2023年7月30日日曜日

問題解決集団を育てるクラス会議

 ここ最近、研修等でクラス会議について話すことがまた多くなってきた。

自治的学級づくりは長らくの中心テーマなので、当然といえば当然である。


クラス会議は、円になって行われる。

これは「距離の平等」=「全員の立場の平等」を象徴している。

フラットな関係である。


また、輪番で発言するというのも基本的なルールである。

つまり「発言機会の平等」が保障されている。


「発言に対して否定をしない」というのも基本ルールである。

(自分の学級では、反対ではなく「心配」という表現で発言するように指導している。)

つまり、立場によらない自由な発言が保障されているということである。


これらは、問題解決能力が高く、幸せで生産的な組織の諸条件でもある。

(参考:『予測不能の時代:データが明かす新たな生き方、企業、そして幸せ 』 矢野和夫著 草思社


つまり、クラス会議で設定されている基本ルールは、組織論から言ってもかなり合理的なルールといえる。

元々がアドラー心理学の「共同体感覚」を育むことが目的となっていることからも、納得である。


この逆をいけば、クラスとしてあまり良いものにならないといえる。


1 子どもの中に立場の上下がある

2 発言権に偏りがある

3 意見が否定される


ちなみに誤解なきよう一応付け加えるが「否定しない」というのは、授業で誤答もそのまま「いいね!」と認めるということではない。

1+1=3という子どもがもしいたとしたら、その意見自体は受け止めるが、そこは確実に修正指導が必要である。

そうではなくて、「自分はこうしたらいい思う」というアイデアを出したこと自体が否定されないということである。

それが「最適解」ではなくとも、一つの大切な意見として認められるということである。


非生産的で全員が幸福でない組織にありがちなのが

「まだ若造の分際で」「わかっていないなぁ」「また変なことを言って」という態度をとる人間の存在である。

こういう雰囲気、空気があると、確実に非生産的な組織になる。

これは、子ども集団も同じである。

(「全員が」とわざわざ付け加えたのは、そこでマウントを取れている人間は幸せでいい組織だと思い込んでいるからである。)


つまり、その大原則を外さないクラス会議を続けていくことで、クラスは確実に良くなっていく。

難しいのが、その基本ルールの徹底である。

放っておくと、すぐに発言が偏る、否定的な言動をとるといった事態が起きる。

それまでそれを「当然」と考えてきた子どもに指導するのは、なかなかの困難が生じる。(対大人ではもっと困難である。)

そこへの指導を、いかに介入を少なく、かつルールを担保していくかが、学級担任の仕事になる。


クラス会議は、やってみること。

それに尽きる。

できるかできないかではなく、クラスを幸せな問題解決集団に育てるために、やる。


一番多い「どうしたらいいですか」という質問への誠実な回答は、それだけである。

2023年7月24日月曜日

学級運営の困難さの根本・本質とは何か

 前号に続き、ルールの大切さに関する話。


学級を運営する難しさが世に広まって久しい。

かつての「学校の教員ぐらいなら誰でもできる」という認識は、一変したといえる。


これは一面、教員の「専門職」としての地位が向上したともいえる。

誰でもはできないことをするのが専門職だからである。

(例えば外科医をアルバイトでもできると認識している人はいない。)


学級集団は「安全・安心でかつ学習が快適に行えること」が条件である。

学習指導要領上に教えることが定まっている以上、学級の全員が好き勝手に行動されては、学習が全く成り立たない。

(ただし、学童保育のような空間でさえ、安全・安心すら保障するのがなかなか困難なのが現実のようである。)


そこで「全員が素直で大人しくすごしてくれる学級集団」が前提であれば、誰でも運営できるはずである。

かつては「大人の言うことは黙って聞く」が通用した時代があったのかもしれない。


問題は、そうではない現実が多数あるからである。

ある程度の困難や複雑な事情を抱えた子どもが複数いる学級が相手であれば、専門性がないと、肉体的にも精神的にも、もたない。

また子どもの背後には多様な考えをもつ保護者もいて、そこへの対応力も問われる。


学校教員の本分は、授業による学力形成である。

では授業ばかり一生懸命にやっていればいいかというと、そうはいかない。

授業を容易には成立させないあらゆる要因が数多存在するからである。


そうなると、そこの対応への専門的知識も必要になる。

集団への指導法であり「学級づくり」と呼ばれるものである。


学級づくりにも定石は一応あるものの、授業と同様、ほとんどの場合その通りにはいかない。

指導が困難な学級において、イレギュラーな事態が常態である。

またそういった学級に限らず、全ての学級担任にとって、特別な支援を要する子どもへの知識と技能は必須である。


諸々の難しさを生む根本・本質は何なのか。

どういう状態だと「運営困難」と感じるのか。


例えば「学力が低い」は、学校の本分からして、確かに問題である。

問題ではあるが、子どもが「授業を一生懸命に受けて学習している」のであれば、改善の余地がある。

恐らく、それだけで教員がノイローゼになることはない。

学級運営が困難ということとは、全く別である。


例えば不登校ということについても、学級運営の困難さとは別である。

極端な話、不登校の子どもは学級に対し、何か悪いことをしているわけではない。

あるのは問題ではなく、その子どものために学校に来て欲しいという周囲の大人の「願い」である。

(ただしここも無理をすると、子どもだけでなく周囲の大人にとっても苦しさにつながる。)


子どもに「主体性がない」「無気力」というのも問題になる。

しかしこれも、それで学級担任が病気になるようなことではない。

より良い向上のためには必要だが、あくまでゼロであり、マイナスの要因とはいえない。


では、結局何が困難さの本質なのか。

昨今の学級運営において困難、苦しいといわれることの根本・本質は「暴力・暴言」及び「身勝手なふるまい」の存在である。

そこで誰かしらが傷つき、困った状態が生まれることである。

端的に言って「人を傷つけない」というグランドルールが守れないことにある。

今挙げた学力低下や不登校というような諸問題の根本も、ここに原因があることが珍しくない。


暴力全般は、言うに及ばない。

誰でも痛いことは嫌であり、これは幼児でも十分にわかる。

学校で理不尽な暴力を振るわれるのにわざわざ行こうと思う訳がない。


暴力・暴行とは、物理的な力を無法、あるいは不当な目的に使うこと全般を指す。

人に限らず、器物破損や物への不当な扱い等も暴行の一種である。

学級運営で考える場合、「ほうきを振り回して遊ぶ」や「消しゴムや鉛筆を折る」「もの隠し」なども暴行の一つであるといえる。


暴言の方は、より幅が広い。

人の受け止め方次第だからである。

傷つく思いや不快な思いをするのは誰でも嫌である。


何かができないことを揶揄する。

馬鹿にする、罵る。

汚い言葉を使う。

相手が嫌がる言葉を言って喜ぶ。


全て暴言である。


暴言を意思の力で防ぐのは難しい。

自分以外の他者への暴言も苦痛である。

音声については、聞きたくなくても聞こえてしまうというのが、さらに厄介である。


これらを防ぐ手立てはないのか。

暴力・暴言に対抗し、社会において現実的に秩序をもたらしているものは何なのか。

それが、ルールの存在である。


ルールは本来、安全・安心を担保し、明るく楽しい社会をつくるためのものである。

ルールが無ければ、そこにあるのは混沌と混乱である。


このブログ上では繰り返し述べているが、学校教育とはルールの学習そのものである。

何が正しく、何が正しくないのかを判断する力をつけることである。

そのためには、ルールを守るということの意義と良さを教えていく必要がある。


ルールを守ろうとする態度がモラルである。

ルールを守らせる指導と同時に、自ら守ろうとするモラルを育てる指導が必要である。


ルールを守るというのは、集団社会における前提として存在する必須事項である。

「守らなくてよい」というようなものは、もはやその時点でルールとはいえない。


例えば、民主的教育の一つとしての「クラス会議」を考える。

クラス会議においては、ルールが明確にある。

「全員に平等に発言権が回ってくる」

「発言中は黙って聞く」

「否定しない」

等々である。

ルールを守るということが前提に指導され、運営される。


ルールを担保するのは誰なのか。

学級においては明確で、学級担任その人である。

ここを譲ったり緩くしたりすれば、学級は確実に大変になる。


「楽しく自由な学級」を目指すほど、ルールの遵守は必須である。

暴言や暴力が横行する場に、楽しさも自由も存在し得ないからである。

乱暴な言動に対してはずばりと指摘し、指導する気概をもたねば、やがて馴れ合いになり崩れていくのは目に見えている。


ルール指導の肝は、線引きとけじめである。

「時間を守る」などは、この代表格である。

原則は「この線から出たらアウト」という単純なものである。

ダメなものはダメとはっきりと言えることである。


だからこそ、ルールは多くし過ぎないことが大切になる。

無駄に多いと、ぎちぎちになり、苦しくなる。

一方で、ある程度設定しないと、多くの不都合が生じる。

最低限の絶対のもの、ぎりぎりまで絞り込むことである。


その点で「人を傷つけない」は、全ての社会的集団におけるグランドルールでもある。


ルールを守る指導の大切さは、強調し過ぎることがない。

夏休み明けは、4月の最初に設定したルールを再度確認することを怠らないようにしたい。

2023年7月17日月曜日

ルールの誤学習をどうするか

 前号に続き、ルールについて。

前号の最後に書いた通り、学校における学びとは、ある意味全てがルールの学習である。


英語の「rule」を辞書で引いてみる。

「ジーニアス英和辞典」によれば

1 規則、規定、規約、ルール

2 習慣、常習;常のこと、通例、習わし

3 支配、統治;支配の期間

4 規則;公式、解法

5 定規、ものさし

6 標準、基準

7 法理;原則;規範;裁判所規則

8 罫、罫線


訳語を見るだけでも、かなりの意味が網羅されているのがわかる。


例えば「空気」というのもルールに関わっている。

「空気」とは「暗黙のルール」である。


前号に取り上げた「風習」も「慣例」も、ルールである。

教育を通して、きまりを身に付けることになる。


学習の解法や公式もルール学習である。

生活全般において「こうすればこうなる」ということを知るのもルール学習である。


例えば「人を傷つければ叱られる、周りと距離を置かれる」というのもルール学習である。

ここを誤学習することがある。

「騒げば注目してもらえる」「人をからかうとみんなが笑って喜ぶ」「悪いことをすると先生が話しかけてくる」等々である。


学校生活において、誤学習は確実に起きる。

これをいかに防ぐか、そしてどう修正していくかの2点が学級経営のカギとなる。


ところで、最近「Chat gpt」というものが一挙に注目を浴びている。

簡単に言うと、ロボットチャットである。

AIが質問に答えて、作文をしてくれる。

文科省もこの導入に向けた取り扱いのガイドラインを出すほどの勢いである。


今後、読書感想文はこれにとって代わられる可能性が高い。

(なお、この文章を書いたのは4月のことであり、7月現在、文科省からは読書感想文にChat gptを使用することは「不正」だと明言されている。)


例えばこのロボットに「〇〇の読書感想文を書いて」と頼んでみる。

すると、現時点ではとんちんかんな作品の読書感想文を書いてくるが、文章自体はきちんと書けている。


以下『きつねの窓』を「小学生ぽく」という注文をつけて、数秒でレスポンスされて生成された文章である。


==============

「きつねの窓」は、真山仁さんによる児童文学作品です。

主人公の「ぼく」と白いきつねが出会ってから、お互いを認め合って仲良くなっていく話です。


きつねは最初は怖かったけど、次第にお互いを理解し合い、いい友達になります。

きつねには人間にはない感性があり、それを通して自然の美しさも教えてもらえます。


でも、ある日きつねは人間に追われることになってしまいます。

主人公はきつねを守るために、勇気を出して奮闘します。

そこから物語は、主人公の成長やきつねとの絆が描かれます。


この本からは、自然や異なる生き物との関わり方を学ぶことができます。

きつねとの交流を通じて、思いやりや勇気を育んだり、大切なものを守るためには努力することが大事だと感じました。


文章がやさしくて、きつねと主人公のやりとりが楽しいので、読んでいてほっこりした気持ちになりました。

自然や動物が好きな人には特におすすめです!


==============


いかがだろうか。

冒頭からもはや別の作者で違う物語になっているが、これがもし正確に把握されるようになったら、という話である。

何なら、ベースの部分としてとりあえずロボットに書いてもらって、これに適当に修正して付け足しても完成する。

更に言うと、文章が気に入らない場合、注文をつけて「再生成」の命令をすれば、また違った文章を提案してくれる。


そうなると、自分で考えて書いた作文なのかの「不正」かどうかの判別がかなり難しい。

というより、自分で文章に修正を少しかけた時点で、ほぼ完璧に不可能である。


夏休みの読書感想文の「最優秀賞」が実はほぼロボットだったという事態になる日は眼前で、既に空想科学の世界ではない。

今(4月)の時点でこの性能なので、夏休み明けまでには相当成長しているはずである。

今年度、夏休みの宿題として読書感想文を出すべきかどうかは、検討に値する。

「真面目な子どもが馬鹿を見る」という事態になりかねないからである。

(「熱心な親」が「少し手伝った」作品が高評価されるというのと根本は同じかもしれない。

 夏休みの宿題は、子ども時代から大人になっても、いつも空虚である。)


このAIプログラムは、ディープラーニングによって機能改善していく。

みんなが改善の提案をする、即ち教育することで、ルール学習により、より賢くなっていく仕組みである。


この学習方法には欠点がある。

誰かが悪いことや誤ったことを教えると、それをデータとして学んでしまう。

誤学習である。

その数が一定数を越えると、それが正しいと思い込んでしまうのが大きな欠点である。


この誤学習を防ぐことは難しい。

悪意のある人間でも容易にアクセスできる以上、情報の混乱は避けられない。

集団で動けば「特定の思想」を学ばせることもできる。

ここに対しては、集団で修正をかけていくしかないが、いたちごっこになる可能性がある。


この学び方は、子どもが学ぶ場合と共通点が多い。

要は、所属集団がどういう思想をもっているかで、子どもがそれを自然と学ぶのである。

そしてそこに修正をかけられる存在が、教師である。


学級の最初は、子ども同士のつながりが希薄なことが多い。

そうなると、分断された空気に支配される。

「自分を守る」ために、放っておくとあまり関わらなくなる。

ここをつなげていくのが、担任の最初の仕事になる。


話があちこちにとんだが、要はルールに対しての修正とディープラーニングが大切ということである。

修正担当は教師だとしても、ディープラーニング担当は、子ども集団になる。

よりよいルールを学べる集団に育てていきたい。

2023年7月9日日曜日

学校における服装、髪型からルールの意義を考える

 以前、卒業式と髪型に関することが世間で話題になっていた。

本人の「出生ルーツ」にまつわるというあの話である。

学者や芸能人もコメントをしており、いわゆる「炎上」状態であった。


不親切教師のススメ』第5章において、髪型や服装の問題についていくつか書いている。

これらの問題については、以前より関心事であり、今号はここについて補足的に書く。


先に断っておくが、件のニュースそのものについては、コメントできない。

なぜならば、どのような背景や前提条件、事実があったのかが、外部からさっぱりわからないからである。

ルールの有無も事前交渉の有無もそれまでの指導のやりとりの経緯や人間関係等、背景となる文脈が全くわからない。

見えない、知らない、わからないという情報不足の状況に対して、いずれかの善悪を公平に断じることは不可能である。


ニュースとは別に、学校における服装、髪型におけるルールや風習ということについて書く。


まず、服装や髪型においても、場のルールに従うというのは大前提である。

例えばスポーツの各種大会において、ユニフォームを着ないで試合に参加することは認められない。

ドレスコードのあるレストランにおいて、そこに引っかかる服装では入店拒否があり得る。

接客業等であれば、髪型が規定されている場合、それはアルバイトであっても守る義務が生じ、守れない場合減給や解雇につながる。


学校の場合も、それが正式に規定されている時には、児童生徒にはそれを守る義務が生じる。

ただ学校が他の組織と全く違うという特殊性は、児童生徒に対し懲戒を加えることができるが、罰を与えられないという一点にある。

特に義務教育においては、ルールを守らなくても、一般社会のように「除外」が認められることはまずない。

罰を与えられない以上、ルールを守るどうかは、児童生徒自身の自己決定に全てがかかっているといえる。


そして、そのルールが妥当であるかということへの検討も常に必要である。

問題があると思われるルールの改変や例外規定についても検討する必要がある。

時代の流れにおいてもはや不要になったルールというのもかなりある。

様々なことが旧くなってしまった現代の学校には、この検討こそが重要である。


ルールではない風習のようなものもあり、これもあだやおろそかにはできない。


例えば高校野球においては、長年にわたり坊主頭が「常識」として風習化していた。

(高野連は坊主頭をルールとしては規定していない。)

しかしここ最近の世界の潮流に沿って、少数派ではあるが坊主頭以外で出場する学校も出てきた。

そもそも坊主頭はルールではないので、大会運営上も一切構わないはずである。


それでも、依然として坊主頭が「正しい」という風潮はある。

坊主頭を部活動参加上のルールとしている学校やスポーツ少年団等も、恐らくかなりある。


その設定ルール自体が悪い訳では決してない。

各組織には、組織をよりよく維持していくためのルール設定の権限がある。

設定ルールに合理性があるなら、尚更である。

そこに文句があるなら、組織のメンバーが自らルールを変える運動をする必要があるというだけである。

かつて理由があってできたルールであり、下手に変えない方がいい場合もあり得るため、関係者同士でよくよく検討する必要がある。


学校においても同様である。

ルールにおいて「〇〇を認めない」と明示されていることに対しては、個人の勝手な判断で破ることは認められない。

個人的にその「○○」をどんなに良いことだと思っていても、である。


不親切教師のススメ』P.143より引用する。(ブログ上での見やすさを考えて一部改行)

==============

(引用開始)

「木登り禁止」というルールがある学校は多い。公園にもある。

子どもの主体性の向上を目指す不親切教師としては、余計なことまでわざわざ禁止しない方向で考えるのだが、

学校ルールとして予め禁止されていることに対しては守る方向でよりよい指導を考えていく必要がある。

(引用終了)

==============


個人的には、運動機能の発達のために木登りはした方がいいと考えている。

しかし、安全第一の学校という組織においてそれは認められない。

木には蜂の巣が作られていることもあり、確かにそこに一定以上の危険性がある。

その合理性にもある程度以上納得しているため、そのルールを変えようとも思っていない。

(大規模校ほど子どもの数が多すぎて目が行き届かず、色々な子どもが在籍しているため、大きな事故の可能性が高まる。)


だから、ルールを守った上で、次善の策をとっていく。

例えば「教師が見ている場合のみ可」というような条件付きの場合のルール改変を交渉する。

あるいは、登り綱のような「運動機能の発達に貢献する」という目的に合致する、木登りに代わる別の手段をとる。


「ルールに従う」を基本にして、問題があると感じるなら「なくす」や「一部変える」といった交渉をする。

あるいは、ルール上で行える次善の手を打っていく。

こういったことを、教職員や児童生徒がそれぞれ主体性をもって行うようになっていくことが大切である。


卒業式の服装や髪型については、各校の判断に任されている。

例えば「出席に際し、なるべく華美な服装や髪型はお控えください」という学校からの便りを出す場合がある。

これは「禁止」というルールではなく「お願い」である。

破っても罰せられることはないが、できればこうして欲しいという緩やかなスタンスである。


ちなみに、なぜ「華美」を避けたいとわざわざ伝えるのか。

いくつかあるが、最も合理的な理由は、家庭間経済格差や経済負担に対する配慮であることが多い。

不親切教師のススメ』で制服や体操服の合理性について書いたが、あれと同様である。

ルールやお願いには、単に学校の都合の場合もあるかもしれないが、そうでない場合もかなりある。


こういう風にすると、大方が華美な服装や髪型は避けて出席する。

一部敢えて華美にしてきたとしても、それは各家庭の判断であり、ルール上も問題なく、特にふれる必要はない。

家庭の方針によっては「ここ一番」に力を入れたい気持ちもよくわかる。


大体が守ってくれてさえいれば、大まかにはお便りの目的が達せられることになる。

全くお便りとして出さない場合を考えると、各ご家庭で「他のみんなはどの程度まで着飾るのか」とやきもきする可能性が出る。

ある程度緩やかに「スタンダード」を示したといえる。


一方これを「禁止」と明示する場合、そんなに穏健にはいかない。

学校側としては、公にルールとして示した以上、徹底的に守らせる必要が出る。

禁止事項に従えないやんごとなき事情があるのであれば、交渉に応じる必要も出る。

「ルール」として定めるというのは、それなりの覚悟が必要になるのである。


まとめると、ルールというのは強力な「正義の諸刃の剣」である。

設定されたからには、それを正義として守る必要と守らせる必要が出ることで、戦いや争いに発展する可能性を含む。


なぜならば、破ったことを放置しておけば、不当に破った側に実権を奪われる形になってしまうからである。

加えてもっと悪いことに、誠実に守った人間が組織に対し大きな不信感と反発心を抱くからである。

何が正義かわからないという状況は、組織を混沌に陥れる。


ルールというものは効果が大きい分、負担も大きい。

ルールの妥当性を常に吟味し続ける必要も出る。


学校教育とは畢竟、ルールの学習と言っても過言ではない。

ルールをどう考えるかは、教育をどう考えるかと直結しているといえる。

2023年7月2日日曜日

マスク着脱問題から教育の本質を考える

 3月末、学校でマスクを外すことを奨励しはじめた頃にメルマガ上で書いた記事。

今とは、感覚的に多少ズレがあるかもしれないが、それを比較するにもいいのでそのまま転載してみる。



最近、行く先々で「不親切教師の」という枕詞付きで紹介される。

認知度を上げてもらい、有難いことである。


「自分もそれ(不親切)を心がけてきた」という方にも多く出会う。

教育の本質を真剣に考えた場合、手のかけすぎの弊害は大きいため、必然的にそうなる。


さて、そうやって子どもの主体性を求めていくと、壁にぶつかる。

「やるべきことをやらない」あるいは「自分から動きださない」という類の壁である。


見守っていればやがて動く、という考え方もある。

しかしこれは、あまねく全員に、あるいは全てのことに当てはまることではない。


なぜならば、その価値について、肚落ちしていないからである。

価値を感じてない以上、いつまで経っても主体的に取り組むことはない。


しかし「価値がないと感じることはやらない」という姿勢は、成長の妨げになる。

その価値を見出すというのは、体験を通して初めてわかるからである。


ごみ拾いやトイレ掃除一つとってもそうである。

道端や公園等に落ちているごみなんて拾わなくても自分には何も問題ないと思える。

公共の場のトイレなんて汚した人が掃除すればいいのであって、自分には関係ないと思える。


全くその通りである。

自分の家の敷地ならまだしも、公共の場のごみをそのままにしておいても、自分に何ら影響はない。

ましてどこかのトイレが汚いのだったら、担当の清掃員さんの仕事であると考えるのが(特に欧米諸国では)自然である。


しかし、意味がないと思っても拾ってみる。

汚いから嫌だと思っても、トイレの掃除を思い切ってやってみる。

実際に「意味がないと思っていること」をやってみると、自分の中に何かしらの「気付き」が生まれることがある。


その「思い切って」は、きっかけがないと難しい。

ここが「善意の強制 価値ある強制」の教育の出番である。

(何度も紹介しているが、『師道』(さくら社)にある、野口芳宏先生の言葉である。)


できればやりたくないと思っているだろうことを、やらせる。

あるいは、やるものだと思う状況に追い込む。

この価値と効果は大きい。

(効果が大きいが故に、誤った方向に導く可能性があることも、常に頭に入れておく。)


「やりたいことをやればいい」

ということと

「やった方がいいことはやるべき」

という二つを両立させる必要がある。

「中庸」ではなく、両方とるのである。


最近「マスクを外すかどうか」がよく話題に上がる。


今までは「マスクを付けること」の方を強制していた。

これは教育的な「善意の強制」ではなく、国としての安全確保のための強制、命令、ルール化である。

これには当然のことながら、反発心を抱く人も少なくなかった。


今、選択できる状況になった。

文科省からもマスクの着用を求めないことを基本とする方針が出ている。

「どちらでもいい」という選択肢である。


本当にそれで良いのだろうか。


マスクは本来、健康上の理由で付けるものである。

ウィルスの脅威が以前のようなものではなくなった今、学校生活で日常的に付ける必然性はかなり低いといえる。


人間の顔に表情があるのは、コミュニケーションのためである。

マスクがあると、そこがかなり阻害される。

そもそも、表情以前に個別の顔自体がわからないのである。


選択肢があると「周りの人が外さないから」という理由で外さない。

顔を隠す目的の正当化である。

特に思春期においては自分の外見が周りにどう見られているかが必要以上に気になり出すので、尚更である。


ここは思い切って外すということを「強制」して求めないと、なかなか外せない。

これは良くも悪くも日本人的なところで、全員そうするとなれば、そうする。

「自分は本当は外してもいいのだけれど周りが・・・」と思っている子どもたちが、ここでやっと外せる。


確かに、いきなりそれをやるのは横暴である。

散々「マスクを付けろ」と命じてきたのはどこの誰なのかという話にもなる。

ある程度段階的に求めていく必要はある。


ここで言いたいことは「善意の強制 価値ある強制」が存在するという点である。

子どもの主体性を信じる、自主性に任せるということ自体は時代に合っているし、価値がある。

しかしながら、教師が子どもに一切求めることを止めた時、それは教育ではなくなる。


『不親切教師のススメ』でも述べているが、子どもを自立へと促す行為が本当の親切教育である。

放っておいて自立するなら苦労はない。

自立に役立つこと、価値あることならば「強制」してでも求めていく覚悟が必要である。


子どもの成長にとって何が価値あることなのか。

時代の流行を掴みつつ、その底流に流れる本質の不易も忘れない不断の努力が必要である。

  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング