2021年4月30日金曜日

求められる役割を演じる

今年度、新しい環境でスタートを切った人も多いことと思う。

 

新しい環境でやるとは、新しいルールでやるということである。

メンバーが変われば、やり方も変わる。


ハードル走にたとえる。


学校でのハードル走の学習だと、いきなり競技用の高さと間隔でやらせるようなことはない。

子ども自身の実態に合わせて、色々と変えて与える、あるいは選べるようにする。

ある意味オーダーメイドの「自分ルール」でやれる。


しかし実際の社会では、ハードルの高さも間隔も選べない。

同じ条件、ルールの上で、平等に競争は行われる。

そこに競技者が合わせる。

「社会ルール」である。

(学習指導要領で内容を定められた学校にも、そういう側面が強くある。)


新しい環境では、今まで通った自分ルールや旧ルールは通用しない。

自分の方が合わせる必要が出る。

新しい自分を演じる必要が出る。


「演じる」というと嘘の自分のように感じるかもしれないが、そうではない。

演じるとはその場で必要な仮面につけかえるということ。

前にも書いたが「ペルソナ」である。

(参考:教師の寺子屋 「ペルソナは集団で決まる」


与えられた役を演じ切ることは、決して簡単ではない。

その役に必要なこと、求められていることは何かを考えて、演じる。


例えば、前年度荒れていた学年の担当で「まず全体を落ち着かせる」が求められたとする。

そうなると、まずルールを通す必要が出る。

子どもたちに自由にやらせるようなやり方は通用しない。

自分の役割としては、毅然と振る舞い、ルールを通すことが優先である。


「子どもたちの心のケア」が優先で求められているとする。

この場合、温かな雰囲気づくりの方が優先で、ルールは最低限以外、だんだんと通していく感じになる。

全体的にゆるめのスタートになる。


「学校にとりあえず慣れて」という場合もある。

異動したてで、子どもたちに対してどうこうではなく、まず自分が周りに教えてもらおうという場合である。


いずれにしろ、気負いすぎるとうまくいかない。

全力を出すには、ほどよい緊張感とリラックスの両方が大切である。

入念な準備と本番を楽しむ余裕という関係である。


異動した人は新天地にきっと緊張しているに違いないが、受け入れる側にも同様に緊張感がある。

ある意味、お互い様である。

お互いが気持ちよく働ける環境を作ろうという思いは共通である。


新しい場で求められていることは何かを考えて、新たな環境を楽しめるようにしたい。

2021年4月28日水曜日

「ダム経営」と学級開き

 「ダム経営」という言葉がある。

以前にも紹介した、次の本からである。


『実践経営哲学』 松下幸之助著 PHP文庫

https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-57562-9


松下氏は、会社も部署も、家族も、そして個人すらも、すべて「経営」であるという。

私も大いにこの考えに賛成である。

だから「学級経営」「学年経営」という言葉も成立すると考えている。


さて、この経営のやり方の一つの中で「ダム経営」というのを紹介している。

簡単にいうと、ゆとりをもって経営をするのが大切ということである。


設備であれば、常時は操業率80%ぐらいで採算がとれるようにしておく。

そうであるからこそ、急な需要が出た時などの非常事態に、100%にしてきちんと対応できるということである。


初期の制度設計の上で、ゆとりがないと、確実につぶれる。

「非常事態がない」ということが、逆に考えられないからである。

想定外の非常事態が起きるということを、想定内にしておくことである。


いざとなったら、放流もできるし、せき止めて溜めておくこともできる。

そう考えれば、心の余裕ができる。

こういった「心のダム」を随所にもつことが肝要であるという。


一方、採算を見誤って余剰在庫が出てしまっているのは、単なる「ムダ」であるという。

授業の準備のしすぎなど、これにあたるだろう。

やりすぎて、想定して決めた路線以外で授業展開ができないような状態である。


学級経営では、ムダでなくダムが必要である。

常に全力100%経営は、ダムがない状態で、どこかムダのある状態である。

平常時の操業率は、80%以下程度にとどめておく方が望ましい。


選手たちは、試合中なら100%全集中で全力疾走の状態が望ましい。

しかし経営者側となれば話は別で、余裕が欲しい。

そうでないと、非常事態やトラブルに対応ができないからである。

困った事態、難しい事態に適切な判断を下すことこそが、経営者側の最も重要な仕事だからである。


学級経営上での突発的トラブルの主たるものは、生徒指導関係である。

あるいは、子どものけがや病気である。

常にここへの適切な対応ができるように準備しておくことが望ましい。


そもそも学級担任が余裕をもてる体制・仕組みになっているかどうかという問題もある。


例えば学校によっては、月に1度、朝に担任が子どもからの手集金をしている場合がある。

この時担任は、15分程度の休み時間のタイムリミット内に一円たりとも間違えずに確実に計算し、事務方へ計上しなくてはいけない。

(こういう時に「おつり」のある状態で出されると、非常に煩雑で手間がかかる。学校は商店ではない。)


当然、この間子どもを見ている職員はほぼおらず、そうなると、必然的にトラブルが発生しやすい。

そしてここでトラブルが起きたら、色々大混乱である。


こういう学校に限って「担任がだらしない、しっかりしろ」と言われたりする。

余裕のない状態を学校が自ら作っていることに誰も気づかないので、当然である。

色々な面で、どんどん悪くなる。

人事異動などは、こういう古くからの悪い風潮に疑問をもち風穴を開けてくれる可能性があるので、その点で大変意味がある。


ダム的発想として、担任の休み時間は必須である。

担任が遊ぶ余裕がない状態に制度設計してしまうと、生徒指導などの様々なことが疎かになる。

子どもと遊べないような忙しい状態(常時100%操業率)で、健全な経営ができるはずがない。

(というよりも、子どもと遊ぶのは仕事の一部といえるので、遊んでいるのも含めて80%操業率が望ましい。)


拙著『「捨てる!」仕事術』などでも

https://www.meijitosho.co.jp/sp/eduzine/interview/?id=20170607

「残業しないで帰る人がいるのはいいこと」

と述べているが、これである。


常時全員残業状態では、行事やトラブルなど臨時のものに対応できない。

余裕の職員がいるからこそ、そういう時にもスムーズな対応ができるというものである。

「働きアリの法則」で、全力でない状態のメンバーもいた方が、集団全体の存続にとって望ましいのである。


とはいえ、担任の立場で、学校の制度をいじることはなかなかできない。

まして、人員増などは完全に範疇の外である。


そうであるならば、工夫して普段からの自分の学級経営に余裕をもてるようにするしかない。

「いつも全力100%」は、選手が心がけるべきことであって、集団を経営する者がすべきことではない。

危険やトラブルを予見して予防に力を注ぐことと、いざという時の非常事態に100%を出して解決するのが役割である。


その上であっても、担任が経営として全力を尽くした方がいいところとは、「学級開き」である。

ここには全力を尽くす。

ここは、今後のあらゆる面の「予防」にあたる部分だからである。

その後はトラブルも必ず起きるので、少しずつペースを落として余裕を作っていく。


学級開きについては、各種書籍にも出ているし、私も過去にたくさん書いたり喋ったりしているので、ここでは省略する。

ダム経営を目指すためにも、この学級開き時には全力を尽くすとよいと考える。

2021年4月26日月曜日

背負えない時は背負えないと言おう

 現役のしんどい現場教員の方々へしたい話。

「先生がもっとがんばれ」という立場の方にとっては、不快になるかもしれないので、先にお伝えしておく。


次の本から。


『実践経営哲学』 松下幸之助著 PHP文庫

https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-57562-9


この本の中に「共存共栄に徹すること」という項目がある。

競争があること自体は好ましいこととし、適正利潤というものを大切にしている。

しかしながら、「過当競争」には警笛を鳴らしている。


以下、本文より一部引用する。

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(引用開始)

そうした適正利潤を得られないような過当な競争が続けば、業務全体が疲弊してきて、場合によっては倒れるところも出てくる。

それは概して資本力の小さい中小企業などで、資本力のある大企業ほどもちこたえられるから、そこにいわゆる資本の横暴といった姿も生まれてこよう。

(引用終了)

=================


この後「経営適格者であっても資本力がなければ倒されてしまう」と述べられている。

そして最終的には国家・社会にとってマイナスであるため、大企業ほど共存共栄への責任が重いとしめくくっている。


これを読んで、全国で次々と倒れてしまう学校教員の方々のことを考えた。

恐らく、原理は同じである。


労働基準法により、国民に適正な労働時間というのが定められている。

この点について,教員、特に中学校教員が世界ワースト1であることは広く知られているところである。

行き過ぎた部活動などは、この「過当競争」の亜流ともいえる。

(企業の利潤の代わりに、大会成績などの実績が求められる。)


問題は、倒れてしまう人が「不適格」であるかのような誤解をされることである。

そうではなくて、単に倒れなかった人は、たまたま倒れなかっただけと考える。

ものすごく体力があるとか、メンタルが強いとか、指導技術が高いとか、たまたま環境がよいとか、要員は色々ある。

この人たちは、運よく倒れずに結果を出せたので、日が当たり認められる。

しかしそうではなかった人たちのがんばりを認めないと、最終的には長期的に見て大きなマイナスになる。


すごく愛情や情熱があっても、生来体が弱くて体力がない人もいる。

指導技術自体が適正でも、子育てや介護など、様々な理由で時間がない人もいる。

また、きちんとやっているけれど、荒れている学校や学年など、児童生徒の集団がかなり手ごわく、しんどいということもある。


「適正」という観点でがんばっていたら、「過剰」を求められるので、倒れる。

何とか持ちこたえてしまっていると、「ならばもう少し」と、さらにどんどん積み荷を載せられてしまう。

学校現場そのものが、この状態である。


実際、その人が倒れるぎりぎりまで、負荷が強くなる。

他がすでに倒れており、積み荷をこれ以上載せられないからである。

しかし、さらに多くの運ぶべき積み荷が現場にはおろされる。

悪循環である。


一番考えたいのは、あなたが背負っている荷物が、実は重過ぎるのではないかということ。

どうせ倒れるまで積まれるのだから、適正な箇所で音を上げる必要がある。

中には、人よりかなりたくさん背負っても、走っていける人もいる。

しかし、自分がそうでなくてはならないということはない。

一人ががんばりすぎるのではなく、チームでカバーし合うべきものである。


がんばらないことが問題視される風潮があるが、がんばりすぎることの方がはるかに問題である。

自分を鍛えるために、挑戦として気合を入れて無理に背負う時期があってもいい。

しかしどう考えても背負えないと思える時は、正直に背負えないと伝えることも、大切である。


死ぬまで働くよりも、生きることの方がより大切である。

がんばることより、無理なことは無理ときちんと伝える勇気が必要である。

2021年4月24日土曜日

教えるべきか任せてやらせるべきか議論

 先月の学級経営学習会で話した内容のシェア。


「教えるが先か、やらせてみるが先か」

ということが話題に上がった。


これは、ニワトリが先か卵が先かという話でもある。


結論、時と場合による。

極端な話、全く字が読めない状態で教材文を与えても、読めない。

一方、パソコンや運動のように、体験した方がてっとり早いものもある。


少なくとも、力量に自信がない内は、「まずきちんと教える」が基本になる。

フリーに動いている状態を掌握していく方が、より難しいからである。


そしてこれが大事なのだが、両者は往還であるということ。


教えてもらってばかりでは主体性が育たない。

一方で、自分たちでやっているばかりでも上達しない。


あることができるようになる。

また教える。

教わった方法でまたできる。

これをひたすら繰り返していくと「教えないとできない・やらない」という状態になる。


あることについて、自分たちで試してみる。

最初はうまくいかないが、試行錯誤している内に、ある程度できるようになる。

それで良いのだと満足する。

レベルが低いままで止まる。


つまり、指導者には「教え導く」役割と「壁」の役割の両方が求められる。


くじけないように励ましながら、教えてあげる時がある。

基本的に、自力で何とかならない時である。


一方、壁となって立ちはだかる時がある。

今のレベルで満足させない。

「もっと上がある」「その程度ではOKを出さない」ということを見せるべき時である。


学級活動の場合を例に挙げる。


例えば、子どもが学級お楽しみ会のようなイベントを企画する。


最初は、会の大体の型を示して教えてもよい。

そもそもそういう経験が全くない集団にとっては、そういう会を企画すること自体、思いつきもしないからである。


最初に教えてあげた時は、うまくいく。

司会もある程度手伝ってあげればよい。

まず「こういう感じ」をおさえる。


次に、子どもたちに委ねていく。

すると、あまりスムーズに進行しない。

失敗もする。

そこで初めて「次はどうしたらうまくいくか」

を考えだす。


リトライすると、今度は結構うまくいく。

満足する。

そこで、「実はこういうことをやることもできる」と、新たに課題を出す。


次にやってみると、またうまくいかないが、リトライする。


この繰り返しである。


やがて、こちらが課題を出さなくても、自分たちで発見するようになる。

そうなれば、もう時と場だけ与えて見守るだけでも、どんどんレベルアップしていく。

A.I.のシンギュラリティはそう簡単にはこないようだが、人間には自らを高める能力が生来ある。


今、学校教育は「子どもに委ねる」が主流である。

しかしながら、それは指導が不要という訳では決してない。

高みを目指す過程の中で、委ねる場面と教える場面があるというだけである。


流行に流されて、どちらか一方に偏ることのないようにしたい。

2021年4月22日木曜日

ルールが正義を規定する

 学級担任を何年やっていても常に考えるのが、ルールの重要性についてである。


ルールは、嫌がられる。

新しいルールが作られるとなると、さらに不自由に感じるようになる。


交通ルールが最もわかりやすいが、駐車禁止や速度制限というのは、自分の思うままに運転したい人にとって足かせのように見える。

しかしながら、これがない、もしくは緩いとなると、とても外を車で安全に走ることなど不可能である。

交通ルールがあるからこそ、多くの人が本当に自由に外を動き回れるともいえる。


例えば飛行場がノールールで航空管制官がいなかったら、恐ろしいことになる。

ルールに則って指示系統を司り、秩序を保っているといえる。


また、ルールを守るよう指導し、かつルールを破った場合の後の対応まで担保する存在も必須である。

社会だと、最終的には裁判官と弁護士の存在である。

これらの人々は「公平な正義」を司る。


その象徴として、裁判所の入り口に立つ女神像は、片手に剣、片手に天秤をもつ。

天秤で真理を求めてはかり、剣で審判をくだす。

私は実際に見たことがないが、弁護士バッジにも天秤が刻印されているという。


つまり、法(ルール)が正義を規定するといえる。

さらにそれは、場によって正義が変わるということでもある。


学校教育で考える。


学校というのは、かなり人が込み入った空間である。

価値観も考えも動きも異なる人たちの集まりである。

そこに一定の秩序をもたらす必要がある。

ルールがなければ、個人の正義が乱立してしまい、混乱するからである。


だから学校には、一定のルールがある。

ルールがあるということは、そこに正義が規定される。


学校ルールの大原則は、他者の権利を侵害しない範囲で個人を尊重することである。

互いの個人の自由が認められるということは、他人の自由を侵害するような行為は認められないということでもある。


言い換えれば、学校という集団社会の中では、


他人の権利を侵害しない義務 ≧ 個人の自由を尊重する権利


である。

そういうルール設定なっている以上、ここに正義がある。

他者の権利への適切な尊重が、自己の権利が尊重されることとつながっている。


「個別最適な学び」も、あくまでこの上でこそ成り立つ。

文科省の答申でも「個別最適な学びと,協働的な学びの実現」とわざわざ銘打っているぐらいである。

あくまで他者の存在を尊重する前提での個別最適な学びである。


見方を変えると、ルールそのものが不合理だと、規定される正義もおかしくなる。

今話題になっている校則問題などは、大抵はルールそのものが不合理なのである。

ルール自体が、他人の権利を侵害しない義務という大原則に則っていないのである。


ルールが正義を規定するのだから、ルールそのものの検討が必要になる。

ルールを鵜呑みにして従うのがよくないというのは、そういう点にある。


学校ならば、先の大原則に従ったルールになっているかをよく見る。

「廊下を走らない」などは、その点で意外と理にかなっている。

大抵の場合、

誰もが安全・安心に廊下を移動できる≧私が急いでいるから走りたい 

だからである。


一方で、廊下の歩行なぞ、本来はルールというより、暗黙の了解で済む程度のものでもある。

(ただし、完全に守られることは決してない。そして、恐らく完全になくなることもない。)


制服問題などは、この点から検討すべき類のものである。

そのルールが、他人の権利を侵害していないかと考えた時、運営側の都合が優先されるべきか、生徒の側に立つべきかということである。


ルールを鵜呑みにしないというのは、ここへの検討もなく、ただ従うから言われることである。

ルールが正義を規定する以上、ルールがおかしいと、そこから生み出される正義がおかしくなっているはずである。


ルールが正義を規定する。

あらゆるルールに対し、無暗に反抗するでもなく従うでもなく、目を見開いてその真理を見極めるようにしたい。

2021年4月20日火曜日

マイナスとマイナスはプラスになる

 以前に引用した次の本からの気付き。


『愛と祈りで子どもは育つ』

渡辺和子 著  PHP文庫(2017)

https://www.amazon.co.jp/dp/4569767672


この本の中に

「マイナスとマイナスはプラスになる」という言葉がある。

心の平和を得るには「ダブルの損」が必要とのことである。


あいさつをしたのに返されない。

それだけでも腹が立つ。

しかしその無礼を許すだけでなく、次の機会にこちらから「おはよう」と声をかける。

これで初めてプラスになるという。


全くその通りである。

学校というのは、言うなれば不完全だからこそ来る場である。

あらゆることに「マイナス」な反応が通常である。


授業であれば、問に対し「正解」が返ってこないことが前提である。

こちらの「こう答えるだろう」に対し、全く見当違いの答えが返ってくる。

それを「なるほど」「面白い」と返せるかどうかで、結果がプラスに転じるかマイナスのままかが決まってくる。


あらゆることにいえる。


生きていれば不快なこと、嫌なことはたくさんある。

それが「起きないように」と願っていても、必ず起こる。

「よし、やっぱり起きたぞ」と事前に構えていれば、準備もできるし前向きに対処できる。


あいさつについて、よく子どもたちへ話していることがある。

「あいさつは、基本的に返ってこないと考えてこっちからするとよい」ということである。

下手に「あいさつ運動」などをやると「返さない!」と憤る子どもが結構いるからである。

(人が他人を批判して憤る時、自分を振り返る視点をもてないのが辛いところである。)

「あいさつ運動」を本気でやるなら、雨の日も風の日も交差点に毎朝立ってくださっている方たちぐらいの意思と継続力が必要である。


存在そのものに対してもそうである。

何を言ってもマイナスな反応ばかりの子どもがいる。

あるいは、不適切で嫌な言動を積極的にとる子どもがいる。

自己肯定感が地の底にいる子どもたちである。


これに対し「どうしようもない」と切り捨てることは簡単である。

一方で「だからこそ自分が役立つ」と思い、ダブルの損を受けて耐え、与え続ける人だけが、プラスの結果を残す。


結局、損なことを損だと思わずやれるかどうかにかかっている。

掃除への態度などは、この辺りを端的に表す。

自分の手が汚れる、面倒だと嫌々やるか、汚いからこそ自分がきれいにできると意気揚々とやるか。

掃除が好きな人は、自分だけが一生懸命やることを全く損だと思っていない。

(だから、掃除には非常に高い教育効果があるが、意味を感じられない人にはより大きなマイナスかもしれないとも思う。)


正しいことに正しく返ってこないことを認める。

損をして、さらに損をすることで、得るものを生み出す。


これができるのは、自らを満たしている人だけである。

満ち足りていない状況の人は、求めてしまうからである。


マイナスとマイナスでプラスの結果になる。

嫌なことや辛いことが続く時には、心の支えにしたい考え方である。

2021年4月18日日曜日

教えるか体得か

 子どもたちには、主体的に学んで欲しいと願う。

できれば、受け身の姿勢で無理にやらせることは避けたい。

教える側からすれば、当たり前の願いである。


しかしながら、全てが主体的にいくはずがない。

やりたがらないこともある。

最初は渋々ながらも、あるいは全く興味なかったことでも、やっている内に好きになることもある。

逆に、やればやるほど嫌いになることもある。


これは、スルーかリアクションかの判断についてと関連する。

無理にやらせないで流してしまうべきか

大変でも辛くても課題として取り組ませるべきか

という違いである。


学びの段階でいえば、大学での学びは、完全に主体的に選択したものであることが望ましい。

学部まで自分で選んで入ったのだから、当然そうあるべきである。

(しかしながら、実情が必ずしもそうでもないということは、承知である。)

教える側からすれば、基本的に求めてこない限りスルーが多めになる。


逆に、小中学校というのは、とにかく幅広く様々なものにふれる時期である。

「知らないからやらない」「できないからやりたくない」を認め続けることが必ずしもいい時期ではない。

試しにやってみる、チャレンジしてみるということが大切な時期である。

教える側からすれば、基本的にこちらからの促しやリアクションが多めになる。


さらにこれは、

人から教えてもらった方がいい段階

自分で失敗しながら学んだ方がいい段階

の違いへの意識でもある。


一番最初は、とにかくふれる段階。

何だかわからないけどいじって遊んでいるような状態である。

例えば赤ちゃんがやたらと口にものを入れる段階である。

初めてパソコンにふれる時などもこれである。

学校でもこれから随時一人一台PCが配付されていくが、まずはさわって遊んで経験するところからである。


もう少しすると「できない」「わからない」ということが起きてくる。

「できない」「わからない」は、何か目的意識をもった時に初めて登場する。

克服のために教わりたいという必然性が生まれるので、教えることができる。


本当の初心者は、そういう意味で教えやすい。

初めてで何もわからない分まっさらで、教わる時にも自然と謙虚になりやすい。

予習や早期の詰め込み学習の弊害はここにあり、生わかりしていると、態度だけでなく理解も悪いことが多々ある。

(先に誤った手順で覚えると、「消してから書き直す」分、修正に無駄な労力と時間がかかる。

漢字の書き順や各種フォームなども同様である。)


現在の小学校段階の教育では、興味づけに問題の一面があるといえる。

常にやることを教わって点数を追う形だと、短期的には成果が出るが、そこにしか目が向かなくなる。

「学ぶ=楽しい」という基本中の基本が抜けてしまい、中長期的に見ると残念な結果になる。


また、失敗を通して克服し、自ら体得していく経験も大切である。

教える側からは失敗がわかっていても、敢えてスルーすることがある。

本人が「これぐらいで大丈夫」と見積もりを甘くして、十分な準備をしない時である。

これは、「痛い経験」をしてみないと本質的に学ばない。

危険物や障害物を大人が都度全て取り除いてしまっていては、学べないことがある。


逆に「このままだと失敗する」とわかっている場合に、きちんとフォロー、リアクションしていく時もある。

それは、失敗させない方が中長期的に見てよいと判断される時である。

例えば、完全に自信喪失している状態なら、失敗させない方がいい。

あまりに危険な場合も同様で、失敗した後に立ち上がれない状態になりそうな場合は、事前に教えて助けてあげるべきである。


そして現在の小学校周辺の段階の様子を見ると、「教えてあげすぎ」の傾向が強いように思う。

求めていないことを大人の都合で無理にやらせてみたり、転ばないように常に先回りしている傾向が見られる。


小学校段階だからといって、やたらと教えればいいというものでもない。

ほどよく失敗も経験して、自分で選ぶことも大切である。

逆に、教えるべき段階でも教えずに、ただ放置していても当然学べないので、そこのバランス感覚こそが大切である。


まず、題材を提示してみるところで、一仕事。

その後「どうしたい?」と問いかけて、様子を見る。

大体この辺りが授業でも生活指導でも何でも基本型になるのではないかと思っている次第である。

2021年4月16日金曜日

新しい学級で一番大切なこと

 学級開きについての執筆や講座をさせていただく機会が多い。

これまで色々と具体的な方法を書いたり話したりして伝えてきた中で、一番大切なこと。

それは、新しく出会う子どもに対するリスペクトである。


ここが決定的に大切である。

理論ではなく頭で考えることでもなく、気持ちの問題である。

教える、教わるという関係性であるからこそ、ここが大切になる。


それは同時に、親への感謝でもある。

「自分に大切なわが子を預けてくれる」ということへの感謝。

これは思っていても伝わらないので、学級通信なり懇談会なりで言語化して伝える必要がある。


リスペクトは、すべての人間関係に双方向で必要である。

一方通行だと、必ず失敗する。

相手がもってくれることを期待するよりも、自分から示す方がよい。


ただし、現実問題として、難しい場合も多々ある。

子ども同士を想定してみても、「合わない」同士ということは結構ある。


折り合いを学ぶ場である。

リスペクトすることは好きになることとは違う。

好きでないものは好きでない、それでいい。

そういうものだと互いの考えを認め、尊重するということを学ぶ貴重な機会である。


新たに出会うすべての子どもや保護者、もしくはすべての同僚と完璧に合う、好きになれるということはない。

(自分の個性の強さ、我の強さを思えば、誰しもが納得するはずのことである。)

その前提があるからこそ、リスペクトが大切になる。


最大限のリスペクトの気持ちをもって、新しい学級に望みたい。

2021年4月14日水曜日

新年度の環境を清める

先週、どこも新しいスタートを迎えたことと思う。

異動があった人はもちろん、なかった人も、多くは教室やデスクなどの場は移動したと思われる。


この時が、チャンスである。

みんなにとって、新しい場なのである。

そして、場を移動してきた先は、前に使っていた人の快適状態である。


私は、移動した場では必ずこれを見直す。

年末大掃除ならぬ、年度はじめ大掃除である。


余計なものがあれば廃棄するか他へ譲る。

そしてものをどければ大量のほこりが出てくる。

掃き清める。


こうすると、必ず広いスペースができる。

今まであったものがなくなったのだから当たり前である。

教卓などの面積の広い大物ほどいい。

一気に広くなる。


また、部屋のほこりっぽさは、外からではなく、実はそういう部屋の溜まったところから発生していることが多い。

特に今は春風が吹く時期で、しかも感染症対策で窓や扉を閉め切ることができない。

そうすると、風が入ってくるたびに、溜まった部分のほこりが少しずつ拡散される。


棚の上などの高いところのほこりは、少しずつ頭上や机の上に落ちてくる。

机の下などのスペースの大量のほこりは、少しずつ足元に出てきて、舞い上がる。

それを普段吸って生きているのだから、気持ちいいはずがない。

(常時マスクは、部屋にほこりが溜まって環境ほど、健康を守るのに有効である。)


書いててくしゃみが出そうになるが、そういうことである。

だから、モノを減らせばほこりが減る。

ほこりが減れば、みんな健康になる。

当然である。


文字通り、空気がきれいになる。

そうすると、気分も変わる。

新しいことを始めようという時は、この空間をきれいにするところからである。


これは教室にも適用される。

教室の中で「不動」の部分があると、そこにほこりがたまる。

重くて持ち上げられない教卓など、その最たるものである。

「隅っこ」と「モノの下」は清掃の最も重要なポイントになる。


また、新年度に学年メンバーで大掃除をすると、「お宝」が発見できることがある。

こんな便利なものがあった、ここに学年行事で前に使ったものがあった、といったことが学年で共通理解される。


新年度の忙しい時期にそんなことしている暇はないと思うかもしれない。

ずっとやるのではなく、日々少しずつやる。

朝や放課後の10分間だけなど、決めて行う。

そうすると、必ず何かが変わる。


スタートの環境づくりに労力をかけることは、費用対効果が最高にいい。

効果てきめんである。


ポイントは

1捨てる(整理)

2清掃する

3ものの住所を決める(整頓)

の3ステップで行うことで、1を思い切ることが最も重要である。

学校には、昭和や平成1桁のものとかが結構残っているので、そっと処分してあげるのが後の人のためにもいい。


新年度、気持ちのよいスタートのためにも、処分できるものはしてしまいたい。

2021年4月12日月曜日

問題を忘れない

今年で東日本大震災から10年が経った。

昨日4月11日で、10年と1カ月である。

10年も経つのに、一部の被災地は復興の目処が立たない。

原子力発電所というのは、もたらすエネルギーが大きかった分、マイナスも甚大である。


その膨大な電力の恩恵を受けていたのは、特定の地域の人々ではなく、この国に住んでいる我々全員である。

全員が決して無関係ではない。

恩恵を受けていた以上、そこについては考える義務がある。

今は福島第一原発の汚染処理水の海洋放出の方針を固めたとのことで、今後ますます注視すべき事柄である。


技術的なことなど、何も直接的なことはできないが、風化させないことである。

問題が解決していないのに、見ないふりをしないことである。

問題への認識が大切である。


私がたびたびお世話になってきた「被災地に学ぶ会」には、昨年度、感染症対策のために全く参加できなかった。

そんな中、中心メンバーの方々は少数で活動していたとのことで、ご報告をいただいた。

ボランティアの数は大幅に減り、一年前の10分の1程度だという。

しかし、浪江町には「道の駅なみえ」が昨夏オープンするなど、住民の帰還を促すための復興事業が少しずつだが進んでいるという。

今年度こそは、何とか参加したいと願う限りである。


大きな問題が別に起きると、そちらに意識がいく。

新たな問題の方にばかり目がいきがちだが、その前からの問題は一向に解決していない。


こういうことは、日常でもよくある。

学校の問題などこの連続である。


例えば、全国のいじめ問題には「ブーム」があるように見える。

実は、ブームなどはなく、いつも問題は起きていて、都度大きなことがある度に注目されるだけである。


新しい問題にはきちんと向き合う。

一方で、以前からの未解決問題を放置しない。


被災地復興への問題意識は、今後も忘れてはならない大きな問題意識である。

2021年4月10日土曜日

通知表の評価は指導者自身への評価

時期がずれてしまったが、 年度末の通知表の時期に書いた記事。

指導と評価について。


「指導と評価の一体化」が大切とよく言われる。

よくよく考えると、当たり前のことである。


指導というのはある一定の目標を指して導くものである。

(支援とは違う。)

目標の方向へ向かっていればよし、そうでなければ修正が必要である。


この時、指し示した方へ進んでいれば、高く評価される。

高く評価されることで、これでよかったのだとわかり、安心してますますそちらの方へ進む。


評価が低かった場合、「そっちじゃないですよ」というメッセージを受け取る。

修正をせねばならないとわかり、努力の量や方向が変わる。


指導された方向に従って努力したはずなのに、低く評価されたと感じる子どもがいたとする。

この場合、努力の量が足りなかったのか、方向がよくないのか、指導者側が示す必要が出る。


逆に、指導された方向へ努力しなかったのに高く評価されたとする。

これは混乱する。

がんばっていないのに「よくがんばったね」と褒められる。

「こんな程度でいいのか」あるいは「見てないな」と感じる。

これにより、低い方向へ導かれることになる。


つまり、指導と評価の一体化とは、指導したことに正対した評価をするということである。

よい評価の方向が指導の方向を決めるともいえる。

評価をされる方向に子どもが伸びるといもいえる。

(多分、会社などでもこれは同じではないかと思う。)


評価が誤っていると、子どもの成長はあらぬ方向に向かうことになる。

例えば「人に優しくしましょう」と指導しているのなら、それをしている人を高く評価する必要がある。

とにかく高い個人パフォーマンスを発揮して周りを無視して進んでいく子どもを評価していれば、人を気遣う優しさよりそれが正しいのだと認識される。

だから、指導と評価は一体化というより、本来両者は不可分である。


通知表をつけていて、伸びたと感じたなら、指導と評価が正しく機能していたといえる。

子どもの通知表への評価は、指導者自身の指導への評価そのものである。

2021年4月8日木曜日

「間違い」→「ニーズの違い」と理解する

前号の続き。

文化の違いと正解の違いについて。


働く側が職場に対して求めることも異なる。

ある人は、自由に創造的に働けることを求める。

ある人は、やることが予めきちんと手順まで決まっていることを求める。


規律がきちんとしていて、定時に帰れることを求める人もいる。

規律等はゆるくても、とにかく各自のペースでのんびり働けることを求める人もいる。


学校という場で考えると、この辺りの認識のズレが苦しみの根源になりやすい。

部活動問題など最もわかりやすいが、土日も積極的にやりたい人と、全くやりたくない人が混在する。


家庭と子どもの側からすると、土日も部活をやってくれることは嬉しい、助かるという声もある。

そして逆の声も、もちろんある。


育った文化が違えば、「正解」「正義」は異なる。

つまり、完全オーダーメイドの提供は無理である。


オーダーメイドとは、サッカーで例えるならば、とにかく自分が走り込んだところにボールを出せという要望になる。

私ではなく公の場である以上、どこか「適」と考えられる場を「落としどころ」としてある程度合わせる必要がある。


教室という場に絞ると、受ける側の要望と授業内容というのは、大抵の場合完全一致しない。

本当にそれを学びたくて授業を受けている学生がいるかと思えば、ただ履修単位が欲しいだけという人もいる。

小学校や中学校でもそれは同じで、本当に学ぶのが楽しい子どもと、ただ時間が過ぎ去るのを待つ子どもである。


どちらが正しい、間違っているという訳ではない。

ただ、ニーズが違うだけである。


さらにややこしいことに、教室ではこの両者だけではない。

教師の側には学校(さらには委員会や文科省)としての要望が乗っており、学生や児童・生徒の側には、保護者の要望も乗ってくる。

言うなれば「上からの要望」であり、これを無視することはできない。


だからそれぞれの教室内での「本当はこうしたい」が通用しない。

落としどころを探すのは、さらに難しいことになる。


そう考えると、やはり集団には目的や理念の共有が必要である。

関わる個人の全ての要望に配慮すると、解が出ない。

「ここが柱」ということがはっきりしていれば、とりあえず全員そこに立ち返って考えることができる。


学校であれば、学校の教育理念やルールである。

教室であれば、学級開きでの所信表明や学級目標、全員で共通理解して作ったルールである。


ここで目的や理念だけでなく、ルールを挙げたことに意味がある。

一定のルールがないと、集団の維持は不可能である。

先に述べたように、集団成員の各人の文化が全く違うからである。

共通理解事項として「集団としてのとりあえずの正解」を共通認識しておく必要がある。


認識違いやすれ違いは、ここの理解不足から生じる。

自分は相手を理解できていない、相手の正解が自分の不正解かもという前提に立つ必要がある。

「わかっているはず」「こうしてくれるはず」という自分本位の期待が、失望や怒りを引き起こす。

例えば本来自由な存在である子どもが、期待通りに動いてくれることなどまずない。


大人同士も然りである。

思うように相手が動いてくれている、黙ってくれているとしたら、自分を抑えて合わせてくれているだけかもしれない。


自分自身を振り返ってみても、合わせている面もあるが、周りに合わせてもらっていることだらけである。

いつでも「お互い様」という気持ちを忘れないようにしたい。 

2021年4月6日火曜日

文化の違いは正解の違い

 「認識」や「すれ違い」に対する気付き。


テクノロジーの発達で、音声認識システムの翻訳性能が飛躍的に高まってきた。

すぐに機械が他言語に翻訳してくれるというのは助かるが、意図が正しく伝わっているかは怪しい。

日本語と英語という二つの言語だけを比べてみても、文化が違えば言葉のニュアンスも大分違う。


「自由」は元々日本にはない概念である。

よって英語だとfreedomとlibertyという異なる概念だが、どちらも日本語では「自由」で表現される。


loveは愛と訳されるが、これもかなり両者のニュアンスが違う。

英語では趣味などで「○○が好き」にもloveが使用されるし、植物には水や光などの存在が「必要」という意味もある。


愛や自由、平和や平等などの概念に関するものは、特に翻訳が伝わりにくい。

互いの歴史的・文化的背景を知っていると、違いにも気付きやすい。

多様性の尊重や理解ということには、こういう面も含まれる。


基本的に、全ての人は互いに異文化育ちの存在である。

家庭生活においても、例えばタオルを家族共用するか個別にするかといった些細なことから違う。

ある家では何の問題もないことが、ある家では完全NGであることなどしばしばで、各家庭文化が異なる。


当然、家庭教育で何を重要視しているかも全く異なる。

そうなると、学校教育に期待するものも全く異なる。

(多分共通項でありそうなのは、元気に行って元気に帰ってきて欲しいというようなことぐらいである。)


新学期、新しい子どもとの出会いは、新しい家庭との出会いでもある。

子どもを伸ばすためにも、互いを尊重し合える関係を作っていきたい。

2021年4月4日日曜日

する自由としない自由

 次の本からの気付き。


『愛と祈りで子どもは育つ』

渡辺和子 著  PHP文庫(2017)

https://www.amazon.co.jp/dp/4569767672


この本の中に「自由学園」創設者の羽仁もと子さんの「自由」についての言葉が紹介されている。

以下、引用する。


================

(引用開始)

「あなたがたには、脱いだはき物を揃える自由があります」というのです。

それは、「揃えない自由もある」ということなのです。

どちらがより良い生き方なのか、脱ぎっ放しにするほうか、揃えるほうか、そのより良いほうを考えて、選ぶということなのです。

日々の生活の中での小さな自由の行使が、実は大切なのです。

「自分らしさ」を作るのは、このような小さな自由の行使の積み重ねなのです。

(引用終了)

=================


それをするのが、自由の行使であるという自覚。

意識しないとなかなか難しい。

日常のすべてが「当たり前」になっているからである。


クラス会議ではよく「掃除を真面目にしない人がいる」ということが議題に上がる。

要するに、真面目にやって欲しいという要望である。

何年生の学級でも、必ず出る。


これはなかなか考えどころである。

話し合いをしても大抵なかなか着地点が定まらないが、毎回一つだけいえることがある。


それは、真面目にやっている人の中に、進んでやっている人がいるという点である。

つまり、誰かが見ているからとか、得とか損とか関係なく、やる人はやるという点である。


やらねばならないからやる、という自主性に基づいてやる人もいる。

しかし、やる方がよいからやるという主体性に基づいて取り組んでいる人もいる。

つまり「はき物を揃える自由」である。


どちらが自分にとってより良い生き方なのか。

それを主体的に選びとり、行動する。

それこそが、自由である。


やらされてやるのは、意味がないとは言わないが、効果の方向が全く変わってくる。

掃除などは、特にここが大きく分かれるところである。

学校以外の生活でも、やらない人はやらないし、やる人はやる。

かなり本人の選択次第である。


他人がどうかはあまりこだわらずに、やると自分で決めた人は、気にせずやる。

掃除に限らず、勉強や仕事や趣味やボランティア活動、あらゆることにいえる自由の考え方ではないかと思う。

2021年4月2日金曜日

自分に嘘をつかない子ども

 

特別支援の先生の話や本を読む機会が続いたので、そこからの気付き。


特別支援学校や特別支援学級には、自分に嘘をつかない子どもたちが多いという。

つまり、思っていることを直接口に出し、行動に移す。


これはもちろん「通常学級」に在籍する子どもの中にもよく見られる傾向である。

(この「通常学級」は「特別支援学級」と区別するために止む無く使用するが、何が「通常」なのかは疑問が残るところである。)


こういった子どもの言動を教える側が面白がれるかどうかがポイント、という話だった。


加えて、特にこういった子どもたちにとっては、ルールがないと安全・安心が担保できないという。

単に「走りたいから走る」では、いつ事故に遭うか気が気でない。

信号を守ることは交通ルールの基本である。


言葉についても同様である。

こういった子どもたちが社会で生きていく上では、次の3つが言えることが大切だという。

「ありがとう」「ごめんなさい」「手伝って」

加えて講師の先生からは「一緒にやろう」の言葉があるといいとのことだった。


この「自分に嘘をつかない子ども」に関連して、ある本で素敵なエピソードを見つけた。

次の本からである。


『1/4 の奇跡 (「強者」を救う「弱者」の話) 』

山元加津子 著(2010)マキノ出版ムック

https://www.amazon.co.jp/dp/4837661718


著者の山本加津子さんは、特別支援学校の先生である。

この中に「しんちゃんのこと」という話がある。


しんちゃんは、全ての人の言葉に必ず返事をしてくれる子ども。

それが誰かの独り言であってもしっかり反応してくれる。

だから、独り言の癖のある担任の先生とのやりとりは、傍から見ていて大変愉快だったという。


大きくなってスーパーで買い物をしていても、万事その調子。

店員さんが「毎度ありがとうございます」

と言えば

「毎度は来ていません。

いつも来ることができればいいのですが」

とすかさず返す。


「ニラ、138円」

と言えば

「ニラは138円でございます。間違いありません」

「ひき肉、238円」

と言えば

「ひき肉は、238円でございます。餃子に使いますよ」

と返す。


相手はもちろん困惑するだろうが、この「しんちゃん」は、誠実に返しているだけである。

人の話を全然聞いていないで返事もしないという人とは、真逆の位置にいる。


要するに、人を大切にしているのである。

だから、ないがしろにできず、必ず相手に思いを伝える。

生きづらさはあるだろうが、これはなかなかできない素晴らしいことだと思う。


このエピソードも続きがあり、感動の結末があるのだが、ここでは書かない。

ぜひ購入して、一人部屋で読まれることをおすすめする。

(電車や公共の場で読むと、困るかもしれない。)

私が2020年度に読んだ本の中で一番心に響いたものである。


自分に嘘をつかない子ども。

大人こそ、学ぶべき点ある子どもたちである。

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