2021年1月30日土曜日

本質を見抜く指導


新刊が出た。

https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-332812-0

https://www.amazon.co.jp/dp/4183328128

テーマは指導の本質を「見抜く」。

技術として、スルーorリアクションを挙げている。


本質を見抜くとはどういうことか。

端的にいって「長期的視点で見る」ということである。

短期的視点でいい結果が出るというのは、現象面に過ぎない。


卑近な話だと、例えば算数のテストで「高得点を取る」という現象を求めたとする。

そのテストと類似の問題を対策としてやりまくるトレーニングが一番いい。

単純に高得点を取るという現象に「なぜそうなるのか」という本質的な学びはいらない。

台形の面積の公式に当てはめれば正解は出る。


この種のトレーニングを繰り返していれば、テストに強い人間は出来上がる。

しかしそれと引き換えに、学ぶことを楽しむとか、物事を本質的に考えるといった能力はなくなっていく。

「勉強は嫌い」「将来のために仕方ないからやる」となる。

目指す生涯学習の真逆である。


全てを一生を通した長期的視点でというのは難しいかもしれない。

しかし、学級担任をするなら、子どもにとって本質的にどちらがいいか、は常に念頭に置くべきことである。


短期でどうこうしようとしないで、本質的に考える必要がある。

例えば「忘れ物が多い時」という項目がある。


提出物、あるいはハンカチなどの持ち物を、何度言っても忘れ続ける子ども。

どうするか。


単に厳しくして直るならもうとっくに直っている。

スルーしていても困り続けることも分かり切っている。

長期的に見て、一生の中で忘れ物をして困るという状況を克服できるようにするのが、ここの指導の本質である。


ここは忘れ物をしてしまう「認識」と「仕組み」を見抜く必要がある。

やや長いが、拙著より1ページ分、メルマガ用に適宜改行して引用する。


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(引用開始)

ここでの見抜くポイントは、忘れ物をしてしまうそもそもの原因部分です。

それが「認識」と「環境」です。


「認識」は子どもによって全く異なります。

ここを見抜いて適切な対策を講じれば、解決することがあります。

「書いているだけ」「言っているだけ」で伝わった気になっていると、ここが解決しないので、

そもそも忘れなくするような環境づくり、仕組みづくりをすることが大切です。


例えば、リマインドの仕組み。

多くの場合使われている連絡帳は、これにあたります。

しかし忘れ物の多い子供は、この連絡帳を見返す習慣がないのです。


ふざけているのではなく、習慣化していないので、そもそも連絡帳を見なくてはいけないということ自体を忘れてしまいます。

これを防ぐために、例えば

ランドセルのカバーの裏側に「連絡帳を見る」と書いた紙を貼っておく、

あるいは、個人的にはあまり好きではありませんが、マジックで手に書いておく、

保護者に協力してもらう、というような手もあります。


どのような場合にせよ、複数の中から本人が方法を選択できることが大切です。


次に、そもそも忘れないで済むような仕組みを作っておくことも大切です。

例えばハンカチ。

どうしても忘れてしまいがちな子供であれば、

洗濯したものをまとめていくつかロッカーに置いておいても良い、というように柔軟に対応することです。


頻繁に物の移動があることが忘れ物を増やします。

極論を言えば、宿題がなければ、 宿題忘れは存在しません。

根本的に考え直すことも含めて、対応を考えましょう。


まとめ

注意より、そもそも忘れない仕組みづくりをすることが大切。


(引用終了)

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この1ページ分に、様々な対応方法を記している。

「本人が複数の手段から選択できる」というのは重要なポイントになる。

ここの本質的なねらいは「主体的に問題解決の方法を選択できる子どもになる」という点である。

忘れ物そのものがなくなることではなく、ここから主体的かつ柔軟な問題解決思考をこそ学ばせたいのである。


こういった場面は学校生活の中で無数にある。

指導の本質について考えるきっかけにしていただければ幸いである。

2021年1月28日木曜日

変化に対応する

元日に書いた記事。


2020年は、未曾有の大きな変化の年だった。

恐らく、戦後で最も大きな変化が訪れた年である。

東日本大震災以来の強烈なインパクトである。

価値観も生活も仕事の仕方も、大転換を迫られた。


世の中の変化自体は止められない。

変化に対応することが大切である。

生物にとって、環境の変化に適応できないことは、絶滅に直結する。


小中学校も、変化を迫られている。

ただここまで追い込まれた結果、これまで必要と言われ続けてきた様々な改革がやっと進みそうである。

デジタル教科書の導入は眼前。

英語学習も本格化。

少人数学級実現も現実味を帯びてきた。


大学も改革が進んだ。

大学入試も抜本的改革の最中。

大学は、オンラインでの学びが主流となってきている。(というより対面がほとんどできない。)

大学は、通わなくてもある程度までが成立することが証明された。

これからは、都心の大学にわざわざ通わなくても、地方に住みながら単位が取得できる時代が来る。


つまり、住む場所が自由になり、学校の選択肢も自由度が格段に広がる。

国内の選択の自由どころか、世界にまで選択肢が広がっている。


もう、何もかもが、旧世界とは変わる。

2021年が、2020年以上の変化の年になることも間違いない。

一次関数的な直線の変化ではなく、二次曲線的な急激な変化をしていくはずである。

感染症対策に苦しめられるだけでなく、確実にその変化に対応していく人達がいるはずである。


逆に、自分が「変化できない」のはなぜなのか、どういう時なのかと考えた。

変えた方が確実にいいのに、変えようとしない。

頑な、否定的、頑固になってしまうその理由である。


これは、過去の自分の行動の否定になるからであると考えた。

私のように、著作物が証拠として残っている人間は、更に始末が悪い。

「あなたはこう書いているではないか」と言われてしまうと、それと逆の行動は尚更とりにくい。


ただ、昨年だけでも、価値観の大きな転換が山ほどあった。

過去の自分の考えを否定する自分をたくさん発見した。

それは、過去の自分が間違っていたというより、今の時代に合わなくなったのである。

あんなに大事にして便利だと思って使っていた世紀の大発明「フロッピーディスク」を今は全く使わなくなったのと同じである。


身近な価値観のコペルニクス的転換例を挙げる。


例えば、マスクの着用。

かつてのマナーが今はマナー違反になることもあるが、マスクの着用がまさにそれである。

かつて海外ではマスク着用=重病人または顔を見せられない怪しい人という認識であった。

外ではマスクを付けないのがマナーだった。

今では逆に、マスクを付けていないことが逆にマナー違反とみなされる時代である。

世界のマナーが180度変わったといえる。


どちらが間違っているのか。

どちらも間違っていない。

時代が変わったから、マナーも変わったのである。


マナーも常識も、生き物であり、変化する。

教育の常識も変化する。

自分自身の考えや在り方も、時代の変化に合わせる必要がある。


首尾一貫、変わらない姿勢。

これはこれで、かっこいい。

仙人のような浮世離れした暮らしができるなら、これも魅力的である。

しかし、社会に生きる以上、変化に対応しない訳にはいかない。


変わらずに持ち続けたい部分がある。

志に関する面である。

私の学校教育に対する首尾一貫の姿勢は「子供が成長する場」という一点である。

子供が学校に朝来た時よりも、少しでも成長して帰る。

ここは変わらない。


ただし、やり方や考え方は、柔軟に変える。


「上手に教える」ことには、価値がある。

これは教師中心の視点である。


しかし今は「うまく学べる」ように育てるという方も求められる。

子供中心の視点である。


「一斉」の得意分野は、均一な質の「製品」の提供である。

これはこれで価値がある。


一方で、「個別」の得意分野は、多様な「作品」の創出である。

これはこれで価値がある。


今の時代の教育には、両方が求められる。

「一斉」である程度の質を担保しつつ、

「個別」で多様性に対応する。

そこまでやって、そこから先に求められるものは、やはりオーダーメイドの教育である。

ICT活用の組み合わせと大変相性がいい分野でもある。


変化に対応すること。

いち早く対応している先駆者に学び、自分もチャレンジすること。

次代を育てる立場にある以上、覚悟を決めていきたい。

2021年1月26日火曜日

ジェンダーフリーは関係ないか

 講義で、ジェンダー平等(ジェンダーフリー)について考える機会を頂いた。

SDGsの17の目標の5番として揚げられていることもあり、世界的に見ても重要な目標である。

これが学び多い時間となったのでシェアしたく、書くことにした。


ところで、この問題について「大したことではない」という意識がないだろうか。

「寝た子を起こさない」という意識がないか、ということである。

日本は、世界的に見て、この問題についてもかなりの後進国であるらしい。


学びの結論から言うと、寝た子を起こさない教育では、結果的に全員が苦しむことになる、ということである。

ジェンダーフリーについて真剣に検討することは、全ての人のもつ人権について、再検討することになる。

人権意識の根本に歪みが生じていることに気付くということである。

「自分には関係ない」という世界ではないということである。


さて「男は男らしく、女は女らしく」ということは、日本の伝統的な慣習である。

予想はつくと思うが、どのあたりの世代がこの考えが根強いだろうか。


予想される通り「上の年代ほどその意識が強く、若い年代ほどその意識がない」という結果である。

今まで何十年も、それを常識として刷り込まれてきたのだから、仕方がないようにも思う。

つまり、社会の上層部に年齢の高い人たちがいる以上、トップダウン的に変わることはないということが予想される。


しかし、社会がどうであれ、教室内はそうはいかない。

教室にいるのは、社会で最も若い世代の人達である。

ここに教える側の意識が昭和以前のままでは、ギャップを生じて当然である。


では、我々教える側はどうしたらいいのか。

正しい知識をつけることである。

ある人の言葉の要約だが、「知らない」と「嫌い」の感情的距離は、限りなく近い。

知ることで、嫌悪や拒否の先入観は消える可能性が高い。

まずは、知ることである。


基礎知識として、性を下記のような4つの要素で分けられると考える。


からだの性  女←・・・→男

こころの性  女←・・・→男

表現する性  女←・・・→男

好きになる性 女←・・・→男


それぞれの人が、どこかに属している。


からだの性は、生まれた時のからだの性別である。

こころの性は、自分がどちらの性であると認識しているかである。

表現する性は、服装や言葉遣いなどで、外に出す性である。

好きになる性は、異性か同性か、両性か、または両性なしか、といったことである。


さらに表の「女←・・・→男」の女と男の間は、すべてがスペクトラムである。

つまりは、4つの要素の組み合わせが、無限にある。


「私は一般的」と思い込んでいる人たち同士であっても、違いがある。

例えば、「表現する性」の項目では、

女性よりの、いわゆる「ガーリー」「姫系」「ゆるかわ」なファッションを好む人と、

男性よりの、いわゆる「ボーイッシュ」「ワイルド」「クール」なスタイルを好む人がいる。

これだけでも違う。


それを「あなたのファッションはこのスタイルにすべきだ」と求める他人がいるとする。

これ自体が、人権侵害であり、全くおかしなことだと気付くはずである。


ここに、学校の制服問題が絡んでくる。


こころの性と表現の性が男性の、からだが女性の生徒がいる。

きまりとしては女子の制服であるスカートを着用することになるが、これは本人にとって大変な苦痛である。

「男子のズボンをはかせてあげて欲しい」と思う人も結構いるのではないだろうか。


こころの性と表現の性が女性の、からだが男性の生徒ならどうだろうか。

こちらは、より周囲の許容ハードルが高いことが予想される。

「男子」がスカートを履くということに、周りの方が抵抗感を覚えるはずである。


自分が明日から逆の性別の恰好をして出勤しろと強制されることを想像すればわかる。

女性がパンツスタイルのスーツで出勤してきても、周囲は特に何の違和感もない。

一方、男性がスカートを履いてくる「常識」は今の日本にはない。

これは厳しい。


ただ、だから前者の「からだが女性の生徒」の方が楽か、というと決してそんなことはない。

「女子生徒」のはずなのにズボンをはいているということで、周りの女子から仲間外れにされる可能性が大いにある。

普段からの同調行動、同調性が強い集団ほど、異質・異端への排除行為は強烈である。

結局、周囲次第である。


「周囲の友人にどう見られるか」は特に思春期の子どもにとっては文字通り死活問題である。

人間関係における「相談できる人」のトップが親から友人に移行している時期でもある。

ここへ理解してもらえないのは厳しい。


したがって、このジェンダーフリーの制服問題においては、大きな壁が二つある。

学校(教師集団)が許可してくれるか。

周囲の友人が理解を示してくれるか。

大まかに言うと、この二つである。


さて、この問題は、実はジェンダーフリーに関することだけではない。

髪色・ピアス問題とも関わってくる。


国際色豊かな学校であれば、生まれてきた個性(人種)として見るだけで、間違いなく髪の色がばらばらである。

それを「〇色はよくて△色はだめ」というように線引きができるか、ということである。

また、通常がピアス着用など、文化的に異質な背景をもつ生徒の個性に対して線引きができるか、ということである。

つまり、個の人権に配慮するか、全体としての規律を優先するか、という問題である。


すべてが、後手後手なのである。

髪色・ピアス問題の一つをとっても、全国の学校として根本的な解決に至っていない。

この問題に限らず、すべてが戦後に整えられた体制の時代から「鎖国」されているというのが現状である。


「今まで大丈夫だったんだから、これからも問題ない」という考えでは、全員が沈んでしまう。

かつて海の風を目いっぱいその帆に受け、順風満帆に進んでいた大型船は、老朽化が進み、このままではもう沈む運命なのである。

他国はいち早く全く違う形の新しい船に乗り換えている。

学校も日本の社会の常識も、世界基準の新しいものに「アップデート」する必要がある。


まとめる。

ジェンダーフリーについて考えることは、人権全般について考えることである。

それは、学校教育というものの在り方そのもの、根本的な問題について考えることにつながるからである。


かつての自分の考え、行動と全く違っていいのである。

矛盾していてもいいのである。

かつての自分が間違っていたのかもしれないし、その時代では間違っていなかったのかもしれない。

しかし、今の自分と昔の自分が同じでいいはずがない。

人間は、発展する生き物であり、アップデートする存在なのである。


ジェンダーフリーなんて興味がない、と言わずに、知ることに価値があるということをお伝えしたく、書いた。

2021年1月24日日曜日

誰のためにそうしているのか

 先日、授業中の、ちょっとしたニュアンスの伝わり方の行き違いを発見した。

それをするのは誰のためか、という話である。


漢字テストでは、丁寧に書くことを求め、指導している。

理由は、漢字テストが「漢字の字形が正しく書けるか」を調べ、不備に対しては今後の修正を求めるためのものだからである。


雑に書いてあるものだと、ここを〇か×かで煩悶することになる。

だから「丁寧に書く」を求めるのである。

(もはや「頼むから、お願い!」というのに近い。)


テストの〇つけという類のものは、実際やるとわかるが、これが結構難しい。

「これは〇かな、×かな」というものがかなりある。

その時は「基準」を頼りに判別することになる。


入試のような、公式のテストの採点の際に、誰が見ても〇になるように書くこと。

〇か×か迷うような判別が難しいものは、×にする。

そう伝え続けている。


中に「つまり厳しく見るのは自分たちのためだ」と捉えた子どももいる。

それは、間違っているという訳ではないのだが、実は少し違う。

あくまで、〇をつける側にとって判別・説明ができないという面があるからである。

だからその場合は×になるよ、というだけの話である。


「今だけおまけで〇」にもできるのだが、教える側がぶれると、同時に教わる子どもの側にもぶれが生じる。

そうすると、子どもも同じ失敗を繰り返し、こちらもまた迷うはめになる。

さらに「この前は〇だった」という不満はもちろん、「〇〇ちゃんは〇だった」という厄介な問題まで生じる。

これが入試だと「不正」として大きく取り上げられることは周知の事実である。

だから、〇か×かは、基準を設けてはっきりつける必要がある。


それが結果的には子どものためになるかもしれないが、あくまでこちらの仕事として必須のこととしてやっているまでである。

「おまけしてくれてでも、100点をくれた方が帰ってから怒られないから私のためになる」という子どもだっているだろう。

しかし、それは個人的な都合である。

そこに余計な配慮をすることは、教育的に見ても本質ではない。

(家がその状況なら、正直に見せない方がいいということを自然と学ぶ。それも生きる力である。)


実際「あなたのため」なんて大そうなことは、考えていない。

(後々に〇をつけたり担任したりする人のためになるかもしれない、とは考えている。)

単純に、それが基準のテストだから、そう書きなさいといっているだけである。


誰のために仕事をしているのか。

それは、自分のためである。

それが、結果的に後々人様のお役に立つことがあるかもしれない、という程度である。

それは常にあくまで「願い」であり、どう捉えられるかは、自分の範囲の外である。


自分の求めることを「誰かのため」などという勘違いをしないよう、自戒を込めて書いた。

2021年1月22日金曜日

「らしさ」とは何か

 「ぶらずに、らしゅうせよ」という古人の言葉がある。


私自身は、師の野口芳宏先生から教わった言葉である。

紹介していただいた次の本にも載っていた。


『般若心経講義』 高神覚昇著 角川ソフィア文庫


「ぶらずに、らしゅうせよ」

深淵な言葉である。

こういう古人の教えは、最終的に人々の解釈次第である。

言葉は生きており、解釈が付け加えられ続けていく内に、真逆の意味を備えることもある。


「犬も歩けば棒に当たる」などもそうである。

「だから動くな」か「だから動け」かは、解釈次第である。


ぶるのではない、らしさについて考える。


例えば「サンタクロースらしさ」とは何か。

(これをメルマガ上で書いた時がクリスマスだったので。)


以前にも書いたことがあるが、赤い服やトナカイ、ソリ、煙突等々ではない。

それらは後々で人々に付け加えられながら作られた「イメージ」であって、らしさとは違う。

然るに、「ぶる」とは人々のもつイメージのように外見を振る舞うことかもしれない。


サンタクロースらしさとは「子どもに幸せをプレゼントする存在」である。

そこにサンタクロースらしさの本質がある。

それは親に似ているようだが、親の本質とは違う。

親の本質は「子どもへの幸せプレゼンター」ではないからである。


では、親らしさとは何か。

これは難しい。

言ってしまえば、子どもをもちさえすれば、「親」の要件を満たすことにはなる。

人間に限らず、あらゆる生き物が「親」になれる。


生き物の中には、保護と養育に全く関わらず、生みっぱなしの親という種もいる。

一回に生まれる子どもの数が桁違いに多く、かつ生まれた直後からある程度の生存能力がある種だけである。

数が多いのは「他の生き物に食べられること前提」である。

海の生き物に多いが、当然、人間はこれに全く当てはまらない。

人間は、生まれた直後の赤ん坊の強さランキングでいうと、恐らく全生物中最弱の部類である。


そう考えると、生みっぱなしでない生き物の「親らしさ」とそうでない生き物とは、全く別物と考えられる。


これらの生き物の親として「らしさ」を考える。

これは、子どもが自立するまで命がけで守って養育することであろう。

「種の保存」がそれら生物の親という存在に課せられた共通本能である。


だから「子どものため」という行為は、本来親らしいといえる。

それは子どもの自立という目的に向けて必要な保護活動である。

(問題は、どこまでそれを続けるのかである。)


ただ、親に限らず教師も含めて、子どもを養育したり教えたりする立場にある者が「子どもため」を口癖にしている場合には注意が必要である。

「〇〇ぶっている」可能性がある。


教師が「子どものため」に存在するのは間違っていない。

しかしその「子どものため」の内実が、実は「自分の都合」の押し付けになっていないかは自問する必要がある。

(例えば「宿題は子どものため」というのは、実は大人の都合ではないかというのが私の長らくの主張である。)


それが、自分の都合や世間体、外見を気にしていてのことか、本質的にそうであるからしていることなのか。

そこが「ぶらずに、らしゅうせよ」の境目である。


「ぶる」と「らしい」を比較して考えることで、物事の本質を考えることにつながる。

2021年1月20日水曜日

イベントを通して自治の力をつける

 学級活動について、自治的活動に関わる話。


子どもたちが、お楽しみ会を計画する。

2学期の終わりだから、クリスマスにかこつけて、など名目は様々である。


どのような形であってもよいのだが、このイベントを企画するというのは自治的活動につながる。

普段の係活動(会社活動)で、ちょこちょこと小さなイベントを行っていれば、その延長線上でできる。


コツは、とにかくやらせてみることである。

上手くできなくていい。

最初から上手くできる訳がないのだから、何度も何度も挑戦させてみる。


特にこういったイベント系は、進んでやりたがることがほとんどのため、子ども自ら何度も挑戦する。

外的な動機付けがあまりいらない。


力をつけるためには、子どもが自分でやること。

ただし、全部いきなりやらせても無理である。

ある程度のモデル(型)を最初は示す必要がある。


はじめの言葉があって、音楽が流れて、レクがあって・・・という大まかな流れ。

加えて、内容面も、慣れない内はある程度教師が入って指導をしてもよい。

(いきなりでもある程度できる集団なら、入らなくてもよい。)

例えば会社ごとに出しものをして互いに楽しむというタイプのアイデアは、過去にやったことがないとまず出てこない。


教師の主な仕事は「時・場・物」の確保・提供である。

そこに注力して、あとは任せていく。


さて、色々苦労して作り上げてさあ本番、となったら、とりあえず教師の側は引っ込む。

子どもの運営を見守る。

当然、経験の少ない学級であれば、ミスや手落ちの連続である。


しかし、それでよい。

失敗を経験することで、次はこうやろうと初めて学べる。

最初からうまくいくことを、特に教師の側が期待しないことが、最も大切である。


さて、何回かやってきて、慣れてきたら企画書を書かせるなどして、「壁」を作る。

最初は、一部の子どもが中心となるサービスエンターテインメントのような形でもよい。

次第に、全部の子どもが何かしら参画できる企画の形を求めていく。


一年を通して何回もやっている内に、だんだんと上手くなる。

イベント企画が上手くなると、当然話合い活動などの協働的な活動も上手くなる。

あらゆる授業中の話合いが活性化するのも自然な流れである。


任せること。

やらせてみること。

求めてきたら、アドバイス。

求めてこなかったら、そのまま見守る。


学級イベントは、子どもの自治の力をつける最高の場である。

2021年1月18日月曜日

教えるということ

学校教育では、教える内容の最低ラインが予め定まっている。

約10年スパンで改訂される、学習指導要領の存在である。

現行の小学校学習指導要領解説を全教科分並べれは、百科事典のような厚みと分量になる。

それぐらい細部にまで渡って教えるべき内容が書かれている。


定まっているからこそ、そこについて悩まなくていいという面がある。

一方、定まっているからこそ、それをせねばならないという義務が生じ、自由に制限がかかる面がある。


そこから、現在の学校の教師の仕事には、次のことがいえる。


1 定められたことを全て教えようと努めること

2 教えた内容が身に付くように努めること


厳密には、1は努める、ではいけないのだが、現実的には「努める」であろう。

2は、努めるで正しい。

現在の日本の義務教育は、修得主義ではなく、履修主義だからである。

修得させないといけなくなると、身に付けさせられなかった子どもは留年させることになる。


さて、これらを前提に、学校で教えるということを考える。


ある教科の内容を教える。

やらせてみる。


この段階で既に大きな壁が2つ出る。


教えた時。

伝わらない、あるいは聞こうとしない子どもがいる。

当然である。


やらせてみた時。

やれない、やりたがらない子どもがいる。

当然である。


教えられる子どもの側に立つと、実行能力と意欲の2軸で4つの領域に分けられる。


1 実行能力もやる意欲もある

2 実行能力は不足しているが、やる意欲はある

3 実行能力はあるが、やる意欲は不足している

4 実行能力もやる意欲もない


1は何も問題がないので、教えてやらせてみればよい。

教える側がどんな人でも問題ない。

高い課題を示すだけで勝手に自分でどんどん伸びる。


2は、本人がやれるようになりたい状態である。

教える側は、あれこれ工夫して、手をかけ頭をひねって一生懸命に教えればよい。

熱心に教えて感謝されることはあっても嫌がられることはない。


3から先が難しい。


3は、子どもが目的意識をもてるような工夫が必要になる。

しかしながら、本人が求めてないので、下手に与えることは迷惑になる。

ただ、内容が定まっている学校という枠組み内で、放置してやらせない訳にもいかない。

なまじっかできるがゆえに、教えるということ自体が難しい状態である。


4は最も難しい。

教える側からすると、手も足も出ない状態である。

あれこれ工夫して意欲を出すようであればいいが、多くの場合有難迷惑である。

しかも、意欲をもっても、簡単にはできるようにならないのである。

そうなると、意欲の維持自体も難しい。


まとめると、教えるという行為には、限界がある。

教えるという行為は、与えるという行為の一種である。

内から引き出すという意味があるものの、それ自体も教える側からの働きかけである。

求めていない相手には、有難迷惑である。


そう考えると、教える側ができることは何か。

なるべくその教えたい内容の魅力が伝わるようにしつつ、提示するまでである。

それを受け取るかどうかは、学びの主体である子ども自身が決めることである。


受け取った子どもに対しては、更に教えることが数珠つなぎ的に出る。

受け取らない子どもに対しては、また別の機会に違うものを提示をするしかない。


ここを無理に押し付けて魅力を伝えようとすると、嫌がられる。

それは、訪問セールスと同じである。


相手がその商品を気に入ったならば、相手から呼ばれて買われるようにまでなる。

あるいは相手がセールスマン自身を気に入ったならば、他のあらゆるものもその人から買うようになる。

そしてこれは、お互いに幸せな状態である。


相手が興味をもたないならば、迷惑で鬱陶しい存在でしかない。

しつこく訪問して売ろうとすることで、顔を見るのも嫌という可能性が大いにある。

そしてこれは、お互いに辛い状態である。



まとめる。

教えるということ、その本質は「提示」である。

そこから先は、相手次第である。


提示するものの魅力を工夫して十分に伝えること。

一方で、興味をもたない相手に押し付けないこと。


この辺りが教える際の要点ではないかと思われる。

2021年1月16日土曜日

叱れば一部に嫌われるのは必至

 前号の「厳しい先生、甘い先生」の話と関連した話。


叱らないことで信頼を失うという話を書いた。

認めるべきを認め、叱るべきを叱ることで、信頼が生まれることも書いた。


これを読んで、希望を抱いてくれる人がいたのなら嬉しい。

しかしながら、ここによるデメリットというか、覚悟が必要となるということを今号では付け加えたい。

商品説明ではないが、予め問題点を示すことで「こんなはずじゃなかった」を防ぐことも、提供する側の義務である。


結論から言うと、確実に嫌われる覚悟が必要になるということである。

厳しい先生は一部の子どもや親の絶大な信頼獲得と引き換えに、反対の一部の子どもや親にかなり嫌われるし、場合によっては恨まれる。

多分、これが嫌だから、多くの人が叱れないといっているのだろうということは、容易に推測できるが。


荒れた世の中を考える。

例えば戦時中や戦後のような、権力と暴力が世を支配するような状態である。

法が通っておらず、盗みを始め各種犯罪を取り締まるものもない世界である。

日本もかつて経験しているし、今でも世界中に現実としてたくさんある世界である。


治安機関の機能していない無法地帯では、悪のやりたい放題である。

暴力でもって子どもや女性などの力の弱い立場の人を、自分の道具のように扱う者がいる。

荒れているからこそ、暴利を貪って儲けられている一部の者たちがいる。


ここを正し平和をもたらそうとする力の持ち主は、これら「混沌の受益者」にとって、邪魔で有害な存在である。

乱れた世に革命を起こそうという人物や政治家がそういった組織に敵視されるのも、至極当然の流れである。

犯罪者にとって正義を司る警察や裁判官は、最も厄介な存在の一つである。


成功した暁にも、ずっと残党に狙われる。

歴史上でも、世の中を大きく変えて救った英雄は、かなりの確立で残党に暗殺されている。

居場所を失ったかつての受益者たちに、恨み続けられるからである。


つまり、ある正しさをもたらすと、かなりの確立で一部に恨まれるということである。

その正当性なぞ関係ない。

弱い者をいじめたり恐喝したりして憂さ晴らしや小遣い稼ぎを楽しんでいた生徒からは、真面目な熱血教師は邪魔な存在である。

弱きを助けて、強きをくじくのは、くじかれる側からすれば、邪魔者以外の何者でもない。


前号で大学生と教授の関係を書いたが、ここも同様である。

出席しなくても安直に単位だけくれる教授は、恨まれることは絶対にない。(一部の真面目な学生に軽蔑されるかもしれないが。)

一方で、厳しい教授は、単位取得こそ苦労するが、必要な力がつく可能性が高い。

膨大な量の本を読んだりレポートを書いたりするのは、外的モチベーションがないと難しい。

他律的自律である。


しかしながら、後者の教授は(結構多くの)学生に陰口を叩かれること必至である。

こちらの学生に学問をしたいとか力をつけたいとかのニーズはなく、単に卒業に必要な単位を欲しいだけだからである。

力をつけるための「壁」になったら、確実に嫌がられる。


また、叱るべきを叱るということを繰り返していれば、失敗も起きる。

叱る場面における勘違いやすれ違いも、その分たくさん起きるからである。

本当はこうだったのにこちらが理解していなかった、ということには、確実に出くわす。


成功率99.9%でも、0.1%の失敗を思いきり突かれる。

(政治家や有名人を見ていても明らかなことである。たった一つの失敗を大々的にあげつらわれる。)

ただしこれは、ある意味仕方ない。

プロの仕事であると考えるならば、当然の報いである。

例えるなら、ある商品を購入して故障のクレームが来たお客様に対し「1000台中1台が故障していただけです」が通らないのと同じである。


特に、前年度までに人間関係が荒れているなど、叱らざるを得ないような行為が多い学級であれば、叱る頻度も高くなる。

そうなれば、その中に失敗も含まれてくる。

誤解が生じるのは人間関係の常であり、頻度が高くなればそれも生じやすい。

あらゆる仕事に共通のことで、困難な状況を与えられたら、それを改革したり克服したりするのに痛みや苦しみはつきものである。


そう考えると、失敗しない最大のコツは、「何もしないこと」である。

つまり、悪い行為や苦しんでいる救うべき子どもに対しても「見ざる聞かざる言わざる」である。

犬も歩けば棒に当たるし、猿も木から落ちることもあるからである。

真面目にやれば、嫌われたり恨まれたりすること必至である。


叱るべきを叱るをやっていれば、そういう目に遭うことは、残念ながら免れない。

作用反作用の法則の通り、絶大な支持を得るということは、それ相応のアンチも生むということである。


要は「どう生きたいか」だけの問題である。


教師生活は見ざる聞かざる言わざるで過ごしていても、実は何ら問題はない。

きちんと給与も定額で支払われるし、立場も身分も保障される。

安全に過ごすには、それに越したことはない。


ただそれは仕事をしているといえるのか、生きているといえるのだろうか、と疑問に抱くのなら、動くしかない。

その代わり、先に述べたような理不尽とも思える代償を引き受ける覚悟が必要である。


最初から最後まで完璧な人というのはいない。

子どもを通して、教師も成長するものである。

傷付くことを恐れて逃げていたら、成長はない。

(一方で、それでも安全がいい、という人生の選択肢は、あると思う。)


思えば、私自身もたくさん失敗をしてきた。

きっと気付かないところで、自覚しているよりもはるかにたくさんの失敗をしている。

自分としては正当であっても、受け取る側が不服であれば、それはやはり「失敗」のカウントである。

見えている失敗が0.1%で、見えていない方が99.9%かもしれない。

そうであるならば、知らないところでたくさんの人に恨まれ、嫌われていると考えるのが当然である。


しかしながら、私は自分の仕事で救えた人も見てきている。

子ども、大人問わず、希望を与えられたという感謝を頂く例もあるのである。

それもやはり、自分の信念に沿って従って生きてきた結果だと思う。


良い結果も悪い結果も受け取る。

その覚悟があるのであれば、やはり叱るべきは叱る。

そうでないならば、安全に余計なことを言わずに生きることをおすすめする。

信念を貫き通すことよりも、病気にならないことの方がまずは大切である。


私自身は、ぶつかりながら転げ回りながらも、泥臭く自分の信じる道を進む生き方を選んでいきたい。

そういう役割も一定数必要と考える次第である。

2021年1月14日木曜日

厳しい先生、甘い先生

 若い先生方、あるいは教育実習生からなどでもよく聞くのが「叱れない」「注意できない」という悩みである。

子どもとの関係性が壊れるのが怖いのである。


ここについて述べる。


まず、叱るという行為だが、これは基本的には人間関係ができてからでないと、本来の正しい効果を期待できない。

叱るという行為には、人間的で感情的なものが入るからである。


一方で、注意はできる。

これは、人間関係の有無とは関係なしに、役割としてできる。

例えばビルの侵入禁止区域に立ち入ったら、全く見ず知らずの警備員の方に注意されるのは当然である。

それを不服と思う方がどうかしている。

場合によっては、注意する側が警備ロボットのような機械であっても、成立する。


要は、だめなことなら、関係性の有無に関わらず「それは困る」「いけない」ときちんと伝えること。

これが肝要である。

そしてこれは「叱る」とは全く別次元の話である。


「叱る」は関係性ができてきたら、行うべき時に行うものである。

何度も注意されていることを平気で破るようであれば、これは叱る対象である。

あるいは、人間的に許せないようなことであれば、やはり叱る対象である。


ここで先に述べた、関係性が壊れるという恐れが生じるかもしれない。

これはそうなることもあるし、真逆のこともある。

叱ることで、関係性が良好になったり、信頼につながったりすることがある。


どういうことか。


だめなことをきちんとだめなことだと叱ってくれない状況が続くとする。

まず、当の本人はどんどん悪くなる。

周りの子どもは「なぜこの人は先生という立場なのに、こういう時にきちんと叱らないのだろう」と不信感をもつ。

叱らないことで、信頼を失うのである。


一方、だめなことを毅然と叱るとする。

まず、当の本人がこれは認めてもらえない行為だと認識する。(ただし、素直にきくかどうかは本人の器次第である。)

周りの子どもは「自分も嫌だと思っていた行為を、先生はきちんと止めてくれた」と安心する。

叱ることで、信頼の構築につながる。


ここで大事なのは、ワンセットとして、それ以上にこれまで正しい行為を褒める、認めているということである。

ここ数回何度も述べている「信賞必罰」の大原則である。

先にベースとして、正しいことを正しいと認める行為がたくさんある。


授業開始時に席につかずに騒いでいる子を叱るのは、ずっとずっと後でよい。

それよりも、真面目に授業開始を待って準備している子どもと目を合わせ、認める。

きちんと頑張っている真面目な子が、最初はたとえ一人や二人であっても、それを繰り返せば、あっという間に大多数になる。


逆も成立する。

騒いでいる子どもをまず先に叱ったとする。

真面目な子どもは、ただ黙って座ってその叱責を聞いている。

これが繰り返されれば、最初は少数が騒いでいたとしても、あっという間に大多数が騒ぐ学級になる。

騒いでいる方が認められる(見て止める=注目する)からである。


単に甘いだけの先生が人気を博すのは、集団にやる気がない場合である。

やる気のない人たちが、騒ぎ放題騒げるし、さぼり放題さぼれるからである。

(一部の大学生が、さぼっていてもとにかく単位を与えてくれる甘い教授が一番いい、というのと同じである。)


子どもたちの真の成長を願う愛情の裏付けがあるのならば、厳しくなるのは当然である。


一方で、無条件に受容した方がいいのは、傷ついている子どもたち、心理的に0より下にある子どもたちである。

これはいうなれば病人のような状態だから、厳しくトレーニングしても逆効果である。

いわゆる正常な心理状態の相手である場合ならば、しっかりと鍛えるところである。


そう考えると、厳しい先生も大目に見てくれる甘い先生も、ニーズがある。

ただ、単に嫌われたくないから叱らないというならば、それは思い違いである。

その子どもの成長にとって必要な対応をできるようにしたい。

2021年1月12日火曜日

「まだ使える」は使うべきか

 

年末の大掃除の時期に書いた、「捨てる」ということの前向きな意味について。


大掃除は、モノの処分が大切になる。

いかに不要なものを捨てるかに9割がかかっているといえる。

残したものは、来年も大掃除の対象となり、それまでに手入れが必要になるからである。


明らかに古くて壊れているものは、一番楽である。

気持ちよく処分できる。


あまり使わないけど比較的高価なもの。

今日からすぐに使う予定、あるいは1年以内に使用したなら、捨てずにとっておいてもよい。

そうでないなら、捨てても問題ない。


「まだ使える」というモノはどうか。

これは、一番捨てづらい。

今も時々は使っているし、まだ使えるからである。

特に気に入っている訳でもないが、使えるというモノである。


ここが、今回の話の肝である。


「まだ使える」

この言葉が出た時の、心理状態はどうか。

積極的に「使いたい」「使いたくない」どちらか。

もっといいモノがあれば、そちらを使うか。


まだ使えるという言葉の裏には、あまり良くはないが、というニュアンスが含まれる。

心からのお気に入りでとても使いやすいのであれば、捨てずに使い続けるべきである。

しかし、我慢して使い続けるのであれば、そこは捨てる対象になる。


私は、ものを大切にしようというスタンスである。

ただ、本来の価値や機能を失ってしまったものをいつまでも使うのは、ものそのものにとって本望ではないのではないか、と考えるのである。

ものが自分のものとして存在することの意義は、自分にとって役立つ、もっと言うと、生活の幸せにつながるからである。

「まだ使える」というぐらい使い倒したのであれば、もう十分ではないかとも考えられる。


ものの扱い方は、生き方につながる。


例えば仕事のやり方でも「まだ通用する」ということで使い続けると、より良い方法を模索しなくなる。

習慣、慣例に流されるようになる。

まだ使えるかもしれないが、もっといい方法があるなら、そちらに挑戦した方が、良い結果が得られるかもしれない。


今、学校現場は、急激にICT化が進んでいく傾向にある。

まだ使える実践もたくさんあるとは思うが、より良い方法が出てきそうな気配である。

昭和に「ガリ版」の技術が必須だったが今は使わなくなったように、「捨てる」こともたくさん出てくることが予想される。


今のやり方は、まだ使えるかもしれない。

しかし、もう役目を十分果たしたかもしれない、とも考えられる次第である。

2021年1月10日日曜日

アクセルを踏みながらブレーキを踏まない

「ブレーキを踏みながらアクセルを踏むようなもの」という表現がある。

色々な場所で聞くので、出典がわからないが、およその意味は

「真逆の方向に同時に力を入れる無駄な行為」である。


一生懸命、同時に真逆の方向に力を入れれば、結局あまり進まない上に、本体も傷む。

エネルギーの無駄遣いである。


この言葉は、教育でもそうだし、生活全般の色々なことに当てはまる。

だめだと分かっている生活習慣などは、大抵当てはまる。

教育に限らず各施策などにも散見される。


具体例で考える。


例えば、子どもに「勉強しなさい」と無理矢理やらせる行為である。

勉強をやらせたい本来の理由は、子どもに良くなってもらいたいからである。


しかし、無理矢理勉強をさせられても、当然捗らない。

無理に押そうという周りのアクセルの力に対し、本人の抵抗というブレーキがかかる。


結果、大してできるようにならない上に「勉強嫌い」という車体の傷みを起こす。

抵抗というブレーキの摩耗のみならず、本人は使わないのでアクセル機能自体が弱くなっていくという可能性も出てくる。

廃用性萎縮の原理により、使わない機能は減退していくからである。


最近の教育用語でよくきかれる「個別最適化された学び」を推進すると、現存の学校はブレーキになる。

学習指導要領の内容を学校できちんと履修させよという命題と、個別最適化された学びは、アクセルとブレーキの関係である。

本当に個別最適化された学びを推進していくと、学習指導要領の内容とはかけ離れていき、学校に来る必要もなくなる。


ただ、「個別最適化された学び」という用語は、GIGAスクール構想の一環から生まれている。

要は、一人一台端末の配備スタートということとの関連である。

本来の「個別」とか「最適化」という意味と、この造語の指す内容は異なるともいえる。


しかしこれからの時代、教育が「個別」で「最適化」されていくのであれば、学校という存在自体を変える必要が出る。

大学のような個人の研究の場になっていくのかもしれない。


どうなるにせよ、学習指導要領の内容をきっちり教えるというような旧来の在り方とは相性が悪い用語であることは間違いない。

同じものを全員に万遍なく教える、という教育自体が変わっていかないと、いつまでもブレーキとアクセルの関係である。

自分に向いている気がするこればかりを学びたい「個の学び」と、万遍なく教えたい「公教育」がぶつかることになる。


今ストップとなった旅行推進事業もそうかもしれない。

補助金を出すというアクセルを踏みつつ、外出自粛というブレーキをかけている状態だった。

結局、歪みが出た。

結果的に、アクセルの方から足を離さざるを得ない事態になった訳である。

(しかしながら、これで助かった側の人もたくさんいた訳で、あくまで結果論である。)


人間関係にも、アクセル&ブレーキがあるかもしれない。

やりたいことがあるからやってしまう人と、それを危険だから止めさせようと働きかける人の関係である。

親子関係にありがちである。


仕事では、もしかしたら、両方ブレーキというパターンも多いのかもしれない。


リーダーから信頼されていないと感じており、本当はやりたいことがあるのに言い出せず動けないメンバー。

自分でブレーキをかけている。

その一方、メンバーを信じる・労うことを一切しないで、安全で事無きを求めるばかりのリーダー。

部下にブレーキをかけている。


互いにストレスをため合い、ブレーキをかけあっているといえる。

これでは、当然動けない。

この場合のアクセルは「信頼」の一言につきる。


アクセルを踏んで進もうとする時、どこかでブレーキをかけていないか。

そのブレーキを外すだけで、スムーズに物事が動くこともあるかもしれない。

2021年1月8日金曜日

「自分テスト」が実力をつける

 

実力をつける方法について。

やる気の話と関連して。


以前に、やる気はいらない、やっている内に湧くのがやる気という話を書いた。

その際、やらざるを得ない状況、やる目的が大切ということも書いた。

やる気は、やった後の副産物ということである。


実力も、同じような面がある。

実行の副産物として、実力がついてくる。

実力が足りないからやらない、だと、永遠に実力はつかない。


例えば、漢字を覚えるのに最も能率のよい方法は何か。

記憶から再生することである。

つまりは、小テストである。

小テストを繰り返し、再生の機会を増やせば、自ずから実力がつく。


同じ漢字をノートに繰り返し書いても、記憶から引っ張り出す再生にはならないので、実力がつかないのである。

また、先の例でいくと「書けないから書かない」では、ずっと書けないというのも明白である。


ただし、前提として、ある程度の実力をもっている方が能率がよい。

例えば全く日本語を知らない国の人にとって、漢字を書くことはかなり難しい。

前提となる知識もなく、基本がわからないからである。

例えば「数」という字をいきなり書くように言われても、書き順含め、相当滅茶苦茶になることは明白である。

そこは、教えるポイントである。


基礎だけ教わったら、後は本人の実行回数次第である。

アウトプットの回数が、実力になる。

そこに負荷をかける。

「思い出す」という作業自体が、行動である。

行動回数を増やすことで、覚え、実力はつく。


表現などにもいえる。

例えば発表の機会が多いほど、発表はうまくなる。

人前で話したことがない人と、いつも話さざるを得ない状況の人で、どちらがうまく発表できるかは、明白である。


教育で考えると、つけたい力を教えこむのではなく、基礎を教えた後に演習の機会を多めにとることである。

演習の成果に対して、アドバイスをする。

うまくいかない時の指導と励まし、うまくいった時の称賛は、ともに行動への評価であり、次のアウトプットの質を高める。


学校でも、子どもが行動できる機会、場を設けることである。

表現力をつけたいなら、日常からアウトプットの機会を設けることである。

日記を続けていれば書く力が強くなるし、スピーチを続けていれば話す方の表現の力がつく。

日常から仲間と交流していればコミュニケーション力がつくし、掃除を真面目にしていれば気付く力がつく。


やる前から意味があるとかないとかぐだぐだ言っている暇があったら、やってから意味を見出せばよい。

アウトプットの機会を多くすれば、その実力がつくのは至極当然の原理である。


家庭学習であれば、自分を「テスト」の場に追い込む。

「自分テスト」であり、評価者、採点者も自分である。

それを、何度もやる。


スピーチを一人でリハーサルするのも、「自分テスト」の場である。

未知のことに自分をチャレンジさせるのも、「自分テスト」である。

この「自分コーチ」が厳しい方が、実力はつく。


行動すれば、覚えるという原理は、幅広く活用できると考える次第である。

2021年1月6日水曜日

「学校に行くのは楽しいですか」

 学校では、色々とアンケートをとる。

特にいじめ発見や子どもの悩みの把握のためにも、各校で必ずアンケートをとることになっている。


ところで、このアンケートには、どの学校でも「学校が楽しいですか」というような項目がある。

ここに「楽しくない」と答えた場合、何か悩みや問題があると考える訳である。


この場合、問題があるから取り除く、というのが一つの方向性になる。

まずこれが必要である。

子ども自身では解決できない問題かもしれないからである。


もう一つ考えるべきは「普通」とか「あまり楽しくない」と答えた場合である。

子どもの意識下に、誰かが楽しくしてくれるのを待つ、というのがあると、特別問題がなくても、ずっと楽しくない状態が続く。


「つまらないなら、もっと詰めて」

というのは、拙著『切り返しの技術』で紹介した言葉の一つだが、これは結構大切である。


誰かが楽しくしてくれるという意識。

お客様精神。

ここを脱さない限り、自治的な学級も楽しい学級も実現することはない。


学級担任としての仕事の本質は、子どもへのサービス・エンターテインメントの提供ではない。

子どもを自立に導くことである。

エンターテインメントをよりよく楽しむだけでなく、創り出す側に育てることである。

そうなると、そういうことができる場、やろうとする場を提供するところまでが、最も大切になる。


新しいことをやってみようというチャレンジ精神。

まずベースにあるのは、安全・安心である。

つまり、いじめを始めとする心身の危険が感じられる状態では、うまくいかない。


更には、挑戦による失敗が歓迎される雰囲気。

日常からそれが醸成されていることが大切である。


係活動は、ここに大きく貢献できる。

自分たちで必要、やりたいと思ったことを、チームを組んで行う。

うまくいかないことも含めて、経験になる。


何でも決まった通り、例年通りにやっていると、ここは育たない。

子どもたちに、挑戦を促すこと。

子どもが「学校を楽しく」と願うのであれば、まずは安全・安心の確保。

次に、自分から動くことを促す必要があると考える次第である。

2021年1月4日月曜日

学級と自然

徒然とエッセイ。


植物というのは、大変えらいと思う。

日光を受けて、自分で勝手に成長をする。

生きていく過程で、酸素や栄養を他に提供する。

生きていることが、そのまま他の恩恵につながる。


人間も、そういう意味で、植物のように他に貢献して生きられたら、理想的である。


前提として、まず自分が他からの恩恵を受ける必要がある。

植物だって太陽や大地の力だけでなく、その他諸々の生き物の恩恵を受けている。

それら恩恵を受けて、自分自身を大きく強くしていく。

この過程は必須である。


自分が大きくなればなるほど、他への貢献度が大きくなる。

大きな木が周りのあらゆる生き物に豊かな恩恵をもたらすのと同じである。


自然の中で大地に根を張り、十分に育った木は、お世話をする必要がない。

文字通り、自立して生きていく。

木によっては、何百年、何千年も生きていく。


そして増えすぎると、自然淘汰が起きる。

以前に富士山の案内の方に教えてもらった話だが、最初はアカマツだけが育つ。

溶岩の大地には、土が表面だけで少ないため、根を横に横に張れるような木でないと、育たない。

やがて倒木する。

倒れて腐ると、それらが土となり、他の植物も育つようになる。

そうして、何千年、何万年、何百万年とかけて、多種多様な木が育つようになり、鳥も渡ることで、やがて森となっていく。

うまくできているものである。


地球上の生き物は、自然のサイクルには逆らえない。

自然とは、文字通り自然な状態であり、不自然な状態の真逆である。


ただ、人間の生き方には、不自然が入ってくる。

自然を切り開き、人間にとって生きやすくしたのが、人類の歴史である。

農業の発達も畜産業の発達もそうである。

自然をコントロールすることで、発展してきている。


不自然に慣れると、不自然が自然に思えてくる。

自分のものは自分で取りにいくのが自然、当然である。

しかし、電話一つどころか、クリック一つで、他人が手元まで運んでくれる時代になった。

到着が遅れると、不当な扱いであると感じるようにすらなる。

恐ろしい程の傲慢さが、「自然」「当然」になってしまう。


自然に考えて、他者が自分にしてくれることは、感謝しかないはずである。

社会の仕組みというのは、全て基本的に相互扶助、感謝の関係で成り立つものである。

そうならないのは、そこに上下関係を持ち込むからである。


しかし上下関係は、「不自然」の発達の上ではなくてはならない仕組みである。

農業には指導者が必要であったし、管理する人間も必要である。

サルの社会にすら上下関係はある。

自然界には、食う食われるという弱肉強食の関係もある。


ただし、弱肉強食と上下関係は違う。

弱肉強食は、自然の摂理である。

一方、上下関係は、社会機構である。

社会の維持のために作り出されたメカニズムである。


そう考えると、人間は社会で生きる以上、完全に植物のようには生きられないといえる。

完全自給自足は無理である。

全く上下関係のない中で生きることもできない。


学校、あるいは学級も社会の一つの形である。

上下も含めた多様な関係性の中での、相互扶助の関係である。


単一の種類が揃った人工林より、様々な種類の木のある自然の森の方が強い。

単一種のみだと、気候変動や害虫の大量発生、病原菌等にやられて全滅の危険性がある。

色々な種類が合わさっている方が何かと強い。

相互扶助で成り立つ。


子どもたちを、単一に育てようとすること自体が不自然である。

社会の枠に、自然を無理に当てはめようとする行為である。

多種多様な子どもがそれぞれ雑多に育つ方が強い。

やはり、相互扶助で成り立つ。


自然の中に出ると、色々と気付けることがあると感じる次第である。

2021年1月2日土曜日

続・やる気いらない説 目的の手段化がカギ

 2か月前に発行した「やる気いらない説」の続き。


「まぐまぐニュース」だと「子供に勉強をさせるのに」という冠がついていたが、実際そのようなことは述べていない。

ネット上のタイトルは、見てもらうのが大切なため、キャッチーに変更されてしまうのは常である。


そもそも私は「子供に勉強させる」という言葉自体に否定的な立場である。

勉強は、させられるものではなく、するものであるというのが長らくの主張である。

勉強嫌いの子どもが多いのは、多くが大人に「させられる」からである。


元々、子どもに勉強のやる気を起こさせようというための記事ではない。

やる気の出ない我々大人が、どのようにして我々自身を望ましい行動に導くべきかという話である。

その結論が「やる気はいらないから無思考で始める」というものである。


しかし、この理論の適用において、欠落している点を見つけた。

何かというと、やる以前の「動機づけ」である。

目的意識と言い換えてもいい。

ここが抜けていると、そもそも動けない。


勉強を例にする。

(くどいようだが、自分自身の勉強という話である。

誰かに「させる」という話ではない。)


英語の勉強をしようとする。

やると決めたら始められるのだが、問題はそれ以前の動機、目的である。

英語の勉強をして、どうなりたいのか。

動機の例を挙げてみる。


A 英語でコミュニケーションをとれたら便利だと思うから。

B 英語が出来たら便利でかっこいい気がするから。

C いつか海外に出て働きたいから。

D 現在の仕事の上で、英語を話す必然性が多くあるから。


切実感が肝である。


AとBは、動機が弱すぎる。

現在がよほど暇でないと、続かない。

苦労の末に身に付けたその先が見えないからである。


Cはどうか。

「いつか」が圧倒的に弱い。

「2年後に」とか限定性があって、かつ何かあてがある場合でないと、恐らく多くの場合、続かない。


Dはどうか。

これはかなり切実感がある。

「仕事にならない」あるいは「できないと職を失うことになる」というレベルになれば、かなりやる目的が強い。

やらざるを得ないから、多分やれる。


〆切があるなしということもやる気に直結する。

どんなにやる気がなくても、明日〆切のことなら、直前になれば大抵の人はやる。

ただこれは「続ける」という観点からすると、全く使えない手口である。


つまりは目的意識の強さ、必然性が肝である。


以前に例に挙げたエクササイズの場合も同様。

ただ「身体が引き締まったら素敵」ぐらいの意識では、到底甘い物の誘惑には勝てないし、毎日身体を動かす気にもなれない。

「痩せたい」にしても、痩せたその先に切実な目的がないと難しい。


ボクサーが無理にでも体重を減らせるのは、体重を落とさないと試合自体に出られないからである。

目標体重まで落とせなければ、これまでの猛練習自体が全てふいになる。

言うなれば、減量が「死活問題」としてあるから、必ず続けて実行できる。

この場合、減量(=痩せたい)があくまで「手段」であり、目的は試合に出ることである。


「手段の目的化」というのは、しばしばよくないことの言い回しとして使われる。

この逆の発想で、「目的の手段化」をすればよい。

目的にしていたものを、その先にある目的のための手段として「ランクダウン」させてしまう手法である。


先の例でいうとボクサーは「試合出場」が目的であり「減量」は手段である。

「減量」自体を目的にしても、辛いだけである。

もっというなら、「試合出場」のずっと先にある「チャンピオンになる」という大きな栄光を目的にしていれば、試合出場は手段でしかない。


ところで、先にも挙げたが教育メルマガならではの関心事の「子どもの勉強」である。

(ここにニーズがあることは、無視しない。「させる」発想には否定的だが。)

勉強をしたがらない子どもたちは、勉強をなぜしたがらないのか。


「勉強」自体を目的化されているからである。

「何分机の前に座っている」とか「ドリルの何ページまでを埋める」を目的としていて、モチベーションが上がる訳がない。

先の例でいうと、「とにかく減量」である。

続く訳がない。


ここで浅はかな発想の大人は「有名進学校に行って一流企業就職」みたいな目的を立てればいいと考える。

それを、子ども自身が心の底から望んでいるなら完璧である。

しかしながら、多くの場合、それはあくまで親の側の願望(というより野望)である。

自分の願望を他者に実現させようというのは、あまり感心できたことではない。


そんな親の動機でも、勉強を頑張れる子どもは結構多い。

なぜか。

「親の期待に応える」ことが目的化しているからである。


それはそれで意味があるかもしれないが、これが方向を間違えると怖い。

うまくいくこともあるだろうが、一方でやがてそれが恨みに転じることもある。


話を戻すと、子どもの側が、勉強することを自分の目的に対する手段化していればいいのである。


ある子は「自分を馬鹿にする周りを見返してやる」という目的で、勉強をする。これは、続くし成果が出る。

ある子は「自分の夢を実現させたい」という目的で、勉強をする。これも、もちろん続くし成果が出る。

ある子は「憧れの大好きな〇〇さんと同じ学校に入りたい」という目的で勉強をする。これでも、もちろんがんばれる。

(合格したのに結果的に「〇〇さん」の側が違う学校に行ってしまうというのは世の常である。)


中には「勉強自体が楽しい」という、勉強自体が目的化して続く子どもも、一定数いる。

ただこれは、言うなれば本人が本質的に研究家気質で学者肌であり、望んでなれるものではない。


要は、勉強自体にやる気が出るようにする方法、というのを採用しようとするとかえって失敗する。

自分自身が、勉強の先にあるものをもてるかどうかにかかっている。

岩下修氏の有名な言葉「AさせたいならBと言え」の通りである。


学校の教師が、子どもに勉強を教えるという際にもこれは適用できる。

うまく教えてよくわからせることだけが仕事ではない。

勉強のその先にある、何かを見せることができるかどうかの方が、よほど大事な仕事である。

逆に言えば、その子どもにとっての「何か」が学校の勉強の先にないのであれば、対応自体を考える必要がある。

教育の目的の果てしない最終地点はあくまで「人格の完成」であり、それはつまり本人の「幸せ」に資することだからである。


続・やる気いらない説の真髄は

「目的の手段化」

ということでまとめとさせていただく。

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