金曜日

食の教育は、感謝で始まり感謝で終わる

サークルでの学びシェア。
現在、地元サークル「木更津技法研」で、様々な「教育問題」をテーマに話し合っている。
その中の一つに「食育」についての話し合いがあった。

給食が、余る。
小学校も高学年だとよく食べるようになるだろうが、低学年の内はかなり残るのではないかと思う。
これには一つ明確な理由があるという。
給食では一食分の最低カロリー量が決まっていて、それを越えないといけない宿命だという。
だから「パン+うどん」というような献立になることがある。
給食以外では、まずあり得ない組み合わせである。

子ども一人が食べる分量はかなりの個人差がある。
少食の子どもよりも食欲旺盛な子どもが多い学級なら、食べきれる。
そうでない場合は、余る。
普通に指導していれば、そうなるだけの話である。
(無理に食べさせることも、逆に無駄に残させることもできる。これはどちらも問題である。)

食料不足の戦後間もない時代に教師をしていた世代の方々からすれば、あり得なかった悩みだという。
だから、完食か余るかというようなこと自体は、大きな問題ではないという意見でまとまった。
(余る分量を作らざるを得ない学校給食の法的な問題はあるかもしれない。)

野口芳宏先生が次の言葉でまとめられた。
「食の教育は、感謝で始まり感謝で終わる。」
つまり、「いただきます」から「ごちそうさま」である。
次号、これについて自分なりに考えたことを紹介する。

2013年12月10日火曜日

子どもに失礼じゃないか

山口県の福山憲市先生からの学び。
ふせんに次の言葉がメモしてあった。
「『子どもに失礼じゃないか』といつも考える」
どういう状況でこのメモを書いたか覚えていないのが残念である。
とにかく、福山憲市先生の言葉だったことだけは確かである。

振り返ると、結構子どもに失礼なことをしていることが多い。
「礼儀正しく」を教えている以上、こちらも子どもに礼儀を尽くすのが当然である。

例えば、言葉遣いや呼び方。
相手がどう感じるか考えているか。
名前をきちんと呼んでいるか。
ぞんざいな言葉を使ったりしていないか。
気を付けないと、危ない。

例えば、日記を見る時。
忙しさに、ついやっつけ仕事になっていないか。
子どもとつながる大切な時間である。
一生懸命書いた日記は、きちんと読んでコメントしてあげたい。

例えば、宿題。
「やってきなさい」といったからには、確認をする。
やった子どもを誉める。
やらなかった子どもに厳しい割に、やった子どもの方を見ないようなことがないようにしたい。

例えば、学級で何事もなくスムーズにいっている時。
それが普通になっているのは、子ども達がきちんとがんばっているからである。
「当たり前」になると、「感謝」がなくなる。
ここも気を付けないと、危ない。

私の知っている尊敬する先生方は、誰に対しても謙虚で礼儀正しい。
未熟なりに見習って、近付きたい。

2013年12月8日日曜日

反応も型から

芸事のステップは「守破離」。
まずは「守」、つまり型を身に付けるところからである。

発言に対する反応も、自然にできれば問題ないが、教えないとできないという面がある。
反応の「型」を指導する方法を一つ紹介する。

以前受けた講座(講師は大阪の金大竜先生)で、次のような指導場面があった。
「あ~」
「へぇ~」
「なるほど~」
と3つの言葉を板書する。
3つの内の一つを指したら、参加者は一斉にその言葉を言う。
これを何回か練習する。

参加者の一人が前に出てスピーチをする。
何か言う度に、講師がその内の一つを指す。
そこに一斉に反応する。

「私の趣味は○○です。」
「へぇ~」
「○○なところが好きです。」
「なるほど~」
「○○もいいです。」
「あ~」
といった具合である。

まあ、ちょっとしたゲーム感覚である。
肯定的な反応なので、話しやすいようである。

これを、学級会でやってみた。
お楽しみ会のアイデアを出すという場面である。
すると、いつも以上に意見が活発に出た。
いつまでもこれではいけないが、反応の一つの練習であることを伝えた。
4月からやっておけば、今の時期には自然にできるようになっていたかもしれない。

一つの型として、紹介してみた。
試してみていただければ、効果が実感できると思う。

2013年12月5日木曜日

その「問題」は問題か

先日参加した「学級作りプログレッシブセミナー」での学びからシェアする。

会の終わりに、参加者と講師とのQ&Aの場があった。
その中で「授業中の立ち歩きがある子どもをどうするか」という質問が出た。
講師の一人の堀裕嗣先生が、次のように回答された。
「そもそも、立ち歩きは問題なのか。
立ち歩くのが問題なのは、立ち歩かない授業が前提。
恐らく、座って聴く一斉授業が前提になっている。
体育の授業で立ち歩くのが問題になることはあり得ない。
そこから考え直すことはできないか。」
聞いた記憶なので、正確ではないが、そのような回答だった。

なるほど、目から鱗の回答である。
私自身は、立ち歩き自体で悩んだことはない。
むしろ「必要な時は席を立ってでも友達や先生にききに行くように」と指導している。
わからないことを人にきけないこと、そのままにすることの方が問題だと思っている。

先日紹介した本にも、次の言葉が載っていた。
「状況というのは、それが問題だとみなされた時だけ問題になる。
しかし多くの場合、別の見方をすれば正しい対応策が一目でわかり、
そもそも問題ですらなかったということになる。」
(「人生のすべてを決める『鋭い直感力』」リン・A・ロビンソン著 本田健訳 三笠書房 より引用)

また、野口芳宏先生も同様のことをよく仰っている。
「目の前の『現象』にとらわれず、 『根本・本質・原点』を見極めること。」

今、自分が直面している「問題」は、そもそも問題であるかどうか、見極める必要がある。

2013年12月3日火曜日

アンパンマンのヒーローたる由縁

アンパンマンの作者、やなせたかしさんがご逝去されて、もうすぐ49日である。
学級経営において、何かと使うことが多いアンパンマンの話を紹介する。

アンパンマンが生まれた背景が深い。
やなせたかしさんは戦時中の生まれである。
第二次世界大戦では出征している。
飢餓経験もある。
食糧が無い時代、他人に食糧を分ける行為は、自らを犠牲にする痛みを伴う行為であった。
自己犠牲をいとわず与えていただいた食べ物のありがたさを身に染みて知っていたらしい。

アンパンマンは、自分の顔の一部をむしって相手に渡す。
懐から出すのではなく、自分の顔が欠けるのがポイントである。
この状態だと力が出なくなるので、リスクを背負う行為である。
リスクを背負ってでも、弱っている相手を励ます。

次は、やなせさんの言葉である。

================
逆転しない正義とは献身と愛だ。
それも決して大げさなことではなく、
眼の前で餓死しそうな人がいるとすれば、
その人に一片のパンを与えること

自分はまったく傷つかないままで、
正義を行うことは非常に難しい。

正しいことをする場合、
必ず報いられるかというと、
そんなことはなくて、
逆に傷ついてしまうこともあるんです

ぼくらも非常に弱い。
強い人間じゃない。
でも、なにかのときには、
やっぱりやってしまう。
ヒーローというのは、
そういうものだと思います

困っている人、飢えている人に
食べ物を差し出す行為は、
立場が変わっても国が違っても
「正しいこと」には変わりません。
絶対的な正義なのです
================

「叱る」という行為について、似たような記事を少し前に書いた。
相手の為を思って叱って、逆に恨まれることもある。
それで叱るのをやめるのかというと、やめない。
「なにかのときには、やっぱりやってしまう」というのが教師である。
そうなることはわかっていても、やる。
正しいことをしようとすると、痛い。
アンパンマンというヒーローから学べることは、結構深いと思う。

100知って1を教えられる

校内授業研があり、社会科で市の税金の使われ方の授業をした。
反省点も多くあった分、学んだことも多かった。

市の予算の使われ方のグラフを読み取る中で、子どもから次の意見が出た。
「復興支援への費用が少なすぎる」
日本の抱える問題に目を向けた大切な意見である。

市税は主にその市の住民のために使われる、という基本がある。
市民の理解を得ないと、やたらに外へ使うことはできない。
人々の幸せのため、というのなら、復興支援が先ではないかという子どもの意見ももっともである。
一方で、自分達の学校設備をもう少し充実させて欲しいという願いもある。
予算の用途決定の難しさを一部でも感じられたようである。

他にも子どもからはたくさんの疑問が出たが、それを捌ききれなかった。
資料の情報量の多さに対し、自分の教材研究が甘かった。

100知ってやっと1教えられる。
知ってはいたが、実感として響いた日だった。

2013年12月1日日曜日

ユーモアと挑戦する空気作り

チャンス・チャレンジ・チェンジシリーズ第10回(ぐらい)。
ノミの天井の話の続き。
小さくしか跳べなくなった状態からどう自信を形成していくか。

他の仲間が上手に跳んでいるのを見る、というのが一つのポイントである。

仲間が高く跳ぶようになった。
羨ましい。
そしてどうも、跳んでも天井にはぶつからないらしい。
うまく跳べなくても大丈夫なようだ。
それなら、自分もやってみようかな。

こういう流れを作る。

何度も書いているが、全ての活動のベースは安心感。
リスクの大きすぎることにはなかなかチャレンジできない。
安心・安全だからこそ「挑戦する空気作り」が醸成される。

例えば「授業中に発表できない」場合は、失敗の際のリスクが高いからと考える。
正解以外は認められないとか、間違えた発言をした人が笑われるとか。

ここを打ち破る切り込み隊長のは、担任の役割である。
「正解」以外の解にどう反応するか。

発問が「攻め」の技術であるなら、反応は「受け」の技術である。

変わった発言を、本当に面白がって、「すごい!」と反応できるようにする。
社会科の授業名人の有田和正先生などは「教師のユーモア」の大切さを強調しているが、正にそこである。
先日講座を受けた、富山の老月敏彦先生も「ユーモアで乗り切る」大切さを話されていた。

挑戦する空気作りは、失敗を楽しめる空気作りと一対である。
まずは教師がユーモアを持って、失敗を乗り切れる空気を作りたい。
  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング