2023年7月24日月曜日

学級運営の困難さの根本・本質とは何か

 前号に続き、ルールの大切さに関する話。


学級を運営する難しさが世に広まって久しい。

かつての「学校の教員ぐらいなら誰でもできる」という認識は、一変したといえる。


これは一面、教員の「専門職」としての地位が向上したともいえる。

誰でもはできないことをするのが専門職だからである。

(例えば外科医をアルバイトでもできると認識している人はいない。)


学級集団は「安全・安心でかつ学習が快適に行えること」が条件である。

学習指導要領上に教えることが定まっている以上、学級の全員が好き勝手に行動されては、学習が全く成り立たない。

(ただし、学童保育のような空間でさえ、安全・安心すら保障するのがなかなか困難なのが現実のようである。)


そこで「全員が素直で大人しくすごしてくれる学級集団」が前提であれば、誰でも運営できるはずである。

かつては「大人の言うことは黙って聞く」が通用した時代があったのかもしれない。


問題は、そうではない現実が多数あるからである。

ある程度の困難や複雑な事情を抱えた子どもが複数いる学級が相手であれば、専門性がないと、肉体的にも精神的にも、もたない。

また子どもの背後には多様な考えをもつ保護者もいて、そこへの対応力も問われる。


学校教員の本分は、授業による学力形成である。

では授業ばかり一生懸命にやっていればいいかというと、そうはいかない。

授業を容易には成立させないあらゆる要因が数多存在するからである。


そうなると、そこの対応への専門的知識も必要になる。

集団への指導法であり「学級づくり」と呼ばれるものである。


学級づくりにも定石は一応あるものの、授業と同様、ほとんどの場合その通りにはいかない。

指導が困難な学級において、イレギュラーな事態が常態である。

またそういった学級に限らず、全ての学級担任にとって、特別な支援を要する子どもへの知識と技能は必須である。


諸々の難しさを生む根本・本質は何なのか。

どういう状態だと「運営困難」と感じるのか。


例えば「学力が低い」は、学校の本分からして、確かに問題である。

問題ではあるが、子どもが「授業を一生懸命に受けて学習している」のであれば、改善の余地がある。

恐らく、それだけで教員がノイローゼになることはない。

学級運営が困難ということとは、全く別である。


例えば不登校ということについても、学級運営の困難さとは別である。

極端な話、不登校の子どもは学級に対し、何か悪いことをしているわけではない。

あるのは問題ではなく、その子どものために学校に来て欲しいという周囲の大人の「願い」である。

(ただしここも無理をすると、子どもだけでなく周囲の大人にとっても苦しさにつながる。)


子どもに「主体性がない」「無気力」というのも問題になる。

しかしこれも、それで学級担任が病気になるようなことではない。

より良い向上のためには必要だが、あくまでゼロであり、マイナスの要因とはいえない。


では、結局何が困難さの本質なのか。

昨今の学級運営において困難、苦しいといわれることの根本・本質は「暴力・暴言」及び「身勝手なふるまい」の存在である。

そこで誰かしらが傷つき、困った状態が生まれることである。

端的に言って「人を傷つけない」というグランドルールが守れないことにある。

今挙げた学力低下や不登校というような諸問題の根本も、ここに原因があることが珍しくない。


暴力全般は、言うに及ばない。

誰でも痛いことは嫌であり、これは幼児でも十分にわかる。

学校で理不尽な暴力を振るわれるのにわざわざ行こうと思う訳がない。


暴力・暴行とは、物理的な力を無法、あるいは不当な目的に使うこと全般を指す。

人に限らず、器物破損や物への不当な扱い等も暴行の一種である。

学級運営で考える場合、「ほうきを振り回して遊ぶ」や「消しゴムや鉛筆を折る」「もの隠し」なども暴行の一つであるといえる。


暴言の方は、より幅が広い。

人の受け止め方次第だからである。

傷つく思いや不快な思いをするのは誰でも嫌である。


何かができないことを揶揄する。

馬鹿にする、罵る。

汚い言葉を使う。

相手が嫌がる言葉を言って喜ぶ。


全て暴言である。


暴言を意思の力で防ぐのは難しい。

自分以外の他者への暴言も苦痛である。

音声については、聞きたくなくても聞こえてしまうというのが、さらに厄介である。


これらを防ぐ手立てはないのか。

暴力・暴言に対抗し、社会において現実的に秩序をもたらしているものは何なのか。

それが、ルールの存在である。


ルールは本来、安全・安心を担保し、明るく楽しい社会をつくるためのものである。

ルールが無ければ、そこにあるのは混沌と混乱である。


このブログ上では繰り返し述べているが、学校教育とはルールの学習そのものである。

何が正しく、何が正しくないのかを判断する力をつけることである。

そのためには、ルールを守るということの意義と良さを教えていく必要がある。


ルールを守ろうとする態度がモラルである。

ルールを守らせる指導と同時に、自ら守ろうとするモラルを育てる指導が必要である。


ルールを守るというのは、集団社会における前提として存在する必須事項である。

「守らなくてよい」というようなものは、もはやその時点でルールとはいえない。


例えば、民主的教育の一つとしての「クラス会議」を考える。

クラス会議においては、ルールが明確にある。

「全員に平等に発言権が回ってくる」

「発言中は黙って聞く」

「否定しない」

等々である。

ルールを守るということが前提に指導され、運営される。


ルールを担保するのは誰なのか。

学級においては明確で、学級担任その人である。

ここを譲ったり緩くしたりすれば、学級は確実に大変になる。


「楽しく自由な学級」を目指すほど、ルールの遵守は必須である。

暴言や暴力が横行する場に、楽しさも自由も存在し得ないからである。

乱暴な言動に対してはずばりと指摘し、指導する気概をもたねば、やがて馴れ合いになり崩れていくのは目に見えている。


ルール指導の肝は、線引きとけじめである。

「時間を守る」などは、この代表格である。

原則は「この線から出たらアウト」という単純なものである。

ダメなものはダメとはっきりと言えることである。


だからこそ、ルールは多くし過ぎないことが大切になる。

無駄に多いと、ぎちぎちになり、苦しくなる。

一方で、ある程度設定しないと、多くの不都合が生じる。

最低限の絶対のもの、ぎりぎりまで絞り込むことである。


その点で「人を傷つけない」は、全ての社会的集団におけるグランドルールでもある。


ルールを守る指導の大切さは、強調し過ぎることがない。

夏休み明けは、4月の最初に設定したルールを再度確認することを怠らないようにしたい。

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