2023年1月28日土曜日

「至れり尽くせり」は生きる力を奪う

以前、サークルメンバーに次の本を紹介してもらって読んだ。


『思考のリミッターを外す非常識力 日本一不親切な介護施設に行列ができる理由』

二神雅一 著 ユサブル(2019) 



見ての通り、タイトルに「不親切」が入っている。

『不親切教師のススメ』よりも2年以上前に出ている本である。

不親切の先輩である。


予想通り、この本に書かれている「不親切」とは、真に相手の将来を考えた親切のことである。

文中にも

「日本一不親切な親切」

というキャッチコピーが生まれたことが紹介されている。


この本では冒頭の章にその理念が全て書かれており、それ以降は具体的な介護の話が続く。

本書P.21に、介護の現状を憂いた次のような重要な文章がある。


===============

(引用開始)

私からすれば、世間の常識である「何でもやってくれる介護施設」のほうが、実は最も不親切だと思います。

「至れり尽くせり」は利用者さんの生きる力を奪っている、そう考えるからです。

(引用終了)

===============


ここを読んだ時点で、『不親切教師のススメ』が教育現場に憂う事態は、介護現場の抱えるそれと共通であるという認識をもった。

今まさに「介護を必要とする子ども」を拡大再生産していないか。

「自分ではやれない」「大人が何とかして」という子どもを意図せず育ててしまっていないかということである。

本当は自分で立って歩ける子どもたちを、寝たきりのような状態にしてしまっていないかということである。


ただ、教室に介護支援的なアプローチが不要という訳では決してない。

千葉大附属小に勤めていた頃、実習生によく出した次の問がある。


「指導と支援はどう違うか。」


これを問うようになったのは、現場でもやたらと

「指導はダメで支援はよい」

という妙な誤認が蔓延した時期があったからである。

実習生が現場に出てから戸惑わないように、あるいは誤った指導をされても論理的に言い返せるようにという老婆心からである。


この問いは研修等で現場の先生方に出しても、結構あやふやな答えが返ってくる。


少し古い記事だが、次のような説明をする。


参考:「教師の寺子屋」2015.2.11 指導と支援のバランス配分


要は、支援が必要な状態というのは、特別な事情がない限り、可能であれば一時的なものにしたいのである。

支援から指導へもっていき、やがて子どもが主体的に取り組むのを見守る段階へと進みたいのである。


そのためには、先にあったように「至れり尽くせり」ではダメなのである。

これはモノにもサービスにもいえる。


例えば「あれがないからできない」と諦める子どもではいけない。

「あるもので何とかする」というのも生きる上での工夫の一つである。


ここに関して、私は印象的なエピソードがある。


ある学校では、ラインカーを子どもが「自由」に使うことができた。

ただし秩序が保たれておらず、体育倉庫内は混沌の極みであった。

勝手気ままに子どもが休み時間に使うものだから、あっという間にラインパウダーを使い切ってしまい、線が引けなくなった。


どうなったか。


何と、線を引いてやっていた遊びをしなくなったのである。

たくさん線を引くドッジボールのような遊びは当然しない。


意気揚々と外に出ていった元気な子どもたちががっかりしているのを見て

「・・・いや、足で線引けばいいじゃない・・・」

と伝えたところ

「ああ、そうか!」

と嬉々として全員で線を引き出したことがある。

(こういう時、子どもたちは役割分担をせずに、なぜか自然と行列になって前の人について線を引く。

足の線は一人だと薄くてすぐ消えるので、たくさんでやった方が線がはっきりし、結果的に合理的である。)


それ以来、ラインカーではなくグラウンドに打ち込んであるコースロープ等も利用して、インスタントに足で線を引くようになった。


実はラインカーを取りにいくのは面倒だったらしい。

つまり子どもの思考過程を追うと、

「ラインカーが使える」が

「ラインカーを使わないといけない」に変わり、

「ラインカーが使えないとできない」になっていたという訳である。


子どもたちにモノをどのように与えるかについては、一考に値する。

自由にふんだんに与えたらいい結果になると思っていると、そうなるとは限らない。


人間には

「十分に与えられているから満足する」

という面もあれば

「十分にないからこそ工夫してそれを満たし、より深い満足を得る」

という面もあるからである。

飢餓状態でやっと食糧を手に入れた時の食事と、飽食時代の食事で得られる満足感は違う。

飽食時代の現代の方が明らかに良質なもので溢れているかもしれない。

しかしそれによって本当に満足感が高いかといえば、話は別である。


話が色々な方向へ行ったが、要は先の

「至れり尽くせり」は生きる力を奪う

という一点が重要である。


またこの本の中では、介護施設に共通してある「常識」に疑問を投げかけ、打ち破っていく様が描かれている。


例えば、介護施設で利用者のご高齢の方に対し、下に見るような呼び方や扱いをしている現場への疑問と改革。

介護施設における、利用者の人間としての尊厳を大変重視している。

学校もこれに大いに見習うべきところがある。

相手が高齢者だろうが子どもだろうが大人だろうが、個の尊厳が重要なことは、同じなのである。


ここについては『不親切教師のススメ』でもかなり書いた。

例えば一年生だからできないと甘く見てもいけないし、一年生だからこれぐらいできて当然という見方も全く見当外れである。

学年という属性で一律に見るのではなく、個として見る視点が大切である。


ただ、一つ一つが古くからある慣習であり、それを破るのは猛反発と逆風が吹き荒れ、容易ではなかったようである。

しかし結果的に、ここから新しいスタンダードが生まれているというあたり、希望がもてる話である。

学校も、これから変わっていくことを期待する。

2023年1月21日土曜日

常識と差別

 前回の「言いたいことを言い合える風土が大切」という話の続き。


言いたいことを言えるようにしよう。

それは、言いたい放題言おうということではない。

言うべきことを言おう、ということである。


『不親切教師のススメ』は、言うべきことを言っている。

個人として苦しんでいるとか、言いたいから言っているのかというと、多くはそういう訳ではない。

正直、わざわざ自分を危険に晒す行為はしたくない。

世の中の「常識」に切り込む以上、批判が必ず来るからである。

的確であるほど「痛い所を突く」ことになるので、追い込まれた側からはより必死の反撃となって返ってくる。


そして「常識」は、その時、その場の大多数のマジョリティによって支持されている。

「常識」から外れているからこそ差別されるという構造なのだから、当然である。

つまりは、常識に切り込む行為とは、少数を慮る、あるいは真実の一面を示すことで、大多数を一時的に「敵」に回すこととなる。


これは、痛いし怖い。

実際に傷つけられることもある。

世界中の歴史上の人物たちが、そのために死罪になることすらあるのを証明している。

ガリレオ裁判然り、安政の大獄然り、である。


前号でも述べたが、ここに礼儀やルールがあることが大切である。

現在この国では、常識に異を唱えても死罪にならない。

日本国憲法において、表現の自由が保障されているからである。

だからこそ、お互いが言い合える。


世界の歴史は、差別との闘いの歴史である。


社会が生まれた時から、人は差別をし、格差をつけてきた。

例えば米を作るにもその土地を守るにも、指導者、リーダーと他の役割分担が必要だからである。


人権が平等であっても、社会的立場は平等ではない。

業務の分担上、雇用主と被雇用者が完全に同じということはありえない。

支配構造は格差構造を必要とし、その逆もまた然り、だからである。


差別をすると、支配や管理が容易になるという利便性が出る。

「そう扱われるのは仕方がない」と、差別される方にもする方にも心から思い込ませることができるからである。

つまり、誰もがそれに対して不当な扱いと感じなくなる。


つい最近までも、恐ろしいまでの非人間的差別がなされていた。


人種差別と奴隷制度という差別。

○○人は△△人より優れているという民族差別や宗教差別。

女性は男性よりも劣り、つき従うべきという差別。

男性は男性らしく、女性は女性らしくあるべきであり、そこに当てはまらない性の人への差別。

子どもは大人より劣等な存在であり、親が自由にしてよい、叩いて言うことをきかせてよいという勘違い。

心身に健常でない部分がある場合は、差別されても仕方がないという恐ろしい思想。


どれも今、既に世界の多くで「非常識」と化した価値観である。

これらすべて、かつての「常識」である。

(未だにそれにしがみついている人もいるが、そういう人は「時代遅れ」として世間からまともに相手にされない。)

異を唱えられるまでは「そういうもの」として、常識として片付けられてきたものである。


社会的差別とは本質的に、大多数の一般的な善人の無意識によって形成される。

それは、宗教的指導者など、支配階級の人間の意図的操作によることもしばしばある。

大多数の一般的な善人が「差別だ」と意識し始めてしまったその時点で、そのまま放ってはおけず、反対運動が起きてしまうからである。

誰かが「苦しんでいる」とわかった時点で、何とかしてあげたいと思うのが人間の本能だからである。


そして異を唱えて波紋が広がった後は、しばらく闘いが続く。

多くは「そういうことを言う奴は、頭がおかしいのだ」と猛反発や野次がくる。

いわゆる「識者」も反論を表明し、こちらは一見「理知的」な表現で論破を試みる。


「常識」に従っているのが大多数派なのだから、自然であり当然である。

「常識」とは「正義」の御旗そのものである。

これは、これまであって変わっていった差別への対応の経過が、例外なくそうであったことが証明している。


どうであれ、大切な真実、本質はたった一点。

「不当な差別や常識で苦しんでいる人が、その苦しみから解放される」

という一点である。


『不親切教師のススメ』が、小さくともその一歩になっていくことを願う。

2023年1月14日土曜日

意見するなら名乗るべし

 学校とは、そもそも何のための機関であるか。

そもそも、学校で現在やっていることは、本当にいいことなのか。

『不親切教師のススメ』では、本文全体を通して、この疑問を投げかけている。


こういう疑問をもつこと自体、「危険思想」とされ処罰される国もある。

自由に発言・発信・出版ができるというのは、有難いことである。


学校も、そうでありたい。

自由なことを言い合える風土。

それが、職員間でも子ども同士でも、先生方と子どもたちの間でもできるのがいい。


そしてそういう場でこそ、本物の礼儀が役に立つのではないかと思う。

言いたいことを言い合えるというのは、礼儀ベースである。

なぜならば、相手も自分の属する社会を構成してくれている一員であり、尊重すべき存在だからである。


互いに自由にものが言えるのも、礼儀があってこそである。

普段からリスペクトが感じられるからこそ、耳に痛い厳しい意見も受け入れられる。

立場の上下に関係なく言えることである。

礼儀とは、社会生活における有用な潤滑油である。


だからこそ、名乗るというのは重要である。

一人の存在として認識できる相手でないと、その言葉を信じることができない。

「オレオレ詐欺」は、架空の違う人間になりすますから、詐欺なのである。

本当にその「オレ」であるならば、詐欺にはならない。


自分の立場を明確にし、堂々と議論すること。

クラス会議でも重要である。


一方「匿名」が有用な時もある。

選挙では、誰に投票したかが知られると、理不尽な不利益を被る可能性がある。

だから匿名性が担保されている。


心の悩みの電話相談もそうである。

そうしないと本音が打ち明けられないから、匿名でOKである。


つまり匿名が認められるのは、弱い立場の人を守る場合である。


一方「何かを変えたい」と要望を出す場合や「批判したい」という場合、名乗る必要がある。

それを受け入れることによって相手にもコストがかかるのだから、言う側もコストをかけて然るべきである。

「自分だけが安全・安心でいたい」という姿勢には、賛同しかねる。


もしも何かに対し不満があるなら、声を上げるか我慢するかを選ぶしかない。

声を上げるなら、それ相応のコストを支払う必要が出る。

発言には、勇気がいるのである。


学校で教えるべきことは、そこである。

勇気は、言う気。

語呂合わせの駄洒落だが、言う気を持たねば、何も変えられない。


恥ずかしくても、自分の意見を表明してみる。

オープンな場で、自由に述べた互いの意見が尊重される。

そういう経験を積める貴重な機会が授業であり、クラス会議である。


せっかく自由に意見を言える国に生まれたのだから、そういう自由闊達な子どもたちを育てていきたい。

2023年1月7日土曜日

「みんな教」を見直そう

昨年、次の記事が注目を浴びた。


必死に逃げ回る人間を的にするドッジボールは「人間狩猟ゲーム=弱肉強食思想」の教育だと断言できる理由


タイトルがキャッチ─で刺激的なのは、ネット記事の宿命である。

まずクリックしてもらわないと話が始まらない世界なのである。

しかしながら共感と反感も生んだようで、テレビメディア等でもしばしば取り上げられるほどの議論となった。


このタイトルだけ見たら

「ドッジボール」=悪

と捉えているように思われても仕方がない。

内容の方をきちんと読んで欲しいのだが、それは読んでもらうためのタイトルをつけたこちらの勝手な都合というものだろう。

不親切教師のススメ』全文をじっくり読んでいない方の視点からすれば、致し方無いことである。


実はここで「やめよう」と訴えている対象は、ドッジボールという遊びそのものではなくて

「みんな」

という方である。

私は「みんな教」と名付けて呼んでいる。

(類似したもので「揃える教」というのもある。)


「みんな教」においては、「みんなご一緒に」が教義である。

そこでは、個人の事情や差異には注目しない。

集団における「平等」という正義の名のもとにおいて、逸脱や勝手な行動は許されない。


「給食を全員残さず毎日完食」というのは、そのわかりやすい例である。

牛乳嫌いの子どもにとって、牛乳が毎日欠かさず出るのは苦行か嫌がらせでしかない。

しかし「みんな教」において、「自分だけ飲まなくてよい」という選択肢はないのである。

そんな「わがまま」な人間は、社会に出て通用しないというのが、「みんな教」における有難い教えである。

その根本には「みんなと一緒、平等に、立派な人間にしてあげよう」という、温かい「愛」がある。


これは「休み時間のみんな遊び」においても適用される。

これに参加しないという選択肢はない。

学級の「団結力」にひびが入るだけでなく、数人がやらないとなれば「いじめ」に発展するかもしれないからである。


そういう訳で、「みんな遊び」においては、全員参加が基本となる。

遊びの内容は、多人数で一緒にできるものになるので、鬼ごっこなどが中心となる。

その候補にドッジボールが挙がることもしばしばである。


ドッジボールは、一部の子どもたちにとって「みんな遊び」における悩みの種である。

鬼の字のつく鬼ごっこより、鬼門である。

ぶつけられて痛い上に自分にボールが回ってくることはなく、万が一パスが来ても当てようがないからである。

そもそも、ぶつけるのもぶつけられるのも嫌という子どもにとっては、先の牛乳嫌いと同じで、苦行でしかない。


一方で、一部の血気盛んな子どもたちにとっては、大変面白い遊びである。

全力でぶつけたい&捕りたい、よけるスリルを味わいたい子ども同士でやるのであれば、エネルギー発散になる。

要は「やっつけることができるかもしれないし、やられるかもしれない」という対等な関係性で行われるべきものである。

スポーツ以上に、格闘技に近い要素がある。

そしてこれは、一部の人々が熱狂するものであり、社会的ニーズも確実にある。


ただ、一部の人にうけるものだからといって、そうでない穏やかな人が参加する義務も意義もない。

やりたい人とやりたくない人が一緒にやっても、お互いにデメリットが多いばかりである。

会社の定例飲み会のようなもので、無理に参加させないで、本当に行きたい人同士で行けばいいのである。

(この辺りの考え方は、若者世代と上の世代との世代間ギャップが大きいところでもある。)


「相手が強いからこそ燃える」というのがスポーツや格闘技、ゲームの本質的な楽しさである。

力の強い子どもほど、そうでない弱い相手に当てるのは罪悪感を伴うものである。

(そう思わなくなったら、ますますよろしくない。)


結論として、多くの場合ドッジボールは「みんな」でやるのに適さないという考えである。

道具やルールを相当に考えても、苦手な子どもが心から楽しく参加しつつ、力の強い子どもが満足するものにはしにくい。

自分もかつて相当工夫したが、それでもやはり苦手な子どもの結論は「できればやりたくない」である。

(圧の強い教員や同調圧力の強い集団下においては、本音が言いにくいので「楽しい」と言ってしまうのが難しい問題である。)

それすらも絶対ではないが、そこまで完璧な配慮のできる担任が全国の教室に存在するのを望む方がまたさらに難しい。


たった一つの強い事実として

「小学校のドッジボールが心底嫌だった」

という声が相当の数上がっているという点である。

実際、私のかつて担任した子どもが大人になってから聞く話にもそれは出る。

(そもそも、こちらの愛情溢れる親切の数々が、無意味あるいは大きなお世話になっていたというのは、痛い事実である。)

この一点だけ見ても、見直す必要性があるのは間違いないといえる。


多様性を認めようという現代の潮流に反する「みんな教」の一端として問題提起した次第である。

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